第4話 その顔は禁止
そのパンは、たぬきだった。
透花は画面を見たまま、少しだけ首を傾げた。佳孝はさっき彼女が答えた、うさぎという名前を思い出し、笑いをこらえた。
耳だと思っていた所は、模様の一部だったらしい。
「……今、何を考えたの」
隣から声がした。
佳孝はリモコンを膝へ置き、正直に答えた。
「部長でも、外すんだなと」
「パンの名前は、担当業務ではありません」
きっぱり返され、彼はとうとう笑った。
透花も少し笑い、毛布の中へ顎を寄せた。会社で一緒に資料を見るときには、こんな返事のために同じ画面を覗くことはない。
今、テレビの中では店主が、たぬきの顔を一つずつ並べていた。
金曜の夜は、九時に近づいていた。
妹の迎えまでは、もう少しある。管理窓口から次にする連絡も決まり、透花は自分の端末を机の端へ置いていた。
座る場所も、食事も、今夜の行き先も、ひとまずできた。
最初に玄関へ入ってきたときより、彼女の肩が落ち着いていた。
「篠原くんの家、静かね」
番組の間の短い時間に、透花が言った。
佳孝は外の雨の音を聞いた。窓を閉めているので、時々風が強くなったときだけ分かる。
「普段も、こんな感じです。テレビつけなければ、もっと」
「ずっと、仕事の連絡が鳴っているわけではないのね」
「俺の方は、そこまで。今日は、週明けに見る分、共有しましたし」
透花は頷いた。
今から続きを見せるようには言わなかった。佳孝も、自分の案がどこまでよくなったかを、この場所で確かめてもらおうとはしなかった。
月曜に持っていく物は、月曜の机へ戻せばよい。
透花はソファの背へ少し身体を預けた。
目を閉じるほどではないが、画面へ向けていた顔が横へ動く。毛布の端から、片手だけが出ていた。
佳孝はその姿へ一瞬、目を留めた。
いつも言葉を選んで話していた相手が、自分の家で、特に何も言わずに休んでいる。
それが、思ったより近い感じがした。
「今度は、何?」
透花に聞かれ、彼は少し慌てた。
「いや。会社では、見たことのない顔だなって」
彼女は自分の頬へ触れた。
それから、少し照れたように眉を動かす。
「その顔を、会社で思い出すのは禁止」
佳孝は返事に困り、彼女を見た。
透花はその反応に気づき、すぐ小さく笑った。
「冗談よ。そこまで、私が決めることではないわね」
「では、報告書には、書かないでおきます」
「ええ。それは、お願いします」
二人で笑った。
テレビの内容は別の店へ移った。
出演者が大きな看板の前で道を迷い、透花がまた笑う。佳孝もつられて笑ったが、今度は彼女の顔を見たまま黙ることはしなかった。
「部長は、こういうの、よく見るんですね」
「ええ。誰かが失敗しても、最後に美味しい物へ着く話は、楽なので」
佳孝は少し笑った。
自分は行ったことのない店を見るのが好きで、食事をしながら流していることが多い。彼女は、途中で予定が狂っても終わりが来るところを見ていたらしい。
同じ番組でも、面白いと思う場所は少し違った。
「私、今日、ちゃんと家で何かを作って、箱を一つ開ける予定だったの」
透花が言った。
佳孝は頷いた。まだ行方の分からないまな板のことだろうか。
「それが、隣の部屋で、カレーを作っているとは思わなかったわ」
「俺も、今日は、一人で二日分を作る予定でした」
「では、お互い、予定外ね」
彼女は自分で少し笑った。
透花のスマートフォンが震えた。
彼女はすぐ画面を見て、妹からだと伝える。近くへ来たので、そろそろ下へ出る時間になったらしい。
毛布を外す前、彼女は一度だけ時計を確かめた。
「長く、お邪魔しました」
佳孝は立ち、足元に置いた荷物を持ちやすい方へ寄せた。
袋は彼女が自分で持つ。彼は玄関まで道を空け、テレビの音を少し下げた。
透花はソファから立つと、毛布を畳もうとして、途中で止まった。
「これ、車へ行くまで、羽織っていてもよい? 外へ出ると、少し寒そうなので」
佳孝は頷いた。
今夜、すぐに必要な物ではない。返す日を急がなくてもよいと伝えると、彼女は受け取り直した。
「では、洗ってから、お返しします。タオルも、一緒に」
彼は、分かりました、と答えた。
玄関へ向かう前に、透花がソファのクッションを元の位置へ戻した。
佳孝が特に気にしなくてよいと言うと、彼女は、借りた分だけ、と答えた。毛布を巻いて座っていた跡が、まだ少しへこんでいる。
「ここで、ずっと背筋を伸ばしていなくて、よかったです」
彼が言うと、透花は一度ソファを見た。
「最初は、何をしてよいか、分からなかったの。部下の家で、いつもの顔をしているのも、変でしょう」
「俺も、どこまで気を使えばいいか、少し」
二人とも、少し笑った。
玄関で、透花は片方の靴を履き、顔を上げた。
「あのパンのお店、駅から近いのかしら」
「さっき、隣の駅って言ってましたね」
「そう。じゃあ、あの商店街の……」
言いかけたところで、手の中の携帯電話が震えた。画面を見て、透花はもう片方の靴へ足を入れる。
「妹、下に着いたそうです」
佳孝は頷いた。彼女の肩には、まだ毛布が掛かっていた。
「店の場所、今度調べておきます」
透花は鞄を持ち直し、それなら、と言いかけて笑った。
「……返しに来るときに、聞かせてください」
部屋へ入るときは冷えた手で持っていた鞄を、今は落ち着いて肩へ掛ける。
佳孝は扉のそばへ立ち、彼女が足元の袋を持つのを待った。
「本当に、助かりました。廊下で、声を掛けてもらえて」
透花が言った。
佳孝は、こちらこそ、と返しそうになり、自分が助かったわけではないと気づいた。
「寒そうだったので。少しでも、温まれたなら、よかったです」
そう答えると、彼女は頷いた。
「ええ。食事も、美味しかった」
会社の評価の返事とは違う、短い言葉だった。
彼は少し笑い、また甘口にしますね、と言いかけた。
まだ次の食事を約束したわけではないので、最後までは言わなかった。
だが、透花が手元の毛布を少し持ち上げる。
「返すときは、先に、連絡します」
佳孝は頷いた。
今日一度きりで終わる隣人の顔ではなく、また廊下で会う人として、その声を聞いた。
扉の外へ出た透花は、自分の部屋の番号を一度見た。
中へ入らず、鍵を持っていることだけを確かめ、エレベーターへ向かう。佳孝は玄関の前から見送り、彼女が曲がるところで頭を下げた。
透花も、少しだけ手を上げた。
会社で退勤するときには、見たことのない見送り方だった。
自分の部屋へ戻ると、ソファに毛布がなかった。
さっきまで、あの上へ人が座っていたのだと、空いた座面を見て分かった。
佳孝は食卓の黄色いマグを流しへ運び、残っていた麦茶を片づけた。
鍋には、明日食べる分の甘口のカレーがある。
今夜、ちゃんと作った物は残っているのに、部屋は少し違う静かさだった。
スマートフォンへ、短い文が来た。
『妹と合流しました。今日は、ありがとうございました。黒瀬』
佳孝は、よかったです、と返した。
役職の付いていない名前を見て、少しだけ指が止まった。
自分から何と登録していたか確かめると、まだ、黒瀬部長、だった。
今はそのままにした。
会社で会えば、月曜も、部長と呼ぶ。
ただ、その人が甘口を選び、毛布にくるまって笑うことを、今日から自分は知っていた。




