第3話 夕食は甘口で
「甘口で」
黒瀬部長の返事は、迷いがなかった。
佳孝は棚から出した二つの箱を見た。片方が中辛、片方が甘口。今日はどちらでもよいと思って尋ねたが、選ぶまでの時間が短かった。
「何か、意外?」
透花がこちらを見る。
彼は首を振りかけ、正直に、少し、と答えた。
「もう少し、辛い方かと」
「仕事の返事と、カレーの味は、別よ」
そう言いながら、彼女はまな板の前へ立った。
佳孝は頷き、甘口の方を出した。
同じ棚の中に二種類のルーがあるのを見て、透花が、篠原くんは両方なのね、と言った。
「はい。その日の気分で。甘い方が食べたい日もあるので」
「では、今夜は、その日ということで」
台所の幅は、二人で並ぶと少し狭かった。
透花が野菜を切り、佳孝は米の支度と鍋を受け持つ。最初、彼が彼女の後ろへ手を伸ばしかけると、どちら、と聞かれた。
「下の棚の、ざるを」
「分かりました。では、一度、退きます」
彼女は手を止め、まな板から離れた。
会社の会議より、互いの動きを細かく報告している気がする。佳孝がそう言うと、透花は、こちらはぶつかるので、と真面目に返した。
彼は笑った。
透花の包丁の動きは、慣れていた。
全部を同じ大きさへ整えようと、必要以上に時間を掛けるわけでもない。切ったものを一度分け、佳孝へ次に渡す分を寄せる。
彼が鍋の方を向く間、自分の手元の空いた袋を片づけた。
「普段も、よく作るんですか」
佳孝が尋ねると、彼女は時間があればと答えた。
毎日きちんと何品も、というわけではない。一つ作って、翌日も食べることが多いらしかった。
「ただ、引っ越してからは、物の場所がまだ決まっていないので。何かを作る前に、まず箱を開けることになって」
「今日の台所の箱、まな板ですか」
「たぶん。違ったら、また、ピーラーが増えるわね」
佳孝は笑った。
本人も少し笑って、最後の野菜を寄せる。会社で彼女が予定の変更を聞く顔しか見ていなかったら、ピーラーの箱を二つ開ける冗談までは、想像できなかった。
鍋が煮える間、二人で使った物を先に洗った。
佳孝が食卓へ皿を二枚出すと、片方は少し大きさが違った。客が来たときにも使うが、同じ形で揃えてはいない。
彼女へ大きい方を渡しかけ、量が多く見えるかもしれないと止まる。
「どちらでも、いただける分で大丈夫です」
透花に言われ、佳孝は苦笑した。
「皿を選ぶだけで、少し考えてしまいました」
「今夜、食器の選定をしに来たわけではないので」
彼女はそう答えた。
その言い方は少し仕事のときに似ていたが、責める声ではない。佳孝は二枚をそのまま並べた。
席へ着くと、いつも自分が座る場所の向かいに透花がいた。
ソファの毛布は畳まず、そのまま置いてある。手元のスマートフォンは、連絡に気づけるよう机の端へ置かれた。
黄色いマグには、さっきの麦茶が少し残っている。
自分の部屋の物ばかりなのに、人が一人増えただけで、食卓が違う場所に見えた。
「いただきます」
二人の声が少し重なった。
佳孝は一口食べ、いつもより少し甘いと思った。透花も食べて、ゆっくり飲み込む。
彼は感想を待ってしまった。
会議の資料を出したときと同じように、どこへ手直しが要るか聞く気持ちになっている自分へ、少し可笑しくなる。
「美味しい」
彼女は言った。
短い返事だった。
佳孝は、よかった、と答えた。
「甘い方で、正解ね」
「中辛だったら、どうでしたか」
「美味しく食べたと思う。でも、今夜は、こちらがよかった」
透花はそう言って、もう一口食べた。
食べている途中で、洗濯物のタオルが一枚落ちた。
佳孝が椅子から立とうとすると、近い方にいた透花が、こちら、取ってよい、と尋ねた。
彼は頷いた。彼女が床へ落ちた端を持ち上げ、空いている椅子の背へ一度掛ける。
「後で、干し直します。ありがとうございます」
「いえ。近かったので」
透花は席へ戻った。
佳孝もスプーンを取り直し、続きを食べた。
仕事の話は、それほど長くしなかった。
佳孝が、会社ではいつ昼食を取っているのか気になっていたと話すと、透花は普通に食べていると答えた。
会議が動いて遅くなる日はあるが、毎日、食事を抜いているわけではないらしい。
「何も食べずに、皆さんの資料だけ見ているように見えた?」
「そこまでは。でも、いつ休んでいるんだろうとは」
「休んでいる顔を、部下の前へ全部出していないだけね」
彼女は少し笑った。
それを聞き、佳孝は、今日、その一部を自分が見ているのだと思った。
「篠原くんは、休みの日、何をしているの」
今度は彼女から尋ねられた。
佳孝は、料理を少しと、配信で映画や番組を見ることが多いと答えた。外へ出る日もあるが、何もしないまま終わる日もある。
「何もしない日まで、予定に書かないと、残らなくなるので」
彼が付け足すと、透花が頷いた。
「それは、少し、分かるわ」
彼女にも、出かけないと決めて一人で映画を観る日があるらしい。仕事に関係するものだけでなく、気軽に笑える物を見ることもあるという。
佳孝はテレビの方を指し、後で何かつけるか尋ねた。
透花は頷き、食べ終わってからならと答えた。
皿を空けると、鍋にはまだ一食分ほど残った。
佳孝は片づける分をよけ、透花は自分の皿を流しへ運んだ。彼がまとめて洗うと言うと、では拭く方を、と彼女が選ぶ。
狭い台所で、また一度、後ろを通ると声を掛けた。
今度は二人とも、先にどちらへ退けばよいか分かった。
食器を戻した後、透花はソファの前で止まった。
畳んでいない毛布へ目を向ける。
「まだ、借りても、よい?」
佳孝は頷いた。
彼女が肩へ掛けると、さっきより自然にソファへ座った。最初のように、いつでも立てる姿勢を保ち続けてはいない。
佳孝も椅子を向け直し、テレビをつけた。
流れていたのは、街の小さな店を回る番組だった。
店先に並んだ動物の形のパンを見て、出演者が名前を迷っている。佳孝は、犬だと思った。
隣から、猫ね、と声がした。
「耳、あの形なので」
透花は真面目に言った。
画面の中でも名前が決まり、彼女の方が合っていた。佳孝は少し笑い、よく見ていますね、と返す。
彼女も、見れば分かるわ、と言いかけたところで、次のパンが出た。
今度は、どちらにも分からない形だった。
「……うさぎ、かしら」
二人で黙って画面を見た後、透花が先に笑った。
佳孝はその顔を、初めて、ゆっくり見た。




