32.逢魔時
苛烈な修行は、休む間もなく続いていた。
もう日は長いというのに、日暮れになるまで続くこともしばしばだった。
場所も色々である。
河原や体育館、町はずれの運動公園のこともあった。
そこに連れていかれて、しこたま殴り合いをするのである。
技らしいものも、少し教えて貰ったりもした。
土日の間は、一日中。
それは銀河も璃絵も変わりがない。
銀河を教えるのは、陽太であったが、たまに日暮れに朱鞠内緋鞠が入ってきて、少し別腹の特訓もあった。
身体は疲れているのか、少し家事をすると、眠ってしまって、気づけば朝であった。
しかし、怪我をしにくい身体もあってか、傷を引きずることもない。そのせいもあってか、先生の攻撃も日増しに過激になっているようであった。
まあ、それをいなしてゆくのが銀河のやるべきことなのだが。
その日の特訓は、運動公園でのことであった。
雨上がりの運動公園で、制服を半分泥に汚しながら、銀河は立ち上がる。
頬を殴られて吹っ飛ばされたのである。濃い血の味。しかし歯が折れたのも一度や二度でもないはずなのに、すぐに治っていたりするから―――そういうものなのだろう。
一番星はおろか、二番三番星も輝き始める夜空。
先生は「ヨシ」とだけ言った。
「今日はここらへんで切り上げとくか」
「ありがとうございました」
「ま、並以下から並、並上にはなったかな。そこらへんの異能者学園よりかはよっぽどスパルタメニューにしてあるからな」
ニヤリと先生は笑った。
「宮原、今日の送りは俺だ」
「あれ、お迎えはないんですね」
「まあ、正味そろそろお前にゃ護衛も要らんとは思うんだがな」
だいぶマシな戦闘力にはなってきたからな、と先生は乱れた髪を撫でつけながら言った。
「今のてめえならチャカの弾くらいなら弾き飛ばせるし、弾道も見切れる。さすがに戦車は無理かも分からんが」
「そうなんですか?」
自覚のない銀河。陽太は笑う。
「ま、俺以外と闘ってねえから分からんやな。跡部と一度くらい演習してみたらどうだ。もっとも跡部も相当成長してるだろうが、いいセンいけると思うぞ」
「咲月さんの許可が下りれば…」
「ま、跡部とは言わずともメイドや執事とやりあってみろ、それだけでもだいぶ感覚違うからな」
経験に勝るものはないということだろう。銀河は頷いた。
先生の車は国産のスポーツカーである。やはり神林製。
助手席に乗り込む銀河。エンジンを入れながら、先生は煙草に火を点けた。
「普通の学校なら、こんなトコしたって手当も出ねえし自分の仕事も減るハズねえんだが、何せお嬢様だから助かるぜ」
「…生徒指導のとかですか?」
「テストの採点とか問題作りとかな」
苦々しげな顔で先生は言った。呆れたような顔でもある。見た目通りの荒っぽい運転で、スポーツカーは星嶺の外れを走り出した。
「お嬢様がフォローしてくれるんでな。式神とか色々回してくれてな」
「…そんなこと出来るんですね」
「普通の式神にゃそんなこと出来ねえよ」
並の陰陽師の式神にはなあ、と陽太は言いながら、鋭くハンドルを切った。黄色信号の交差点を、鋭いカーブを描いてセダンが走る。
「普通にゃ出来ねえ。だがお嬢の式神は違う」
「…メイさんとか悟さんみたいに、ってことですか」
「あんなに上等な式を使える陰陽師は早々いやしねえ…そして宮原、お喋りはここまでだ」
「え?」
「カーチェイスの時間だぜ」
ぐん、と先生は笑って、ギアを一段変えた。
周囲の風景が変わっていた。
人が全くいないことに気づいた。人避けの結界が作動しているのだと気づくのに時間はかからなかった。
闇が侵食しつつある世界の中で―――戦いが始まろうとしていた。微かな悪意の波動に、肌が少し焼けるような感覚を覚えた。
銀河は唇を噛む。
「追っ手ですか」
「恐らくは跡部のな。俺が居る中仕掛けてくるたあいい度胸だ」
だがその喧嘩、先生は買うつもりらしい。表情は明らかに楽しそうだった。
バックミラーに映るのは、いわゆる黒塗りの高級車。それも一台ではない。十台くらいはいそうである。追突したら示談代わりに云々の冗談では済まされそうにない、そんな風景が広がっていた。
信号機の色は最早関係がない。いるのは敵だけだ。
一気にアクセルを踏み込む先生。グンと加速する。エンジンが唸り声を挙げて、夕闇の住宅地を駆け抜ける。
ごく変哲もない、通学路の道だ。
しかしそれだけに、制限速度は40kmの、片側一車線である。ガードレールギリギリの曲線を掠めるようにしながら、巧みなドリフト走行でスポーツカーは速度を一切落とさない。
Gを胸元に感じながら、銀河の唇にも、呆れ半分の笑みが浮かんでいた。
「容赦ないっすね先生…」
「若い頃はムチャしたもんだ。昔取った杵柄ってな」
「…峠とかですか」
「散々攻めたもんだぜ」
車が好き―――というより、無茶な走りはどうやらこの先生の趣味らしい。煙草を灰皿に押し付けながら、さらにエンジンが一段と火を吹いた。
「一見普通のクルマだがな、神林重工製の特製エンジンだ。ツテがあったんで安くは出来たがそれでも大枚はたいたんだぜ」
「…こういう戦いを見越してですか」
「それもある」
趣味と実用を兼ねた一品らしかった。
狭い十字路を直角に曲がり、車は山―――星ヶ嶺の方へとハンドルを切っていた。
山の社の方ではない。
山を越える、峠道の方である。
街灯がぽつぽつと灯るだけの寂しい道。銀河は悟の買い物の付き合いでこの道を知ってはいたが―――舗装は十分にしろ、急カーブが連続するところもある、初心者向けではない山道である。
バックミラーの彼方には、黒塗りの高級車のヘッドライトがまだ見えている。
「俺の領域に引きずり込んでやる」
「…絶対走りたいだけですよね先生」
「一台でも転げ落ちてくれりゃあ御の字だ。そうでなくても、相手の体力を削り落とすこた、出来る」
陽太はあえてそこでアクセルから脚を離した。車間が詰まる。だが、それも車数台分くらいまで。
そこまで詰めさせると、陽太は再びアクセルを踏んだ。唇には不敵な笑み。
「―――嫌と言うほど教えてやるぜ」
手の届きそうな位置にありながら、黒塗りの高級車はスポーツカーに届かない。
車の性能それ自体に余り差はないらしい。
山の直線では差は若干、登坂能力でむしろ向こうが勝るくらいであった。
しかし―――。
「―――」
ヘアピンカーブが連続する区間に差し掛かる。昼間は誰もが20kmくらいにまで落とす峠道。
カーブで速度を落とした高級車のドライバー達は―――目の前で、凄まじい速度で突っ込んでゆくクルマを見た。
あのままでは、ガードレールを突き破って谷に真っ逆さまだ―――。
そうなればラクなモノだ、と思っていたが、その楽観的な予想は木端微塵に打ち砕かれる。
目標の車は、山の法面ギリギリを攻めるような軌道を描き―――素晴らしいドリフトで、ガードレールを掠ることもなく、カーブを見事にすり抜けたのである。
追っ手が仰天したのはいうまでもない。
慌ててアクセルを踏もうとするも、既にヘアピンカーブは目の前で、迂闊な加速も出来やしない。
結局モタモタしながら全車曲がってみれば、既に車間は離れていて、目標は次なるヘアピンカーブに猛速で突っ込もうとしてゆくのである。
このままでは突き放される。
慌てて全車加速するも―――
しかし陽太はそこで速度を緩めるようなタマではない。
あっけなく次のカーブも抜け、鳥肌を泡立たせる助手席を余所にして、不敵な笑みを浮かべている。
追っ手は次は頑張ろうとした。
―――ヘアピンカーブ。
しかし経験もセンスもまるでモノが違う。昔から散々山を攻めてきたらしい陽太との技量差は圧倒的の一言。黒塗りの高級車たちはガードレールに次々とこすったり―――するならばまだ良かったが、陽太の目論見通り激突してスピンしてそのまま停止したり。
ガードレールを突き破りかけて慌てて急停車したり。
結局追ってくる車の数を半分にまで減らした。
目論み通りであった。
陽太はそれを何となく悟っている。
突き放しながらも、しかし、それだけで事が片付かないのを承知してもいる。
走り屋のバトルならともかく―――この場で逃げることに成功はしても、結局事態は何も変わらないのである。
陽太は、星ヶ嶺の峠道の途中―――山の上にある、ドライブインの跡地に車を滑り込ませた。
荒れてはいるが、広い駐車場。人っ子一人居ない空き店舗―――実質廃屋が連なっているだけ。
戦いの場としては、便利なものであった。
車から出ながら、「迎え撃つ」と言った先生に、銀河は頷いた。
「…酔ってはいなさそうだな宮原」
「普通なら酔ってると思いますけどね」
「ド緊張してるからか」
銀河は何も言わなかったが、それこそが図星であったし、それを分からない陽太でもなかった。
腕組みをして、二人は駐車場跡地で敵を待つ。
暫くの間があった。
ボロボロになった車列が、力なく峠にやってきたのは、日が暮れた後のことである。
月が照らす蒼い闇の中に、ヘッドライトを浮かび上がらせて、満身創痍の車列がやってくる。
ボンネットや側面をボコボコにした車たちは、それでも敵二人の姿を認めるや、彼らを包囲するように停車した。
しかしその数僅か四台。
十台は最初見えていたのだが、六台は落伍したらしい。
見事な陽太の動きであった。
陽太の目の前に立ったのは、かつて銀河も見たコトのある男。
二メートルはありそうな、若いながら熊のような大男であった。
その大男も、闇の中に浮かぶ顔は、どこか青白い。
不敵でヘラヘラ笑っている顔は相変わらずだが、どこか余裕がないようにも思えるのは、きっと気のせいではないだろうと銀河は思った。
風の霊気を纏っているのも同じだが、あの時のような、不思議な迫力は、幾らか薄れていた。
「…いい走りしてるじゃねえかい、オッサン」
「テメエだって似た年だろうに良く言うぜ」
大男に、陽太は悠々とした切り返し。
大男は、いつぞやのように、片手にいつの間にか大斧を手にしていた。銀河も革の手袋を嵌めて、両腕を握り込んだ。
陽太だけは悠々と、愛車のボンネットに腰掛けて腕組みをしている。
「あんたさんのお陰様で、うちの車は九台板金行きだぜ…?」
「ムリに追ってきたのは貴様らの勝手だ。それで勝手にお前さんたちが自爆した話だ。恨むなら自分達のひよっこな腕を呪うんだな」
陽太は笑っていた。愉快そうである。
「俺もクルマを三台はスクラップにして手に入れたドライビングテクニックだ。おたくら全員に腕が欲しかったら、人数かける3台の廃車は見越すんだな」
「板金代は、俺の給料から天引きだ。そのぶんてめえらの首で穴埋めさせて貰うぜ?」
その言葉に応じるように、黒服の男達や、袴姿の男達がざっと出てくる。
誰も刀を手にしていたり、槍を手にしていたり―――要は異能者達なのだろう。
銀河にもそれが分かった。
かつては分からなかった、霊力の気配というのが、確かに今は理解出来るのであった。
息を静かに吸い込みながら、武者震い一つ。
月の下で、小菅陽太は笑って一つ。
「宮原」
「はい」
「俺は有象無象をやる。しんどそうなのはそこの男一人だ。リベンジマッチだ、やってみろ」
こくりと俺は頷いた。
男が目を剥いた。怒りに青筋を立てていた。ヘラヘラ笑いが消えていた。
「てめえ、てめえの首と車は俺が貰って…」
だが、その時、銀河の瞳に、例の如く映るものがあった。
最早慌てることもない。するりと先生の前に、立ちふさがるようにして立つ。
先制攻撃。
相手が拳を振り上げる瞬間に、銀河は既に蹴りを放っていた。
先日の蹴りとは、威力も鋭さも桁外れに違う。霊力による強化が施された爪先は、確かに大男の腕を捉えた。
掠る程度だったが、大男が身を引く。
風を切るように放たれた一撃は、男の二の腕に一条の切り傷をつけていた。
先日までの銀河なら、まるでダメージを与えられなかった腕である。
だが、その威力に、大男が「へえ」と笑っていた。例のヘラヘラ笑いであった。
「やるじゃん」
「…」
銀河は応えない。青白い燐火のような眼の色のまま、冷たい表情をしていた。その冷静さを見て取ったのか、陽太も腕を回した。
「さて…。やるか。本気出せよ宮原。実戦だ」
「はい」
「その男は見る限り俺と同じようなタイプの能力だ。俺よりかはパワーに寄ってはいるが。冷静にやれ」
「分かりました」
「舐めやがって」
言ったのは大男。斧を担ぎ上げて、背後の闇―――部下達に声をかけた。
「…いいぜ、押し潰せ。御屋形様の、命令だ」
戦いが始まった。




