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星の降る町  作者: 笹霜
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4.美術室

跡部璃絵は、窓辺でずっと絵を描いていた。


ただ一心不乱に描いていた。


イーゼルに架けたスケッチブックに、ひたすら窓辺の桜を描いていた。


窓辺の桜は、青々とした葉桜なのに、スケッチブックの中では、鮮やかな桜色に輝いているのが―――白黒のスケッチなのに、それだけなのに分かった。


それほどの、パワフルさ、力強さを秘めたスケッチだった。


枝の一枚の素描の途中で、璃絵は鷹揚に振り返って、客人三人をその気だるげな視線で捉えた。



「…ようこそ」



歓迎の声は小さかった。だが嫌っている風でもなく、純粋に眠たげというか―――無関心一歩手前のような仕草だった。


跡部璃絵は、ぼやっとした雰囲気の、小柄な同級生だった。


容姿は見れたものなのに、短いツインテールの髪は手入れした風もなく寝癖がついていて、色白の手首から先は絵具の汚れだらけである。


そして何よりも眠たげで、感情の抑揚を傍目から感じ取りにくい、そんな雰囲気を銀河は感じ取った。


「…お昼?」


「もうとっくにお昼よ…」


とぼけたような璃絵の言葉に、そう返したのはエリスである。


本日、星嶺高校美術室、昼休みの風景である。


客人は三人。


丹羽ほのかの紹介で、宮原銀河と、あと好奇心でくっついてきた鞘堂エリスであった。ちなみにエリスも璃絵とは知り合いではあるらしい。


璃絵が教室に来たがらない―――というか保健室登校ならぬ美術室登校の有様なので、こちらから出向いて来た次第であった。


本日はお弁当持参である。


実は今日の昼は、銀河はちょっとした楽しみがあった。


朝、出かける前のことを思い出す。



玄関先で革靴を突っかけていた俺の前に、慌てた様子でメイさんがやってきたのである。


「先程お嬢様が、コーヒーを淹れてくださいましたよ!」


そう言って、メイさんは俺の手に水筒を押し付けてくれた。「お嬢様のコーヒーを入れておきましたよ!」ということである。


家事の達人同然のメイさんや悟さんも絶賛する、咲月さんのコーヒーである。話には聞いていたが、こんなに早く味わう機会があるとは思っておらず、僥倖とはまさにこのことであった。


なので後生楽しみに昼休みまで待っていたのである。


そして弁当に関してはいつも手弁当持参である。メイさんや悟さんが朝の余りを詰めてくれるのだが―――これも多分、厨房を預かるようになったら自分で作ることもあるのだろう。


まあ、去年まで―――ここに来るまではそうしていたから、大した苦がありもしないのだが、やはり自分以外の人が作ってくれた弁当というのはそれでもこの一ヶ月ありがたさが骨身にしみていた。



璃絵のものらしい、特大な腹の虫の声で、銀河は我に返る。



エリスが溜息だった。



「ひとまず、お昼にしましょ?」



美術室の机を幾つかくっつけて、四月の終わり、お昼のランチである。


学年屈指の美人2人と一緒にランチ―――というだけで銀河には嫉妬の視線が集まること請け合いのシチュエーションであったが、銀河にとってみれば色気の欠片もある話ではない。


これをキッカケにお近づきに―――なんて考える余裕もないし、あったところでそんな欲もなかった。


そんなことより氷川屋敷の厨房に立ちたいとか、庭の手入れの云々とか、掃除家電の何を入れたら掃除がラクになるだろうかとか、そんな家事じみた思考ばかりで脳内が埋まっているのが、宮原銀河であった。


要は今のお屋敷の生活が、楽しいのである。


それ以上のものは当座要らなかった。


銀河のお弁当を見て、ほのかが声を上げる。


「いつも思うけど、宮原君のお弁当って、凝ってるよね」


「お屋敷の人が作ってくれる」


「そうなんだ。凄いね」


やっぱり他にも何人か勤めてる人いるんだね、と、ほのか。銀河は小さく頷くだけだった。


エリスが溜息をつく。


「そういうほのかも大抵凝ってるじゃない…」


「私もお祖母ちゃんが作ってくれてるだけだよ」


「私なんて冷食の詰め合わせよ」


まあ自活なんてそんなもんだけどね、とどこか自嘲的なエリスである。そして最後に璃絵ときたら、コンビニのおにぎりを頬張っているのだった。


「璃絵ちゃんは自活してるの知ってるけど、エリスちゃんもそうだっけ」


「そうよ?両親がちょっと遠出しちゃっててね」


仕方ないんだけどね、と溜息のエリス。


最後に璃絵はぼそりと、


「…私は、早花先生の画が見たくて、此処に一人で引っ越してきた」


「早花先生、というのは、」


「早花咲月先生」


銀河の言葉に、璃絵はそう答えた。気だるげな雰囲気は眼の中から吹き飛んでいる。鋭いくらいの視線。しっかりと視線を定めた、強い言葉だった。


エリスとほのかが、伺うように銀河の顔を見た。


銀河は頷いていた。


否定する意味は見当たらなかった。


「確かに、俺を雇ってくれているのは、早花咲月さんだ」


「わお」


エリスはそう言った。ちょっとした驚きの声。


「あの氷川屋敷、何年か前から人が入ってるとは聞いたけど、本当にアマチュアの画家さんなんぞが入ってるのね」


「何人も雇ってるんだね」


ほのかの言葉に銀河は頷く。


「ただ、絵のアシスタントなんかはやったことはないし、咲月さんはあんまり絵を出したがらない」


「…どうして?」


「すまないが俺にも分からない。まだ一ヶ月の新参の俺が聞けることじゃない」


璃絵の言葉に銀河はそう言って、コロッケを飲み下してから、再び真正面から璃絵を見た。


「自己紹介遅れたが、宮原銀河だ。氷川屋敷に一ヶ月前から雇ってもらって、住み込みしながらここに通ってる」


「…跡部璃絵」


ぼそっと璃絵は言った。ぼそぼそとした喋り方だが、視線は逸れない。独特の波長というか、力強さのようなものがそこにはあった。


「画家志望、だけど…」


「?」


「ちょっと迷走中」


どうしようかな、と璃絵はどこか呑気に言いながら、今度は窓の外を眺めた。悲嘆でも諦観でもなく、独特なさびさびとした口調だった。自分の苦悩すらも蚊帳の外、というか他人事のような口調であった。


「でもとりあえず今は、咲月さんみたいな画を描きたい、それだけ」


「…」


「それだけをただ目指してる」


画家になれるかも、全てうっちゃって、ただそれだけにのめり込む―――そう璃絵は言った。


どこか鬼のような、執念じみた感情の灯を、銀河は璃絵の瞳の奥に見た。


最初は気だるげと見えたが、実はそれは見くびり違いのようで、たぶん―――エネルギーの振り方を恐らく極限まで調整するようなタイプなのだろう。


無駄なこと、やりたくないことは、一切やらないか―――本当に最低限。


やりたいことに関しては全てを振る。


まあ確かに学校生活には向いていないタイプなのかも知れないが―――そういうタイプの人間がいたっていいと、銀河は素直に思う。


少なくとも、今まで―――人を利用したり、従わせることしか考えていないような、そんな人間ばかりを見てきていたから。


璃絵のようなタイプだって、まあ、世間からは変わり者扱いでも、銀河にとっては全く問題のないタイプであった。


全く、銀河の嫌いな人間ではない。


璃絵は口を開いた。


「宮原君。私は、そこのほのかから、少し話は聞いているけれど…」


「?」


「私は今のところは、宮原君に、先生を紹介してとは頼めない」


璃絵はそう言った。ほのかが少し驚いた顔をしていた。銀河の表情は変わらず、エリスは少し愉快そうな顔だった。


「宮原君にはその義理はないし、先生も多分そんなことは望まない」


「…?」


「先生は、あんまり絵を外に出さないことは、私も知ってる」


それは大ファンである私なら当然、と璃絵は言った。大ファンと大っぴらに自称するが、恐らく間違いはないと銀河は思う。外見とは裏腹にどこか熱っぽい口調の璃絵の言葉を、銀河はただ淡々と聞いていた。


「一度、先生とお会いしたことがある」


「…咲月さんと?」


「物凄い美人のお姉さん」


間違いないよね、と銀河への問いかけ。銀河もそれには頷いた。同意であった。


「落ち着いた物腰の、大人のお姉さんだ。茶髪ロングの」


「着物姿が似合ってた」


「いつも着物だよ」


家の中でも、羽織袴姿が常のような人である。そのせいか、ひどく落ち着いた雰囲気があるのである。


璃絵は言った。


「一度、展覧会場で、お会いした」


「展覧会場…」


「先生は、個展とか絶対に開かない」


いつも、役所のホールを借りた、小さなアマチュアの展覧会に出すのだという。


「それは、本人から聞いた話」


「咲月さんがそう言ったのか」


「あんまり人目に触れたくないけど、それでもたまに良いものが出来たら、ちょっとだけ。見せないのも、勿体無いからって」


ただし、それだけ。表にもほとんど出ないという。


「その時にも、連絡先とか、聞こうと思ったんだけれど、…断られた」


「…」


「でも、私の連絡先は渡せたし、お山のお屋敷に住んでるってことも聞けた」


だから、お山の氷川屋敷に、先生が住んでる、そのことは知っているのだと璃絵は言った。


「ほのかは、それで私に気を遣ってくれたんでしょ」


どこか呆れるような声音であったが、頬に薄ら紅が差していて、照れているのも微かに分かった。ほのかは、「ごめんね、要らない気遣いだったよね」と言ったが、璃絵は首を振った。


「…別にいい。宮原君には、だったら会っておいて私にも損はないから」


「?」


「もしかしたら」


璃絵は銀河に顔を向けた。どこか少し暗い雰囲気なのを薄ら感じた。


「もしかしたら、宮原君に、ちょっと先生の様子というか…展覧会に出すかとか、そういうことをたびたび、聞くかも知れない」


その時は、答えて貰えたら、嬉しいけれども、と璃絵は口ごもっていた。


銀河は何となくその理由が分かっていた。


―――銀河には、その頼みを引き受ける義理も何もないからであった。


しかしその程度の頼みであれば、銀河は全く構いもしなかったし、悟さんからは「搬出の手伝いをする」なんて話を聞いてもいる。


情報は手に入るだろう。


別に損をする訳でもないし、むしろその程度で雰囲気を暗くしてしまうような同級生に、銀河はむしろ好感を抱いていた。


『会わせて』と軽々しく頼んでこないことも含め、全くこの同級生には悪い印象はないのだった。


「その程度だったら訳はないが。咲月さんの作品が出展とかなったら、むしろ知らせようか」


「いいの?」


璃絵はむしろ驚いた顔だった。ほのかもちょっと驚いた顔である。「いいのそこまで?」とほのかが尋ねるが、「いや、別に」と銀河は本音をアッサリだった。


「咲月さんに直接関わるような話じゃないし。さすがに直接関わるとなったら俺も手に負いかねるけど」


「…ありがと。気が向いてくれた時でいいから」


また、頬を少し染めて、少し照れたような様子の璃絵であった。


銀河はそこはかとなく満足したような気持ちだった。


別に、その程度だったら、正真正銘訳はなかったし―――その程度で感謝されるなら、それでいい。


食後の楽しみに取っておいた水筒を開ける。カップに注がれるコーヒーはまだ暖かさを残していて、立ち上る微かな湯気に、濃密な甘い香りが溶けて香った。


その香りにビックリしたのは、銀河ばかりではなく周囲もそうだった。


「うわ、凄いコーヒーの匂い」


エリスが思わず感嘆の声。砂糖もミルクも欠片も入っていないブラック100%だが、香りが甘く感じるのは何故なのか―――と銀河は益体もないことを考えた。


だが甘く思えてしまうのだからしょうがない。


自販機のコーヒーなんかでは太刀打ちできないと既に分かる。さすがにメイさん、悟さんが絶賛するだけの咲月さんのコーヒーといったところか…。


銀河は黙ったままそれを一口。するりと喉奥に入ってゆく。苦味は当然だが、飲んでいて全く嫌味を感じさせない―――濃密な味と比例するかのような飲みやすさだった。


思わず最初の一杯をほぼ一気飲みのような形にしてしまい、銀河は内心で脱帽した。美味いという感想の前に感嘆の溜息が洩れた。


喫茶店のコーヒーとはこういうものだろうか。


なるほど贅沢、と思いながら二杯目を口にする。興味津々な女子三人の眼差しにその後で初めて気が付いた。


「…何だ?」


「いや、スゴク美味しそうだナって」


エリスのイイ笑顔だった。「一杯欲しいな?」と笑顔の裏に書いてあるのがありありと読めた。というかそういう意志表示なのだろう。


少し迷った。


―――ガメて全部飲みたい欲が微かに無いと言えば嘘になった。


それくらい美味かった。


しかし、不定期とはいえ、この先飲める見込みもあるだろうし。


ここでガメてもいい印象はないだろう。


三人の水筒からカップにコーヒーを一杯ずつ注ぐ。エリスが早速に「頂きます」と口をつけ、「すっごく美味しい」と即感想。


ほのかも「凄いね、甘いよ、ブラックなのに」と言うや、璃絵が「ブラック飲めたの初めて…」と驚きの声を小さく漏らしていた。


銀河は、


「咲月さんの趣味らしい」


「咲月さんて、さっきの話にずっと出て来た人よね?お屋敷の主のお姉さんなのよね?」


エリスは驚きの顔を隠さない。璃絵が、頬をいよいよ染めて、


「咲月先生、コーヒーまで淹れられるの…?」


「らしい」


「多芸」


「としか言いようがないよねえ」


ほのかが付け足す。実際銀河も否定しない。物凄く多芸な人ということくらい、見ていて分かる。


ほのかが、


「サンデーのコーヒーより美味しいかもね」


「あー、それは確かに。サンデーのコーヒーとかカフェオレも相当だけどコレ超えてるかも」


そう答えたのはエリスである。銀河が「サンデー?」と尋ね、ほのかは頷いた。


「宮原君は最近ここに来たんだもんね。喫茶サンデーサイレンスって知ってる?」


喫茶サンデーサイレンス。


詳しくはないが、銀河はその言葉だけは聞いたことがあった。


「…何だっけ。チェーンか」


「チェーンといってもそれほど多くないんだけどね。ここ星嶺に出店した時も、結構話題になったよね」


「まあ、あんまり都会に出店しない方針らしいんだけど。チェーンといっても確か星嶺で十店目だったか、確かそれくらいよ」


今は十二店くらいあるんじゃないかしら、とコーヒーの最後の一滴を流し込みながら、エリスの言。ほのかが目を輝かせながら、


「旧市街の古民家の中に、去年さり気なく入ったんだよ?コーヒーとかカフェオレも評判いいんだけど、デザートも」


「秘伝のレシピとかあるらしいわね。総じてハズレ無しと言われてるわ。バイトしてる子も何人かいるはず」


エリスがそう付け足す。璃絵がため息交じりに、


「そういうのに、詳しいよね、みんな…」


「璃絵ちゃんも今度食べに行かない?」


「アソコ、あんまり落ち着ける感じのお店じゃない」


私、騒がしいトコロは嫌い、と璃絵はアッサリだった。「確かに学生がたむろしてるしねえ」とエリスの苦笑。いわゆるソコは『チェーンの喫茶店』であるらしい。


エリスは


「そこのコーヒーも相当美味しいんだけどね」


「でも、あそこのコーヒー私飲めなかった」


璃絵はそう言った。そして改めて自分のマグカップを覗き込む。空っぽであった。先程まで、漆黒の液体が湯気を上げていた場所である。


「…咲月先生のものは飲めた。美味しかった」


「本当に美味しいものは、苦手な人も食べられたり、飲めたりするっていうけど…相当よね」


エリスが素直な称賛だった。


だが銀河は、


「でも咲月さんも忙しいから、いつも淹れる訳じゃないし、俺も実は初めてだ」


「へえ、勿体無い」


「咲月先生は色々勿体無い人」


璃絵はそう言った。実際銀河もそう思う。


早花咲月は、色々多芸なのに、世捨て人のように、あのお屋敷の奥、自分の部屋に引きこもっているのだ。


時々聴こえる、囀るかのような歌声も。


その、人目を引く儚げな美貌も。


その、少女を心酔させる画力も。


コーヒーが苦手な彼女に、美味いと言わしめた、バリスタのような腕前も。


全て―――表に出すことはない。


全て、奥に秘めた、謎多き屋敷の主なのだ。


それゆえに、惹かれてしまうのかも知れない。


そして、だからこそ、感謝してしまうのだろう―――彼女に拾って貰った、その己の幸運に。


だからこそ、その幸運を、なるべく手放したくないと、そんなことを思うのである。



「…今日はありがとう。三人とも、戻るべき」



そんな璃絵の言葉に、銀河は壁に目をやる。予鈴が迫っていた。エリスが呆れ声で、


「…授業に出る気はないのね、璃絵」


「絵を描いてる」


「そう…」


しかし最早注意する気もないらしいエリスの苦笑。最後に璃絵は、立ち去り際の銀河の背中に声をかけた。



「…宮原君は、特にありがとう」



「…」



「咲月先生にも、ご馳走様、伝えてくれると、嬉しい」



振り返ることはなく、銀河は無言で手を挙げて答えた。


昼休みの終わりのチャイムが鳴った。

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