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鬼上司が、俺の家では甘えん坊になる  作者: 雨宮 弦


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19/19

第19話 帰りたい場所

『今日、遅くなります。料理、別の日にしてもいいですか』


 八月半ばの土曜、佳孝は会社の給湯室で、その文を送った。

 六時半に帰って、一緒に餃子を作る約束だった。皮は昨日買った。透花は、包む方を任せてほしいと言っていた。

 午後、導入先の一店から、使える棚が変更になったと連絡が来た。営業が先方と話す間、佳孝は既に揃えた数量との違いを確かめることになった。透花には業務の経路で報告を入れてある。今送ったのは、それとは別の連絡だった。


『分かりました。こちらは大丈夫です。お仕事、お疲れさまです』


 佳孝は、すみません、と打った。

 その後に、俺も気にしていませんから、と続けかけて消す。何を気にしていないのか、自分でも分からなかった。

 飲み残したコーヒーを捨て、給湯室を出た。


 帰宅したのは、八時を回ってからだった。

 玄関を開けても、台所の明かりはついていない。冷蔵庫を開けると、餃子の皮と、買っておいた挽き肉が並んでいた。

 二人で包めば早いと思って、大きい方の袋にしたのだった。

 手を洗ってから、挽き肉を冷凍する。キャベツは半分だけ切った。いつもの炒め物にすると、用意していた小皿が二枚、台の端に残った。

 片方を棚へ戻す。

 携帯電話に、透花から連絡が来ていた。


『私、楽しみにしていたので、残念です。また日を決めたいです』


 佳孝は、その文を二度読んだ。

 返信欄に、こちらこそ申し訳ありません、と打つ。消して、台所へ目をやった。


『俺も残念です。皮、二人で包むつもりで、大きい袋にしました』


 送ってから椅子に座ると、すぐに返事が来た。


『私も、服に匂いがついてもいいように、着替えて待っていました』


 佳孝は少し笑い、そのまま、笑ったことを送ろうとしてやめた。


『明日、夕方なら空いています。料理は改めて、今日は何も用意しないで、話だけでも』


 今日は、を明日に直して送った。

 透花からは、四時なら、と返ってきた。

 佳孝は予定に書き込み、冷めかけた炒め物を食べた。


 翌日の午後、近所を歩いていて、佳孝は足を止めた。

 看板の動物が、何なのか分からなかった。

 佳孝は店の前で少し止まり、横へ回って見た。丸い顔に、短い耳らしい物が二つある。

 たぬきか、猫か。

 あの夜のテレビと同じ所で迷っていることに気づき、彼は一人で少し笑った。


 前の週に訂正した仕事は、確認の取れた予定を田辺へ渡し終えていた。昨日の数量の確認も、業務の共有先に報告してある。

 今日は、四時までは自分の時間だった。家で食事をしてから、いつもと少し違う道を歩いていた。


 店は小さなパン屋だった。

 中へ入り、一つだけ買う。形が気になったパンではなく、自分が今、食べたいと思ったものを選んだ。

 会計の後、外の看板は何の動物なのか聞いてみると、店員は犬です、と答えた。

 佳孝は少し目を丸くし、礼を言った。

 どちらの候補も外していた。


 外へ出て、邪魔にならない所から看板の写真を一枚撮った。

 そのまま私用の画面を開き、透花の名前へ指を置く。

 仕事の連絡ではない。今、困っていることもない。

 ただ、彼女がこれを見たら、何と答えるだろうと思った。


『こちらも、名前を外しました。店の方に聞いたら、犬でした』


 写真と一緒に送ると、少し後に返事が来た。


『私は、たぬきかと思いました。前の番組の答えが、残っていたのかもしれません』


 佳孝は笑った。

 それから、自分も同じ候補だったと返す。道を歩きながら画面を見続けず、日陰の端で少し止まった。

 もう一つ文が来た。


『今日は、お出かけですか』


 彼は近所を歩いているだけだと答えた。

 透花も今日は、自宅で本を読み、片づけを少ししていたらしい。特別な遠出の報告ではなかった。

 佳孝はその文を読み、四時に話すことが一つできたと思った。


『看板の話、後で聞いてください。四時、お待ちしています』


『はい。楽しみにしています。今日は、着替えずに行きますね』


 彼は画面を見て笑った。料理の代わりに会う三十分に、何を出すかばかり考えていたのが、少し可笑しくなった。

 彼は画面をしまい、買ったパンを持ち直した。


 帰り道は、さっきより少し歩きやすかった。

 汗をかく暑さは同じで、店の看板も、もう答えを知った後だった。四時までに、もう一つくらい話すことを見つけたくなった。道端の小さなものが一つずつ目に入る。

 次々写真を撮って送り続けるのではなく、一つは、自分で覚えて帰った。


 帰宅し、先に買ってきたパンを少し食べた。

 一個は自分が食べるつもりで買ったものだ。

 佳孝は別に家にあった小さな菓子を皿へ出し、飲み物を冷やした。


 四時になると、透花が来た。

 柔らかい色の服と、普段より軽い鞄。今日は出勤の前でも、退勤の後でもない。

 佳孝は玄関を開け、こんにちは、と言った。

 彼女も返し、その後で少し笑った。


「先ほどから、文では話しているのに、会うと、もう一度、挨拶するのね」


「はい。顔を見ては、まだだったので」


 佳孝も笑った。

 部屋へ入ると、透花は食卓の方を見て、今日はそちらへ、と自分で選んだ。ソファで休みたいと頼む日ばかりではないらしい。

 彼は冷たい麦茶を二つ出した。


 看板の話を、もう一度した。

 写真の耳だと思った所を、画面へ指で示す。透花も、自分ならここを模様と思ったと話した。

 佳孝が画面を机の真ん中へ置くと、彼女も少し顔を近づけた。同じ所を指そうとして、二人の指先が近くなる。

 彼は一度手を戻し、こちら、と言葉で示した。

 透花の声が、向かいの椅子からより近く聞こえた。横を見れば顔も近そうで、佳孝は画面へ目を戻したまま、次の返事を待った。

 店員へ答えを聞いた後でも、二人で見ると、まだ別のものへ見える。


「次から、最初に犬と思って見たら、犬に見えるのかしら」


 彼女が言った。

 佳孝は、もう少し後で試してみたいですね、と答えた。

 今、答えが出ないことを、次の仕事までに片づけなくてもよい話だった。


 透花が自宅で読んでいた本のことも聞いた。

 休日に何度か読み返す、短い話の集まりだという。初めて読んだ頃と、今では笑う所が少し違うらしい。

 佳孝は、自分も同じ番組を見返して、前は気にしなかった人の一言が面白くなることがあると返した。

 どちらが正しい読み方かを決めずに、違った所を話せた。


 机の上の菓子へ手を伸ばし、透花が一つ選んだ。

 今日は、自分も昼を家で食べていたと話す。冷たい麺へ何を載せるか迷い、結局、冷蔵庫にあった物を少しずつ使ったらしい。


「味が、最初に考えていたものと、少し変わりました」


「美味しかったですか」


「ええ。次も同じになるかは、分からないけれど」


 佳孝は笑った。

 レシピどおりへ戻さなくてもよい物と、条件を揃えなければ相手が困る仕事の話は、今日は混ぜずに済んだ。


 少し間ができると、透花がカップへ手を添えた。


「今日、会えて嬉しいです。昨日、残念だって送るのは、少し迷いました」


 彼は顔を上げた。

 透花は机の上を見てから、続けた。


「早く帰ってきてほしい、という催促に読めたら困ると思って。でも、平気だとだけ返すのも、違う気がして」


 佳孝は頷いた。

 噂のことも、自分が仕事で確かめずに進めたことも、なくなったわけではない。彼女が今、それを考えずに来たとは思わなかった。


「俺、平気だって返しかけました。帰ってから、二枚出した皿を見て、無理だなって」


 彼は答えた。

 透花がこちらを見る。


「今日は、餃子がなくても会いたかったです。看板の話を、誰かに送りたくなったときも、黒瀬さんだったので」


 言い終えてから、少し照れた。

 彼女はそれを急いで軽い話へ戻さず、一度、はっきり頷いた。


「私も、今日、ここで、仕事ではない話をしたかったです」


 佳孝は、はい、と返した。

 何かを直してあげられるから会いたいのではなかった。今日の彼女は、困って助けを求めている顔ではない。

 自分で読んだ本の話をし、菓子を選び、看板の形で笑っている。

 その人と、もう少し一緒にいたかった。


 時計を見て、二人とも、そろそろ決めた時間だと気づいた。

 透花は今日、この後にも自分でしておきたいことがあるという。佳孝も夕飯の支度は、まだしていなかった。

 彼はカップを片づけるために立ち、彼女も鞄を持った。


「今日の看板、後で、また、見直してしまいそうです」


 透花が言った。

 佳孝は笑い、答えを忘れないうちは犬のはずです、と返した。

 彼女も笑った。


 玄関で別れるとき、彼は、また話しましょう、と言った。

 透花が頷き、また、と返した。


「餃子も、忘れていませんから」


「皮、冷凍してあります」


「では、私が包む分、残してください」


 佳孝は、はい、と答えた。


 扉を閉めてから、佳孝は空いた食卓を見た。

 ソファも毛布も、いつもと同じだった。

 今日、戻ってから話したかった相手が、ここへ来てくれた。

 彼は机の端へ自分のカップだけを残し、少しだけ、まだ温かい夕方の光を見ていた。

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