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鬼上司が、俺の家では甘えん坊になる  作者: 雨宮 弦


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15/19

第15話 部長の誕生日

「今日、三十三になりました」


 透花は、業務の連絡をするような声で言った。

 佳孝は手に持っていた紙を下ろし、何が、と尋ねかけて止まった。七月初めの昼休み、会社の給湯室の前だった。

 彼女の手にはスマートフォンがある。


「お誕生日、ですか」


「ええ。今、妹から連絡が来て。何が欲しいか、毎年、この日に聞くの」


 透花は少し笑った。

 欲しい物がすぐに決まらなければ、来週でもよいという文も付いていたらしい。本人は今日中に用意しなければならないと思っていない。

 その話し方から、佳孝にも、日菜の短い電話の声が少し思い出せた。


「おめでとうございます」


 彼が言うと、透花は顔を向けた。

 ありがとうございます、と返す声が、さっきより少し柔らかくなった。

 佳孝はそれだけ言って、午後の作業へ戻った。


 自分の席には、田辺へ見てもらう次の版があった。

 先週の会議で、自分の図は読む相手を絞ることになった。今は、店の説明を聞いた後に、買う人が手に取る場面を考えている。

 先に口で伝える内容は、図の中心へもう一度大きく載せなくてよい。

 どこを残すか決めると、少し余白が増えた。


 岩崎が横へ来て、今度は文字が少なくなったなと言った。

 佳孝は頷き、使う順番が決まったのでと答える。


「最初、どこでも使える物を作るつもりだったんだけど。そこが、まだ決まってなかった」


「一枚で、全部やりたくなるよな」


 二人で見直し、田辺へ確認する箇所を付けた。

 透花にも同じ版を共有した。誕生日だと知ったから、今日は返事を求めてはいけないという話ではない。予定していた確認は、仕事として進めた。

 彼女は午後、ほかの担当の分と一緒に見て、短く返した。


「こちらの順番なら、次に、使う人へ見てもらえますね。今回、確認した条件も、同じところへ残してください」


 佳孝は頷いた。

 いつもの声だった。

 その声へ返事をしながら、今日は私的に祝いたいという気持ちは、別の場所へ持っていこうと思った。


 退勤後、彼は帰りの店へ寄った。

 何か大きな品を贈るつもりではなかった。まだ彼女が何を持っていて、何を使いたいか、詳しく知らない。

 会うたび使ってほしいような物を、急に上司へ渡すのも、自分の気持ちが先に大きすぎた。

 小さい菓子なら、好きな味を選び、今日のうちに食べて終われる。

 彼は冷たいデザートの棚の前で止まった。


 固そうなプリンと、柔らかそうなプリンが並んでいた。

 どちらも甘い。だが、甘ければ何でも同じように好きだとは、もう思っていなかった。

 彼は私用の画面を開いた。


『お仕事の後、少しだけ、お祝いを渡してもよいですか。プリンを選んでいるのですが、固い方と、柔らかい方なら、どちらがお好きですか』


 送ると、少し後、返事が来た。


『ありがとうございます。固い方が好きです。今夜は、後で日菜と電話をするので、短い時間でもよければ』


 佳孝は、もちろんです、と返した。

 相手がいつまで自分と過ごすかを決める前に、誕生日の夜を全部もらうつもりではなかった。

 彼は彼女の選んだ方と、自分が食べたい方を一つずつ取った。


 帰宅してから、食事を先に済ませた。

 透花も自分の部屋で食べてから来るという。二人とも、今日は夕飯を作る約束をしていない。

 佳孝は食卓の上を空け、冷たい麦茶を出した。コーヒーも考えたが、今日はそれ以外がよければと先に聞くと、麦茶で、との返事だった。


 約束の時刻になると、透花が来た。

 仕事の上着は脱ぎ、薄い部屋着の上へ一枚羽織っている。玄関の前へ立つ姿が、最初の雨の日より落ち着いていた。


「お邪魔します。今日は、ありがとうございます」


「どうぞ。冷やしてあります」


 佳孝が伝えると、彼女は少し嬉しそうに笑った。

 その顔を見て、何を選んだか先に尋ねてよかったと思った。


 食卓へ二つを並べた。

 透花は自分の希望した方を確かめ、こちらを、と手を伸ばした。今日、主役だから、と大げさに決める必要もなく、本人が好きな方を選んだ。

 佳孝も自分の分の蓋を開ける。


「改めて、お誕生日、おめでとうございます」


 彼が言うと、透花は笑って頷いた。


「ありがとうございます。会社の外でも、言ってもらえるの、嬉しいです」


 彼女は一口食べ、ゆっくり目を細めた。

 固い方を選んだ理由が、そこへ少し出た気がした。


「これ、好きです。ちゃんと、カラメルも、苦いので」


「甘いだけでは、ないんですね」


「ええ。そういうところも、欲しいので」


 佳孝も自分の分を食べた。

 こちらは柔らかく、口へ入るとすぐ形がなくなる。味の違いを話し、どちらがよいかではなく、今日は自分が食べたいものを選んだと分かる。


「来年、何が好きか、また、聞いてみたくなりますね」


 彼は言ってから、少しだけ止まった。

 まだ次の誕生日まで、一緒にいる約束をしたわけではない。

 透花は彼の顔を見て、その間へ何も大きな意味を足さずに答えた。


「そのときは、そのときの私へ。今と、同じかもしれないけれど」


 彼は頷き、また聞きます、と返した。

 彼女は小さく笑い、続きを食べた。


「子どもの頃も、プリンだったんですか」


 佳孝が尋ねると、透花は首を横へ振った。


「ケーキでした。切り分けるとき、日菜が毎回、大きい方を見つけるのが早くて」


「誕生日の人より?」


「ええ。でも、私が先に選んでいい決まりだったので、あちらは、ずっと見ているだけです」


 彼女が、少し可笑しそうに目を細めた。


「一度だけ、小さい方を選んだら、すごく困った顔をされました。大きい方が欲しかったのに、私が譲ったと分かるのは、嫌だったみたい」


 佳孝は笑った。

 日菜の、はっきりした返事の声が思い出された。


「分け直したんですか」


「はい。結局、二つとも少し切って、同じくらいにしました。私のケーキなのに、切り口が、やけに多くなって」


 透花は匙を持ったまま、空いた手で、切る形を小さく示した。

 その動きが、説明図を示すときより柔らかくて、佳孝はつい見てしまった。


「篠原くんは、お誕生日、いつですか」


「五月です。もう、今年は終わりました」


「そうだったんですね。では、二十九歳には、もう慣れました?」


「慣れる前に、次が来そうです」


 彼が答えると、透花が笑った。


「何を食べたんですか」


「家で、自分の食べたい肉を焼きました。ちょっと、いいのを買って」


「それも、いいですね」


 彼女は、ちゃんと楽しそうに言った。

 一人で過ごした誕生日を、寂しいことにされずに済んだのが、佳孝にはありがたかった。


「来年も、それを食べるかもしれません。でも、今日みたいなプリンも、いいです」


「そのときの篠原くんへ、聞いてみたいですね」


 さっき自分が言った言葉が、少し形を変えて返ってきた。

 彼は頷き、今のところは肉が有力です、と答えた。

 透花は、覚えておきます、と笑った。


 話は、部長になった頃のことへ少し移った。

 年齢が一つ増えるたび、何か新しくできる人にならなければと思う時期があった、と透花が自分から話した。

 佳孝は麦茶を一口飲み、続きを聞いた。


「役目をもらった最初の頃、手帳に、自分がすることばかり書いていたの。誰かへ頼むことの欄は、ほとんどなかったわ」


 彼女は食べ終えた容器へ、蓋を重ねた。


「私が先に答えられなければ、止まってしまうと思って。実際は、私が全部へ先に返事をするから、そこへ集まるものも、あったのかもしれないけれど」


 佳孝は最近の会議を思い出した。

 彼女が最後に見てから次へ出す資料は多い。自分たちも、どの範囲なら先に決めてよいかを、毎回尋ねていた。

 全部を今ここで直す話ではない。だが、本人もそれを考えていると初めて聞いた。


「今の手帳には、別の人の名前も、ありますか」


 彼が尋ねると、透花は頷いた。


「ええ。前よりは。今日も、岩崎くんに先に見てもらう分を、頼みました」


「聞きました。俺も、逆に見てもらいました」


 彼女は少し笑った。

 佳孝は、頼むことができる人は弱いのではない、などと急に結論を言うつもりにはならなかった。

 今日、自分も、同僚へ一度見てほしいと頼んだ。それで仕事が進んだ。

 話せるのは、そのくらいの具体的なことだった。


「三十三歳の自分は、もう少し、任せるのが上手になれたらと思います」


 透花が言った。

 その後で、すぐできるかは分からないけれど、と少し笑う。

 佳孝は頷いた。


「今、少なくとも、プリンの用意は、俺へ任せてもらえました」


 彼が返すと、彼女が声を出して笑った。


「ええ。そこは、上手に頼めた気がするわ」


 大きな役目の話をしていたはずなのに、二つの空の容器へ戻ってきた。

 佳孝も笑い、机を片づけるために立った。


 透花は自分の容器を流しの近くへ運び、どこへ置けばよいか尋ねた。

 彼は空いた場所を示し、残りは自分ですると答えた。

 彼女はそこで手を止め、ではお願いしますと返す。


 ソファの前へ戻ると、透花が少しだけ毛布へ目を向けた。


「今日は、必要ないと思っていたのに。見ると、少し座りたくなるわね」


 佳孝は笑い、電話の時間までは、と椅子を示した。

 彼女はあと五分ほどなら、と自分の時計を見た。

 最初の夜と同じ言葉だった。

 ただ、今日は自分の部屋へ帰れず待っているのではなく、本人が祝ってもらう時間を選んで座っている。


「ここ、少しだけ、気を抜いてもよい感じがします」


 透花が言った。

 佳孝は返事を急がず、隣ではなく、いつもの向かいの椅子へ座った。


「そう思ってもらえたら、嬉しいです」


 それだけ答えると、彼女は頷いた。

 彼の方も、この人を何とか休ませなければと、次々世話を足す気にはならなかった。今、甘いものを食べ、本人が五分座りたいと選んだ。

 それでよかった。


 帰る時刻になると、透花は自分から立った。

 スマートフォンには、妹から時間を確かめる文が来ていた。今日は互いに、落ち着いて話せる夜を取っているらしい。


「日菜にも、食べたものの話をします。何がよいか聞く前に、選んでしまったと、笑われるかもしれないけれど」


 透花が言った。

 佳孝は、では次に欲しい物は、ゆっくり選べますねと返した。

 彼女は頷き、玄関で靴を履いた。


「今日は、私が食べたいものを聞いてもらえて、嬉しかったです」


 佳孝は少しだけ照れた。

 その返事が思ったより嬉しく、彼は来てくれてありがとうございましたと答えた。


 扉の外で、透花が一度だけ振り返った。


「では、三十三歳の方も、よろしくお願いします。会社でも、こちらでも」


 少し冗談の混じる声だった。

 佳孝は頷いた。


「はい。では、こちらでは、また、食べたいものを聞きます」


 彼女が笑った。

 部屋へ戻ると、黄色いマグではなく、今日は二つのグラスが残っていた。

 彼はその一つを洗い、棚へ戻した。

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