第14話 弱音の練習
「黒瀬さん。どうぞ」
言ってから、佳孝は自分で少し驚いた。
会社で長く使った呼び方を、今夜は途中で戻さずに言えた。
透花も気づいたようで、玄関で少し笑う。
「お邪魔します。今日は、寒くないわね」
六月の終わり、水曜の夜だった。
二人で決めた七時半。彼女は約束より少し早く来たが、最初に私用の画面へ、今から大丈夫かと一文送っていた。
佳孝は食事を済ませ、洗った皿を戻したところだった。
透花は薄い袋を一つ持っていた。
コーヒーと一緒に食べられる、小さな菓子だった。高価なものではなく、帰りに自分も食べたいと思って買ったという。
「全部、今日、食べなくても。残れば、篠原くんの分に」
「ありがとうございます。では、今、少し出します」
彼は袋を受け取り、小皿へ二つ置いた。
カップは黒と黄色。彼女が席へ着く前に出してあったのを見て、透花が、こちらが定位置になりそうね、と黄色い方へ目を向けた。
佳孝は少し笑い、今日は別の方でもよいと答えた。
「いえ。こちらが、今は落ち着くので」
透花はそう言って、椅子へ座った。
借りた物を返す荷物も、管理側からの連絡を待つ端末も、机にはなかった。
スマートフォンは、自分の鞄へしまったままだった。
コーヒーを飲むと、彼女は小さく息を吐いた。
佳孝は向かいの椅子で、その声を聞いた。
「今日は、疲れましたか」
尋ねると、透花は少し考えた。
仕事が大きく失敗した顔ではなかった。だが、楽しかった一日を話し始める声でもない。
「少し。お願いしても、よい?」
彼は頷いた。
透花はカップを置き、先に言った。
「今日は、十分くらい、答えを出さずに、聞いていてもらえたら嬉しいです」
佳孝は一度、手元へ目を落とした。
何をすればよいか、先に教えてもらった気がした。助けたいと思っていたが、何でも解決できる話だとは限らない。
「はい。今なら、聞けます」
彼が返すと、透花は少し肩を下げた。
話は、誰かの悪口ではなかった。
仕事で確認するものが重なると、自分の返事を待っている人の顔を思い出して、家でも手帳を開きたくなる。
今日は、どこまで返したかを何度も確かめた。全部急ぎではないと分かっていても、まだ一つ残っていると思うと、切り替えに時間が掛かる。
彼女はそのことを、短い言葉へ区切って話した。
「仕事の判断が必要なところは、明日、橘さんと話します。ただ、今夜は、決める前の自分の声を、一度、外へ出したかったの」
佳孝は頷いた。
橘奈都子とは別の役目を頼まれたのだと分かった。ここへ案件の資料を広げ、どちらを優先するかを二人で決めたいのではない。
彼は、今日は何が多かったのかと尋ねた。
透花は、人の返事を待つ時間と、自分が返す時間が重なった、と答えた。
「片方へ返事をしているとき、もう片方のことを考えてしまって。今、目の前にある話へ戻るのに、少し、力が要ったので」
佳孝は自分の午前を思い出した。
田辺への返事を作る途中で別の確認が来て、戻った後、どこまで書いたか読み直した。自分の分なら一つだが、彼女は全体で同じことが起きる。
分かるところもある。全部同じだと言えるわけでもない。
彼はそのまま、返事を待っている間も、頭から離れないことはあります、と答えた。
透花は頷いた。
すぐに改善案を三つ並べなかったからか、その後の声は少しだけ気楽になった。
言いかけて、うまくまとまらない、と笑うこともあった。
「順番、まだ、決めていないので」
「今は、そのままで。俺、会議のメモは取っていませんから」
佳孝が言うと、彼女が小さく笑った。
「ええ。採点も、今夜は、しないでいただけると」
「俺が、黒瀬さんの採点を、ですか」
自分で口にして、少し可笑しくなった。
透花も笑い、仕事の順番ならあまり逆にならないわね、と答えた。
同じ相手でも、今、誰が話し、誰が聞くかは変えられる。
菓子へ手を伸ばすと、彼女は一つを半分に分けた。
割った端を見て、思ったより中が詰まっていたと話す。佳孝も自分の分を食べ、コーヒーと合いますね、と返した。
仕事の話は、そこで一度止まった。
続けて全部吐き出さなければならない夜でもなかった。
「ソファへ、移ってもよい?」
透花が尋ねた。
佳孝は頷き、机の端のカップを持つ。彼女も自分の分を運び、低いテーブルへ置いた。
毛布は背へ掛かっている。
彼女はそれをすぐ肩へ巻かず、まずクッションへ少し身体を預けた。
「今日は、足を少し伸ばしたいです」
言われ、佳孝は隣の空いた場所を示した。
自分は横の椅子へ座る。近すぎず、返事を聞くために声を張らなくてもよい距離だった。
透花は靴下の足先を揃え、ようやく背を落ち着けた。
「こういうお願いも、会社だと、出番がないわね」
「はい。会議で言われたら、椅子、増やすのかと思います」
彼女が笑った。
佳孝も笑い、今はそこへ何も付け足さなかった。
少し黙った後、透花が自分の手を見た。
「私が話すと、篠原くんには、後で何か気を使わせるかもしれないと思っていたの」
佳孝は顔を上げた。
彼女は続けた。
「部下へ、返事に困る話をしていないか、と。今も、少し、考えます」
彼はすぐには答えなかった。
相手が上司だから、何でも聞けると大きく言ってしまうのは、自分にもよくない。
今夜、聞きたかったのは本当だった。
「聞けない日なら、そう言いたいです。でも、今日は、聞きたいと思って、座っています」
佳孝は答えた。
透花は少し黙り、その後、頷いた。
「では、私も、今日、何をしてほしいか、先に言うようにします」
彼は、はい、と返した。
時計が八時へ近づくと、透花が姿勢を戻した。
言うと決めていた時間を全部使い切ったわけではないが、もう帰れる顔になっていた。
佳孝はカップを受け取り、台所へ運ぶ。
彼女は鞄を持つ前に、先週話した料理の日のことを尋ねた。
「来月、二つめの土曜なら、私は、今のところ空いています。篠原くんは」
彼は手帳を見た。
自分も、その日は予定を入れていない。時間を長く取りすぎず、夕飯を一緒に作るくらいならと答えた。
作りたい物は、次までに一つずつ挙げることにする。
「甘口のカレーは、もう、知っているので」
透花が言った。
佳孝は笑い、では別の物を考えます、と返した。
疲れた話をした後にも、次の楽しい予定を一つ作れた。
玄関で、彼女が自分の靴を揃えた。
「今日は、助かりました」
そう言われ、佳孝は少しだけ戸惑った。
声を聞き、菓子を食べ、同じ部屋へ座った。
透花は彼の顔を見て、少し笑った。
「ちゃんと、聞いてもらえたので」
彼はそこで、よかったです、と返した。
彼女が自分の部屋の鍵を開けるまで、玄関の前で見送る。
隣の扉が閉まると、佳孝も部屋へ戻り、二つのカップを並べて洗った。
黄色い方の底に、甘いコーヒーの香りが、少しだけ残っていた。




