第18話 上司として叱る
「篠原くん。この時刻は、誰が確定したものですか」
透花の指が、佳孝の送った文の上で止まった。
八月初め、会議室には岩崎と田辺もいた。店へ新しい説明資料を渡す日を決めるための打合せだった。
佳孝は自分の控えを見た。
火曜の午後。その時刻には、まだ、先方の担当の返事が付いていなかった。
「候補として、こちらで考えていた分です」
「送った文では、その日で進めてほしいと読めます」
透花は静かに言った。
佳孝は頷いた。相手が動き始める前に、条件を揃えるつもりだった。だが、送信した文に、確認中という言葉がない。
田辺はその返事を見て、先方へ予定を伝える準備をしていた。
「すみません。俺が、先に確定したように伝えました。訂正します」
佳孝は言った。
透花は、お願いします、と返す。
「相手がまだ動いていないかも、確認してください。日を変えるだけで済むかどうかは、こちらだけでは分からないので」
彼はメモを取った。
会議室の空気は、少し固かった。
透花は声を荒げなかったが、分かったでしょうと軽く終える顔でもない。いつ、どの返事を確かめるかまで、佳孝の言葉を待った。
「まず、田辺さんから、先方へどこまで伝わっているか確認します。その後、未確定の条件を揃えて、候補を出し直します」
彼が答えると、透花は頷いた。
「今日中に分かったところを共有してください。まだ返事が来なければ、そこも、待っている状態で残してください」
その次に、会議は別の確認へ移った。
佳孝は自分の紙を見ながら、何でこうなったかを考えた。
早く日を決めて先へ進めたかった。田辺の返事も、近い時刻でよいと言っているように読んだ。
そして、最後は部長へ伝えれば、調整してもらえるかもしれないと、どこかで思っていた。
そこに、私的な近さを混ぜたつもりはなかった。
だが、言えば何とかしてもらえる相手として、先に頼ろうとしたのは自分だった。
会議を出ると、田辺がすぐに窓口へ確認すると話した。
佳孝も席へ戻り、今までの文を上から並べた。
どこまでは候補で、どこから自分が決まったように書いたかが、見比べるとはっきり分かる。
「まだ、担当の手配は、始めていないそうです」
田辺から返事が来た。
佳孝は一度息を吐いたが、そこで終わりにはできなかった。先方にも、予定を確認し直す手間を増やした。
自分が未確定の時刻を確定と読める文で出したことを、田辺へ改めて謝った。
田辺は、先方の午後には別の作業も入る予定だと説明した。紙を届けるだけなら預かれても、その場で説明を聞ける担当がいるかは、まだ分からないという。
「渡したら終わりではなく、使い方まで確認する予定でしたよね」
田辺に聞かれ、佳孝は頷いた。資料が完成する日と、相手が説明を聞ける日を、同じ一つの時刻へまとめて考えていた。
彼は手元の表を二つへ分けた。先に社内で揃えるものと、相手の返事を受けてから決めるもの。
届いたかどうかだけで終えると、その先で使う人の都合が抜ける。今回、自分が引き取った仕事には、そこまでが含まれていた。
佳孝は田辺へ確認し直した内容を読み上げ、違うところがないかを確かめた。
「次に出す候補は、確認が揃った分だけにします。まだ空いているか分からないところは、別に書きます」
彼が話すと、田辺は、そちらでお願いしますと答えた。
相手も今日は、自分の担当へ戻っていかなければならない。佳孝は言い訳を長く付けず、いま直す内容だけを残した。
岩崎が隣で、次の文を一度見ようかと声を掛けた。
佳孝は頷き、できたところを渡す。
岩崎は読んで、候補の日は分かるが、どの条件を待っているかを上へ置いた方がよいと言った。
「相手、全部読む前に、時刻だけ見そうだから」
「そうだな。俺も、それで、先に進めたし」
二人で順番を直した。
佳孝は自分の画面の横へ、小さな付箋を一枚貼る。
確定、の前に疑問符を付けた。自分が見るためのものだった。
岩崎がそれを見て、相手へ送るときは外せよと言う。
「分かってる。俺が見る用」
「そのまま写す日もあるから」
佳孝は苦笑した。
まだ今日は、全部気楽に笑える気分ではなかった。だが、同僚が普通に次の仕事を一緒に見てくれることには、少し救われた。
午後、必要な返事が一つ揃った。
残りは翌日になる。佳孝はその状態を透花へ共有した。送った場所も、いつもの業務の経路だった。
私用の画面へ、すみませんとだけ送り、彼女に受け止めてもらう話ではない。
誰へ何を確認し、次にいつ戻るかを、仕事として書いた。
前の文を黙って消さず、訂正した箇所が分かる形で残した。
透花は確認し、短く返した。
「内容を見ました。残りの返事は、明日、共有してください。今夜中に返してもらおうと、先方へ急がせる必要はありません」
佳孝は頷いた。
相手の夜まで使って自分の間違いを消そうとしない。それも、今日の自分が止めることの一つだった。
退勤の時刻が来た。
彼は画面を閉じた後も、しばらく席へいた。先日の噂を聞いたから、透花は今日は余計に厳しかったのだろうかと、一瞬考える。
だが、自分が送った文をもう一度見れば、相手が何を指摘したかは分かる。
本人の仕事の判断へ、こちらの不安を勝手に乗せようとしていた。
佳孝は付箋の文字を見て、鞄を持った。
廊下で透花と会った。
彼女は次の日の連絡を一つ終えたところらしく、手元の紙を鞄へしまっていた。
佳孝が頭を下げると、透花も返した。
「今日は、確認を増やしてしまいました。残り、明日、揃えます」
彼は仕事の声で言った。
透花は頷き、返事が来たらでよいと答えた。
「今日、どこで止まっているかは分かりました。次は、相手が動く前に、条件を分けましょう」
それだけだった。
彼女は別の社員へ呼ばれ、顔を向けた。佳孝も先に帰る。
叱られたから、私的な関係まで全部失ったと考えるには、今日、自分がしたことは具体的すぎた。
まず、自分の担当を直して戻す。そこを飛ばしたくはなかった。
帰宅すると、隣の扉が開いた。
透花も少し後から戻ったらしい。玄関へ荷物を置き、もう一つの袋を取りに出てきたところだった。
彼女が佳孝を見つけ、こんばんは、と言った。
会社の廊下より、少し柔らかい声だった。
「こんばんは。今日は、暑かったですね」
彼が返すと、透花は頷いた。
「ええ。帰りに、冷たいものを買ってしまったわ」
袋の上から、小さな容器が一つ見えた。
佳孝は、これから食べる物だろうと思い、何かを頼まれたように立ち止まらなかった。
彼女も、今日の仕事の話をその場へ続けなかった。
「では、また、明日」
透花が言った。
佳孝も、はい、と返した。互いの扉が、それぞれ閉まる。
部屋へ入り、彼は一度、食卓の椅子へ座った。
同じ人に、会議では具体的な不備を指摘され、玄関では暑かったと話した。
佳孝は夕飯の支度を始めた。今夜直せない仕事は、明日、会社で続ける。
冷蔵庫から出した一人分の皿を置き、明日の最初の確認だけを、自分の手帳へ書いた。




