5.春宵
「なるほど、件の少女、大ファンと名乗るだけのことはありますな」
恒例の氷川屋敷、その夕食の席である。
学校での出来事を語る銀河の前で、悟は満足気に眼鏡を押し上げて頷いた。指はいつもの親指を立ててのGJサイン。
「お嬢様のことを良く理解しておられる。お銀さんとしても、良き友としての価値があるのではないでしょうかな?」
「しかし、まさか、お嬢様にお会いされていた方であったとは」
そう言うのはメイである。
メイはレバニラ炒めを口にしながら、
「お嬢様、余り外を出歩かぬ方なのですよ」
「本当にたまたま出くわしたんですかね?」
「展覧会場それ自体には、何度か呼ばれて足を運びにはなられていると思います」
その時に見掛けられたのでしょう、とメイ。誰かと立ち話をしている時に、早花咲月と知られてしまうことも十二分にありえる訳で、そのような接点かも知れないとメイは言った。
「それにしても、本当に熱心なお方なんですね。お嬢様とエンカウントして、実際話したこともあるなんて」
「相当なファンでしょうなあ」
悟もレバニラを口にしながら、「うむ、程よい味付けですぞ」と合格点。
ちなみに今夜の夕食の一部は、銀河謹製である。
今日、庭師を呼んだことで、裏山の手入れが一段落ついたらしい。ということで、手の空いた銀河は本日厨房の担当となり、氷川屋敷の夕食デビューであった。
銀河はメイにも目を向ける。
メイもその紅の瞳で頷いた。ニッコリとした微笑みに及第点を知る。
「うん、十分合格ですよお銀さん。後でお嬢様にもお伺いしてみましょう」
「とりあえず全力を尽くしてみたんですが」
「ポテトサラダは、ふわっとした感じですな」
ポテトサラダを口にしながら悟。メイが、「私の作るものとはタイプが違いますね」と言った。
銀河はあえて冷静を顔に出しながら、
「あえてそうしてみました。メイさんはしっとりしたものなので」
「これはこれでいいかも知れませんね」
「まあ確かにメイはこのタイプのものを作りませんからな。これはこれでバリエーションの一つでもありましょう、お嬢様にもお伺いする価値はありますな」
ニコニコと悟さんも上機嫌で銀河も内心では安堵である。
メイは味噌汁を口にして、
「お味噌汁の出汁の使い方は凄いですね」
「これは正直脱帽ですぞ」
悟も唸る。銀河は内心では快哉であった。
味噌汁は実は一番の得意料理―――出汁を駆使して上品に仕上げるのが銀河の得意分野であった。味のきついものを好む人には物足りないが、舌に肥えた人向けである。
学生寮なんかには向かないが、この武家屋敷になら似合うだろうと前々から思っていた。
―――以前居たところで作っていたものに比べて、やや我流のアレンジを加えてあるが、それはそれ、己流。このお屋敷であれば許されるだろう。
メイは、
「お嬢様も褒めてくださると思いますよ」
「お銀さんは今後味噌汁担当で良いと思いますな」
そこまで言われてしまっては銀河も頭を掻きながら照れるしかなかった。
だが、それはそれで―――過酷ではあったが、元居た場所で、それなりに修業していた成果ということでもあるのだろう。決して望んで得たスキルではないから、少し納得出来ない心もあったが、ここは素直に呑み込むことにした。
呑み込むといえば、そうである。
「そういえば、コーヒー、美味しかったです」
「ああ、それなら良かったです。お嬢様もさり気なく気にしておられましたよ」
ニコニコとメイさん。銀河は、
「水筒から出したらクラスメイトに嗅ぎつかれて、少し分けたりもしましたが」
「おやおや、そこまで」
「桁外れに香りますからなあ、お嬢様の淹れたものは…」
悟さんの、さもありなんとばかりの苦笑。
「街中の喫茶店など勝負にもなりませんぞ」
「クラスメイトもそう言ってました。街中の喫茶店を超えてるって」
「喫茶サンデーですか」
メイの言葉に、銀河は質問の眼差しで、メイはそれを悟って苦笑した。
「まあ、何となく分かりますよ。評判のいい喫茶店といえば一年前に開いたアソコですから」
「お嬢様は嫌っておられるのですがな」
「そうなんですか?」
少し意外そうな銀河の口調。悟もどこか不審、というか怪訝な表情ではあった。眼鏡を押し上げながら、唇をへの字に曲げる。
「まあ確かに学生で少々騒がしい喫茶店ではありますが、数多のチェーンのように下品な訳でもありませぬし、私も嫌いではないのですが…」
「お嬢様は決まって苦々しい顔をされるのです」
メイはそう言った。大きな瞳を見開いて、やはり不思議そうな顔をしていた。
「何かあるのではないか、と悟さんとは言っていたのですが」
「まあ、お嬢様、語りませぬからな。ただ、まあ、件の喫茶店よりも上と評されたことは伝えておきましょうぞ」
悟は指を立てて言う。そうしましょう、と笑顔のメイ。
「ああ、あのファンの子も口にしまして、美味しかったと」
「おお、そうでありましたか」
「初めてブラックを飲めたと言ってましたよ」
「それはそれは」
我が事のように手を叩いて喜ぶメイ。その笑顔にこちらも自然と笑みになる。「余程お嬢様の豆と淹れ方が上手いのですな」と悟は言い、銀河も同意の頷きだった。
TVもない氷川屋敷の夕食は、だが、いつも賑やかで笑顔が溢れている。
銀河はこの屋敷の夕食が好きだった。
「そういえば思い出しましたぞ」と悟が手を叩く。
「喫茶サンデーで思い出しましたぞ。危うくお銀さんの初夕食と学校での噂に気を取られて、語りそびれるところでしたぞ」
「悟さん?」
「今日、買い物ついでに、庭師殿のところに寄ったのですが、何やら不穏な噂を聞きましてな」
悟はそこで、人差し指を立てて、話し始める。
「ちょうどお嬢様のことにも関わりがある故、メイに話して、メイから御報告申し上げた方が良いかと思っていたところですぞ」
「お嬢様に?」
「例のアマチュア画家の展示会のことですぞ」
悟は、そう言って、今日聞いて来た噂話とやらを話し始める。
それは…。
「例の展示会ですが、まあ市内のアマチュアのクリエイターの作品を、市内の会館のワンホールを借りて定期的に無料展示していると」
「ですね」
「ですが、それが、次回くらいから、喫茶サンデーサイレンスの一角…というか、二階席を借りてやることを試みるそうですぞ」
そういう話には最早内々でなっているそうですぞ、と悟。メイが曇った表情であった。銀河が早速クエスチョンマークを浮かべて、
「しかし、咲月さん、その喫茶サンデーが嫌いだって」
「うむ。理由は分かりませぬが好印象はなさそうなんですぞ」
となると、最早お嬢様が出展されることもないやも知れぬですな、と悟。メイが眉を残念そうに曲げていた。
「でも、せっかく、熱心なファンの方がいらしてくれることが分かったのに、それも残念ですね…」
「しかし、冷たいようですが、お嬢様の絵はあくまで趣味ですからな」
わざわざ配慮する義理もありますまい、と悟。
銀河も残念であることは確かであった。
そんなことにでもなったら、あの璃絵が―――ここ、星嶺に来た意味も、価値も、まるでなくなってしまう。
多分だが、あの璃絵は、そのためだけに、全てを投げ捨てて、星嶺に来た―――そんな雰囲気を感じているのである。
しかし、それに配慮する義理が、ここの主の咲月には欠片もないのも、また事実なのだ。
ファンになるのは、あくまで、人の勝手なのである。
それへの配慮を強制することは、誰にだって出来るものではない。
「お嬢様には、夕食をお運びするがてら、申し伝えてみましょう。それでお嬢様が何をどう判断されるかは分かりかねますが…」
メイはそう言うが、内心では出展が難しくなることは予期しているのだろう。顔色は冴えない。悟は何とも言えない透明な顔で、銀河も正直どんな顔をしたらいいかは分からなかった。
何が、ベストなのだろうか。
会って一度きりだが、あの跡部璃絵には、全く悪印象はなくて、むしろ、あの照れた時の仄かな雰囲気が、嫌いではなかったから―――。
なるべく、穏当に、物事が回ればいいな、と、そんなことを思う。
しかし、そう思い、祈ることしか出来ないのも、宮原銀河の真実であった。
それ以上のことは、何も出来ない。
何もする権利を持たないのが、この屋敷の一使用人―――宮原銀河であった。




