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星の降る町  作者: 笹霜
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8.出逢い

一ヶ月前のことだった。


宮原銀河は、元々仕えていた屋敷を脱走した。


そう。


宮原銀河は、元々からして、執事見習いなのである。


執事となるべくして、育てられてきた。


しかし、執事と言えば聞こえはいいが、アレは単なる奴隷だ。銀河は今は、心の底からそう確信している。今仕えるお嬢様が、空前絶後のお嬢様だけに、銀河は尚更そう思う。


お嬢様の付き人を、させられていた。


俺の意志など、最初から関係がない。


学業も、それと引き換えに保証されているようなものだったし、―――もともと親無しの孤児院育ちの俺だ。


拾って貰って、ありがたいと思え、というのが、屋敷の―――いや、実家(仮)の姿勢だった。


実家―――俺を拾った家は、ある貴族の末裔の家に仕えるという、執事の家系であった。


俺が拾われたというのも、元々執事…というか、メイドとなる予定であった娘―――義妹―――が、超能力に目覚めてしまったかららしい。


そういう超能力とか、異能力というものがあるというのを、俺はその時初めて知った。


それで、義妹は、そちらの教育を受ける―――受けざるを得なくなり。


お家に仕える執事として、俺が選定されて、拾われた。


つまりは、代用品。


最初こそ、感謝したが―――しかし、あの親父とお袋を、敬う気持ちになれるかと言われたら、否。


俺はただの道具であった。


幼馴染である、あの令嬢の顔を思い出すだけで、今は腹が立つ。特に紅茶の淹れ方一つで、ひどく罵られたのは、今や―――トラウマに近い。


だからこそ、達人のようにコーヒーを淹れられる、今のお嬢様に、憧れの感情を抱いてしまう。


あの幼馴染は、自分では何一つ出来やしなかったのに。


それでも、お嬢様だったのだ。



―――しかし、今のお嬢様ときたら。



とんでもないという話ではない。



凄まじい画を描き、囀るように歌い、達人のようなコーヒーを淹れ、洋食をも仕上げ、資産を管理し、この氷川屋敷を統べている。


もっとも、この氷川屋敷は、かつて仕えていた屋敷に比べれば、人の規模ははるかに少ない。


かつての場所は、執事やメイドだけで十人はいたし、その他出入りの諸々を含めれば百名はいたろう。その上であの令嬢はふんぞり返っていた。さらにその上で、当主の親父がふんぞり返っていた。



―――悪夢のような生活だった。



殴る蹴るは普通だったし、俺は下っ端だった。そして下っ端でありながら下っ端がやるべきではない仕事を良くさせられていた。


お嬢様のお付きというのもそうである。


普通ならば熟達したメイドや執事がやるであろうところを、『学校にも同行出来るから』とかいう理由でさせられ、学校でもお付きをさせられていたのだ。


弁当の準備や、教科書の出し入れ、宿題のフォローまで。



―――同級生の視線が痛かった。



縁もない同級生から、奴隷扱いされるのは、常だったし、コキ使われることすらあった。


屈辱だった。


そして、あの令嬢に「ダメ執事だから」と嗤われたことも、一度や二度ではない。幼馴染のフォローしても、「私が出来ないとでも言うつもりなの!?」と理不尽に怒鳴られたことも数度ではない。かと言ってフォローしなければ、後で「恥をかいた」と殴られるのが、常なのだ。


愛想笑いで誤魔化していた。



―――ボロボロになる心を誤魔化して。



血を吹き流す心を限界まで抑えつけて。



いつも愛想笑いをしていたけれど。



心はいつも泣いていた。



でももう、限界だったのだ。




逃げ出した。




幼馴染の令嬢が別荘に、スキーをしに訪れた折、俺も当然同行した。


そして、スキーの最中で、逃げ出したのである。


ゲレンデを駆け下る中で、板を脱ぎ捨て、脱走した。懐に持ったのは財布だけだった。―――元々個人の持ち物なんて、許されていないような身分だったから、それでも痛くはなかった。


死ぬ気だった。


生きられる気はしなかった。


遭難上等だった。


滑落して死んでも良かった。


それなのに、どうしてだろうか―――何があったのだろうか、それこそが宿縁だと、咲月さんは言うのだろう。


雪山を丸一日彷徨った。


幸いにして、死ななかった。


だが、道も何もなく、目印もなく、目的地もない。ただ彷徨っているだけ。



―――疲れ果てた俺の目の前に、不意に広がったその風景は、今でも忘れられない。



春の朝の陽射しの下、輝く湖があった。


残雪に覆われた山脈の中で、水面が青々と美しく輝いていた。全てを呑み込み受け入れるかのような青だった。



そして、俺の耳に、歌声が聴こえてきたのである。




その歌声を、一生俺は忘れることは出来ないだろう。




「また逢おうねと手を振る風


舞い散る涙は切なく冷たく


雪の翼は果てなく白く


冬の終わりを告げていく――――♪」





―――そう、それはまさしく、冬の終わりを告げる歌だった。


鈴が鳴るかのような美しい歌声が、俺の耳に聞こえてきたのである。


道も何もない湖畔で、一人の女性が歌っていた。


アカペラだった。


アカペラなのに、広々とした湖でなのに、蒼の水面に沈み込んでいきそうなほどに、響いていた。


一人で奏でられる、交響楽のようだった。


一人しかいないのに、―――そして一人だからこそ、輝き渡る旋律だった。歌声が白銀の糸となり、紡がれて、布となって、春の日の中に溶けてゆくのである。


誰にも邪魔は出来ない―――させることは出来ない、許されない、祈りの歌だった。


女性は、羽織袴姿だった。


淡い橙の羽織に、濃緑の袴で、桜色のマフラーが、冷たい春風に靡いていた。


歌が終わると同時に、視線が交わった。


明るい茶髪をポニーテールにした、まだ二十後半になるかならないかというくらいの、若い美人さんだった。たおやかな微笑が、春の朝の中で、一際に鮮やかだった。雪の中に顔を出した、一輪の花のように、可憐で力強かった。



―――それが、早花咲月さんなのである。



湖の畔には、野湯が湧いていた。


彼女は、俺に湯に入るように勧めると、そのままこの三郷湖の謂れを語ってくれた。



―――ここには、美しい温泉郷があったのだという。



しかし既にダム湖に沈んで久しく、既にもうその面影を想い慕う人も居ない。この湖畔の湯に訪れるのも、山を分け入ってくるしか方法がなく、既に至難だという。


「私は、ボート漕いできたんだけどね」


咲月さんはそう言った。


「…私も、実は、この下に眠る温泉郷に…来たことはないの」


だが驚くべきことに、咲月さんはそう言った。朽ちた祠の前で、悲しげな彼女に、俺は湯に入りながら、何もかける声を持たなかった。


「…でも、私の愛した人が…心の底から愛した人が、ここの出身で、ここにお墓があるから」


今日はその、命日なのだという。


咲月さんの仰いだ視線の先、ちょっとした木立の高台の林の中。その中にある、小さな一つの墓が見えた。供えられたばかりの花が、鮮やかだった。


「お参りをするの。私の愛した人がここにいるから」


「…」


「ところで、どうして君はここに来たの?」


その質問に、俺は詳しくは応えなかった。


ただ、家出だと言った。


だが、それだけで咲月さんは微笑んで、


「…語りたくなったら、その時でいいわ。それまで、うちにでも来ないかしら」


宿無し文無しで、困ってるんでしょう?


咲月さんは、そう俺に声をかけてくれた。


「―――これも何かの縁だから。私の愛した人の命日に、そのお墓の前で、罰当たりなことは、出来ないから」


その儚げな横顔は、とても優しくて、それだけで、俺は、胸が締め上げられるかのような感情を抱いていた。




―――それからなのである。




俺がこの氷川屋敷に勤めるようになったのは。


執事の真似事が出来ると知るや、ならそうやって働けばいいんじゃないと提案され、そのままこうやって至っているのである。


俺の事情は何も聞かず。


ただ縁があるからと黙って受け入れてくれて。


ただ俺の居場所を、淡々と作ってくれて―――俺に、自然と、そうさせたい、働かせて欲しいと願わせてくれる人。


メイさんも、悟さんも、いい人で。


俺にとっては、何たる贅沢な毎日なのだろうとふと思う。



―――あの日、逃げ出したからこそ、今がある―――。



実家からの追っ手があるのではと密かに危惧をしているけれど、しかし、今は考えたくはない。―――迷惑になってしまうかもしれないと重々考えているけれど。


何せ、超能力を持った妹なんかがいるような家だ。


嗅ぎつかれてしまうかも知れないとは考えている。


甘えなのかも知れない。


しかしそれでも。


今は。



「私も、あのダムの下にあった光景は、この絵でしか知らないのよ」



そんな咲月さんの声に、俺はふと呼び戻される。


目の前で、早花咲月さんが、俺の今の主が儚げに笑っていた。椅子に深々と腰を下ろして、どこか懐かしむような口調だった。


「…あの絵を描いた師匠が、あの湖畔に眠っているわ」


「…そうだったんですか」


「そう。私がただ唯一愛した人で…私を愛してくれた、二人目の親で…神様ね」


しかし、いずれにせよ、咲月さんにとって、とても大切な人なのだろうと知れた。


春の陽射しに溶けそうな、儚げな笑みを浮かべていた。


「たった一度の、全力の恋だったけれど…。男としても愛していたし、兄や、父としても愛していたし、師としても尊敬してもいたわ…」


「…」


「そんな、師匠よ。私の憧れ…。あの絵は、その師匠が、生前最も大切にしていた、一枚の絵…」


儚げな横顔の笑み。


「私は、師匠を越えたくて、ひたすらにがむしゃらに頑張っているんだけれど、それでも駄目ね…。璃絵ちゃんにしろ、お銀にしろ、明らかに一番惹かれているのは、あの絵だもの」


「そんな、」


「いいのよ」


だが抗議しかける銀河を、やんわりと咲月は制した。柔らかい口調と微笑みだった。銀河は起こしかけた身を、再び椅子に下ろさざるを得なかった。


「あの師匠の絵は、あれに限らず、ある類の人の引き寄せる、魔力みたいなものがあるの…。私の絵とはまた違う…」


「ある類…?」


「故郷を持たぬ人に…安らげる場所を持たぬ人に、強烈な憧憬を思いこさせる、そんな絵よ」


ズグン、と心臓にナイフを突き立てられるような感触があった。



それは―――。



咲月さんの瞳がこちらを覗き込んでくる。


鮮やかな翠色を秘めた、深淵の瞳だった。


「お銀もそうなのよね?そうだと思っていたけれど、やはりそうなのよね…?」


「…そうだとは…?」


「根無し草」


咲月はそう言った。


「帰る場所を持たない人、帰るべき思い出すらも持たない、持てない人…」


「…!」


「家出してきたというくらいだから、そんなものではないかと思っていたけれど、そうなのよね。まあ、あの日、あそこで私と出逢うくらいだから、そうであるのよね」


当然かしら、と咲月は言った。陽炎のような笑み。


「帰るべき家も、故地も、思い出もなく。あの絵を見て、こんなところを故郷に出来たらいいのに、―――こんなところで過ごせたらいいのに、こんなところで過ごしたかった、そんな憧憬と羨望で、胸をいっぱいに締め上げられてしまう」


「…」


「どうして分かったのかと言わんばかりね、分かるわよ」


咲月はどこか悪戯っぽい笑みでもあった。


「…だって、私もそうだから」


「咲月さん」


「私、だから師匠の絵が大好きで、大ファンで、だから弟子入りしたのよ」


師匠もそうだった、と咲月は言った。憧れの歌手に憧れる少女のように、ただ遠くを見つめていた。


「未だに越えられないけれど、しかし、それでも、師匠の絵はだからこそ目標ね」


「…咲月さん…」


「だから、璃絵ちゃんも、お銀も、私の仲間で同志よ。あの絵で泣けるなら、同じものを持ってるって、―――私の師匠でさえ、その判断材料に使ってたくらいだし」


咲月は苦笑だった。


その時、初めて、銀河は、咲月が「合格」と言った意味を悟った。


泣いている俺を見て、「合格」と言ったのは、そういう意味だったのか―――。


「メイや悟はあの絵には惹かれない人だし、そういう意味では、共感者は、近くに居て欲しかったのが、私も本音ね」


「…そうなんですか」


「ええ。そういう、人を選ぶ絵なのよ、あれ」


だからこそ、架けるかは迷ったのだけど、と咲月さんは言った。銀河は首を振った。


あの絵を見て、泣いて。


何か、憑き物が落ちたかのような、そんな感触もしていたのだ。



―――久々に、泣くということをした気がする。



でも、泣くということを、久しく忘れていて―――泣いたことで、何かが落ちたような、そんな感触。


「お銀」


「はい」


「この氷川屋敷は、貴方の帰る場所よ」


咲月さんはそう言って微笑んでいた。


本日何度目かの、胸が締め上げられるような感情に、心が満たされる。


いいのだろうか。


俺が―――。


「私は、そう在りたいと、この氷川屋敷をそんな場所に出来ればいいなと、そう思っているわ」



―――ああ、俺もそう思いたいです。



それを口に出来ればどれほど良いのだろう。


でも、実家のことを考えると―――少しばかり剣呑な実家を考えると―――だからこそ、迷惑をかけられないと、そんなことも思ってしまう。


これほど良い人なのだから。


これほど優しい人なのだから。


こんな神様みたいな、女神様みたいなお嬢様に―――俺の何やかやで、迷惑をかけるのは、だからこそ、忍びない。


だから、俺は、曖昧に頷くことしか出来ない。


それが俺の精一杯―――。



「ふふっ」



咲月さんは微笑んでいた。その微笑みの意味するところは、俺には測りかねた。ただ、誤魔化すように、コーヒーの最後の一杯を口にした。




午後は過ぎてゆく。

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