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第1話 鬼部長、毛布に潜る

「あと、五分だけ」


 黒瀬(くろせ)部長が、毛布の中からそう言った。

 篠原佳孝(しのはらよしたか)は、手に持ったリモコンを押さずに止まった。自分の部屋のソファには、三十二歳の直属の上司が座っている。

 会社なら、誰かが説明を始めると最初に資料の前提を確かめる人だ。その人が今、肩まで毛布を引き上げ、温かい物から離れたくないという顔をしていた。


「折り返し、まだ来ていませんから。今、出なくても大丈夫ですよ」


 佳孝が答えると、部長は少し目を閉じた。


「そう。では、お借りします。もう少し」


 言葉はいつものように丁寧だった。

 姿は、いつものようではなかった。

 佳孝はソファから少し離れた椅子へ座り直した。


 六時間ほど前。

 黒瀬透花(とうか)は、会社の会議室で佳孝の資料を見ていた。


「この数字は、どの店舗の分ですか」


 静かな質問だった。

 佳孝は画面へ目を戻し、昨年の販売実績だと答えた。

 生活用品の企画部で、彼は製品を店へ出すまでの進行を担当している。二十九歳になっても、部長に前提を尋ねられると、最初の一秒だけ背筋が伸びた。

 今回は、棚の中で使う収納用品の提案だった。

 試しに置く店舗数から、必要な数を見積もっていた。


「昨年の全店舗の合計ですね。今回、最初に導入する店舗は、同じ範囲ですか」


「いえ。まず三店舗です」


「では、その三店舗で、どのくらい動いていたかを見たいです。全体の数字だけだと、今回も同じように売れると読めてしまうので」


 透花は声を上げなかった。

 その分、指摘された場所が、資料の中へまっすぐ残る。

 佳孝はメモを取り、集計の範囲を分けると答えた。


「今日中には直せると思います」


 佳孝が言うと、透花は次のページへ伸ばした指を止めた。


「直せる、というのは。集計ですか。見積もりまでですか」


「両方を、できれば」


「できれば、を期限にはできません」


 隣で、岩崎がペンを置いた。

 佳孝は画面の隅の時計を見た。集計を分けるだけなら、自分でできる。店への確認が必要な数字は、今から連絡しても今日中に返るとは限らない。


「集計を分けて、確認できた分を今日中に共有します。見積もりは、店舗からの返事を待って、月曜に」


「はい。返事待ちの箇所も、そのまま残してください」


 透花はようやく指を動かした。佳孝は、曖昧に丸を付けていた今日の欄を書き直す。

 営業から来ていたメールには、今日中に数量を確定したい、とある。


「営業への説明も、俺から入れます」


「確認できた数字は篠原くんから。確定を月曜まで待ってもらう話は、私がします」


 透花は自分の手帳へ営業担当の名を書いた。


「急いでいるのは分かります。でも、根拠のない数量で発注へ進める承認は出せません。そこは私から伝えます」


 次に、同僚の岩崎倫典(いわさきとものり)の案へ話が移った。

 そちらも一度では通らず、店で試す順番を見直すことになった。透花は必要な確認を一つずつ挙げ、返事の期限を決めていく。

 会議が終わり、佳孝が資料を閉じると、岩崎が横から息を吐いた。


「今の、俺、自分の番じゃないところでも、背筋伸びた」


「俺は、自分のところで、十分伸びた」


 佳孝は小さく返した。

 企画部の何人かは、黒瀬を鬼部長と呼んでいた。本人のいない場所で、納期や数字を曖昧に済ませられないという意味で。

 佳孝も、気楽に何でも話せる相手だとは思っていなかった。


 ただ、その後に自分の席へ戻り、元の集計を開くと、言われた理由は分かった。

 全体の中には、今回と大きさも客層も違う店の数字が入っている。三店舗だけへ分けると、思っていたほど均等には動いていなかった。

 岩崎が横へ来て、自分の方の棚の寸法も確認が要ると話した。

 二人で、今日聞けることと、月曜に戻ってからのことを分ける。


「ここ、俺が窓口へ確認する。篠原は三店舗の数字、先に揃えてくれる?」


「分かった。確認済みの分と、返事待ちの分、分けて出す」


 佳孝はそう答え、手を動かした。

 終える頃には、さっきより自分の案が少し現実の大きさになっていた。上司に怖い顔をされないためだけの修正ではなかった。


 夕方、外は雨になった。

 佳孝は共有する資料を送り、透花へ残っている確認を短く伝えて退勤した。

 彼女は別の担当の報告を聞いていたが、こちらへ顔を向け、月曜、続きを見ます、と返した。

 それが、会社で最後に見た顔だった。


 帰りに食品の店へ寄り、夕飯の材料を買った。

 凝った物を作る気はなかった。米は家にある。野菜と、すぐ使える肉を一つ。レジへ並ぶ間に、雨の音が強くなった。

 集合住宅へ着くと、傘を畳んでも袖の端が少し濡れていた。

 七階へ上がり、廊下を曲がる。

 自分の部屋の隣に、人が立っていた。


「……黒瀬部長?」


 声が出た。

 相手もこちらを向き、同じくらい驚いた顔をした。

 会社で着ていた上着はなく、薄いカーディガンと、動きやすそうな服だった。片手にスマートフォン、足元に小さな荷物の袋がある。


「篠原くん」


 聞き慣れた声で、名前を呼ばれた。

 佳孝は自分の玄関の番号を一度見た。七〇四。間違っていない。

 透花が立っているのは、隣の七〇三号室の前だった。


「こちらに、住んでいるの?」


「はい。部長は」


「私も、先週から」


 二人とも、少し黙った。

 会社では住所を知るような仕事をしていない。彼女が引っ越したことも、佳孝は聞いていなかった。

 隣の部屋へ荷物が運ばれていたのは見たが、住む人とはまだ会っていない。

 今、初めて会ったのが直属の上司だった。


「あの、何か、あったんですか」


 佳孝は足元の袋を見て尋ねた。

 透花は閉まった自分の扉へ目を向け、天井から水が来ているのだと答えた。

 帰宅した後で気づき、管理窓口へ連絡した。上の階の設備を確認している間、部屋の中で待たないよう案内されたらしい。


「今、折り返しを待っているところ。取り出せる物だけ、先に持って出たので」


 透花は袋を少し持ち上げた。

 佳孝は彼女のカーディガンの袖を見た。片側の先が、雨で濡れた自分の袖より冷たそうな色をしている。

 六月の廊下には、外の風も入っていた。


「ロビーへ下りるか、考えていたんだけど」


 透花が言った。

 佳孝は自分の鍵を出し、言ってよいかを一瞬考えた。

 隣人としてなら、待つ椅子が空いていると伝えるだけだ。相手が上司だと、それだけの言葉にも、別の意味が付く気がした。

 だが、寒そうな人へ、ずっと廊下にいてもらうのも落ち着かない。


「俺の部屋、暖房、入れられます。折り返しが来るまでなら、座って待てますけど」


 透花がこちらを見た。


「ロビーの方がよければ、そちらでも」


 彼女は少し考え、スマートフォンの画面を確かめた。


「今夜の移動先は、自分で連絡するので。ここで少しだけ、お借りしてもよい?」


「はい。どうぞ」


 彼は鍵を開けた。

 自分の部屋へ先に入り、食卓の椅子に掛かっていたタオルを取る。昨夜のグラスも台所へ移した。

 見られて困るほど散らかってはいないが、上司を迎えるつもりで整えた部屋でもなかった。

 透花が玄関で靴を脱ぎ、袋を自分の足元へ置く。


 佳孝はスリッパを出そうとして、靴箱の下を見た。

 来客用の一足は、奥へしまってある。取り出すと、左右で向きが違っていた。慌てて揃え直す。


「どうぞ。使っていない物なので」


「ありがとう」


 透花は受け取り、袋から自分のハンカチを出した。

 佳孝が手を伸ばしかけると、彼女は袋の口を自分で閉じた。中の物は濡れていないか、一つずつ確かめたらしい。


「その袋、台の上へ置きますか」


「ここで大丈夫。すぐ出せる方が、落ち着くので」


 彼は頷いた。

 テーブルの椅子を一脚引き、床へ置いていた買い物袋を台所へ運んだ。

 振り向くと、透花が本棚を見ていた。


「本、たくさんあるのね」


「途中まで読んで、止まってるのもあります」


「読んだ数を聞いたわけじゃないわ」


 佳孝は顔を上げた。

 透花の口元が、ほんの少し緩んでいた。


「すみません。なんとなく、説明を」


「私、今、資料の確認はしていないので」


「はい」


 自分でも、返事が会議のときと同じになったと分かった。

 彼女も気づいたらしく、少しだけ困った顔をした。


「私も、聞き方、考えるわね」


 その一言に、佳孝は少し肩の力を抜いた。

 台所の時計へ目をやった。

 折り返しが来るまで、何を話せばよいかを考え、彼は仕事のことを候補から外した。


「部屋、寒すぎませんか」


 まず聞けたのは、それだった。

 透花は肩の辺りを自分で確かめ、少しだけ温かくしてもらえると助かる、と答えた。

 佳孝はリモコンへ手を伸ばした。


「それでは、少し、お借りします」


 会社では聞かない言葉だった。

 佳孝はソファを示したが、彼女は食卓の椅子でもよいと答えた。袖が濡れているので、布へ付けたくないらしい。

 彼は乾いたタオルを一枚渡し、ソファには使ってよい薄い毛布があると話した。


「じゃあ、それも、お借りします」


 透花がそう言い、自分で袖の水気を押さえた。

 佳孝は袋の食品を冷蔵庫へ入れ、部屋の明かりを少し増やした。棚の端から毛布を出す。

 彼女へ渡すと、両手で受け取られた。


 ソファへ座った透花は、最初、背筋を伸ばしていた。

 毛布を膝へ置き、スマートフォンを手元へ揃える。今にも、次の確認事項を読み上げそうな姿だった。

 だが、部屋が温まると、肩が少し下がった。

 毛布を自分の肩まで引き上げ、足先を揃える。

 佳孝はリモコンの設定を見て、温度を一つ戻した。部屋全体を暑くするより、今の毛布で十分らしい。彼女も表示へ目を向け、これくらいで大丈夫です、と自分から言った。


「……温かい」


 小さな声だった。

 佳孝は食卓の椅子へ座り、リモコンを手に取った。テレビをつけるか尋ねるつもりだったが、彼女が目を閉じたので待つ。

 透花はすぐ顔を上げ、寝ていないわ、と言った。


「何も、言っていません」


「ええ。そうね」


 彼女は少しだけ笑った。

 佳孝はつられて笑いかけ、会社でこの顔を見たことがあっただろうかと思った。


「篠原くん。この毛布、少し、危険ね」


 透花が言った。


「何がですか」


「返すために、立つのが惜しくなる」


「数量は月曜まで待てても、毛布は待てませんか」


 言ってから、佳孝は口を閉じた。会議の後なら、思いついても飲み込んでいた冗談だった。

 透花が毛布の端からこちらを見る。


「こちらは、今、確かめています」


 そう言って、出しかけていた手を毛布の中へ戻した。


 佳孝は思わず笑った。

 部長が、毛布に負けていた。

 彼女も自分でおかしくなったのか、少し笑い、今だけよ、と付け足した。


 その後、手元のスマートフォンが震えた。

 透花はすぐに姿勢を戻し、表示を見た。折り返しの相手らしい。

 毛布を肩に掛けたまま、彼女は自分で電話を取った。

 佳孝はテレビの音を出さず、食卓の椅子で静かに待った。

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