10.友
外は暗くなっていた。
陽はだいぶ長くなっているが、それでも、夏至まではあと一ヶ月以上ある。
田舎である。既にバスは無い。
氷川屋敷には、車はあるが、「送っていってあげなさい」と命じられた手前、徒歩ということなのだろうと銀河は承知していた。
璃絵も異論はないようだった。
氷川屋敷からは、綺麗に石畳に舗装された道を、延々と下ってゆくことになる。
徒歩30分くらいで、街中であろうか。
綺麗ではあるが、家もなく、街灯がぽつぽつと灯るだけの、寂しい道である。
不審者よりも、猪やら鹿が心配になってしまうような、そんな道であった。
「…今日は、ありがとう」
並んで歩きながら、不意に御礼を言われる。いつものように、平坦な、何を考えているか分からないような、ジト目に近い表情である。小さい声なこともあって、気だるげ、という形容が一番しっくりくるだろうか。
だがそれは彼女があくまでそう見えるだけというだけで、別に本当に気だるげという訳ではないだろうと思う。
それはここ数日で把握していることだった。
だから、銀河は今更気を悪くすることもない。
ただ、頷いた。
「…でも、それこそ俺も何もやってないって」
「でも、宮原君がいないと、結局、先生に逢うことも出来なかったから」
それで、御礼なのだろう。
でも、それは俺のせいというか、何か抗いがたい別の力―――そう、咲月さんの言葉を借りるなら、縁によるものだろうと銀河は思う。
しかしそれを口に出すのも、なんだか無粋な気もして。
ここで気持ちを受け取っておいた方が、彼女の気持ちが宙ぶらりんにはならずに済むのかなと思った。
だから、銀河は素直に頷いただけだった。
「…これから、咲月さんに何か言われたら、美術室行くから」
「別に、言われなくてもいい」
「…?」
「宮原君なら、別に」
うるさくしないし、と語る璃絵の表情はいつもの平坦なものだったが、そこには厚意が見えていた。
「ほのかなんかも、たまに来ているから」
「俺が行っても浮くからよしとく」
「残念」
その言葉は本当なのか、茶化したものなのかはイマイチ分からなかった。
咲月さんの前では顔を真っ赤にしてしどろもどろになっていたばかりの璃絵は、だが、屋敷から外に出ると、抑揚のない口調である。
背の小さな璃絵に並んで、歩調はやや緩やかに。ゆっくりと山の道を辿る。
道の傍の漆喰の壁―――氷川屋敷の壁が、ようやく途切れて、漸く道の両脇が森になった。
「宮原君は、本当に先生の親戚なんじゃないんだね」
「ただ勤めてるだけだよ」
「あのメイドさんと、執事さんも?」
「そう」
いつから勤めてるのか、咲月さんとどういう関係なのかは、実は俺は全く知らないのだけれど―――。でも、一つ、言えることは。
「一ヶ月勤めただけだから、まだ分からないことも多いけど、確実に言えるのは、二人とも良い人だよ」
「それは分かる…」
こくん、と頷く璃絵。青白い瞳が、鏡のようだった。
「あのメイドさん、とても気持ちがいい人…」
「俺も、そう思う」
「執事さんも、面白い人」
「ああ」
同意せざるを得ない。
メイさんは話しているだけで、こちらが意味もなく微笑みたくなるほど、笑顔の人だし。
悟さんも仕草が剽軽で仕草が面白くて、嫌味っぽくない。
「二人とも手際も良くて、仕事も凄い人だよ」
「…凄い人なんだね」
「あの二人がいるから、氷川屋敷はキチンと管理されてるんだと思う」
その後で、銀河は付け足すように、
「そして、あの二人も、相手が咲月さんだからこそ、働いてるんだと思う」
―――それは、たった今、口をついて出た憶測だけれども、確信に近い言葉でもあった。撤回する気はなくて、璃絵も納得したように頷いていた。
「確かに…。先生だから、というのはあると思う」
「俺も、正直、どんどん、働きたい」
ガンガン、働きたいのだ。
給料なんぞはいらないから、ただ働きたい。それだけだった。やりがい―――というのを見出してしまっているんだと思う。
やればやるほど褒められる、というよりも。
やればやるほど、どんどん自分が成長してゆく、そんなのが感じられるからだった。
楽しかった。
料理をすれば、脇からアドバイスやら何やらが降ってくるし、その全てが嫌味でもなく、頭に溶け込むものだった。頭ごなしに命令されたことなんて一度もない。俺を納得させる理由をつけての命令ならば、山ほどあった。
それに従うのが、気持ちよかった。
俺の疑問には、答えてくれる。
俺が、こうすれば良いのではと提案することも、理があれば、容れてくれる。
―――気持ちよかった。
それが気持ち良いのである。
それが氷川屋敷だった。
「働いて働いて、働いたぶんだけ成長出来る気がする。掃除洗濯料理全部」
「全部…」
そう。
庭の手入れだって、今までガーデニングじみたことはしたことはあったけれど、野山に分け入って剪定なんて初めてやった。
けれども、やって、大きな庭園を形作ってゆくのは、楽しかった。
やればやるだけ、巨大な庭が、品の良いものになってゆくのが。
その芝の刈り方も、庭の設計の仕方も、悟さんに現在進行形で叩き込まれている。庭の設計に携わって、勉強ばかりしている。それが楽しかった。
「…だから、部活なんかするより、屋敷に帰って働きたいな、今は」
「そう…」
それが、楽しいのなら、そうすべきだよね、と璃絵は言った。微笑んでいた。小さな花が綻ぶような笑みだった。
暫くの沈黙になる。
しかしその沈黙が悪くない気分だった。
微かに朧な月が、浅い夜の中に掲げられている。煌、と輝いている月が、夜道を長く長く、一番の街灯として照らしている。
月の外側を取り巻くように、満天の星が、降ってきそうな程に煌いていた。
遠く下界に見えていたように思えていた街の灯りは既に近く、木々の影の向こう側に、輝きを灯す街並みが分かる。家の一軒一軒がシルエットを帯びて、木立の向こう側に屋根の色を黒に染めながらうっすらと浮かび上がらせてきているのだった。
「…私も、絵を描いていたいな…」
ふっと漏れた願望の一言。石畳の車道ではなく、山を下る石段の中に入りながら、璃絵が空を見上げて呟いた。
梢の中に、星の煌めきが瞬いて見える。
「いつまで、描けるのかな…」
不安なのか、それとも別の感情なのか、銀河には測りかねた。
ただ、璃絵はその小さなツインテールを揺らしながら、
「…私も、描いていたい…」
「絵をか」
「…私、やりたいことを出来ている気はするけど…」
いつまで続くのかな、とそう璃絵は漏らしていた。
少し璃絵の足が速くなった。あえてそうしたのが分かった。銀河はあえて追いつかなかった。暗い石段の中で、顔を背けたのを悟ったからだった。
「…私は、」
「…」
「絵を描くことは、元々親には反対されていたし、ようやく絵を描くことが出来るようになっても、好きな絵を自由に描かせてはくれなかった」
そもそも、絵が上手く描けたから、画家になりたいという、最初の想いが浅はかだったのかも知れないけれど―――と璃絵は自嘲的に微笑んだが。
それでも、―――不満足だった。
しかし―――。
璃絵の声が、闇の中に微かに熱を帯びた。
「…ある時、絵を見たの…」
それは、一枚の絵であったという。
偶然立ち寄った、星嶺の文化会館。何気なく顔を出した、アマチュア画家の展示会。ただ目を滑らせるだけで普通終わるであろう、そんな中に、一枚の輝く絵を、跡部璃絵は見つけた―――。
その絵は、一枚の、雪景色の絵であったという。
美しい、白銀の山脈に埋もれるような、漆黒の湖面。
白と黒の美しい調和に彩られた、一枚の鮮やかな日本画。
その一枚の絵に、跡部璃絵は、心を持っていかれてしまったのであった。
「それが、二年前…」
「二年も前…」
高校に入る前のことだった、と璃絵は言った。
「それからは、ひたすら、星嶺に通い続けた…」
がむしゃらにその絵の主を、その絵を書いた主の別の絵を探し求め続けた。
全く無名の画家であった。
しかし何人かファンはいて、璃絵はそのファンから、名と風貌は聞くことが出来たという。
しかし、個人情報にも厳しい世の中で、その絵の主を追い求めることは容易ではなく、ただ、絵だけを求めて、展覧会に通う日が長く続いた。
「…何としてでも、この人のような絵を描きたいと思った…」
「…」
「この人みたいに、音を感じられる、心からのめり込める絵を描きたいと思った…」
夢中だった。
初めて、心の奥底から、夢中になれる絵だった。
そのためには、今まで積み上げてきた、何もかもを投げ捨てた。絵が上手いから画家になりたいという、そんな夢さえも吹っ飛んだ。それだってよかった。半分親から勘当されるように一人暮らしを始め、僅かな小遣いで食いつなぎながら、それでも星嶺のここに通い続けて―――。
「今日、夢の一つが叶った…」
「跡部さん…」
「璃絵でいい」
璃絵はそう言った。石段が終わった。住宅地の闇が前に見えている。
古い住宅地だ。瓦葺の平屋の家が続く、川並に沿った風景。
二人分の足音を聞きつけて、板塀の向こう側で野良猫が走り去る音がした。
人の風景はないが、水路沿いの家々、格子戸の中からは、仄かな灯が洩れている。
情熱を語った璃絵は、少し恥ずかしそうな顔をしていた。
「…今言ったのは、独り言だから、忘れて」
「…俺も、そのうち、多分、独り言を言うけれど、その時忘れてくれるなら」
その言葉に、璃絵は少し驚いたような顔で、自分より頭一つ高い銀河の顔を見上げて。
それから、少し、可笑しそうな顔をした。
例のように、頬が微かに染まっていたけれど、素直な照れ笑いがそこにあった。
月の下の、古い石畳の道で、その顔が綺麗に浮かび上がって見えたのだった。
「…お銀君、って呼んでいい?」
「俺、お銀って呼ばれるの好きだから」
不器用な笑いになっていないかと少し心配になった。璃絵はやはり、少し可笑しそうな笑みだった。
「私の借家、ここだから」
そう言って、璃絵は一つの一軒家を指さす。以前銀河は、ほのかから、璃絵の住まいを聞かされたことがあった。旧市街地の中に、借家をしている、という話だった。
どうやら空き家であったものを借りたらしい、古くだいぶ傷んだ家だった。
「―――送ってくれてありがとう、お銀君」
お話出来て良かった、という仄かな微笑みに、銀河も手を挙げて答える。
―――彼女のことは、友で良いのだろうかと、銀河は思っていた。
―――俺に、友達が出来る日なんて、ついぞないと思っていたのだが。
―――ただ、俺は、一度も、友達なんてものを、作ったこともなかったし、作らせて貰ったこともなくて。
だから、何とも言い難いけれど、でも、確認をしたくて。
こんなこと、変だろうなと思いつつも。
それでも今の雰囲気なら許されるかも知れないと。
煌めく月の下で、最後に彼女に問いかける。
「最後に、いいかな」
「何?」
玄関前で振り返る璃絵。少し乾いた喉。唇を微かに舌で湿らせながら、動揺を気取られないようにしながら、それでも俺は―――。
「…あの、璃絵は、」
「ん?」
「…友達と呼んで、いいのか?」
引きつった問いかけだったと思う。演技が下手だなと自分でも思う。けれども自分を偽るような真似をしたくないというのも本当で、銀河はちょっとした錯乱状態だった。
璃絵は少し驚いた後、微笑んだ。
唇の端に、紋白蝶のように、可憐で清潔な笑みを浮かべていた。
暗い夜の中でも、はっきり見える微笑みだった。
「…友達って、いいよね」
「…ああ、多分な」
「私は、お銀君が、友達だったら、嬉しいな」
その言葉に、銀河は頷いた。今度こそ、笑えていただろうかと思う。
「なら、友達だ」
「うん、ありがとう。こちらこそ」
その微笑みが安堵のものに見えてしまったのは、果たして気のせいだろうか。その安堵は、どちらの感情なのだろうか―――。
手を挙げる。今度こそ。
「…じゃあ、おやすみなさいだな」
「うん、おやすみなさい。また、お休み明けにね」
―――また今度ね。
そう言われて、微笑まれることが、どれだけ俺にとって救いなのか。
―――俺は、明日も、これでいいんだな。
そう思えることが、宮原銀河にとっては、何よりもに代えがたい報酬だった。
月はいよいよ昇り。
夜はいよいよ満ちてゆく。




