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星の降る町  作者: 笹霜
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7.五月

GW直前の日になって、お達しがあった。



「5月3日、午前十時に門を開けること」



そして、一人の客を招き入れること。


そんなお達しであった。


直前になって、「5月3日10時なら」と銀河から連絡を受けた璃絵は二つ返事であった。


穏やかな五月の快晴の下である。


氷川屋敷前。バスから降りて来た璃絵はシャツの上から上掛けを一つ羽織っただけの素っ気ない姿だったが、降りるなりきょろきょろと忙しなかった。


出迎えた銀河がおかしくなるくらいだった。


「こっちだって跡部さん」


「わ、分かってる…」


バスの扉が閉じる。山の上に登ってゆく市内巡回バス。璃絵はどこか浮ついた眼で、口を開けている氷川屋敷の門を見ていた。


「本当に開いてる」


「何が?」


「門」


そう言って璃絵は屋敷の門を指さした。城門のように重厚な瓦葺の門は、今は閂も外されてしっかりと開いている。山の風が内から外、外から内へ吹き抜けていくのだった。


「初めて見た」


「そうなのか」


「大きなお屋敷だから、皆、興味があると思う」


山の上の氷川屋敷といえば、この星嶺では有名なのだろうというのは銀河も薄々分かっていることであった。


漆喰を塗った白壁を延々と張り巡らせた、広大な武家屋敷なのである。


ただ、入れるのは本当に極僅かな人だけなのだが。


「…先生はここにお住まい…」


「入れよ、咲月さんも多分待ってる」


「お邪魔します」


銀河に続いて、門を入りながら璃絵は一礼。



―――この氷川屋敷は、門を入ったからといって、すぐに玄関なんかではない。



屋敷の建物はすぐには見えない。


杉木立の中、見事に苔の生えた庭を抜ければ、巨大な青々とした池の畔に出て、その池の畔を歩いてゆくと、やがて屋敷が見えてくるのである。


鯉が泳ぐ池の畔で、一人のメイドさんが2人を待っていた。


銀河には御馴染みの顔である。


金の交じった茶髪の、完璧なクラシカルメイドスタイル。長い紺のロングスカートの裾を持ち上げて、「お待ちしておりました」と挨拶をした。


思わぬ出迎えに、璃絵が思わず面食らった顔であるが、メイド―――メイは何食わぬ笑顔である。


「跡部璃絵様、お待ち申し上げておりました♪」


「メイさんもお出迎えですか」


「玄関先でも良かったんですけど、ちょっと気になっちゃいまして」


珍しいお客様ですし、とメイは苦笑しながら、好奇心の瞳で璃絵を見つめる。小柄な璃絵は見下ろされる格好で、ちょっと居づらそうな顔をしていたが、


「え、えと」


「メイドのメイと申します。お困りのことありましたら、お申しつけくださいね」


ニッコリと笑顔。銀河は「早々困ることもないと思いますけどね」と半分呆れ顔であった。


「分かりませんよ?このお屋敷ですから、お手洗いの場所も分かりにくいですし」


「まあそれは確かに」


「お銀さんも、今日の仕事終えられたら、お嬢様の絵を見られてはいかがでしょう?」


メイはそう言った。


「先程から、悟さんが空き部屋にお嬢様の作品を並べていまして、まあ、即席ですが画廊にしているのですよ」


「ああ、だから朝、悟さんが見えなかったんですね」


「お嬢様の命ですからね」


朝飯の時、珍しく、悟さんが朝食の席にいなかったのである。珍しいこともあるものだと銀河は思っていたが―――そういうことか。


「でも折角並べたものですし、璃絵さんお一人でも…まあ悪くはないのでしょうが、お銀さんもこの機会ですし」


「宮原君は見たことないの?」


「俺は無い」


実はそういう機会もなくはなかったのだろうが―――今まで、ここのお嬢様の絵を拝見する、そんな機会はなかったのだ。


しかし、そういう機会となれば。


「…咲月さんが、良いと仰られるなら」


「何を今更仰いますか」


お銀さんなのに、とメイは苦笑だった。


だが、人前に余り作品を晒すことを好まない咲月さんだからこそ―――銀河は気を遣うし、遣いたいのである。そしてそれは、メイにも伝わっているらしい。


明るい笑顔だった。


「お嬢様も、それをお望みだと思いますよ」


「…そうですか?」


「お嬢様は、お銀さんを信頼されていますから。信頼している人には、見て貰いたいものだと、前、夕食をお持ちした折にお伺いしました」


お銀さんのことでしょうね、とメイは笑顔だった。ならば、と銀河の気持ちも固まる。


池の鯉が跳ねる。


巨大な武家屋敷の扉の前に、三人ともやってきていた。


その扉も開いていて、玄関先では、一人の漆黒の作務衣姿の男が出迎えてくれた。


忍者みたいなイメージの、眼鏡のイケメンさんである。


「おお、ようこそいらっしゃられました。お嬢様がお待ちでございますぞ」


ニコニコ笑いながらいつもの親指を立てる仕草。執事、猿山悟氏である。


メイが少し驚いたような顔で、


「悟さん、セッティングは終わったのですか?」


「万事滞りなく…というにはやや作品の選定に難渋していた御様子でしたがな」


お嬢様も迷われるのですな、と悟はだがしかし上機嫌そうである。


メイは、


「何だ、少し迷っておられるようでしたら、お待たせしているうちに、お茶菓子などをと考えて、昨日のうちに仕込みまでしておきましたのに…!」


「ぬはは。しかしその菓子を捨てる道理もあるまいて、ならば休憩の折にでも差し入れれば良いでしょうぞ」


「悟さん、どれくらい出したんですか?」


靴を脱ぎながら銀河。悟は頷き、


「分かりませぬが、空き部屋3つは軽く襖全部開けましたぞ」


「かなり並べたんじゃ…」


「お嬢様も相当の作品数を秘めておられる御様子ですからなあ」


それも一部に過ぎませんぞ、と悟。


「ああ、それと、一つお嬢様から伝言を賜っておりますゆえ伝えますぞお銀さん」


「何でしょう」


「今日は画廊でゆっくりした後に仕事に入って由とのことですぞ」


―――メイに言われたことを、そのまま公認の言葉で言われた形である。銀河は頷いていた。お嬢様の命とあらば異存はない銀河であった。


「裏山も一段落つきましたし、屋敷の掃除はやっておきますゆえ、たまには休まれると良いですぞ、お銀さん」


「いいんですか?」


「私やメイは頑健でしてな、しかしお銀さんも骨休めがないと辛いでしょう。折角の連休というに働きづめではそれもそれで興が無いというものではないですかな」


気遣い。銀河は少し迷った末に頷いていた。―――やはりここの、お嬢様の命ということもあって、頷くしかない銀河だった。


悟の先導で、屋敷の中に入る。


いつも使わぬ、空き部屋の区画―――というかこの屋敷は空き部屋ばかりなのだが―――その一つ、池の畔に面した何部屋かの襖が開け放たれ、広々とした空間と化していた。


その空間に、幾つものイーゼルやら椅子やら何やらが展開され、無数の額縁に入った作品が展示されている。


殆どが、日本画と、水墨画、そして書だった。


掛け軸にされ、床の間や壁に掛かっている日本画も多数だった。


縁側の障子も、全て開け放たれている。


壮観な眺めである。


五月の柔らかな日差しが、池の面に反射して、暖かな色で画廊を包んでいる。


緑の息吹に輝く山並みの風景も、外からの気温も、全てが調和して、美しい画廊を形作っていた。


並んだ画、それだけではない。


全てが並んで、調和して、一つの巨大な作品となっているかのようだった。


廊下から、それを眺めた瞬間、思わず息を呑むほどだった。


悟が「あれ?」と声を上げた。



「私、このように並べましたかな?」



「私が並べ直したわ」



しかし、不意打ち上等のその声に、悟が仰天せんばかりに飛びあがる。悟さんがこれほどビックリしたのを銀河は初めて見たが、銀河もメイも璃絵も揃って驚いていた。


いつの間にか、背後に、一人の女性が居た。


明るい茶髪のポニーテールの、美人さんである。


淡い橙の紋付羽織、下は濃緑の落ち着いた袴姿。紋付は揚羽蝶である。恐らく早花の家紋なのだろう。


明るいパッチリした瞳、色白の肌。余り背は高くはないし、メイさんより低いくらいだが、不思議な存在感がある。背が低いというイメージを全く抱いたことはなかった。


「おっ、おっ、お嬢様!?お嬢様、心臓に悪いですぞ!?」


「悟、貴方は少し私の気配にくらい気づきなさい。メイも」


「はっ、は…」


途端に冷や汗をダラダラ流しながら恐縮のメイと悟である。ちょっとでも咎められるような言葉を受けると、あっという間に委縮してしまう二人だし、銀河も二人のことは全く笑えない。ちょっと言われただけで、何故かキツい―――それが早花咲月さんであった。


そう。



早花咲月。



―――このお屋敷の主にして、俺の仕える最高のお嬢様。



俺も自然と腰を折っていた。


「咲月さん、俺は…」


「お銀の今日のお仕事は絵を見た後で…と思ったけど、今日は休暇よ。そう命令します」


手にした扇子を顎先に当てながら、静かな言葉。そうなると命令は絶対だ。俺は腰を折った。


「ありがとうございます」


「お銀にも私の絵を見せるのは初めてね。まあ、なくなるものでもないし、眺めて感想の一言でも貰えればそれで私は嬉しいから」


「はい」


そのようにします、と銀河は応えるしそう答える以外の選択肢を持たないし持つ気もない。ただそれだけだった。それだけで嬉しいのだった。


そしてお嬢様―――咲月は、特別に柔らかな笑みを、来訪者に向けた。


優しい、包容力のある、けれどもどこか儚さを同居させた、微笑みだった。


「…久しぶりね。あの時は、邪険にしてしまって、ごめんなさいね。跡部さん」


「いっ、いえ!先生にお会い出来て私は…!!」


途端に真っ赤な顔、しどろもどろになり始める璃絵を、咲月は少し微笑ましそうに見つめてから、


「でもこんな廊下の片隅で話しているのも何でしょう。メイ」


「はい、承りますお嬢様」


「即席画廊の隣に、まだ空き部屋がまだ一つあるはずでしょう。悟が一応掃除はしているはずだけれど、チェックした後に、お茶菓子を運んでおいて頂戴。悟は、椅子と机の準備を」


『承知いたしました』


揃った承知の声の後に掻き消えるように、すっ飛ぶようにして消える二つの顔。


銀河と璃絵に画廊に足を向けるよう促してから、咲月はどこか疲れたような、呆れたような顔だった。


「やっぱり、自分で並べないと、こういうのも、どうも冴えなくていけないわね」


「…あの、咲月さん」


「何?」


柔らかな微笑み。それを見るだけで心臓が跳ねあがる。銀河はそれでも冷静さを表にしながら口に出した。


「…あの、ここから見るだけでも、十分…」


「そう見えたかしら?なら、良かったのだけど」


調和がとれるように並べたかったの、と咲月が小さな声。銀河は同意の頷きだった。璃絵は既に顔を真っ赤にしている。


「あ、あの、先生、今日、これを、もしかして、準備…」


「そうね。貴女のために用意したわ」


くすくす、とどこかからかうような笑みだった。


「貸切よ。この間、邪険にしてしまった、そのお詫びとでも思ってくれれば、それでいいわ」


「そんな、先生にそこまで…!」


「いいのよ、趣味なのだから」


貴女にそこまで喜んで貰えたなら、それならそれで、良かったのでしょう、と咲月は言った。柔らかな微笑みだった。銀河も素直に脱帽するしかなかった。


咲月は縁側に立って、広大な、鯉の泳ぐ池を眺めながら、


「お銀も、ここ数日、夕食の席に顔を出せずに悪かったわね」


「いえ、咲月さんも制作が…」


「私は一段落ついたわ。だからこうやってお客様をお招きしている訳だし」


私も今日はお休みよ、と咲月は微笑んだ。振り返って微笑むその顔が、逆光なのに輝いて見えた。


「とりあえず私は、自分の作品を眺めているのも何だし、隣の部屋に居るわね。悟がもう椅子くらいは準備しているでしょう。二人はゆっくり眺めてから来てくれていいわ。それからお昼にしましょう」


「お昼…?」


「ささやかだけれど、今日は私が作ろうと思うの」


お銀やメイに及ぶかは分からないけどね、と咲月。「それくらいなら俺が作ります」と喉元まで出かかった言葉を銀河は呑み込んだ。


休暇というのは咲月さんからの好意であり命令だ。それを反故にしたくはない―――。


お嬢様の腕前は未知数だが、銀河はただ頷いた。


そして去り際に咲月は一言、


「ああ、お銀」


「はい」


「明日夜から、和食の時は、お味噌汁当番をよろしく頼むわね」


「かしこまりました」


得意料理への全幅の信頼と、最大の褒め言葉を受け取って、銀河はただ礼をした。それだけだった。


咲月が去った後に、ただ銀河と璃絵が残される。


池で鯉が跳ねる音、遠くで風に林がさざめく音。それだけが聞こえる、五月の氷川屋敷、縁側の即席画廊。


璃絵は早速、星空に沈む樹林を描いた作品の前で腰を下ろしてしまっていて、ただそれを食い入るように見つめていた。声をかけられる雰囲気ではなかった。ただ食い入るように絵を見ている。


銀河はふらふらとあちこらこちらの絵を眺めていた。


凄まじいとしか言いようがない出来の作品ばかりであった。


パワフル―――質感を持った画ばかりであった。


明らかに絵であるのに、描いた人物―――咲月さん―――が、『何を描きたかったのか』というのが伝わってくる。その情景が伝わってくるのである。


滝の絵があった。


くすんだ黄昏の中に、流れ落ちる、鮮やかな白い水の束。流れ。


それだけの絵なのに、滝壺に落ちる水の音さえも脳裏に木霊してくるような。


そんな画だった。


音が聞こえる絵だった。


音が聞こえる絵なんて―――見たコトは初めてだった。色々な美術展とかに、前の職場の関係で、行ったことはあったけれども―――こんな絵を見たのは初めてだった。


それとも、この画廊の雰囲気が、そうさせるのだろうか。


それともこの画の力か。


それともすべてか。


銀河は、やがて、一つの絵の前で立ち止まった。


今までは、全て日本画や水墨画であったが、これだけは、ただ一つ、油彩であった。


一抱えもありそうなキャンバスに描かれた、一つの絵。


銀雪に包まれた、温泉郷の絵だった。


瞬間、それだけで、何かが理解(わか)った気がした。



―――ここは、もう亡い場所だ。



白銀の谷間に、湯気を上げる温泉郷。黒い谷川の流れ。煙った山脈。高台から見下ろされたらしい風景の中に、感情の炎が宿っている。



―――帰りたい。



その思いと。



―――懐かしい。



その思いと。



―――こんな場所に居れたらいいのに、入れたらいいのに―――



そんな風に願ってしまう、他ならぬ、自分自身の、生々しすぎる、唐突な思いと。


全てが入り混じった、情念の宿った、一枚の油彩画。



―――どうしてここを懐かしいと思うのだろうか。



一度も行ったことがないはずの景色なのに、どうしてこの場所を、懐かしい、故郷だと思ってしまうのか。



こんな場所が故郷だったら、俺は―――俺は。



俺は―――。




「合格」



静かな声に、ふっと振り向いた。


咲月さんが居た。ただ、いつの間にか視界がぐしゃぐしゃになっていて、泣いているのだと気づくのにそれほど時間はかからなかった。


ただ、咲月さんは、唇の端に、小さな笑みを浮かべていた。


「とりあえず、隣の部屋に行きましょう。いつまでもその絵を見ていたい気持ちは、痛いほど分かるけれど、顔が台無しよ」


「…俺は」


「まあ、見ていてもいいのだけれどね」


私も、いつまでも見ていたいくらいだし、と咲月さんは言ってから、部屋を後にした。


結局俺は―――暫く部屋にそのままだった。


俺の隣で、跡部璃絵も、やはり食い入るようにその絵を眺めていて―――やっぱり泣いている、そのことに気づいたのは、お昼に呼ばれてからだった。


画廊の隣の部屋では、咲月さんと悟さん、そしてメイさんが待っていた。


和室ではあるが、アンティークな机とふかふかの椅子が出されて、ちょっとした和洋折衷の空間であった。


机の上には飾りのカンテラと、湯気を上げているオムライス5つ。


着席した俺達を待っていたかのように、メイさんが主を伺って、


「し、しかし、お嬢様、お嬢様にお料理を作って頂くなんて…」


「いいのよ、たまには作らせて頂戴。貴方達にも迷惑をかけているし」


「き、恐縮であります」


言ったのは悟。「美味しそう」と洩らしたのは璃絵で、咲月は苦笑していた。


「久々だから、上手く出来ているかは分からないけど、食べて頂戴ね」


「あのォ、お嬢様…」


メイがオムライスにスプーンを突き刺しながら絶句していた。


何せ、このオムライス、スプーンを突き刺すなり中から半熟卵がトロリである。こんなの絶対不味い訳がないという訳である。


以前、「お嬢様は料理が結構うまい」と二人から聞いていた銀河も、これには思わず唸るしかない。


「頂きます、咲月さん」


「頂きます先生」


「うん、どうぞ召し上がれ」


ニコリと微笑まれる。


すくったスプーンからは―――洋食屋さんの、昔懐かしいオムライスの味がした。


悟もスプーンを口に運びながら、


「…以前お嬢様の料理を振る舞って頂いたこともありましたが、今回はまた格別ですな…」


「お嬢様、これ洋食屋さんの味ですが、どこかで修業をなされたのですか…?」


自分の仕事がないとばかりに涙目のメイ。それはそうだろう、主人より不味い料理はメイとしても作りたくはあるまい。


咲月は少し微笑んでから、


「…喫茶店で昔、バイトしていたのよ」


「喫茶店でありますか」


「そう。コーヒーの淹れ方も、オムライスも、…というか洋食やデザートはそこの直伝ね」


ソコソコに修業はしたわ、と咲月。「お見事でありますぞお嬢様」と悟。璃絵はムシャムシャとひたすらにオムライスを平らげていた。顔に美味しいと書いてあるようなものである。


銀河は、主が「街中の喫茶店が嫌い」だと聞いた話を思い出していた。


昔喫茶店で修業していたというのならば、その事情が絡んでいるのかも知れない。


「食後にはコーヒーを淹れるわ」


「僥倖であります」


悟の本音の声。璃絵の顔が輝いていた。咲月はくすくすと微笑んで、


「カフェオレなんかにしたら、それも飲むかしら?」


「の、飲みます先生、いいんですか」


「ええ。折角こちらも準備したことだし、ゆっくりしていってね」


微笑まれて璃絵もすっかり参ってしまっているらしい。休日に招待された挙句秘蔵の絵を見せられ、手料理を振る舞われ、大好きだと語ったお手製のコーヒーまでご馳走され、璃絵としては至れり尽くせりであること間違いなかった。


コーヒーを飲んだ後、片付けにメイが下がり、悟も掃除にゆき。


璃絵が画廊に戻った時に、椅子に腰かけたまま、咲月は意味深な笑みを銀河に向けた。


「…お銀、感想はどうだった?」


「もうちょっとあの絵を見ていたいです」


「あの温泉の絵ね」


「はい」


「あの絵ね、」


だが、咲月は、そこで、驚愕の事実を、あっさりと―――。







「あれ、私の絵じゃないわ」







「…」





「私の師匠の絵なのよ」






あっさりと、ばっさりと、切って捨てる一言。凍りついた銀河に、咲月は笑みを向けて、


「思わなかった?あれだけ油彩なのよ。私は日本画と水彩、水墨画しかやらないのだけれど…」


「…確かに」


「あれだけちょっと浮いてるのよね。でも、まあ、―――あの絵も、たまには出してあげないと可哀想というか、私もたまに無性に見たくなる時があってね」


本当に魔性の絵よ、と咲月は微笑んだ。


銀河の反応にガッカリした様子は欠片もなく、むしろ喜んでいるようでもあった。


「あの絵は、私の師匠が若い時に―――若い身ではあったけど、渾身の力を込めて描き上げた傑作よ」


「…若い身」


「今の私より若い頃ね、二十歳過ぎの師匠かしら」


咲月は嬉しそうだった。


「ついでに言うと、あの風景の場所に、お銀は行ったことがあるわ」


「えっ」


そんな馬鹿な。


あんな山奥の、美しい温泉郷。行ったのならば記憶に残っているはずだし、第一ここに来たのは僅か一ヶ月前で、それまでにこの星嶺以外のどこかに行った記憶なんて、




「…あの風景が、三郷湖の下に沈んでいるわ」




その言葉に、今度こそ銀河は絶句した。

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