9.咲月
「夕飯まで、食べていったら?」
その言葉に、跡部璃絵が更に面食らったのは、空がうっすらと橙になり始めた頃のことだった。
縁側から見える庭の向こうでは、夕風に星ヶ嶺の木立がさざめき始めていた。
画廊の真ん中、畳の上に腰を下ろしてただぼうっとしていた璃絵は、屋敷の主にそう声をかけられて、飛び上がったのだった。
縁側に佇んで、ふっと笑みを浮かべるのは、最早璃絵が尊敬して已まない一人の女性である。
橙色に仄かに染まり始めた光。その光を背中にして、逆光の中で、早花咲月は微笑んでいた。
璃絵は呆然としていた。
でも、幾らなんでも、と言う言葉が、流石に口をついて出た。
「…あの、でも、こんなに甘えてしまって」
「一人暮らしと聞いたわ」
自活しているのでしょう?と咲月は相変わらずの包容力のある微笑みだった。
「予定がなければ、少し年上に甘えておきなさいな?」
「…」
しかし、そう言われてしまっては、璃絵は最早何も言えない。
咲月はさらに先手を打つように、扇子を広げて、顔の下半分を覆い、笑う。同性のはずの璃絵でさえ、思わずぞくぞくするほどの、色っぽい仕草だった。色っぽさと、上品さが見事に調和した、大人の微笑みだった。
―――自分には逆立ちしたって真似は出来ない。
「ごめんなさいより、ありがとうを言いなさい」
そう言われて、璃絵は、紡ぐべき言葉を、出すべき言葉を、改める。つくづくに―――目の前が、大人なのだと、そればかりを璃絵は思い知っていた。
だから、素直だった。
ひねくれる選択肢を持たなかった。
「…ありがとうございます。ご馳走に、なります」
「うん、よろしい」
満足したような微笑みは、どこか子供っぽくもあった。先程の艶やかさは消えている。子供な表情と、大人な表情が切り替わる、不思議な女性―――それが早花咲月でもあった。
咲月は頷き、
「夕飯になったら、呼ぶわ」
「はい、先生」
「改めてだけれど、ただのアマチュアだから、先生と呼ばれるのは、少しくすぐったくもあるけれど…」
でも、悪くはないのかもね、と咲月は笑って、再び隣室へ姿を消した。
夕食となったのは、それから一時間も経ってからのことである。
あらかじめ璃絵のぶんが増える程度―――悟もメイも、そればかりか銀河も、予想済である。
全く狼狽えることも、夕食の準備が滞ることもなかった。
それが、氷川屋敷なのである。
人は少ないけれども、そんな勤め先であること―――ここが、仮にではあるけれど、己の居場所であることに、銀河は素直に感謝している。
夕飯の担当はメイさんである。
銀河が台所に顔を出すと、既にシチューとバゲットをメインとする暖かな夕食が湯気を上げていて、悟が盛り付けを手伝っていた。
「今日はシチューですか、メイさん」
「はい。お昼、お嬢様がオムライスでしたので、夕食も洋食にしてみました」
メイド服の裾をひらりと翻しながら、明るい笑顔のメイさんである。いつもの笑顔に、銀河の頬も緩む。彼女が怒った顔を、銀河は一度も見たことがない。
悟が一匙スプーンでつまみ食いをしながら、「なかなかイケますぞ」と親指を立ててのGJサイン。
メイが苦笑して、
「しかしお嬢様の腕前に及ぶかどうか…」
「お嬢様は喫茶店の洋食でありましょう?ビーフシチューやオムライスは得手でも、シチューとなるとどうでしょうかな」
「シチューは余り自信はないわね」
だがそんな声に、誰もの視線が台所の入り口に。
屋敷の主が、静かな佇まいであった。
いつものことながら、メイも悟も銀河も、その気配に一切気が付けない。隠密の極致のような動きだった。
銀河思うに、気配の断ち方は悟さんも相当だが、咲月さんはそれ以上である。
「何度か食べているけれど、メイのシチューは良い出来よ」
「あ、ありがとうございますお嬢様」
少しテンパりながらも御礼のメイである。慌てての一礼だが、決して何かをひっくり返したり、おたまでシチューを撥ねたりといったことはない。さすがのプロ根性である。
咲月は腕組みをしていた。
「さりとて、先程の悟の話だけれど、確かに私は喫茶店の洋食が得手ね」
「となると、やはりビーフシチューやオムライスですか」
「そうね。後は揚げ物かしら。カツレツやエビフライなんかも得意だけれど…」
ミックスフライ定食などだろう。いかにもな洋食になるほどと頷く一同。
いつの間にか咲月の背後には璃絵までやってきて、背中にひっつくように興味深げに話を聞いていた。
「あとは賄いでパスタなんかも作っていたわ。カルボナーラなんかは良く作っていたわね」
「ほう、パスタでありますか」
「あとはデザートかしら。ケーキ類ね」
あとは、そうね、と一つ考え込むような仕草の後で、
「シンプルだけれど、鶏の唐揚げなんかも散々研究したわ」
「お嬢様、なかなか王道を往かれますね」
「後で、気が向いたら、台所に立つわ」
その時は料理させて頂戴ね、と咲月の微笑み。「無論であります」と使用人三人唱和である。悟がいよいよ眼鏡を押し上げて、切れ長の瞳を光らせていた。
「しかしここまでお嬢様が達人となると、我々一同気は抜けませぬぞ、精進あるのみですぞ」
「望むところです!」
「同じく」
ガッツポーズのメイと、静かに頷く銀河。
銀河は思う。
―――かつての屋敷で、叩き込まれた、執事用のスキル。
忌々しいスキルであった。
俺の意志で、身に着けたスキルでも、何でもない。
しかし―――それらで、何とか、このお屋敷の役に立てるのであれば―――いや、否。
俺には、今のところ、そのスキルしかないのだ。
俺が俺の意志で、スキルを選べる余地なんて、今まで、考えれば、欠片もありはしなかった。
―――ならばもう仕方がないと、忌々しいながらに、諦めて、割り切って、開き直るしかない。
俺のオリジナルの料理といえば、せいぜい屋敷のものを我流アレンジした味噌汁くらい。
今までの俺の中のレシピは、かつての屋敷のものだったが―――もうガンガン、この屋敷用のレシピにしてゆくしかない。そうすれば、俺の中でも、割り切りというか、きっと、何か、納得できるものもあるだろう。
何せ、俺が、好きで―――俺が望んで、ここの料理を学びたいと思ったのだから。
ここのレシピで、いいのだ。
お腹の鳴る音が響いた。
特大の音は、小柄な客人の腹から聞こえてきたものだった。
客人の顔が真っ赤になる。
少し可笑しそうな雰囲気が流れる中で、実際に笑ったのは、―――咲月だけだった。
だが、それは、からかうようなものでもなく、相変わらずの、早花咲月らしい―――優しげで、儚げで、それで包容力のある笑みだった。
我が子を見つめる、母親のような眼をしていた。
「ご飯にしましょう?配膳、私も手伝うわ」
「早速、承りますぞ」
悟さんがひょいひょいと大皿を両手ばかりか腕にも載せながら運んでゆく。居酒屋の姉ちゃんが下げる時にやることもあるが、それ以上に曲芸じみた仕草であった。
銀河も早速に手伝い始め、配膳を終える頃には、夕食の居間の席には、豪華な食事が並べられていた。
シチューとバゲットを中心に、コーンポタージュやサラダ、エビフライなんかも並べられている。
エビフライは特大サイズであった。
席に座りながら、悟が手を揉みながら上機嫌で、
「おお、メイ、奮発しましたな、エビフライ」
「はい、お客様もいらっしゃるので、大振りのものを調達して参りました」
胸に手を当ててちょっぴりドヤ顔。こういう仕草が憎めないのがメイさんだと銀河は思う。咲月も何も言わず、微笑んだまま席についていた。
璃絵は銀河と咲月の間の座布団である。
夕飯前からの、優しい雰囲気が、まだ続いている。
頂きますの挨拶もそこそこに、テレビもないながらに―――静かな賑わいを見せるのが、氷川屋敷の食卓であった。
「そう、一人暮らしして一年になるのね。当然ながら」
夕食の席。
璃絵に話しかける咲月は、まるで優しい母親のような横顔で、悟もメイもそれを微笑ましそうに見ている。
璃絵はもそもそと口を動かしながら、
「あの、星嶺にやってきて、それで、ずっと絵を…」
「家に居る間も描いているの?」
こくん、と璃絵は頷いていた。
「やれるだけは…描いておきたくて」
「そう」
打ち込めるというのは、いいことね、と咲月は微笑んでいるだけだった。不登校なのを聞いたにも関わらず、それを咎めるようなことも言わず、ただ優しい。
「学校には、居づらいこともあるでしょうね」
「…」
璃絵は少し逡巡したようだったが、頷いていた。銀河もさもありなんと思う。
あの日。璃絵が教室に御礼に来てくれた後、変な噂が流れていたことも知っている。好奇心からくる、下世話な噂。あんな噂の流れる教室には、それは居たくはないだろう。
そう、かつて、俺が、―――通っていた教室で、針の筵を敷いたような思いをしていたように。
だからこそ、糞喰らえだ、などと思ってしまうし、学校なんて行かなくていいのだと思っているが―――一応、高卒の肩書さえも持っていないと、この日本でどうにも動けないのは、どうやら事実であるらしい。
だから俺も咲月さんの好意に甘えている訳で。
だからこそ、璃絵もグダグダながら、なんとか美術室登校とかいう形で何とか通ってはいるのだろう。
「…でも、通う時も、いつも、美術室登校…」
「いいのよ、別にそれでも」
咲月はあっさりとそう言った。優しい眼は相変わらずであった。そのまま璃絵を見た眼を、銀河にも流す。それだけで銀河はびくりとするほどだった。それほどまでに優しい眼だった。
「私も、ろくに学校になんて、通っていないし」
「…そうなんですか?」
銀河は意外に思っていた。
この咲月さんこそ、学校で人気者っぽそうな感じはするのに―――。
だが、咲月さんは首を振った。
「一応籍を置いて、辛うじて出はしたけれど…。まあ、その頃から、働くのに必死だったわね」
「働く…」
働くのに必死。
咲月さんのイメージとは程遠い言葉だった。メイさんも悟さんも顔を見合わせているあたり、初耳の話ではあるのだろう。銀河は素直に興味深かった。
璃絵も先生の横顔を見つめていた。
「…嫌々ながら働いていた、というか、働かせられていたわね。私の意志とは、無関係に」
だが、その言葉に。
銀河は、再び、心臓に何かを突き立てられるような衝撃を受けて。
それは璃絵もまた、同様のようだった。
衝撃を受けた顔は、彼女もまた同様だった。
銀河は呆然としていた。
―――咲月さん。
貴女は―――。
「…それを救ってくれたのが、師匠だったんだけどね」
笑う。
儚げな笑顔だった。
「私の人生はそれからよ。師匠に拾って貰って、初めて好きなことが出来るようになった。修業も仕事も、その時から何もかも楽しくなって…。私の人生、学びは18からだったわ。絵の修行だって、それからだもの」
18…?
銀河も璃絵も愕然としていた。
璃絵が声を上げる。
「…先生、じゃあ、先生って…」
「18の頃まで、ろくに絵筆をとったことはなかったわ。まあスケッチくらいなら、15くらいからしていたけれど、本格的に習いだしたのは18…」
それまでは素人なのよ、と咲月は笑う。
「日本画に至っては二十歳越えてからよ。それから、猛烈に修行したわ。ひたすら、がむしゃらに」
まあ、楽しかったけれど、と語る咲月さんの横顔は、どうやら本音らしい笑みだった。
「料理もそうだし、コーヒーもそうだし、全部全部、18を超えてからね。だから、貴方達も、学びは―――早いに越したことはないけれど、今から、0で始めたって、別にいいと思うわよ。遅きに失する、なんてことはないはずだから。人生いつだって」
重い言葉だった。
実際、この人は、18超えてから―――この多芸な才能を開花させたに違いない人なのであろう。
真似出来る気はしないが―――しかし。
「諦めたら、おしまいだからね」
重ねられるように放たれる言葉が、胸の奥底まで沈んでゆく。
この人は、諦めることを由としなかった。
多分、俺と同じように―――多分璃絵も似たような何かを背負っていると分かった―――不自由な人生を、何者かに強いられていた人。
だけど、最終的に。
何をどうしたかは、サッパリ分からないけれど。
このお屋敷の主にまでなった。
恐らく、莫大な財産を秘めているのであろうとは分かる。悟さんから、「軽い資産運用と土地の貸与で十分食べていける」なんて話も聞いたことはあった。
―――そこまで成り上がったのだ。
それでありながら、それを誇示せず。
画家にだってなれるのかも知れないのに、それをせず、ただ山奥でこうやって過ごしている。
それが、早花咲月―――。
「璃絵ちゃん」
「は…!?」
「良かったら、また、ご飯、食べに来るかしら?」
また、絵を見せるついでに、都合の良い日があったら、連絡するけれど―――。
そんな言葉に、璃絵は、一も二もなく、頷いていた。顔が、真っ赤だった。
「は、はい…是非…!」
「その時は、お銀、連絡よろしくね」
「分かりました」
まあ、最初からこういう提案じみたものでもあるのだ。絵を見せるということから―――たぶん、そのまま飯を食う流れになるというだけ。銀河としても、是非もない。
メイがニコニコ笑って、
「わあ、腕によりをかけ甲斐がありますね♪」
「メイだけに手柄を取られてもかないませぬな。可愛いお客様ならば私も大歓迎ですぞ?」
「悟さんセクハラです!目がえっちです!」
「失敬な、まさかお嬢様のお客人に手を出すほど私も節操なしではないですぞ?」
「後でキンタマ握りつぶしておく?」
しかしふっと、下品―――というか直球な言葉と共に、背後に一瞬だけ漆黒の殺気を迸らせた、この屋敷の主。
その波動で居間が揺れたかと思うくらいであった。
悟が一瞬で子猿のように丸まってしょげかえってしまい、銀河は改めてこの屋敷の主の実力を思い知ったのであった。
主は、最後に、殺意の欠片も無かったかのような視線で、銀河を見て。
「お銀」
「何でしょう?」
「ご飯が終わったら、最後に、璃絵さんを送っていってあげなさい」
そう言った。




