28.スパイ
氷川屋敷の車は一台である。
悟の助手席に座りながら、銀河は苦笑していた。
「…本当に、神林財閥って何でもやってるんですね」
「と、言いますと?」
「この車だってそうなのに」
「ああ、まあ、そうですな」
悟は苦笑しながらギアを入れる。駐車場から滑りだしてゆく車。神林自動車製の、変哲もないセダンである。
誰でも知っているし、どこにでも、何にでも製品がある神林。
しかし、裏の世界にまでそういうものがあるとは―――いや、むしろ当然なのか、と銀河はただぼんやりと考えた。
車は山道を下りながら、星嶺の市街地へ向かってゆく。
星嶺の朝の市街地は、さほど混んでいることはないが、むしろ注意すべきは歩行者や自転車―――すなわち通学の生徒たちである。
昨日の雨は嘘のような快晴。
特に何か変事があることはなく、車は無事、学校の割と近く―――旧市街地の中にある、一つの居酒屋の駐車場に滑り込んでいた。
紅葉さんに挨拶をするという悟さんに行ってきますを告げて、銀河は歩き出す。
旧市街地を抜けて、外れまでゆくと、すぐに学校は見えてくる。
校門の前に、見知った姿が一つ、仁王立ちして、校門をくぐる生徒に朝の挨拶をしていた。
今日、銀河が、放課後会えと言われていた、その人物であった。
「おはようございます」
「おはようさん。来やがったな宮原」
口調はぶっきらぼうだが、口元にはどこか頼れる笑みを浮かべていた。
小菅陽太である。
いつも通り、海賊のような黒い長髪に無精髭。よれよれのスーツなのにそれが不思議と砕けた印象を与えてくる。
銀河の担任教諭にして、生徒指導、そして―――放課後の指導(?)の担当者となるはずであった。
「放課後、聞いてるな宮原?」
「聞いています」
「放課後落ち着いたら職員室まで顔出せ。俺もちッと仕事片付けたらてめえの相手してやるよ」
お嬢様の命令だからな、と陽太は言った。銀河はただ一礼をして校門をくぐった。
教室はいつも通りの風景。
五月の半ば、テストが落ち着いたのも束の間、次の実力テストや模試が迫っている。どことなく憂鬱そうな雰囲気もどこかに漂っていた。
窓際の己の席も、いつも通り。
柔らかい朝の陽射しが注いでいる。
後ろの席から、朗らかな視線。
「あ、宮原君おはよう」
「おはようさん」
思わず変な声が出かかったが、銀河は仏頂面で何とかそれを抑え込みながら返事をした。
丹羽ほのかの姿だった。
普通に制服を着た普通の姿で、何ら普段と変わることがない。
変わったのはむしろ、銀河の方である。
『異能者だ』。
いきなり言われても信じがたいが、璃絵も咲月さんもそう言うのである。多分自分が感じられないだけだろうと銀河は思う。
だが、これからは、迂闊なことは喋れない。そういう命令だ。
まあ、だが、元々お屋敷のことについては余り喋らなかったし、喋る気もなかったような気がする自分である。
その通りに振る舞っていればいいのだろうと思う。
ほのかが声をかけてくれる。
「璃絵ちゃん、休みだって」
その言葉に銀河は驚く。どこでその情報を知った?―――そう思ったが、その動揺も無表情で覆い隠した。ただ無難に、
「休み?」
「スマホで連絡があったの、休むって」
なるほど、と銀河は理解した。
いつもの璃絵、いや昨日までの璃絵なら、休むとなったら―――多分ほのかに連絡して、そこから俺に伝えて貰うように言うに違いない。
璃絵も『いつも通り』に振る舞っているのだ。
正確には、昨日までの態度を貫いている。
だから、俺も、何食わぬ顔で、
「そうなのか、理由は?」
「分からないけど、多分いつものことだと思う」
「なるほど」
原因不明の欠席…というか、気乗りしないから休むということだろう、というほのかの推測。銀河も合わせるように頷いた。
まあ今回はショックを受けたということもあるだろうし、咲月さんが色々知りたいこともあるだろうから、というのが事の真相だと銀河は知っている。
だがそれはおくびにも出さない。
ほのかは頬杖をついていた。机の上には既に一時限の教科書が置いてある。
「…追試、うまくいったと聞いたばかりなのに、何で休んじゃうかな」
「俺が教えたお陰でな」
「そうだよ、せっかく宮原君が色々教えてたって聞いたのに、宮原君にもそれは失礼なんじゃないかなあ」
友人に苦言のほのかは、いかにも善良なことを言ったし、本音なのかも知れない。いかにもほのかという感じであるから、本音の一部ではあるのだろうと銀河は思う。
銀河は深く考えるのをやめた。
彼女がスパイだとしても、深く考えすぎてもしょうがない、というそれだけだった。
俺の手には余る案件だし、俺に出来ることは、命令された通り、「いつもの通り」にするだけでいい。
だから、
「かと言って、授業に真面目に来ている璃絵も想像しにくい」
「地味にひどいこと言ってるけど私もそうかも」
ほのかの苦笑。
「何?璃絵休みなの?」という声が聞こえて、やってきたのは一つの影。金髪を揺らしながらやってきたのは、鞘堂エリスであった。
「いつものことにせよ、宮原君にはちょっと失礼じゃないかしら」
そしてエリスは自分の机に荷物を投げだしながら、ほのかと同じようなことを言う。
「いつも宮原君におんぶに抱っこさせて貰って、そのまま卒業出来る…そう考えられても厄介よ?」
ニヤニヤどこか下心ありそうな笑みのエリス。その笑いが妙に銀河の心に障った。銀河はだんまりのまま、持ってきた水筒からお茶を一杯。
「宮原君がそれでイイっていうなら止めはしないけど♪」
大方俺と璃絵がお似合いだとか、下衆の勘繰りをしているのだろうと銀河は思う。もしかしたらもう尾ひれ背びれのついた噂が広まっている可能性もある。
そしてそれを言いふらしそうな雰囲気―――というか、言いふらしているだろうと銀河は思う。確証はないが、こういう類の女というのは、そういうものである。男に尻尾を掴ませるような立ち回り方はしていないし、銀河もそれくらい承知の上。
まあ、だからこそ、銀河はこのエリスに好印象は無い。
前の学校と同じようになるのは勘弁だな、と思いながら、しかし、銀河は、既に別のことを考えている。
しかしさりとて、別に針のムシロであろうと、仕事と割り切ってしまえば別に余り苦でもない。
あのお嬢様の命令で、潜り込んでいるのだと思えば、その程度の道化を演じることだって別にやぶさかではない。
―――あの令嬢の時と違うのは、辛い思いをしたって、あそこに帰れば、暖かな笑顔が迎えてくれるのだという、そういう確信。
学校が針のムシロであっても、俺には帰れる場所がある。
それだけで銀河には十分。
「それにしたって、宮原君も教えるのうまいのね」
「別に大したテクニックは使ってない」
「テクニック?」
「御褒美が無ければ動かないのはむしろ当然なだけだ」
銀河は机の上に教科書を広げながら、仏頂面ながらにそう言う。エリスとほのかは顔を見合わせた。
エリスが興味津々な顔だった。
「…何かエサで釣ったの宮原君?」
「釣ったけどノーコメントだ」
「でも璃絵ちゃんを動かすって相当のことだよ」
ほのかも「何やったんだろう」と興味深げである。エリスが相変わらずニヤニヤ笑いながら「何やったんだろうねえ」なんて言っている。
少し言い過ぎたか、なんて銀河が思っている脇で、丁度良く予鈴が鳴った。
これ幸いとばかりに銀河はそっぽを向く。会話はこれまで。
授業が始まる。




