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星の降る町  作者: 笹霜
PR
24/42

24.試験

早花咲月は、縁側に居た。


籐の安楽椅子に腰かけて、深く身を沈めている。小さく瞳を閉じて、静かに微笑んでいるように見えた。


咲月の前には、一つの小さな卓が置かれて、上にカンテラが乗っていた。


そのカンテラ以外に、照明はない。


だが、そのカンテラが、ほの明るく、縁側の闇を照らし出しているのだった。


暖かな色の、灯であった。


卓の前には、咲月と向かい合うように、二つの椅子が出されている。


カンテラの傍らには、ポットと、茶碗が三つ。


その茶碗は、いずれもまだ、伏せられている。


縁側の外には、蒼い光に満ちた、庭があった。


雨は既に上がっている。


雲が物凄い速度で動いている。


その雲の間で、月が輝いているのであった。


その月に、世界が照らされているのである。


月と星ばかりの天の下で、雲が分かたれて千切れてゆく。


夜の氷川屋敷であった。


足音がした。


咲月が目を開けた。


やってきたのは、待っていた人物であった。


「…おかけなさい、二人とも」


宮原銀河と、跡部璃絵だった。


璃絵は、まだ、赤さを残した瞳がそのままである。まだ動揺したままなのだろう。暫く泣いている璃絵を、咲月は一人にしておいたのだった。


銀河も、唇がまだ青い。緊張が顔に残っていた。


最初の命のやりとりをした後というのは、そういうものだ。


咲月もくぐってきた道である。十分に承知していることだった。


「…訊きたいことは、色々あるだろうし、私もあるのだけれど…」


そう言いながら、咲月は手慣れた仕草でポットからお茶を注いだ。慌ててやろうとした銀河を視線で制した。


「…何から話したものかしらね」


いざ、困ってしまうわね、と咲月は微笑んでいる割に、困っている様子ではなかった。


ちなみに、未だに狩衣姿である。


橙の狩衣に、深緑の袴だった。腰には黒漆塗りの太刀が一本。無駄な装飾は無いが、それだけに実用刀の雰囲気を感じさせた。


璃絵は、その泣いた後の瞳で、師をただじっと見つめていた。


若いながら、落ち着きと風格の漂っているその姿に、何かを感じているかのようだった。


「…先生は、陰陽師なんですか」


「そうね」


あっさりと咲月は肯定した。優しい微笑みであった。


「跡部家のことも承知しているわよ。陰陽師、五大の家の一つ、玉川家を支える双翼のうちの一つ」


「…先生、それじゃ、何もかも…」


「何もかもという割には知らないけれどね」


咲月は儚く笑っていた。いつもと変わらぬ笑みだった。昼間見せた、凶暴な気配は、今は跡形もなく消え去っている。


いつものような、先生の顔をした、若い女主の顔だった。


「跡部の家の中身まではさすがに詳しくは知らないわ。璃絵ちゃんが、そうなんじゃないかなってことは、思っていたけれど…」


「…私が、陰陽師だって、じゃあ、先生は…」


「知ってたわ。一目見た時からね」


咲月はどこか、ほんの僅かに、哀しそうな色を湛えた瞳をしていた。銀河はそれを見ているだけで、胸が締め付けられる気分がする。


―――そんな顔をしないで欲しいと、銀河はそれを思うだけだった。


「…だから、最初、璃絵ちゃんを、軽々しく家に呼ぼうとは思わなかったの。そういう筋からのスパイの可能性も、あるからね」


「先生、だから…」


「でも、璃絵ちゃんが、絵にかける情熱が本当らしいと分かったから…」


咲月は眼を細めた。愛おしそうな瞳であり、優しい表情だった。


「…だから、家に上げることにしたのよ。陰陽の家とか、自分の能力とか、全部かなぐり捨てて、絵を描きたいって、そんな意志を感じたから」


「…」


璃絵は言葉に詰まったようだった。何かを言おうとして、喉元に詰まった様子だった。それを整理している間に、銀河は脇に目をやり…それから主をみやった。


主は少し表情を変えた。


どこか、うっすらと、愉快そうな表情でもあることに気づいた。


「…お銀は、陰陽師って、知っているかしら?」


「それは…」


銀河も、幾らなんでも知っている。


陰陽師。


咲月は言った。


「まあ、最早色々ありすぎて、この日本の陰陽師も、日本版の魔法使いと言っても差し支えない状況なのだけれど」


「…大体のところは分かります」


「言霊使いとか式神使いとか、五行の属性使いとか、色々あるのだけれど、まあそれはこの際省くわ。とにかく陰陽師というものがいて、それはこの日本で…無論表には知られていないけれど、裏世界では結構な人数がいると、そう思ってくれていいわ」


私もそうだし、璃絵ちゃんもそうね、と咲月さんは言った。


「璃絵ちゃんは、そのうちの、結構な名家…跡部家という陰陽師の家のお嬢様。次女ね。結構な潜在能力がありながら、それを蹴って、絵をずっと描いていたいと願ってる子」


「先生…!」


璃絵がちょっと驚いたような顔だった。咲月は笑っていた。


「見れば分かるわよ、それくらいのことは。どうして家に連れ戻されようとしているかも。貴女の能力を買いたがっているのは、何より一番、貴女の実家…家でしょう?」


「…」


「そして、今までは何らかの理由で黙認されていたけれど、その黙認される状況がなくなった」


そんなところでしょう、と咲月は言った。


「その理由が何なのかは、全く分からないし、今は話さなくてもいいわ」


「…」


「でも、まあ、それに抗って、絵を描くのなら、描きたいと願うのならば…」


咲月は微笑んでいた。


「力が必要というのは、分かるわね?分かっているわね?璃絵ちゃんも」


「…」


璃絵は黙っていた。黙ってただ、顔を俯ける。咲月さんはそれから俺に目を向けて、


「お銀には言った筈よね?」


「…はい」


「力が必要なのよ。やりたいことを、押し通すには。己の希望を突き通すならば」


ただそう言って、咲月は茶碗を傾けた。仄かに立つ湯気。ほうじ茶の香り。


「ただ、己のやりたいことだけをやっていては…食べられないし、それを嫌に思う人物もいる。それがたとえ、他人に迷惑をかけるものでないとしても、それを望まない人物がいたりする。たとえば璃絵ちゃんの家のこととか、お銀の追っ手とか」


「咲月さん…!?」


「皆まで言わないわ」


俺の背後を見透かすかのような言葉に、咲月さんは笑っていた。どこか得意げな笑みでもあった。段々と、儚い例の笑みが消えていることに気づいていた。


「お銀も…特に璃絵ちゃんにとっては、望まない結果であることは分かってるわ。今回も」


「…」


「本当は、私のところで、絵を描き続けられれば、それがベストなんでしょう、多分璃絵ちゃんにとっては」


でも、そうもいかない、と咲月さんは言った。言いながら、まるで状況整理をしているかのような―――俺達の心をまとめているような。


「でもそうもいかない。私の下で延々と絵を描き続けて、私が養い続けている訳にもいかないし、璃絵ちゃんだって、私が…跡部からの追っ手と延々とやり合う状況になるのも、心苦しいでしょう?」


「…」


「なら、仕方がない。やるしかない…自分が望む方向に、運命を変えるために」


そう言って、咲月さんは少し身を起こした。ひじ掛けに持たれて、行儀悪く頬杖をついた。


不敵な笑みを、浮かべていた。


「今夜にも、今すぐにでも、すぐに心を落ち着けろとは言わないし、言えないわ」


「…」


「でも、そうなるしかない。もうそう回り始めているわ」


受け入れるしかない、と咲月は告げた。それを告げるために―――この主様は、俺達の目の前にいるのだと、銀河はそれを悟った。


不敵で不遜な瞳が、俺を見つめていた。


「お銀も、…やる気、あるわね?」


「無論です」


何を今更、と俺は頷いていた。咲月さんは笑っていた。「その覚悟やよし」と小さく呟くような言葉が聞こえてきた。


「私が、教えてあげましょう、与えてあげましょう。戦うための力を。それに見合うだけの力を。その力、無駄にはならないわ。璃絵ちゃんの、そして自分の運命を切り開くために、その力を使いなさい。ただし」


そこで、咲月さんは一区切り。その間に、俺は合いの手を入れる。まるで予定調和のように、


「…ただし?」


「あくまで私はお銀にソレを教えるだけ」


教えることはしましょう。


導くこともしましょう。


「ただし、決めるのは、開くのは貴方の手でなさい。そうでないと、意味は無いわ。私はただ背を押す者。主で、上司かも知れないけれど、代理人ではないわ。貴方の人生に出しゃばる権利は、私にはないし―――同様に、誰にだってあるものじゃない」


そこで咲月さんはニヤリと笑う。


「そして、璃絵ちゃんにしろ、お銀にしろ。私のことは案ずるには及ばないわ。私は、自分の身は、自分で十分守れるもの。私への迷惑とか、そういうことは、一切考えないで良いわ。貴方達に、迷惑の火の粉をかけられるくらい、私は十分承知しているし、その火の粉を払えるくらいの心持ちだし―――」


保護者というのは、もとよりそういうものよ、と、早花咲月はどこか悠然と告げた。


暫くの沈黙があった。


説得力があった。


あの場で―――部下、悟さん一人で、瞬時に切り抜けてしまった咲月さん。


メイさんの力も必要なく。


ただ立って、二言三言、指令を下しただけだったのだ。しかも―――パワーセーブの。


ならば、と考えた矢先で、声を上げたのは、璃絵だった。


その小さな唇が、震えていた。


「…先生」


「何かしら?」


「先生は…私の家が、どういう家だか知っても、それでも…?」


その声は震えていた。だが咲月さんは、その言葉を聞いて、一瞬だけきょとんとした表情の後に、噴き出すかのように笑っていた。


何かが可笑しいらしかったが、璃絵は唇を噛み締めて暴発していた。


「先生!分かっているんですか!?陰陽師五大の家の大きさを!!私の家はその一つの玉川派、そのナンバーツーと言ったら…!!」


「分かっているわよ」


だが、それをあっさり押し潰すような一言だった。その余りにもあっさりとした切り返しに、璃絵が思わず言葉に詰まる。


ひじ掛けにもたれたまま、咲月は小さく溜息を吐き出した。


苦笑しているようでもあったが、眼は優しい。やはり、愛おしい人を見る眼で、璃絵を見つめていた。


「優しいのね。全く…」


「先生、幾ら先生といっても、玉川派を相手にして…!」


「んー…」


だが、璃絵の言葉を、咲月は手で制した。何かを考えている風でもあった。ひじ掛けにもたれたまま、少し、思いを巡らせている風でもあったが、やがて再びの溜息だった。


「…ま、なら、いいか…」


「?」


「お銀」


そう銀河に声をかけて、咲月は立ち上がった。優麗な仕草だった。綺麗な栗色のロングヘアが夜風に流れる。銀河は「はッ」と反射的に返事をしていた。


咲月は開いた縁側から、庭を見つめ、


「私の椅子を持って、ここから庭に出て頂戴」


「は、はい…?」


「璃絵ちゃんも庭に出ましょう。お銀はサンダルで構わないけれど、璃絵ちゃんは靴履いて、玄関から回り込んできなさい」


「…?」


不思議な言葉ではあったが、二人は逆らわない。言われるがままに、銀河は籐の安楽椅子を持ち、サンダルを突っかけて庭に出た。


草履を履いた咲月が、静かに前をゆく。銀河はその後を黙ってついてゆくだけだった。


池の傍に広がる、ひたすら馬鹿でかい広い庭である。


広大な山の一角を切り開いて作られた、巨大な回遊式日本庭園である。


縁側から暫し歩いて、特に広くなっている一角で、咲月は歩みを止めた。


「このへんでいいかしら」


「?」


「椅子を置いて頂戴」


言われたままに、銀河は、綺麗になった砂利の上に椅子を置いた。


草履のまま、咲月は事もなげにそれに腰掛ける。


何の気もない様子。何かをする訳でもなさそうではあったが、銀河はただ言われたままに傍に控えるだけである。文句の一つも言わなかったし、―――咲月さんなら何かの思惑があるのだろうと、確信していた。


璃絵が追って来た。


しかし、急ぎ足でやってきた璃絵を、少しの間合いを持って、咲月は手で制した。


十メートルくらいはあるだろうか。そこで手で制して、


「…璃絵ちゃん。信用して貰えないなら、まあ、信用させてあげるわ」


「…先生…?」


「潜在能力は相当のものを感じるわ。相当出来るんでしょ、璃絵ちゃん?」


そう言って、咲月は不敵な笑みを再び浮かべた。全く動く様子もなく、月の下で、椅子に腰かけたままである。


「貴女のベストの間合いでいいわ。特大の本気の術、一発撃って御覧なさい」


「…!?!?」


「私の腰を少しでも浮かせることが出来たなら、璃絵ちゃんの心配を認めてあげてもいいけれど、」


早花咲月は月を見上げる。相変わらずふてぶてしい笑みであった。


「無理だから、とにかくやって御覧なさい」


「…」


しかし、いきなり「撃ってみろ」と言われて、―――撃てる奴がいるものか、と銀河は思う。ちらりと主に目をやると、主も応じたように目を向けて、しかし、


「あ、お銀はちょっと下がってなさい。別に私の近くにいれば怪我はしないでしょうけど、今のお銀だと目を傷めるくらいはあるかもしれないわ」


「目ですか…」


「割と強烈に光ったりするのよ。特に雷を扱う道術とかだとね」


その言葉に、璃絵がぎょっとしたように身を竦ませる。咲月は笑っていた。


「図星?跡部は道術系の技を得意とする家だと聞いてはいたけれど、やはりそうなのね」


その間に、銀河はさっと後退している。間合いを取って、池の畔のあずまやに入ると、そこには先客がいた。


メイさんと悟さんが、揃って影からその様子を見ているのだった。


「おお、お嬢様が誰かと向かい合わせで術を放たれるとは、久々ですな…」


悟さんはあずまやの影から顔を出して、ワクワクといった調子で眼鏡を押し上げている。メイさんも拳を握って、


「お嬢様の術が見られるとは…是非この機会逃してはなりませんね…!」


そんなことを言う執事にメイドだから、銀河も俄然気になってしまう。二人に並ぶようにして、あずまやの影から顔を出して、月下の様子を伺っていた。


銀河は気になっていた。


「…悟さん、メイさん、咲月さんが術?を使うって…」


「滅多にないことですぞ?」


「大抵私達だけで済んじゃうという事情もあるんですけど」


悟さんにメイさんの言葉。悟さんは指を立てて、


「我々を従えた時でさえ、御自らは術を殆ど使うことありませんでしからな」


「…えっ?」


その言葉に、銀河は思わず疑問符だった。


この悟さんと、メイさんは、何だか知らないが、モノノケや化生の類で―――咲月さんの式神だという。


当然、それらを従える時には、何らかの悶着とか、契約があったのだろう。


その時にも、何もなかったのか?


しかしそんな疑問を先回りして、メイが頷き、


「そうですよ。お嬢様にとって我々なんてものは本当に本当に小手先なんです」


「小手先…?」


「お嬢様は他にも式神をお持ちでしてな」


悟さんが言う。どこか悔しげな口調でもあった。その眉が皺くちゃに曲がって、何とも言えぬ複雑なものに。


「戦闘向きの式神ならば、我々の知る限り、あと二体お持ちですぞ。その二体がまた滅法強いときていましてな」


「私達なんて5分戦えば御の字で、あっという間にノックダウンです」


「我々二人がかりでもそのうち一体を相手に出来るかどうか…」


悟は溜息。


「我々ごとき、お嬢様じきじきの手を煩わせるでもないという有様ですぞ。無論お嬢様ご自身はそれよりも飛びぬけて強いのでしょうからな」


銀河は思う。


―――悟さんは、あの時、俺を吹き飛ばしたあの大男を、あっという間にKOしてみせた。


そればかりか、執事達を一瞬で退けた。一人で。


しかもそれで出力が一割だという。


その悟さんが、出力全開で、かつメイさんと組んで倒せない、上位存在がいて。


その上位存在のそれまた上に、―――咲月さんがいるのだという。


銀河は唖然としていた。その言葉だけで、咲月さんの論外さ―――べらぼうさが垣間見えた気がしたが、それが、きっと、今度、真実として目の前に現れるのだろう。


「…悟さん。その、悟さんとメイさんの上の式神っていうのは…?」


「ああ、そこは気になるでしょうが、普段は表に出ませんぞ」


屋敷の中にはいますがな、と悟さんは親指を立てて例の御機嫌なGJサイン。


「一人は実はお銀さんは何度か目にしておられたりもするのですが、お銀さんは気づかないだけですぞ」


「…えっ?」


「もうお一方はいつもお嬢様の部屋にいらっしゃられて出てきませんし」


メイさん苦笑。


「でも、お銀さんが修行されるのであれば、近々お会いする機会もあると思いますよ」


「何、片方は人語が通じませんが別に敵でなければ怖いものではありませぬ。もう片方は愛嬌がありますぞ。まあ敵でないことを感謝するばかりですがな」


カハハ、と笑う悟さんである。


銀河も乾いた笑いを浮かべるしかなかった。


そして、再び主の方に目をやれば、そこでは、景色が少し変わっていた。


璃絵の格好が、少し違っていた。


先程まで、星嶺の制服だったのに、今は違う。


纏っているのは、漆黒に金襴の装飾の入った、道士の服の如きもの。


手にするのは、長い、黒檀の木の杖であった。


「道服ですな」


悟さんの解説が入る。


二人の間には、神妙な雰囲気が流れていた。


咲月に言われ、一応構えを取ったものの、しかし、やはり、いきなり撃てる璃絵ではない。気難しい表情をしている。それを察して、咲月が溜息だった。


「…なら、仕方ないわね」


少しだけ見せてあげる、と言い、咲月が扇子を広げた。


瞬間、烈風が巻き起こった。


咲月を中心として、凄まじい烈風の渦が巻きあがり、細かい砂利が吹き飛んで宙に舞い上がり、月の下に砂埃を作った。


遠くで見ているあずまやの銀河が、思わずのけぞる程だった。


悟とメイも息を呑む。


「おお、アレですぞ、技を使うまでもなく霊気をほんの僅かに解放しただけであの有様…」


「今、すんごい霊気が充満してますが、これ全部お嬢様のですか…?」


「間違いないでしょうな」


悟の頷き。銀河にも分かる。


肌をビリビリと焼く―――清冽な気配。濃密な『気』としか呼べないものが、庭に満ち満ちている。その気が、この月光を受けて、キラキラと光り輝いているように見えた。


いよいよ庭の空気が、透き通って、澄み渡ったかのようだった。


悟が指を立てて、


「これとて、ほんの僅かなんでしょうなあ、お嬢様にとっては…」


「お銀君は何となく分かっていると思いますが、」


そこで口を挟んだのはメイだった。


「その筋の能力者は、霊力とか魔力とか、そういうものがあります。並の能力者はそれを隠すだけで手一杯です。隠しきれていない能力者も大勢います」


「…」


「強大な能力者とは、凄まじい気を内部に押し込めて、巧妙に隠しておくものでしてな」


悟られないようにですぞ、と悟は言った。


「昼間のはそこそこ出来る手合いでしてな、隠すことは出来たし、それを解放することも自由に出来る類ですが…解放したところでこんな風圧を巻き起こすことなんてのはてんで出来ないでしょうなあ。たとえ全開に解放しても」


「お嬢様は持てるごく一部を解放したに過ぎないでしょうね」


メイは言った。


「お銀さんには分からずとも、式神として、お嬢様とリンクしている私達には良く分かるのです…」


「…」


既に目の前では、璃絵が愕然とした表情であった。


風圧を巻き起こした咲月は平然としたままで、椅子に座って構えている。扇を閉じて狩衣に仕舞いながら、


「来なさい」


それだけ言った。


それだけで、璃絵は決意したらしい、出来たらしい―――そう銀河には分かった。表情が変わるのが、月下に良く分かったのだった。


目が見開く。その小さな唇が、呪を唱えているのが分かった。


ふわりとその小柄な身体が宙に浮く。


構えた大きな黒杖の先に、光り輝く球体が出現していた。


バスケットボール大から、やがて車を呑み込むかというくらいに膨れ上がったそれは、バチリバチリと電撃をスパークさせて浮き上がる。


咲月はそれを見て溜息だった。


「全力でと言ったのに、遠慮してるわね?」


「…全力です」


「いいでしょう」


ぶつけてみなさい、とそう告げた。言われるまでもなく、巨大な雷撃を纏った球体が、まるで大砲から放たれた砲弾のように、咲月目掛けて、撃ち放たれた。


咲月は動かなかった。


マッハの速度で迫る、その巨大な雷撃球。喰らったら一面爆破して馬鹿でかいクレーターを作るであろうソレを目の前にして、咲月は動かない。


動く価値を認めない。


ただ、小さく、右手の人差し指で、目の前の宙を、ちょい、と突いただけだった。


それだけで、爆裂した。


咲月のすぐ目の前に迫っていた雷撃球が、一瞬で弾けて霧消する。


まるで何が起こったか、誰にも理解が及ばない。


ただ、ありのままに、目の前で起こったのは、あれだけ巨大だった雷球が、まるで身をよじるようにぐにゃりと歪み―――そして稲妻の余韻を残して、木端微塵に砕けてしまったことだった。


璃絵が唖然としていた。


咲月は平然としていた。


無論、腰が浮いている訳もない。


溜息だった。


「本気を出しなさい」


それを見て、璃絵も、いよいよ瞳の色を変えた。


本格的に―――目の前にいる『先生』が、元々並ではないことに気づいたが―――本当に、真に、並ではないと悟ったからだった。


傷つける心配はない。


それを悟ったのだった。


宙に浮いた璃絵が杖を一振りすれば、浮き上がるのは数々の雷弾。先程のものより小さく、バスケットボール大といったところだが―――それの数が多い。十かと思っていたものがたちどころに二十三十と増え、五十にまで膨れ上がった。


僅か十秒もない時間である。


璃絵が再び杖を振るや、その全てが月輝く天に舞い上がり、そして全方位から咲月の椅子を狙って疾駆する。


併せて黒い杖を振れば、風が巻き起こり始め、璃絵はさらに新たな追撃態勢であった。


だが咲月は相変わらずだった。


左の肘で頬杖をしながら、目の前の術の査定をしている―――そんな調子であった。


「…メイや悟を苦戦させられはする、その程度かしら」


咲月は指を突き出しただけだった。


それだけで全てが変わる。


咲月目掛けて疾駆していた雷弾が、ふわりと全て軌道を変える。新たな風の術を展開しかけていた璃絵の表情が変わった。


狼狽の表情だった。


「防ぎなさい。本気で防がないと、怪我するわよ」


咲月を目指していた雷弾の軌道が、全て揃って変わる。狙いは術の元の主―――跡部璃絵。


すなわち。


咲月は、何ら一切のスキも何もなく、璃絵の術をそっくり奪い取って、そのまま突き返してみせたのである。


咲月を目指していた筈の雷弾五十超が、全て、稲妻迸らせる弾丸となって璃絵に突撃する。


そればかりではない。


庭に満ちる咲月の霊気を吸収し、バスケットボールよりもさらに巨大、二回りか三回りも大きくなって、その色も青色に変じさせ、スパークもさらに禍々しく。


明らかに強化―――凶悪化する。


「ッッ!!!」


璃絵は放ちかけていた風の術を中止―――するのではなく、その風を身体に纏うようにして防御を展開する。風が黒雲を纏い、その中で雷が閃いた。


その黒雲の衣で璃絵が包まれた瞬間に、雷弾全てが璃絵に突っ込む。


煙吹き上がる爆発が、氷川屋敷の片隅で巻き起こった。


小さく地が揺れる程の衝撃。大気が揺れる圧力に、銀河は唖然としていた。メイも悟も息を呑む。


「おお…さすがお嬢様ですぞ」


「相手の技の支配権を奪って自分のものとするとは…」


「…」


咲月は薄い笑みを浮かべている。


吹き上がった砂煙、黒煙。


その黒煙は、広がって、すぐに薄くなって、消えるはずであったが、しかし、そうはならなかった。


もくもくとその黒煙が、―――かえって色を濃くさせ、空に広がり始める。


たちまちのうちに、それは屋敷の上の空を覆うような雲になった。今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした黒い雲が、低く厚く垂れこめる。


それを銀河は唖然として見上げていた。


やがて、黒雲の中で、雷が閃き始めた。


雨は降りそうで、降ることはない。


しかし、その代わりに、雲の中で見え始めたものがあった。


何ものかの鱗である―――雲の合間に見える、その巨大な爪と、角、そして鱗に、銀河は見覚えがあった。


見覚えがあるどころの騒ぎではない。


「…龍だ」


龍。


龍が雲の中で泳いでいた。


大きさは、この屋敷の上全てを覆い尽くす程はあろうか。悟とメイもそれを見上げて「おお」なんて呑気な溜息をついていた。


「なかなかですな」


眼鏡を押し上げながら、興味深げな悟。


銀河が、その雷鳴を聞きながら、漏らしていた。


「あれが璃絵の式神…?」


「さて、どうでしょうかなあ?」


しかしそこで、意味深に悟が笑い、銀河が首を傾げた瞬間、雲からその龍が、一直線に地上に首を伸ばしていた。


電光と雷鳴と共に、黒雲を纏った龍が、電光石火、大きな牙を向いて、咲月の上から急襲したのである。

あっ、と銀河が声を上げかけた瞬間。


猛獣の唸り声がした。


地を割るような地鳴りの音。


今度、「あッ」と声を上げたのは、銀河ではない。メイと悟であった。


咲月の背後から、巨大な一匹の白虎が現れたのであった。


いつからそこに居たのか、いつ現れたのかは分からない。ただ地を割って現れたかのように、その白虎は咲月の背後で、一つ、月に染み込むような轟き声を一つ、上げた。


銀河の背筋を凍らせるに、十分な咆え声であった。


咆哮。


その白虎は、地を蹴り、真上から襲う龍に、飛びついた。その―――サーベルタイガーのような長い牙で、龍の頭を捉える。


その瞬間、銀河は目を疑っていた。


風景が一変していた。


先程まで空を覆っていた黒雲も、雷鳴もない。


ただ、巨大な、―――銀河が一人二人乗っても、びくともしないような、巨大な白虎だけが、依然としてそのままだった。


白虎は、その黄色い眸を爛々と輝かせて、目の前の少女を見つめていた。その牙が、何かの札を砕いたのを、あずまやの三人はその時見た。


悟が「意外でしたな」と声を上げる。


「まさか…式神殿が出てこられるとは」


「え…?」


「お嬢様の式です」


メイさんがそう言った。顔はどこか青白い。


「…お嬢様、まさか本気になられた訳ではないでしょうが…」


顔が青白いのは、―――白虎の目の前の、璃絵も同じであった。自らの雷撃を防ぎきれなかったのか、焦げ目のついた道服と、傷ついた杖を構えて…白虎と向かいあう。


だが、その瞳が、激しく震えていた。


杖の先が震えている。


白虎が牙を剥いた。唸り声。


咲月は笑っていた。


「白虎。仕掛けては駄目よ」


その声に、膝小僧を笑わせながら、璃絵がか細い声で師を呼んだ。


「…先生…」


「璃絵ちゃんの幻術を破ることそれ自体は、簡単だったんだけれどね」


咲月は微笑。


「璃絵ちゃんが、龍の幻像なんかでやってくるから、つい、虎を出したくなってしまっただけよ」


「…白虎…」


「そうよ、神獣、白虎」


咲月は頬杖をついたまま、こくりと頷く。


悟は銀河の傍らで、真面目な顔をしていた。


「神獣白虎…。お銀さん、御存じですな?」


「青龍、朱雀、玄武、白虎のアレですか…」


「先程の龍は、道士らしい璃絵殿の幻術ですが、お嬢様のアレは幻の類なんかではありませんぞ」


間違いなく本物の白虎、と悟は言った。


「我々二人でも到底及びはせぬですな」


「神獣白虎…それを召喚するとなって、依り代となる猫を、お嬢様は普段は奥で飼っていらっしゃいます」


メイがそう付け足した。


「普段はお嬢様のお部屋にいらっしゃるだけなので、お銀さんはお目にかかったことはないかと思いますが」


「普段はただの子猫ですからな、案ずるに及ばぬのですが…」


「お嬢様が指令を下せばあの通りなのです」


神の獣。


あるいは神そのもの。


それを、平然と、早花咲月は従えている。


銀河は未だにピンとこなかったが、璃絵には最早事の重大さが分かっている。


―――神獣を従えられるような能力者は、裏世界にはそうそういるものではない。それこそ、日ノ本を頂点を極めたると言われる数名のみが、扱いを許される領域の式神なのだ。


そうでなくば、神獣を召喚する代償として、その他全ての能力を捧げているような場合。


しかし早花咲月はそうではない。


他の能力も万全に扱いこなし、璃絵の攻撃をいとも簡単にあしらい、寄せ付けず―――式神を呼ぶだけで、容易く戦意喪失させた。


「…先生。先生は一体…」


「いずれ、おいおいね」


しかし、それを咲月は語らない。ただ、夜の空のように、湿り気のない表情でそれだけを言った。


「でも、大体、璃絵ちゃんのレベルも分かったし…」


「…」


「教え甲斐もあるわね」


ふっと璃絵は笑い、それから、あずまやの方を見て。


少しだけ、怖い笑顔を作った。


「あと、メイに悟?貴方達には、夕餉の準備を頼んだつもりだけれど?」


「は、はッ!?」


「た、ただいま!!??」


―――二人とも、興味があったのか。


多分気づいて黙認していたから、ちょっと脅しただけなんだろうなと銀河は思う。けれども、咲月さんの怖い笑顔は―――本当に怖い。


屋敷の中にすっ飛ぶようにして戻る二人を見送ってから、咲月はそれから天を見上げ、それから椅子を立ちあがった。


「お銀」


「は」


「椅子を元に戻して頂戴。それから、門を開けて」


「門?」


「お客様が来ているわ」


どうせ、先程の音でも聞きつけたんでしょう、と咲月さんは事もなげに言った。


「偉い人だから、粗相のないようにね」


その笑顔の一言だけで、銀河は誰が来たのか悟った。


ああ、何だ、あの―――お茶目な神様かと、それだけを思って、どこか安堵して。


それから椅子を持って、急いで母屋に戻るのだった。




夕食が近い。

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