38.黒鎧王
土煙が晴れた後に、黒い甲冑の式神が見たのは、無傷の敵―――悟の姿であった。
しかし何より、自分が無傷なことに驚いたのは、当の猿山悟であった。
「…なんと!?」
悟は驚く。
先程自分に襲い掛かって来た土の槍全ては打ち砕かれ小さな土山となって石畳に転がっている。
槍襖となっていた地面も、でこぼこながら普通の地面であった。
驚いたのは黒い甲冑の方も同様である。
しかしその二人の疑問はすぐに氷解する。
門の上から、声が降ってきたからであった。
「…悟さんの修業もまだまだですが、それ以上に度し難いなあ黒鎧王―――」
幼い子供のような、女のような、しかし愛嬌のある声であった。
しかし愛嬌がありながら、その声はしっかりと敵意を帯びている。
甲冑武者―――黒鎧王は、門の上を見た。
一つのカンテラが浮いていた。
悟は無論知っている。
主、咲月が愛用している、カンテラである。
いつも縁側で卓の上に載っている、アイツである。
しかし今は誰も持つことがないのに、宙に浮いていた。
両側の取っ手が外れ、二本の腕のようになっている。ガラスの中に浮くのは白銀の炎が二つ。まさしく炎の瞳であった。
悟は声を上げた。
「灯殿…」
「私の援護が必要なんて、修業がなっちゃいませんよ悟さん。こんな奴相手に遅れを取るなんて。お嬢様カンカンでありましたよ」
ま、もっとも、ソイツもそれなりに強いですからね、と言いながら、ゆっくりカンテラは下りてくる。
そして、悟、黒鎧王と三角形を描くような位置に陣取った。
「ですが黒鎧王、お前もさすがお嬢様の霊力を注がれた身。悟さんを苦戦させるとはそれなりに執念もあるのでしょうなあ」
「灯、貴様…」
しかし悟が驚いたのは、このカンテラの付喪神―――咲月の忠実な部下のコイツが、この敵と知り合いであることであった。
明らかに甲冑、黒鎧王は灯を知っている模様で、その双眸を光らせて口を開く。
「…灯、貴様が何故ここにいる?」
「何故ここにいるも何も。私がお嬢様にお仕えする身だからで」
「お前の主は花月お嬢様ではないのか?」
「その通り」
灯はそう言った。そう言いながら、その口調は、どこかしらに目の前の甲冑武者を愚弄しているようであった。嘲笑するようであった。
「だから私はここにいるのですよ黒鎧王」
「…俺は、跡部の令嬢を連れ戻すべく、それを妨害する輩を打ち砕きにここに来た」
「黒鎧王。お前はその不逞の輩が何者なのか知らないのか?」
「…」
黒鎧王は黙ってしまう。何も知らない、その証明であった。灯の声がいよいよ愉快そうにトーンを跳ね上げた。
「黒鎧王。貴様は折角殆どにおいて自由にして貰ったというのに、その権利を使って、敵を探るということもしなかったのか!貴様は跡部の式ですら、玉川の式ですらなく、外部から貸し出された式神だ!自由な権限を与えられている!正確な敵を知ることも出来ただろうに!それをしなかったのか!?」
しなかったんだろうなあ、愚か者め、という嘲弄の口調が明らかに含まれていた。
「折角リベンジのチャンスをお嬢様から与えられたというのに!一度ならずや二度目の反逆とは!この地が反逆の地とはいえ滑稽極まるぞ黒鎧王!!!」
「…貴様、何を言っている…!!!」
黒鎧王は震え出していた。
灯はその双眸を燃え上がらせて、敵を指弾していた。
「察しがいよいよ悪いようだな黒鎧王!分かりやすく教えてやるから耳をかっぽじって聞け!貴様が敵対するこのお屋敷のお嬢様、それは…」
「爆ぜよ」
黒鎧王の身体が爆発した。
悟の蹴りにも余裕で耐えるその鎧が、土の塊が、粉々に砕け散った。
首だけが残って石畳に転がった。
その双眸の見据える末に―――彼が、最後まで復帰を希った、『本当の主』の姿が見えていた。
茶色い長い髪の、橙の狩衣を翻す姿であった。
灯が声を張り上げた。
「お嬢様!こやつはお嬢様がお出になる相手では…!」
「…灯に任せようと思ったのだけれど、こいつは私の仇敵だから、やはり自分自身の手でケジメをつけないと駄目なのよね」
早花咲月―――氷川花月であった。
陰陽師、氷川、最後の生き残り。
そして、黒鎧王が仕える―――真の令嬢であった。
黒鎧王は、首だけとなりながら、その瞳から涙を溢していた。
悲嘆の呻きが、鎧の下から洩れていた。
「…お、お嬢様…」
「お前はこの私が直々に処分するわ」
咲月はそう言ったが、しかし既に首だけの鎧武者に何が出来る訳でもない。既に霊力の99%以上を持っていかれ、話すだけで精一杯、朝がくれば土くれになり消えてしまうであろう。
悟が片膝を立てながら、咲月に傅いていた。
「お、お嬢様…」
「悟。不覚を取り過ぎよ?」
「不覚を取ったのは式を管理する貴女の責任もあってよ?」
しかしそこで咲月が背後を振り向けば、そこには道行コートを翻した妙齢の美女。月明りを浴びてぞくぞくするほど色っぽい、彼女の師匠であった。
咲月は苦笑した。
「…そうでしたね」
「管理をなさい?貴女の修業不足でもあるのだから」
「分かっています」
「でもそこの式神は処分した方がいいわ」
しかしそこで師―――葵は、扇を広げ、口元を隠しながら、侮蔑の視線を黒鎧王に向けた。それだけで黒鎧王の意識を剥ぎ取りそうになるほどの、邪悪な人外の眼であった。
「そういう式は何をしでかすか分からないわよ」
「分かっています。母の仇ですし、今ここで」
「そうだったの」
葵の視線。灯は知っているようであったが、悟は驚きであった。しかし悟から何か聞ける雰囲気ではなかった。しかし咲月は口を開く。
「…母の首を、私の目の前で刎ねました。コイツが」
「…こいつは、氷川の家の式ではなくて?」
「だからです」
咲月は透明な表情で師を見ていた。
「陰陽師氷川派は、二十年以上前、御家騒動で殆どの一族が全滅しました」
「…」
「私の母は、その時、この黒鎧王が仕えていた本家筋…といった方がいいのかもわかりませんが、とにかく血の繋がりのある一族に殺されたんです」
「なるほど」
葵は頷いた。
「本家筋の人間に仕える式が、分家筋の貴女の母親を…」
「当時、母、神無はこの星嶺の、この屋敷に居ました」
そこで隠れて住んでいたのだという。
「祀様とも親しくさせて頂いていて、守りも強力だったのですが…」
「人質を取られて、おびき出されたという話を、いつぞや聞いたわね」
「そうです、それから…」
咲月は瞑目した。
背後から怒りの気配が漂ってきていた。
二人が振り向くと、そこには巫女服の上からローブを翻す、一つの小柄な姿があった。
明らかに怒気を纏わせて、その髪を神気に逆立てた祟り神―――星宮祀の姿であった。
「…その首だけ鎧が、我が友、神無の首を刎ねたか」
「そうです」
「一つ聞きたいのだが」
だがそこで祀は逆立てていた髪をおろし、咲月に問いかける。
「何故こいつを飼っていた花月?お前が氷川最後の生き残りになっていた時点で、首を刎ねておくべきであったろう?」
「私は…今もそうですが、陰陽師氷川家を復興させる気はありません。父と母を殺した家ですから」
咲月はそう言った。
「だから、それを悟った氷川の先代―――いい加減よぼよぼの爺さんでしたが、それは氷川の財産のうち、譲ったりできるものを出来る限り陰陽師の他の家に譲ったりしていました。この式もその一つ」
「…」
「さすがに譲りは出来なかったのですが、貸しておく形になっていました。玉川にです。そして私が最後の生き残りになっていた時点で、こいつは玉川の家に馴染んでしまっていました」
「そこに手出しをしにくかったという理由なのね」
「ええ」
しかしそこで咲月は冷酷な眼になった。それで、転がった黒鎧王を見下ろしていた。
「しかし敵になってくれれば話は別…」
「なるほど、放逐されて巨大な権限を与えられたからこそ、反逆も可能になっていたという訳ね…?本人もあずかり知らぬうちに」
葵は愉快そうであった。
祀も邪悪に笑っている。
「おう、敵ならば倒すに躊躇いはないという訳であるな」
「しかしあくまで貸し出されているだけで、コイツの身体を構成するのは氷川の霊力…つまり私からの霊力供給を受けている身です」
「初めから敵にもなりはせぬと、こういう訳か」
「その通りです」
そう。
黒鎧王は、又貸しをされてはいるが、本質的には―――咲月の式神なのである。
咲月の命令は絶対である。
氷川の最終継承者が彼女である以上、黒鎧王にそれに逆らう選択肢は存在しないのだ。爆ぜろと言われれば―――爆発するしかないのである。命令は絶対。それが式神であった。
咲月は笑って、
「…今回の騒動で、こいつを経由して良く情報が伝わってきていましたよ」
「なるほど、いい感じに利用しているではないか花月」
「しかし堪忍袋の緒が切れました。やはり許してはおけません」
ニヤリと咲月は笑っている。
黒鎧王は涙を流していた。
「…お、お嬢様…い、い、今一度…」
「今一度?貴方の口がよくその言葉を吐けるものね?」
しかしそう言い返した咲月の瞳には、血の混じる涙が浮かんでいた。無念の形相であった。
「…『無念ならば力を蓄えて俺に復讐すればよいではないか。楽しみに待っているぞ』と、子供の私に言ったのは何処の誰かさんでしょうねえ?」
「…おっ、おっ、お許し、…」
「氷川神無もそう言ったわ」
咲月の瞳が血走っていた。唇が切れて血が滲んでいる。
「―――そう、『この子がいるから許して欲しい』『この子だけは許してやってくれ』という言葉に、『餓鬼は風呂屋に沈めるのが上等と主は言っていたぞ?』と返したその言葉、私は良く覚えているわ」
「―――おっ…」
「風呂屋に沈んだわ…実際にね…」
何年も何年も、と咲月は笑んでいた。
魔王のような微笑み。
地が割れて全ての樹木が倒れ、全ての星が降ってきそうな―――そんな微笑みであった。
「身体を売り、血反吐吐いて、悪徳プロデューサーに酷い眼に遭わされ、枕営業をし、這い登り、そして―――そして、やっと出会えた師匠まで失って、それでもまだ私は諦めないで這い登ってきたわ―――」
数多の地獄を掻い潜り。
数多の地獄で泣き叫びながら。
それでも彼女は這い登って来た。
ここまで―――。
決して諦めずに、反逆の牙を研ぎ続けた―――。
「私は貴方を一度はそのまま放っておいた。何らかがあれば変わったのかも知れない…」
「お嬢様、しかし俺は…俺は今まで」
「やかましい」
しかしその言葉に黒鎧王は口を閉じた。閉じざるを得なかった。それが命令であったからにはそうするしかない。それしかないのである。
「赦してくれという言葉は聞かない。ひとたび目は実質的に許した。しかし今回二回目。私の母ですらなく、私自身に牙を剥いた」
「しかし、俺はそのような跡部からの命で…!」
「その跡部の命に左右されず調べられる権限はあったはずよね」
追い討ちがかかる。
「しかも住んでいるのが氷川屋敷。幾らでも疑う余地はあった。ここに来る途中の幻惑の結界も、私が直接敷いたものよ」
「…」
「何故疑問の余地をも抱かなかったのかしら。何故私が信を置く式に楯つき、あまつさえ顔を見知った灯の言葉さえ信じなかったのかしら」
「…」
「許す余地は欠片もありはしない」
咲月は掌を翳した。
黒鎧王は涙を最早溢れさせて、しゃくりあげてすらもいた。嗚咽をかみ殺すことすらもなく、
「…しかし己は、お嬢様の御為に…ここまで」
「違うわ」
「…」
「貴方は私の式ではない。氷川の家の式神」
冷たい言葉であった。
「だから氷川の家の為と思えば何でもする。私の母を殺すことも、主の私に楯突くことも」
「…」
「全て、氷川の家の為…いや、氷川の家に仕える自分が可愛いから。徹底したサラリーマン思考。だから必死になって視野を狭くした。氷川に復帰したい一心で決定的に道を踏み外した」
咲月は最後に言い放つ。
「私はそのような式は不要。必要とするのは、氷川の式ではなく、私の式。私に仕えてくれる式神、そして友と師…弟子」
「…俺に、二度と、機会はないのですか…」
「たとえ那由他の輪廻の彼方ですら、貴方の顔を拝むのは御免被るわ。『消えよ』」
涙を流す鎧に、死刑宣告であった。
頭が消し飛んだ。
欠片も残らなかった。
沈黙が降りた。
葵が扇子を閉じた。
「…そろそろ大人数が帰ってくる気配ね。夕飯は大丈夫かしら?」
「大丈夫じゃないかも知れません…」
「仕方がないわね」
そう言って、師は、弟子の眦の涙を指先でぬぐった。
「…私も手伝ってあげるわ。準備の手伝いをなさい」
「はい、かしこまりました大師匠様」
「豪勢にするわよ?」
夕飯が近い。




