27.朝
翌日は、いつも通りの朝であった。
屋敷の雨戸を開けて回っている銀河に、朝の挨拶の声がかかる。
「おはようですぞ、お銀さん」
「おはようございます悟さん」
朗らかな挨拶。いつもの通り、何も変わらぬ表情。悟さんは相変わらずの上機嫌の笑み。やたら高い背を猫背にして、くいくいと眼鏡を押し上げる仕草。
「早速ですが、朝ご飯の時に、お嬢様が、連絡事項があるとのことですぞ」
「…まあ、そうでしょうね」
そんなことはあろうかと銀河は思っている。
いつも通りに屋敷の簡単な掃除を済ませると、早速メイさんの呼ぶ声が。
食卓に顔を出すと、眠そうな顔をした璃絵が既に座布団の上で半分船を漕いでいた。
寝間着のままらしい浴衣姿のままである。
「…ん…お銀君、おはよう…」
寝ぼけ眼である。それでも意識は半分起きているらしい。そんな瞳の眠そうな挨拶。銀河は苦笑してから座布団に座った。
「おはよう。あんまり安眠した様子でもなさそうだな」
「璃絵ちゃんは今日は欠席の連絡を入れたわ」
その声に銀河は振り向く。
屋敷の主が微笑んでいた。
縁側から注ぐ、五月の晴れ間と、同じような柔らかい笑みであった。
いつも通り、落ち着いた着物姿。揚羽蝶紋の羽織をゆったりと羽織って、扇子を手にした姿が様になっている。上品な若奥様―――そんな風に言われても納得してしまうだろう。
銀河は頷いて、
「おはようございます、咲月さん」
「遅れたけれど、おはよう。…昨日の今日でドタバタしているのは承知なのだけれど、お銀は学校行けるかしら?」
「そのつもりです」
銀河の言葉にはキレがある。瞳もいつも通り。
ちなみに、睡眠時間もキッチリ8時間取っている。
その様子に、咲月は「問題なさそうね」と呟くように言った。
座布団に優麗に腰を下ろす。ふわっとシャンプーの香りが広がる。銀河がドキリとするに十分なそれであった。
「早速だけれど、お銀。今日から暫くは送迎を使いなさい。行きは悟にお願いしてあるわ」
その言葉に、いつの間にやら脇に来ていた悟が親指を立てての笑顔。
銀河が頭を下げた直後に、
「帰りは学校で聞きなさい。…教職員の誰かしらに送っていって貰うように手配はしたわ」
「いいんですか、咲月さん」
「これも上司の仕事のうちよ」
静かで穏やかだったが有無を言わさない口調であった。銀河はただ頷くことしか出来ない。
「とりあえず、異能者として、このお屋敷に雇われたとなったからには…お銀」
「はい」
「少し命令も変わるわ」
その言葉はどこか優しくも厳しい。並べられてゆく茶碗やおかずを前に、銀河は神妙に上司の言葉を聞いていた。
逆らう気など、微塵もない銀河であった。
「ひとまず、二つ命令をするわ」
「はい」
「一つは、暫く学校での態度を変えないこと」
その言葉に、銀河は頷いた。咲月は言った。
「昨夜も言ったけれど、学校には他の組織…どこかは分からないし、意図も全く分からないけれど、スパイがいるわ。こちらが何か悪だくみをしている訳ではないにせよ、痛くもない腹を探られるのはいい気分のものでもないし、とりあえず気を配って…でも気づかれないように演技していなさい。演技といっても、あくまでいつも通り、平常運転よ」
「了解しました」
銀河は頷いた。
―――演技に自信がない訳ではないが、さりとて自分が異能者であること、そしてこの屋敷の事情をどこまで隠しおおせるか。
これについては、出来る限りを尽くすしかない。
痛くもない腹とはいえ、咲月さんは―――昨夜も言っていた。
余り表に出たくない、それに尽きるのだろう。
昨日璃絵に念押ししていた、何らかの事情―――氷川花月という名前に何か絡んでいるのかも知れない、と銀河は思った。
咲月は指を二本目折りながら、「二点目」と言った。
「とりあえず、今日から早速鍛錬を始めるわ。お屋敷のことは当座悟とメイに任せておいて、鍛錬をなさい。そのための準備はこれから放課後までに私がやっておくから」
「放課後はいつも通り屋敷に…?」
「それは追って連絡するわ。誰か教職員に伝えさせる。多分小菅先生か緋鞠から連絡がいくから、それに適宜従って頂戴」
そう言って、咲月は箸を手に取った。
頂きますの合図であった。
本日の朝食は、ベーコンエッグを中心としたオーソドックスないかにもな朝食。
サラダのドレッシングはメイさん謹製の自家製だという。
色々手の込んだ朝食を前に、璃絵の瞳も冴えてくる。
「…朝ご飯…豪華」
「どうぞ、召し上がってくださいね」
メイの笑顔。璃絵もいただきますの挨拶をしながら、どこか横目で、気遣うように師を見ていた。
「…先生」
「何かしら?」
「お銀君も、作るんですか」
小さな言葉に、咲月は頷いた。
「ええ、暫くは鍛錬に時間を割いて貰うけど、後々にはまた家事にも復帰して貰おうと思ってるわ。お銀のお味噌汁美味しいし」
「恐縮です」
銀河はそう返事をした。照れるしかなかった。
「…私も?」
「それについてはおいおい考えるわ。璃絵ちゃんの家事の腕前は未知数だし、向き不向きもあるから。やりたいというのなら、重点的に考えるけれど…」
「…」
「ひとまず、優先的に、絵と術ね」
咲月はそう言った。
「術の方は、璃絵ちゃんにとっては不本意かも知れないけれど…」
「…覚悟は、してます」
「よろしい。お銀は未定だけれど、璃絵ちゃんは私自身で暫く面倒をみるわ。絵も陰陽の術も、教えるに適当な人は私くらいしかいなさそうだから、そこは消去法でそうなるしかないのよ」
その言葉に、銀河は少し疑問符の浮いた表情で、それを察して咲月は頷いた。
「お銀は、まず、適性からね」
「適性…?」
「一通りの術をやらせてみて、一番伸びしろのありそうな能力を伸ばすわ。予知のことは分かっているけれど、それだけでは基本戦えない。予知だけで終わるという可能性もあるけれど、お銀は他にも潜在的なものはありそうだし…。予知だけというのならば、仕方がないから、その点を補うような道具やら装備を揃える必要もあるし」
既に咲月色々とは考えを巡らせている。
「体術は現時点で相当のものだから、それを活かせる類が使えれば手っ取り早いのだけれど。それにしたって強化もあるし加速もあるし、パワースピードテクニックどれに寄っているか、ひとまず計測の必要があるのよ。それについては私がやる必要はないから、学園の誰かに任せるわ。それに従ってね」
「了解しました」
一口に野球にせよ、色々と選手に適性があるように、この能力だってそうなのだろうと思う。
魔法使い向きのステなのに、肉体を鍛えてもしょうがない。
俺が何向きなのか、それをまず調べてから―――と咲月さんは言っているのだ。
「お銀はそれから。璃絵ちゃんは最早語る必要もないから手っ取り早く私からの即時指導」
「…先生の術…」
「私の陰陽の術はとことん我流だけれどね」
そう言って咲月は笑みを浮かべながら、璃絵を見つめていた。
「実戦向けの攻撃特化よ。色々な師匠に教わりながら煮詰めていったものだけれど」
「…氷川流、などではなくてですか」
「氷川流なんてものあったかも不明だし、…私は術を教わる前に両親亡くしているから、あったとしても実質別物だと思うわ」
その言葉に、璃絵は気まずそうに瞳を逸らす。
咲月は「いいのよ」と言っていた。
「あえて氷川の要素があるとしたなら、母さん譲りの霊具を使うということくらいね。あとは師匠譲りの剣とか術とか諸々」
その言葉に、悟がメイと顔を見合わせた。
「…もしやお嬢様、剣も出来るのですか」
「さる一刀流剣術の皆伝よ。抜くまでもないけどね。私が剣を抜いたら本気だと思って頂戴」
「白虎殿に勝つことも出来ぬ私には、はるか遠い夢でありましょうなあ」
「そうね、悟にはムリそうね」
あっさりバッサリの咲月は面白そうに笑っていて、悟は涙目であった。そこまで厳しく断定しなくても、と銀河は思うが、実際そんな気がするから仕方ない。
箸の進む食卓。
銀河がベーコンエッグを平らげたところで、その視界に何やら横切るものが目に入った。
思わずかけてあるハエ叩きに手を伸ばしかけるメイ。
しかし現れたのは、虫ではなく、昨夜の茶色い毛玉―――オコジョっぽい小動物であった。
銀河も昨夜目にしている。
管狐。
咲月さんの式神である。
「ふにゃん!」
「アミダ、戻ったの、早かったわね」
「ひにゃにゃにゃ」
主の言葉に応じて、後ろ足で立ち上がり、何かしゃべり始める管狐である。しかし当然のことながら、一同さっぱり言葉は理解出来ない。
しかし咲月は理解しているらしく、「そうなの」とか「それで」とか相槌を打ちながら会話をしていた。
「ふにゃ」
「了解したわ。お使いありがとう、部屋で休んでいて頂戴」
そして咲月がベーコンの一枚を放ると、管狐はそれを口で器用に受け止めて、満足そうに頬張りながら姿を消した。
管狐もベーコンを貰えて幸せそうな表情をしていたのが、銀河にとってはほっこりする場面だった。
メイが各自に食後のお茶を注いで回りながら、
「…お嬢様、何を話されていたので…?」
「お銀に連絡」
「はい」
「放課後、小菅先生のところに行きなさい。話はついてるわ」
その言葉に銀河は頷く。咲月は素早い言葉だった。
「…スマホを使いたいのもあるけれど、万が一の傍受を考えると、なかなか使いにくいこともあるからね」
「なるほど」
メイが手を叩く。悟も味噌汁を啜りながら、
「神林財閥や雨宮ならば傍受も容易いでしょうからな」
「そういう能力者もいるという話だし…。とりあえず悟、学校までお銀の送りはお願いね。余り目立つのも差し障るようなら、学校近くのどこぞでもいいわ。『さんらいず』あたりでも。ついでに紅葉にも適当に連絡してくれるかしら」
「あいや、了解致しましたぞ」
頷く悟。銀河が、
「あの『さんらいず』の紅葉さん、お知らせして大丈夫なんですか」
「紅葉のことは信頼しているわ。問題ないし、これから何かあったらあそこのお店を使って頂戴。内々に話したい時は、専用の部屋も用意してくれるはずだから」
「分かりました」
頷く銀河。
時計の針を見て、悟が「やや」と声を上げた。
「車を出すからと、お喋りを過ぎましたかな。お銀さん、早いところ支度を頼みますぞ」
「あ、はい」
気付けばいい時間である。最後は味噌汁を一気に呑み込んで、ご馳走様の挨拶。
咲月さんは、箸を一旦おいて、にこやかな笑顔を執事に向けていた。
「…頑張ってね、信頼しているわ」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それだけで頑張れる、銀河だった。




