第17話 噂の火種
「篠原、黒瀬部長と、同じ所に住んでるんだって?」
給湯室の前で聞かれ、佳孝は持っていたカップを止めた。
販売支援をしている同僚の井上だった。少し後ろには、別の社員もいた。
七月の終わり、午後の確認が始まる前の時間だった。
「同じ建物です。部屋は、別です」
佳孝は先に答えた。
井上が、やっぱり、と頷く。休みの日、二人が入口の前で話しているところを、通り掛かりに見た人がいたらしい。
自分たちは、会社以外でも会っていた。
その場所が、誰からも見えない特別な所ではないことを、佳孝は改めて思い出した。
「だから、資料の相談も、家でできるのかと思って」
井上が続けた。
悪意だけの声ではなかった。自分も部長へ確認を出すことがある人として、返事の経路が気になったらしい。
佳孝は首を振った。
「仕事の審査を、自宅で先にしてもらっているわけではないです。私用で接点はありますが、仕事の資料は、会社の共有先へ出しています」
「私用って、付き合ってるとか?」
「交際は、していません」
答えは事実だった。
それなのに、口にすると、胸の中で少し引っ掛かった。
彼はそこへ余計な言葉を足さず、最初に自宅の漏水があったとき、短時間、自分の部屋で待ってもらったことを説明した。
「ああ、部長が勤務の時間、変えてたときの」
井上が頷いた。
会議で共有されたこととはつながったらしい。
だが、後ろの社員は、同じ建物なら気軽に聞けそうだな、と言った。
佳孝は一度相手を見た。
「俺も、会社の確認は、同じ順番で出しています。前の案は、岩崎の方が先に採用されましたし」
そこまで言うと、井上は会議の結果を思い出したようだった。
話は短く終わったが、佳孝の中では、すぐに元へ戻らなかった。
席へ戻り、彼は共有先へ出した資料を確かめた。
出した時刻と、返事が来た場所が残っている。今まで特別な経路で進めたつもりはなかったし、実際、そうしたこともない。
だが、ほかの人が自分の家の中を知っているわけではない。
二人がそこで何を話し、何を話していないかは、こちらがそう言う以外に見えにくかった。
「何かあった?」
岩崎が尋ねた。
佳孝は、部長と同じ建物だと聞かれたと短く答えた。岩崎も少し驚いたが、そこで大きな声は出さなかった。
「そうだったのか。じゃあ、同じ時刻に帰る日も、あるだろうな」
「うん。部屋は、隣で」
彼は自分で話せる範囲だけ伝えた。
岩崎は頷き、仕事の話まで家へ持っていくことはあるのかと聞いた。
それは、からかうための質問には聞こえなかった。
「審査とか、先に決めてもらうのは、ない。今の仕事は、ここで出してる」
「それなら、その記録は、ここにあるな。俺も、途中の版、見てるし」
岩崎は画面の共有先を示した。
佳孝は少し息を吐いた。
親しい同僚が保証するから平気なのではなく、どこで何を決めたか、実際に見られる形で仕事をしてきた。
そこは、次も変えたくなかった。
午後、透花は全員の進み具合を確認した。
佳孝の番が来ると、彼はいつもより少しだけ言葉を選んだ。前の会議で指摘された箇所を直し、田辺へ戻す予定を説明する。
透花は二つ確認し、共有先へ残すよう伝えた。
ほかの人へも、同じように返事をする。
今日、同じ建物の話を聞いたからといって、仕事の声が急に変わることはなかった。
打合せの後、佳孝は透花へ少し時間があるかと尋ねた。
会社に関係する話なので、自宅へ持ち帰る前に、勤務中に伝えたかった。
彼女は次の会議までならと答え、空いた小さい会議室へ入った。
「同じ建物へ帰るところを、見られていたようです。今日、仕事の相談を家でしているのか、聞かれました」
佳孝は事実から話した。
透花は驚いた顔をせず、一度頷いた。
「私も、近い話を聞かれました。隣人としての接点があることと、交際していないことは、伝えています」
彼は彼女を見た。
自分と同じように答えていた。それで少し安心した後、交際していないという言葉が、また胸の中へ残った。
「広めないでくれとは、言ってもらって、よいのでしょうか」
佳孝が尋ねると、透花は少し考えた。
「住所の細かい所や、仕事に必要のない私生活の話は、広げてほしくないと伝えてよいと思います。ただ、業務で不公平になっていないかという心配まで、黙ってもらうつもりはありません」
彼女は静かに答えた。
佳孝も頷いた。
上司が強く否定すれば、話す人は減るかもしれない。だが、何を聞いてはいけないのか分からず、心配した人まで黙るのは違う。
「こちらが、仕事と私生活を分けているつもりでも、ほかの人から全部見えるわけでは、ないのですね」
彼が言うと、透花は、ええ、と返した。
「だから、資料の確認も、私用の連絡へ分けない方がよいと思っています。返事をする場所と、決めた理由は、同じところへ残します」
それは今までと同じやり方だった。
佳孝は、次の版もそこで出します、と答えた。親しいから先に決めてよいと、自分から言い出さないことも必要だった。
会議室を出る前、透花が少しだけ声を落とした。
「この話で、篠原くんが、私の代わりに全部説明しなければとは、思わないでください。私が聞かれた分は、私から答えます」
佳孝は頷いた。
一人で彼女を守る役へ回れば、それも本人が決める場所を減らす。自分のことは自分で答え、相手にも伝える。
今、できるのはそのくらいだった。
夕方、社内へ事業推進室の募集の案内が出た。
奈都子が会議で話していた担当だった。佳孝は要件を開き、今の自分の仕事と重なる所へ目を留めた。資料を作って終わりではなく、使った後の返事を集め、次の担当へ渡す。
まだ、その全体を自分で引き受けられるかは分からない。
彼は案内を保存した。今日、聞かれたことから逃げる行き先としてではなく、自分がやってみたい仕事かどうか、改めて読みたかった。
退勤の支度をするとき、彼は私用の画面を一度開いた。
土曜に作ったサラダが美味しかった、と前に届いた短い文が残っている。
その下へ、仕事の確認を足すつもりはなかった。
ただ、二人で会う時間まで、何も気にせず同じように続けられるのかは、まだ自分でも答えがなかった。
帰宅してから、透花へ一文送った。
『今日の件、伝えられてよかったです。私用の時間のことも、また、二人で話せたらと思っています』
返事は少し後に来た。
『私も、考えています。今までのことをなかったことにはしたくありませんが、これからのことは、話して決めたいです』
佳孝は文を読んだ。
今日、彼女を困らせたから、もう顔を見ない方がよいと、勝手に決める言葉ではなかった。
だが、何も変えなくてよいと言っているわけでもない。
彼は、分かりました、と返した。
食卓へ座ると、取り分けておいた容器はもう空だった。
先週のサラダは、一人で食べた翌日も美味しかった。あの夜、一緒に作ったことまで悪い思い出へ直すつもりにはなれない。
佳孝は洗った容器を棚へ戻した。
次に使う約束は、まだ、入れていなかった。




