第13話 偶然の買い物
岩崎が頼んだ料理は、佳孝のものより辛そうだった。
店員が皿を置くと、赤い色が先に目へ入った。岩崎は嬉しそうに箸を取り、佳孝は自分の前の、もう少し穏やかな色の皿を見た。
土曜、前から約束していた昼食だった。
店へ入った時刻は少し遅く、窓際の席も空いている。
「これ、一回食べてみたかったんだよ」
岩崎が言った。
佳孝も自分で選んだものを食べ、少しだけ辛いと分かった。自宅なら途中で飲み物を足す味だったが、今日はそれも楽しみで来ている。
二人でしばらく食べ、仕事の資料へは戻らず、最近見たものや、休みの日にしていたことを話した。
「来週、また少し遠くへ自転車で行こうと思って。雨なら、やめるけど」
岩崎の話を聞き、佳孝は、自分は家の棚を一つ動かすかもしれないと答えた。
空いた場所を増やしたいというより、毎朝使う物を取りやすくしたかった。
「動かした後、別のものが置きづらくなるやつだな」
「それは、ありそう」
二人で笑った。
昼食の後、岩崎は別の店へ寄り、佳孝は自宅へ戻ることにした。
どちらも一日中一緒にいる約束ではなかったので、駅の近くで別れる。
佳孝は帰る前に、近所の食品売場へ入った。
今夜と明日の分を少し買っておきたい。かごを持ち、野菜の棚の前で、使い切れる量を考えた。
大きい袋の方が安く見えるが、全部を同じ料理へ入れるつもりはない。
迷っていると、横から聞き慣れた声がした。
「それ、一袋、全部、今日?」
振り向くと、透花がいた。
薄い色のシャツと、会社では見ない小さな鞄。手には、自分のかごを持っている。
佳孝は少し目を丸くした後、挨拶した。
「こんにちは。部長も、買い物ですか」
近くの人が一瞬こちらを見た。
透花が口元を緩める。
「ここで、部長と呼ばれると、少し、売場の担当みたいね」
「あ、すみません。いつもの調子で」
佳孝も笑った。
彼女は自分のかごを持ち直し、会社の外なら黒瀬でよいと話した。
彼は一度頷き、言い直す。
「黒瀬さんも、これから、夕飯を?」
彼女はすぐに返事をし、その後、少し笑った。
「はい。今日は、家で、簡単なものを。篠原くんは、その袋を見て、ずっと考えていたでしょう」
佳孝は手に持っていた野菜を見た。
自分が迷う間、彼女は隣の棚で卵を選んでいたらしい。どこから見られていたのか分からず、少し照れた。
「今日だけじゃなくて、明日も使うつもりでした。でも、二日でも少し多いかと」
「何を作る予定?」
「今夜は、炒める方で。明日は、まだ」
透花は頷いた。
それなら袋を全部使う料理を先に決めるか、小さい方にするかだろうと言い、彼の選ぶのを待った。
自分の正解をかごへ入れさせようとはしない。
佳孝は小さい袋を選んだ。
「今日は、これにします。明日、また、違う物を食べたくなるかもしれないので」
「ええ。私も、その選び方が多いわ」
透花のかごには、一人分に分けやすそうな食品がいくつか入っていた。
彼女は今日は包丁をあまり使わずに済ませたいと話した。
「自分の部屋へ戻ってから、思ったより、箱を触っていて。今日は、もう、少し休みたいので」
佳孝は頷いた。
自分は昼に岩崎と会っていたと話す。透花は、ああ、よく二人で話しているものね、と少し笑った。
仕事以外でも会っていると知り、何を頼んだのか聞く。
赤い料理の話をすると、彼女は迷わず、自分は別の物を選ぶと答えた。
「食べずに、分かるんですか」
「その説明なら、私には十分よ」
佳孝は笑った。
透花も笑い、今度、その店へ行く機会があれば、甘い方もあるかを見ておいてほしいと言った。
彼は頷いた。まだ誰と行くかまで決めた言葉ではないが、彼女が食べられる味を思い浮かべるのは、少し楽しかった。
二人で、別の棚へ移った。
パンの売場に、小さい袋が一つ残っていた。透花が先に手を伸ばしかけ、佳孝も目を留める。
「それ、好きなんですか」
彼が聞くと、彼女は頷いた。
二個入りなので、明日の朝にも一つ食べるつもりだという。
佳孝も同じ種類を何度か買ったことがあった。
「では、私が全部買わずに、半分にする?」
透花が尋ねた。
彼は少し迷い、今日は別の物も選びたかったので、そのまま買ってくださいと答えた。
彼女は、では、と自分のかごへ入れる。
佳孝は別のパンを一つ選んだ。
レジへ並ぶ前、二人は一度、それぞれの買い忘れを確かめた。
透花は卵の横へもう一品足し、佳孝は台所で切れかけていたものを思い出した。
彼が短く取りに戻る間、彼女は売場の端で待っていた。
「すみません。俺、メモ、見たつもりだったんですけど」
戻ると、透花が少し笑った。
「家で足りない物は、家にいるときにしか、思い出せないこともあるものね」
彼女も自宅へ戻った後、結局、別の日に買い足した物があったらしい。
会社の予定を決めるときのように、一度の買い物で全部揃える顔はしていなかった。
会計はそれぞれ済ませた。
佳孝が品物を袋へ入れていると、透花は自分のかごから先に重い物を出し、底へ置いていた。
彼はつい同じように入れ直し、彼女に気づかれて少し笑った。
「卵だけ、最後の方が、よいと思う」
「はい。今、そうします」
仕事の指示へ返すように言ってしまい、二人でまた笑った。
佳孝は卵を上へ置き、袋を持つ。軽すぎず、重すぎず、自分で選んだ量だった。
店の外へ出ると、夕方の風が少し涼しかった。
二人の帰る方向は同じだ。いつもの駅からの道とは違い、食品の袋を持って横へ並ぶ。
透花が今日、友人と短く会ってきたと話した。
その後で買い物をし、夜は自分の部屋で休む。彼女にも、会社へ来ない日の一日があった。
「そのシャツ、会社では、見たことがないですね」
佳孝は口にしてから、少しだけ言い方を迷った。
似合っていると続ければよかったのか、見た物をそのまま話せばよかったのか。
透花は自分の袖へ目を向け、休みの日によく着るものだと答えた。
「仕事のときは、もう少し、違うものを選ぶので」
「ああ。今日は、少し、雰囲気が違うなと」
「篠原くんも。買い物の袋を持っている方が、会社の鞄より気楽そうね」
佳孝は笑った。
それは、たしかに違う。資料の入った鞄を持っているとき、何を確認したかを途中まで考えていることが多かった。
今日は、隣の人がどんな夕飯を作るかが気になっていた。
集合住宅へ着き、彼が入口の扉を押さえると、透花は先に通って礼を言った。
エレベーターの中で、来週のコーヒーの予定を確かめる。
水曜の七時半。今のところ、どちらも変わっていない。
「今度は、何も、借りに行く用事がないので。少し、変な感じがします」
透花が言った。
佳孝は、俺もです、と答えた。
だが、約束をなくしたいという意味ではなかった。彼女も同じように笑っている。
七階へ着くと、二人はそれぞれの扉の前へ分かれた。
透花が鍵を出す前に、こちらを向く。
「あの、篠原くん。もし、また休みが合う日があったら、料理も、一緒にしてみたいです」
彼は顔を上げた。
彼女はかごから移した袋を少し持ち直す。
「金曜は、ある物で急いで作ったので。今度は、先に、二人で食べたい物を選んで」
佳孝は頷いた。
「はい。俺も、やってみたいです。甘口だけじゃなくて、ほかの物も」
「ええ。篠原くんが好きな味も、知りたいので」
透花は少し笑った。
今、そのまま彼女の部屋へ入っていく約束ではない。これから空いた日を見て、一緒に作る物を選ぶ話だった。
佳孝は、水曜に予定も見てみましょうと答えた。
自室へ入り、買ってきた物を台所へ並べた。
小さい方を選んだ野菜と、自分で選んだパンがある。
彼女と全部同じ物を買ったわけではないのに、帰り道は思ったより楽しかった。
佳孝は私用の連絡先を開き、表示の名前を一度見た。
黒瀬部長。
今日は、売場の前で、黒瀬さんと呼んだ。
彼は役職を外し、名字だけの表示へ直した。
水曜に会ったとき、声でも、すぐ言えるかは分からなかった。




