31.花宵
帰ると、畳敷きの一間で、跡部璃絵が転がっているのに出くわした。
ぐでぐでになって、餅のように伸びている。
夕闇に浸かりかけた世界の下。
璃絵は、灯りもつけず、薄暗くなった畳の部屋の中で転がっていた。
「…働いた」
「働いた?」
「しごかれた…」
死んだような声だったが、銀河は苦笑する。
相当鍛錬をされたらしい。璃絵は「う~」とうめき声を上げながら、どこか眠そうな声でもあった。
「…絵も見て貰えたけど…疲れた…」
「お疲れさん」
「お銀君も、お疲れ」
闇の中から、二つの眠そうな瞳が銀河を見ていた。
銀河は既に、作務衣姿である。
帰ってきて、着替えて早々の風景であった。
「…お銀君も、しごかれたんでしょ」
「まあな」
「何でそんなに元気…」
「何でって…」
そう言われて、銀河は少し答えに迷った。
確かにくたくたに肉体は疲れているに違いない。
先生の言う通り、高速治癒があるからといって、疲労がすぐに抜けるという訳でもないだろう。実際、心も相当くたびれているのを感じる。
だが、それにも関わらず、銀河は何かみなぎるものを感じているのも事実だった。
くたびれた身体をものともしない、衝動というか―――エネルギーがある。
結局、銀河は、一つの結論に行きついた。
「これが俺の仕事で趣味だし」
「趣味」
「家事」
「いい主夫になれるね…」
まともな返事をする気がないらしい。銀河は苦笑だけを返して、掃除機に取りに戸棚に向かった。
家事も、てんてこまいである。
主からは、「しばらくやらなくていい」なんて言われたが、銀河はこれでもそれが生きがいというか―――趣味の一つでもあることは間違いない。
嫌な主ならともかくとして、今なら尚更である。
この屋敷はピカピカにしがいもあるし、されたがっていると確信もしている。
踊り狂うように屋敷の廊下を行き来する。
メイさんには「お休みになられては…?」なんて言われたが、笑い一つを返して駆けずり回った。
そうしたい気分であったのだ。
しかし、悟さんと自分の洗濯物を整理しようと廊下を飛び回っている時に、とうとう捕まった。
「…メイから言われて様子を見に来れば。今日は休みなさい」
咲月さんであった。
顔は苦笑していたが、言葉の雰囲気は存外に厳しかった。そう言われては銀河も退くしかない。
頷くと、咲月さんは手に持っていたカンテラを掲げてみせた。
銀河も何度か見た、咲月さん愛用の、古そうなカンテラである。
それが、灯りの落ちたこの一角の闇で、暖かな光を放っている。
「働きたければ、そうね。適当な椅子を三つと、お茶と、卓を用意してくれないかしら?」
一も二もありはしない。
銀河の動きは迅速だった。雷のような速度で卓を縁側に置き、椅子を並べ、お茶を沸かしたポットを持ってくると、既に椅子の二つは埋まっていた。
一人は、自分の安楽椅子に悠々と腰掛ける咲月さん。
そしてもう一つは、背もたれに背を預けて、口から魂の抜けそうな表情の璃絵だった。
「…口から何か抜けそうだぞ」
「おなかへった…」
「もう少しでしょうから、お待ちなさい」
それまで、相手してあげるわ、と咲月さんは笑顔だった。
「お銀。何度も往復させて悪いけれど、台所でメイがイカリングを揚げているから、適当に皿に取り繕ってきてくれないかしら」
確かに、今日は夕食が少し遅いのである。
銀河が皿にイカリングを盛ってくると、咲月は既にお茶を淹れているところだった。
卓の上には、例のカンテラ。縁側を暖色の灯火で包んでいる。
「…今日は夕飯が遅いのよ。勘弁して頂戴ね」
「すみません、俺も悟さんに送迎して貰って…」
帰りも、悟さんに結局迎えに来て貰ったのだ。
それを謝ると、咲月さんは首を振って、
「それは大したことではないし、後々になれば勝手が分かるのだけれど、今日はそれ以外のこともやっていたのよ」
「それは璃絵の…」
「鍛錬もそうだけど、引っ越しもね」
早速に借家を引き払ってきたのよ、と咲月さんである。
そういえば、そうであった。
この跡部璃絵、星嶺の片隅に借家暮らしであった。
しかしこれからはここのお屋敷の御厄介。
早速に咲月さんは引っ越しに手をつけたらしい。
「女の子にしては荷物は少なかったのだけれど、絵が何せかなりの量あってね」
「絵ですか」
「お銀聞いて頂戴。私が小遣い稼ぎに売った絵、この子持ってたのよ、それも一枚じゃないわ」
何枚も、と言う咲月さんは嬉しそうな、苦々しそうな、何とも言えない表情である。
こんな子―――いわばお気に入りの子に、自分の絵を高く買わせたのが、気に入らないのだと銀河は何となく分かった。
璃絵はくたびれたような表情を持ち上げて、その瞳で師と友を見た。芯の据わった目つきである。
「…お小遣い総動員。お年玉までつぎ込んで買った。買わぬ手はない」
「いいの?あんな絵で」
「私の宝物です」
璃絵は頑として譲る気がないらしい。銀河にはその口ぶりの理由が何となく分かった。
「自分のなけなしの金を出して買ったからこそ…か?」
「それもあるし、それだけの価値を見出してる」
「咲月さんの本当のマジの絵って、でも幾らくらいするんだろう」
「さあ?画商に見て貰ったこともないし、見て貰う気もないから分からないけど」
そんなことを言う咲月さんだが、璃絵はすこぶる不満そうな顔で口を尖らせ、
「…先生、フリマに出してた。勿体無さ過ぎる」
「フリマァ!?」
幾らなんでもフリマに出すような品じゃないと思うが、という銀河の顔。璃絵も頷く。
「フリマに出てたものは全部私が買った」
「買ったのかよ」
「去年、定期的に出てた時期があった。通って買った。出てることを知ってからは朝一から店張ってた」
「執念じゃねえか」
「元々、悟が提案したことなのよ」
咲月さんは溜息。
「元々ゴミ箱に行く予定だった絵を、悟が『リサイクルしましょうぞ』なんて言っていたものだから、何をしていたのかと思いきや」
「それで、お小遣いですか」
「元々廃棄予定の失敗作の絵よ。興味も無かったから放置していたけど、そんなことをされていたと聞いて止めたわ。それ以来出してないハズだけれど」
「…私が出来る限り買った…」
瞳の奥に執念の蒼い炎を揺らめかせる璃絵である。何たる執念、と銀河は舌を巻くばかりだった。
咲月が苦笑いをして、
「この子、返してくれそうにないし」
「…私のもの…」
「気持ちは分かるけど」
「あら、お銀は璃絵の肩を持つ気?」
からかうような主の言葉に、銀河は一礼して腰を下ろしながら、悪戯っぽい微笑を浮かべていた。
「咲月さんの絵は、それほどの価値があると、俺も思っていますから」
「…全く」
肩をすくめる咲月。璃絵は黙ってイカリングをもぐもぐと頬張っていた。空腹なのは事実らしい。
カンテラの灯を囲んで、ちょっとした縁側のお茶会。
ご飯の前の団欒の時間。
高く掲げられた夜の星。庭の薄闇の中に、山の木々が黒くハッキリとした影になって浮かび上がっている。
少し厚手の長袖でちょうど良い温度。
相変わらず揚羽蝶の紋付を羽織った女主は、汗一つない、涼しげな横顔で庭を見つめていた。
眠そうにイカリングを頬張る璃絵に、銀河は顔を向けた。
どこか神妙な顔だった。
「…璃絵はもう慣れたのか?」
「ん?」
「お屋敷に」
だが、その言葉に、璃絵はもぐもぐとイカリングを呑み込みながら、茶碗を手にしてぼそりと一言。
「慣れる訳ないじゃん…」
「…さすがにムリか」
「くつろいでいるような雰囲気だからでしょ?」
主のフォロー。どこか気遣うような視線でもある。璃絵はそちらにも視線をやった後、銀河にその眼を向けた。
「…お屋敷の中、迷路みたいで、まだ迷う」
「まあ俺もちょっとかかった」
「でもお風呂大きくて好き」
「俺も好き」
「なら良かったわ」
笑うのは主である。
この屋敷の風呂は、それはそれは大きな檜風呂なのだ。
何でも、荒れていた屋敷に手を入れた時、根源的に作り直したのだともいう。「悪い霊も棲んでいたから」と主の言だが、その悪霊どもは今はどうなってしまったのだろうか。聞くには及ばない気がする銀河である。
しかし、そのおかげで、今、銀河や璃絵も大きな風呂を味わうことが出来ている次第。
ちなみに風呂掃除もやりがいのある銀河である。
―――かつて住んでいた屋敷では、使用人用の風呂は小さかった。
今はそんなものはない。
「お屋敷には慣れてないけれど…ここの雰囲気、好きだから」
それは前にも聞いたことのある気がする言葉だった。
土と水が合う―――そういうことなのだろう。
「何か、まったりしたい」
「…元の家とかは、どうだったんだ?」
少し、伺うような声だった。咲月も神妙な雰囲気になっていた。
だが問われた当の本人は、案外間抜けな表情―――というか、眠たいせいもあってか、余り真剣な雰囲気でもなかった。
「あんまり…」
「あんまり?」
「此処ほど、居心地よくない」
璃絵はあっさりばっさりそう言ってしまった。その視線が、遠い庭の先、青白い闇を見透かしていた。
「もちろん、生まれて、ずっと、過ごしてきた家だったけど…」
「…」
「思えば、それを振り切って、星嶺に家を借りる時も、あんまり躊躇もしてなかったし…」
『あんまり、こだわりなんか、なかったのかも知れない』、と、璃絵はどこか呟くように言った。
「…お姉ちゃんが、家のことは大体全部やっていたし、私はスペアというか、出来の悪い妹だったし、これからもそうなる予定だったし…」
「…」
「だから、まあ、親も、最初は星嶺に行くのを認めたんだと思うし」
思えば、それほど、璃絵自身は、実家に対する執着というのがなかったのかも知れない、と銀河は思う。
俺は好んで飛び出したクチだが。
璃絵も程度こそあれ―――似たものなのかもしれない。
「…両親や、お姉ちゃんと、敵対するというのは、あんまり本意でもないのだけれど…」
「…」
「でも、まあ、お銀君を、あんな風に人質に取ろうとか、そういうことをするのなら、喧嘩してもいいかなって」
『それでもいいかなって思う』と、璃絵は案外からりとした表情だった。
そこに湿気はなかった。
仄かな、情熱に似た怒りの感情が、表情の下に流れている。
それを銀河は感じた。
「…俺のために怒ったのか?」
「友達のために怒るのは、お銀君と同じ」
―――そうだった。
あの戦いの時、俺は怒ったけれども―――それはこの友達にだって、同じことが言えるのだ。俺だけの特権だなんてことはない。それが友達だと銀河は思う。
それが心地よかった。
それを確認し合える間柄が、心地よかった。
「私も怒ってるけどね」
そこでそう言ったのは、咲月さんだった。二人の視線を受けて、カンテラに浮かび上がった表情が、小さく笑みを浮かべていた。
「…全く、玉川ったら昔から変わらないときたものね」
「玉川?昔から?」
「跡部は玉川の双翼という話はお銀にもしたでしょう?…玉川派というのは、昔からああいう人質取るとか、見せしめとかに躊躇がない連中なのよ」
咲月がイカリングをつまみながらそう言った。
「陰陽師の家の縁もあって知っているのだけれど、そういう手合いだし…。璃絵ちゃんのことも分かっているつもり」
「でも、今回…先生なら」
「そうね。人質に取られるようなタマじゃないし、第一この屋敷には祀様の助けも借りた、隠匿の術がかかっているわ」
そう咲月は言った。
「敵意、悪意を持つ人物は、この屋敷の道の途中で迷うようになってるわ。迷った挙句Uターンするように仕向けられている」
「先生、その術は、普通一般人を寄せないための術のハズですが…」
「璃絵ちゃん、私の術はその程度じゃないわよ?」
咲月さんは溜息をつくと同時に、どこか唇の端には―――例の不敵な笑みを、うっすらと浮かべていた。
「私の術は、異能者も寄せないわ。この結界を突破してくるようなら、良い相手になるから、謹んでお相手仕るけれども、そうでなければ相手をする価値もないわ」
ふてぶてしいほどの宣言であったが―――きっと早花咲月なら出来てしまうのだろうと銀河は思う。
璃絵はイカリングの最後の一切れを口に押し込みながら、
「ならあんひんふぇふ(なら安心です)」
「お嬢様ー!璃絵さーん、お銀さーん!ご飯できましたよーっ!」
合わせたように、食卓の方から声がかかった。咲月が立ち上がる。卓の上からカンテラだけを片手に取ってぶら下げながら、
「片付けは後にしましょ、お銀。ひとまずご飯ね」
「はい、ご相伴させて頂きます」
「わー、ご飯」
お腹の音が盛大になった。
璃絵のものであった。
夕食の時間である。




