第16話 週末の料理会
「エプロンは、持ってきました」
透花が鞄から紺色の布を出したので、佳孝は自分の台所を一度見た。
七月の二つめの土曜、夕方だった。
今夜は一緒に料理をする。本人たちが日を決め、作りたい物も一つずつ出した。
それなのに、彼女が自分の家のエプロンを持ってきたところを見て、改めて、今日は待つ場所を貸す日ではないのだと思った。
「何か、忘れた?」
透花に聞かれ、彼は首を振った。
「いえ。ちゃんと、料理の日だなと」
「ええ。予定表にも、書きましたから」
彼女は少し笑い、エプロンを広げた。
会社の上着でも、初日の毛布でもない布が、身体の前へ来る。髪をまとめ直すと、彼女は台所へ目を向けた。
「では、今日も、どこを使ってよいか、教えてください」
佳孝は頷き、まな板と包丁を出した。
主菜は、彼の好きなしょうが焼き。
透花が作りたいと言ったのは、かぼちゃのサラダだった。
材料を並べると、二人分のつもりで選んだ野菜が、思ったより場所を取った。
佳孝が大きいボウルを出すと、透花はかぼちゃを見て、余ったら分けて持って帰りたいと話した。
「最初から、それも考えていたんですか」
「少し。自分の分も、明日、食べたいので」
彼女は小さな保存用の容器も出した。
佳孝の翌日の食事を全部整えるためではなく、本人が作りたい物を、本人も食べる。その準備が少し嬉しかった。
彼も明日の分を入れられる器を、一つ、棚から出した。
作業を始める前に、使う場所を分けた。
金曜のカレーのときは、彼が後ろへ手を伸ばすたび、透花が一度退いた。今日は先に必要な物を出し、何度も同じ棚を開けずに済むようにした。
「前回より、台所の幅、増えましたね」
佳孝が言うと、透花は周りを見た。
「同じ広さよね」
「はい。でも、行ったり来たりする分が減ったので」
彼女が頷き、少し笑った。
二人で何かをするとき、片方が全部覚えて動くより、置く物を先に出す方が楽だった。
透花はかぼちゃの方を受け持ち、佳孝は主菜の支度を進めた。
味を付ける前、彼はいつもどのくらい濃いものを食べるかを話した。透花は自分なら少し控えるかもしれないと答える。
「では、最初は、少なめから。食べるとき、足せる方にします」
彼が言うと、彼女は頷いた。
相手へ全部合わせ、自分の食べたい物をなくす話ではない。今日は二人で作るので、どちらも食べられる所から始めたかった。
途中で、佳孝の手が塞がった。
皿を出したいが、今、火の前から離れたくない。彼は自分で何とかしようとして、透花へ声を掛けた。
「黒瀬さん。上の棚の、白い皿、二枚、お願いしてもいいですか」
「はい。こちら?」
彼女が示した皿を見て、彼は頷いた。
今度は大きさも同じものが二枚あった。前の夜に探した後、使う物を揃えて手前へ置き直していたのだ。
透花は食卓へ運び、戻ってきてから、自分も小さい匙を一つ出してほしいと頼んだ。
佳孝が場所を教え、手が空いてから渡す。
サラダの味を決めるところで、透花が小さな皿を二つ出した。
一方へ少しだけ取り、佳孝へ渡す。
「味を見てもらっても、よいですか」
彼は頷き、用意された匙で食べた。
かぼちゃの甘さがあった。だが、思っていたより、食事に合う味だった。
「俺、これくらいが好きです」
答えると、透花はもう一つの皿で自分も確かめた。
彼女は、少しだけ、自分の方へ足したいものがあるという。
同じボウルへ全部入れず、分けた後に自分の分だけを整えた。
「これで、篠原くんの好きな方も、残ります」
彼女は言った。
佳孝は二つの小皿を見て、少し笑った。
「同じ台所で作っても、ちゃんと二人分なんですね」
「ええ。片方だけが、味を見る係ではないので」
彼女も笑い、残りを盛り分けた。
自分で選んだ味を、今夜は同じ食卓へ二つ置くことになった。
主菜を皿へ移すところで、佳孝は付け合わせのキャベツを忘れていたことに気づいた。
冷蔵庫へ入れたままだった。
「今から、切ります」
言って包丁へ手を伸ばすと、透花が、先に皿を置いてもいいかと尋ねた。
「はい。すみません、ちょっと順番が」
「謝らなくても。サラダもありますし」
彼女は二つの皿をテーブルへ運んだ。
佳孝はキャベツを少しだけ切ることにした。全部を予定通り揃えようとすると、肉が冷める。
切った分を小皿へ入れ、余りはしまった。
透花は、エプロンを外して椅子の背へ掛けていた。
「篠原くん、何か足りないと、すぐ、自分が何とかしようとしますね」
彼は手を拭きながら、少し考えた。
「自分の家なので。場所を知っている方が、やった方が早いかなって」
「そういうときもあります。でも、今日は一緒に作っているので、抜けたものも、一緒に考えていいと思います」
透花は、空いている椅子を指した。
「たぶん、今日のキャベツは、それくらいで足ります」
佳孝は小皿を見て、笑った。
「はい。僕も、そう思って減らしました」
「では、いい判断でした」
その口調が少し仕事に似ていて、彼はまた笑った。
透花も気づいたらしく、今のは、食べる方の意見です、と付け足した。
二人で座り、いただきますと言った。
皿の肉は、まだ温かかった。
忘れ物を全部取り戻してから始めるより、今ある物を食べ始めた方が、今日はおいしかった。
食事を始めると、主菜の皿は思ったより早く減った。
透花は一口食べ、しょうがの味が好きだと話した。佳孝もサラダをもう一度食べ、こちらと交互だとちょうどよいと答える。
初日のように、急いで冷蔵庫にあった物で決めた食事ではない。
それぞれが食べたいと挙げた物を、二人で作った。
「前から、よく作るんですか」
透花が尋ねた。
佳孝は、何度か、と答えた。初めて作ったとき、濃くしすぎたことがある。次に同じ量でやったらまた濃くなったので、ようやく手元のメモへ、少なくする、と書いた。
「二回目も、同じに?」
「はい。今度は大丈夫かもと思って」
「根拠は、あったの」
彼女の声が会議に似ていて、佳孝は笑った。
「ありません。そこは、黒瀬さんに、聞かれる前に言っておきます」
透花も笑った。
今日は修正した後のものを食べているので、前の失敗の話も気楽にできる。
彼女は自分もサラダを作りすぎたことがあると話し、机の中央のボウルを見た。
「今日も、少し、やりましたね」
二人で残りを見た。
予定していた二つの容器へ分けても、まだ一口分だけ残りそうだ。
佳孝が、自分が食べます、と匙を取ると、透花は少し笑って、お願いしますと返した。
残したら駄目だという役目ではなく、もう少し食べたかった。
食べ終えた後は、一度に全部流しへ積まず、置ける物から運んだ。
佳孝が洗い、透花が乾いた物を戻す。初日はどこへ戻すか、いちいち尋ねていたが、今日は分かる棚も増えている。
それでも、初めて使った器は、ここでよいかと確かめられた。
「一回、使っただけだと、まだ、全部は覚えていないので」
彼女が言った。
佳孝は、自分もたまに違う所へ置くと答えた。忙しい朝、昨日の自分がどこへ置いたかを探すことがある。
透花はそれを聞き、少し安心したように笑った。
台所が片づくと、今度は食卓の上が空いた。
二人分の食事をした跡は、持ち帰る小さい容器だけになった。
透花は自分の分へ蓋をし、冷めた状態を確かめてから鞄の近くへ置いた。
「ごちそうさまでした。今日は、自分の作りたいものも、食べられました」
彼女が言った。
佳孝も、こちらこそ、と返した。台所を貸しただけでも、客へ全部食べてもらっただけでもない。
自分の食べたい夕飯を、一緒に作って食べた。
少し休んでから帰ることにして、二人はソファの方へ移った。
透花はクッションへ寄り、佳孝はいつもの椅子へ座る。
部屋の冷房が少し当たると言われ、彼は向きを変えた。毛布もあると伝えると、彼女は今日は膝の上へ、と希望した。
「暑い日でも、そちらは、使いたくなるのね」
自分で言って、透花が笑った。
佳孝は畳んだまま渡す。彼女は厚く巻かず、端だけを膝へ掛けた。
今夜の使い方は、初日とは少し違った。
「今日、一緒に作って、楽しかったです」
彼が言うと、透花は顔を向けた。
「私も。会社の用事で頼むのとは違う声で、篠原くんに、匙を出してもらえて」
佳孝は少し笑った。
「俺の方も、同じです。自分の家で、全部一人でやらなくても、よかったので」
彼女は頷いた。
そこから、好きな料理の話になった。透花は一人の日によく作る物を挙げ、佳孝は自分が買って済ませることの多い物を話した。
どちらも、毎日料理をする人として競うつもりはない。
次に作るとしたら、何なら二人で試せそうかが少しずつ増えた。
「次の分まで、今、決める?」
透花が尋ねた。
佳孝は少し考え、今日は候補だけで、と答えた。来月の仕事の予定がまだ固まっていない。
彼女も同じらしく、ではまた分かったら、と頷いた。
何も決め切らず終えても、今日の食事が楽しくなかったことにはならない。
帰る前に、透花は自分の容器を持った。
玄関で靴を履き、振り向く。
「今日のしょうが焼き、また、食べたいです」
佳孝は頷いた。
「俺も、サラダ。また、違う味にするなら、それも聞きたいです」
彼女は少し笑った。
同じ皿に戻る約束にも、別の物を作る楽しみにも、どちらへも続けられそうだった。
彼は廊下へ出て、彼女が隣の鍵を開けるのを見送った。
自室へ戻ると、台所の置き方が少し変わっていた。
使うために先へ出した物が、元より手前へ戻っている。佳孝はそのまま、明日の朝にも使いそうな匙を残した。
冷蔵庫には自分の分の容器がある。
一人で食べる明日の昼にも、今日、二人で味を見たことを思い出せそうだった。




