第15話 部長の誕生日
「今日、三十三になりました」
透花は、業務の連絡をするような声で言った。
佳孝は手に持っていた紙を下ろし、何が、と尋ねかけて止まった。七月初めの昼休み、会社の給湯室の前だった。
彼女の手にはスマートフォンがある。
「お誕生日、ですか」
「ええ。今、妹から連絡が来て。何が欲しいか、毎年、この日に聞くの」
透花は少し笑った。
欲しい物がすぐに決まらなければ、来週でもよいという文も付いていたらしい。本人は今日中に用意しなければならないと思っていない。
その話し方から、佳孝にも、日菜の短い電話の声が少し思い出せた。
「おめでとうございます」
彼が言うと、透花は顔を向けた。
ありがとうございます、と返す声が、さっきより少し柔らかくなった。
佳孝はそれだけ言って、午後の作業へ戻った。
自分の席には、田辺へ見てもらう次の版があった。
先週の会議で、自分の図は読む相手を絞ることになった。今は、店の説明を聞いた後に、買う人が手に取る場面を考えている。
先に口で伝える内容は、図の中心へもう一度大きく載せなくてよい。
どこを残すか決めると、少し余白が増えた。
岩崎が横へ来て、今度は文字が少なくなったなと言った。
佳孝は頷き、使う順番が決まったのでと答える。
「最初、どこでも使える物を作るつもりだったんだけど。そこが、まだ決まってなかった」
「一枚で、全部やりたくなるよな」
二人で見直し、田辺へ確認する箇所を付けた。
透花にも同じ版を共有した。誕生日だと知ったから、今日は返事を求めてはいけないという話ではない。予定していた確認は、仕事として進めた。
彼女は午後、ほかの担当の分と一緒に見て、短く返した。
「こちらの順番なら、次に、使う人へ見てもらえますね。今回、確認した条件も、同じところへ残してください」
佳孝は頷いた。
いつもの声だった。
その声へ返事をしながら、今日は私的に祝いたいという気持ちは、別の場所へ持っていこうと思った。
退勤後、彼は帰りの店へ寄った。
何か大きな品を贈るつもりではなかった。まだ彼女が何を持っていて、何を使いたいか、詳しく知らない。
会うたび使ってほしいような物を、急に上司へ渡すのも、自分の気持ちが先に大きすぎた。
小さい菓子なら、好きな味を選び、今日のうちに食べて終われる。
彼は冷たいデザートの棚の前で止まった。
固そうなプリンと、柔らかそうなプリンが並んでいた。
どちらも甘い。だが、甘ければ何でも同じように好きだとは、もう思っていなかった。
彼は私用の画面を開いた。
『お仕事の後、少しだけ、お祝いを渡してもよいですか。プリンを選んでいるのですが、固い方と、柔らかい方なら、どちらがお好きですか』
送ると、少し後、返事が来た。
『ありがとうございます。固い方が好きです。今夜は、後で日菜と電話をするので、短い時間でもよければ』
佳孝は、もちろんです、と返した。
相手がいつまで自分と過ごすかを決める前に、誕生日の夜を全部もらうつもりではなかった。
彼は彼女の選んだ方と、自分が食べたい方を一つずつ取った。
帰宅してから、食事を先に済ませた。
透花も自分の部屋で食べてから来るという。二人とも、今日は夕飯を作る約束をしていない。
佳孝は食卓の上を空け、冷たい麦茶を出した。コーヒーも考えたが、今日はそれ以外がよければと先に聞くと、麦茶で、との返事だった。
約束の時刻になると、透花が来た。
仕事の上着は脱ぎ、薄い部屋着の上へ一枚羽織っている。玄関の前へ立つ姿が、最初の雨の日より落ち着いていた。
「お邪魔します。今日は、ありがとうございます」
「どうぞ。冷やしてあります」
佳孝が伝えると、彼女は少し嬉しそうに笑った。
その顔を見て、何を選んだか先に尋ねてよかったと思った。
食卓へ二つを並べた。
透花は自分の希望した方を確かめ、こちらを、と手を伸ばした。今日、主役だから、と大げさに決める必要もなく、本人が好きな方を選んだ。
佳孝も自分の分の蓋を開ける。
「改めて、お誕生日、おめでとうございます」
彼が言うと、透花は笑って頷いた。
「ありがとうございます。会社の外でも、言ってもらえるの、嬉しいです」
彼女は一口食べ、ゆっくり目を細めた。
固い方を選んだ理由が、そこへ少し出た気がした。
「これ、好きです。ちゃんと、カラメルも、苦いので」
「甘いだけでは、ないんですね」
「ええ。そういうところも、欲しいので」
佳孝も自分の分を食べた。
こちらは柔らかく、口へ入るとすぐ形がなくなる。味の違いを話し、どちらがよいかではなく、今日は自分が食べたいものを選んだと分かる。
「来年、何が好きか、また、聞いてみたくなりますね」
彼は言ってから、少しだけ止まった。
まだ次の誕生日まで、一緒にいる約束をしたわけではない。
透花は彼の顔を見て、その間へ何も大きな意味を足さずに答えた。
「そのときは、そのときの私へ。今と、同じかもしれないけれど」
彼は頷き、また聞きます、と返した。
彼女は小さく笑い、続きを食べた。
「子どもの頃も、プリンだったんですか」
佳孝が尋ねると、透花は首を横へ振った。
「ケーキでした。切り分けるとき、日菜が毎回、大きい方を見つけるのが早くて」
「誕生日の人より?」
「ええ。でも、私が先に選んでいい決まりだったので、あちらは、ずっと見ているだけです」
彼女が、少し可笑しそうに目を細めた。
「一度だけ、小さい方を選んだら、すごく困った顔をされました。大きい方が欲しかったのに、私が譲ったと分かるのは、嫌だったみたい」
佳孝は笑った。
日菜の、はっきりした返事の声が思い出された。
「分け直したんですか」
「はい。結局、二つとも少し切って、同じくらいにしました。私のケーキなのに、切り口が、やけに多くなって」
透花は匙を持ったまま、空いた手で、切る形を小さく示した。
その動きが、説明図を示すときより柔らかくて、佳孝はつい見てしまった。
「篠原くんは、お誕生日、いつですか」
「五月です。もう、今年は終わりました」
「そうだったんですね。では、二十九歳には、もう慣れました?」
「慣れる前に、次が来そうです」
彼が答えると、透花が笑った。
「何を食べたんですか」
「家で、自分の食べたい肉を焼きました。ちょっと、いいのを買って」
「それも、いいですね」
彼女は、ちゃんと楽しそうに言った。
一人で過ごした誕生日を、寂しいことにされずに済んだのが、佳孝にはありがたかった。
「来年も、それを食べるかもしれません。でも、今日みたいなプリンも、いいです」
「そのときの篠原くんへ、聞いてみたいですね」
さっき自分が言った言葉が、少し形を変えて返ってきた。
彼は頷き、今のところは肉が有力です、と答えた。
透花は、覚えておきます、と笑った。
話は、部長になった頃のことへ少し移った。
年齢が一つ増えるたび、何か新しくできる人にならなければと思う時期があった、と透花が自分から話した。
佳孝は麦茶を一口飲み、続きを聞いた。
「役目をもらった最初の頃、手帳に、自分がすることばかり書いていたの。誰かへ頼むことの欄は、ほとんどなかったわ」
彼女は食べ終えた容器へ、蓋を重ねた。
「私が先に答えられなければ、止まってしまうと思って。実際は、私が全部へ先に返事をするから、そこへ集まるものも、あったのかもしれないけれど」
佳孝は最近の会議を思い出した。
彼女が最後に見てから次へ出す資料は多い。自分たちも、どの範囲なら先に決めてよいかを、毎回尋ねていた。
全部を今ここで直す話ではない。だが、本人もそれを考えていると初めて聞いた。
「今の手帳には、別の人の名前も、ありますか」
彼が尋ねると、透花は頷いた。
「ええ。前よりは。今日も、岩崎くんに先に見てもらう分を、頼みました」
「聞きました。俺も、逆に見てもらいました」
彼女は少し笑った。
佳孝は、頼むことができる人は弱いのではない、などと急に結論を言うつもりにはならなかった。
今日、自分も、同僚へ一度見てほしいと頼んだ。それで仕事が進んだ。
話せるのは、そのくらいの具体的なことだった。
「三十三歳の自分は、もう少し、任せるのが上手になれたらと思います」
透花が言った。
その後で、すぐできるかは分からないけれど、と少し笑う。
佳孝は頷いた。
「今、少なくとも、プリンの用意は、俺へ任せてもらえました」
彼が返すと、彼女が声を出して笑った。
「ええ。そこは、上手に頼めた気がするわ」
大きな役目の話をしていたはずなのに、二つの空の容器へ戻ってきた。
佳孝も笑い、机を片づけるために立った。
透花は自分の容器を流しの近くへ運び、どこへ置けばよいか尋ねた。
彼は空いた場所を示し、残りは自分ですると答えた。
彼女はそこで手を止め、ではお願いしますと返す。
ソファの前へ戻ると、透花が少しだけ毛布へ目を向けた。
「今日は、必要ないと思っていたのに。見ると、少し座りたくなるわね」
佳孝は笑い、電話の時間までは、と椅子を示した。
彼女はあと五分ほどなら、と自分の時計を見た。
最初の夜と同じ言葉だった。
ただ、今日は自分の部屋へ帰れず待っているのではなく、本人が祝ってもらう時間を選んで座っている。
「ここ、少しだけ、気を抜いてもよい感じがします」
透花が言った。
佳孝は返事を急がず、隣ではなく、いつもの向かいの椅子へ座った。
「そう思ってもらえたら、嬉しいです」
それだけ答えると、彼女は頷いた。
彼の方も、この人を何とか休ませなければと、次々世話を足す気にはならなかった。今、甘いものを食べ、本人が五分座りたいと選んだ。
それでよかった。
帰る時刻になると、透花は自分から立った。
スマートフォンには、妹から時間を確かめる文が来ていた。今日は互いに、落ち着いて話せる夜を取っているらしい。
「日菜にも、食べたものの話をします。何がよいか聞く前に、選んでしまったと、笑われるかもしれないけれど」
透花が言った。
佳孝は、では次に欲しい物は、ゆっくり選べますねと返した。
彼女は頷き、玄関で靴を履いた。
「今日は、私が食べたいものを聞いてもらえて、嬉しかったです」
佳孝は少しだけ照れた。
その返事が思ったより嬉しく、彼は来てくれてありがとうございましたと答えた。
扉の外で、透花が一度だけ振り返った。
「では、三十三歳の方も、よろしくお願いします。会社でも、こちらでも」
少し冗談の混じる声だった。
佳孝は頷いた。
「はい。では、こちらでは、また、食べたいものを聞きます」
彼女が笑った。
部屋へ戻ると、黄色いマグではなく、今日は二つのグラスが残っていた。
彼はその一つを洗い、棚へ戻した。




