第2話 漏水の日の避難先
電話を切った後、透花は毛布を少しだけ下ろした。
肩から外すところまではしなかったが、仕事の連絡を受けたときと似た顔になっている。
「今夜は、部屋で休むのは難しそう」
彼女は言った。
上の階の設備の確認と、自分の部屋の状態を見てもらう必要がある。管理側の担当者とは、次の連絡の時間も決めたらしい。
佳孝は頷いた。
どう直すかは、自分が決められることではない。今夜、彼女がどこで過ごすかは、それとは別に決めなければならなかった。
「妹に、聞いてみるわ。ここから、それほど遠くないので」
透花は自分でスマートフォンを持ち直した。
電話をする場所を少し空けるように、佳孝は台所へ移った。手に持った買い物の袋を畳み、冷蔵庫へ入れ忘れたものがないか見る。
背後から聞こえる声は、会社のものより少し柔らかかった。
だが、何を話しているか全部を聞こうとはしなかった。
しばらくして、透花が名前を呼んだ。
佳孝が振り返ると、彼女は通話を終え、膝の上へ手を置いていた。
「泊めてもらえるそう。今日、まだ外にいて、帰りに迎えに来てくれると言っているの」
「それなら、よかったです」
「ええ。ただ、九時半くらいになるようなので。それまでは、ほかへ移った方が」
佳孝は壁の時計を見た。
まだ七時を少し過ぎたところだ。今から自分の用事を全部やめなければならない時間ではなかった。
夕飯を作り、洗濯物を干す。そのくらいの夜の予定だった。
「俺、今日は、帰ってから大きい用事はないので。迎えが来るまでなら、ここで待てます」
透花がこちらを見た。
彼女は少し考えて、頷いた。
「では、そこまで、お願いしてもよい? 途中で都合が悪くなったら、言ってください」
「はい。分かりました」
透花はスマートフォンへ短く何かを送り、ようやく背をソファへ預けた。
行く先が決まったからか、さっきより息が深くなったように見えた。
佳孝は湯を沸かし、飲み物を出そうと棚を開けた。
マグは二つある。黒いものと、黄色いもの。黄色の方は、前に友人が来たとき、黒い物ばかりだと自分の物と分からなくなると言われて買った。
彼は両方を手に取り、どちらがよいか尋ねた。
透花は黄色い方を指した。
「そちらで。色が、明るいので」
単純な理由だった。
佳孝は麦茶を注ぎ、彼女の前へ置いた。熱いので少し冷ましてから、と伝えると、透花は礼を言って、両手をカップへ添える。
その姿を見ていると、会議の資料へ線を引いた手と、同じ手だということが少し不思議だった。
「篠原くんは、ここ、長いの?」
透花が尋ねた。
佳孝は二年ほどだと答えた。会社への通い方と、駅からの距離で選んだ。部屋は広くないが、一人なら不自由はなかった。
「隣、少し前まで空いていたので。荷物が来たとき、誰か入ったんだなとは、思っていました」
「私だったのね」
「はい。まさか、部長だとは」
透花も少し笑った。
彼女は前の部屋から移ったばかりで、まだ使いやすいように物を置き直している途中だという。
今日は帰ったら、台所の箱を一つ開けるつもりだったらしい。
「その前に、出ることになってしまった」
彼女は足元の袋を見た。
佳孝は、自分が引っ越してきた週のことを思い出した。箱を開けた後、入れたはずの箸が見つからず、買った食事の付属のものを使っていた。
その話をすると、透花が少し笑った。
「分かるわ。私、昨日、ピーラーだけ先に出てきたの。まな板が、まだなくて」
「順番、違いますね」
「ええ。何をむけばよいのか、考えた」
佳孝は声を出して笑った。
会社なら、使う物の順番を先に確かめる人だと思っていた。私物の箱の中身までは、全部見えているわけではないらしい。
透花もそれを笑われて怒ることはなく、麦茶を一口飲んだ。
洗濯機が終わりの音を鳴らした。
佳孝は立ち上がり、少しだけ洗濯物を出すと伝えた。透花は頷き、どうぞ、と答える。
部長に許可をもらって自宅の洗濯をするようで、少し可笑しかった。
彼がタオルを抱えて戻ると、彼女はソファでスマートフォンを見ていた。妹へ、迎えの場所を送っていたらしい。
「下の入口で、待ち合わせにしました。ここから先は、自分で持って下りますので」
透花が袋を指した。
佳孝は頷いた。
彼はタオルを室内の物干しへ掛けた。
一本の端が短くなったので直すと、透花がその手元を見ていた。
「気になる?」
彼女が尋ねた。
「左右がずれたままだと、乾く前に落ちることがあるので」
「そういうところ、資料の順番より早く見つけるのね」
佳孝は手を止めた。
透花はカップを持ったまま、少し笑っていた。昼の修正を今ここで責めている声ではなかった。
「資料も、月曜には、揃えます」
「ええ。会社で、続きを見ます」
そこで、その話は終わった。
佳孝も、今からもう一度画面を開いて見てもらうつもりにはならなかった。彼女が私用で部屋にいる時間を、追加の会議へ変えたくはない。
透花がスマートフォンを置く前に、私用の連絡先を交換してよいかと尋ねた。
佳孝は頷き、スマートフォンを取り出した。
「会社の方は、週明け、集計表で埋まると思いますから」
彼が言うと、透花が少し笑った。
「では、こちらへ、回収するタオルの数は、書いても大丈夫ね」
「はい。それは、俺が担当です」
二人で画面を確かめ、短い挨拶を一つ送った。仕事の予定が並ぶ場所とは別に、今夜、借りたものを返すための連絡先ができた。
透花は自分で端末を鞄へ戻し、またカップを持った。
「でも、ここまで全部、お借りすることになって」
透花が毛布の端を見た。
自分の部屋で一人なら、誰へ礼を言うか考えず過ごせた夜だ。佳孝は、今夜頼まれた範囲なら、自分でよいと言ったと伝えた。
「妹さんが来るまで、ですし。俺、今夜は、洗濯と夕飯だけだったので」
「夕飯」
彼女がその言葉を繰り返した。
佳孝は買ってきた材料へ目を向ける。彼女もまだ食べていないのだろうか。
「部長は、もう、食べましたか」
「いえ。帰って、簡単に何か作るつもりだったから」
透花は時計を見た。
今から外へ出て買えば、迎えまでには戻れる。だが、もう温まった身体を動かすのが、少し惜しそうにも見えた。
佳孝は冷蔵庫の扉を開けず、先に聞いた。
「俺、カレーを作るつもりでした。いつも二日分くらい作るので。よければ、今日、二人で食べます?」
透花が顔を上げた。
今夜のことを全部人へ任せてよいか確かめるように、一度、佳孝の方を見た。
「材料、足りるの?」
「はい。米もあります。量を分ければ」
「では、私も、少し手伝いたいです。何もしないまま座っていると、余計に落ち着かないので」
佳孝は頷いた。
「包丁、使いますか」
「使えるわ。そこは、会社で見せる機会がなかっただけで」
透花の返事に、佳孝はまた笑った。
彼女は毛布をそっとソファへ置き、袖を捲る。さっきまで潜っていた人が、自分で台所へ来た。
佳孝は野菜の袋を出した。
会社で黒瀬部長と机を囲むときは、作る物をどこへ届けるかを話す。
今夜は、同じ食卓で食べる分を、二人で作ることになった。




