22.力
「探しましたよ、璃絵様」
銀河は背後を振り返った。
一人の大男がいた。他数名の執事―――ああ、やはりそういうことか、と銀河はさほどの驚きもなくその風景を見ていた。割と見慣れた風景である。嫌な風景だが―――。
霧雨の土手の上、俺の目の前に、一人の大男が立っている。
三十路くらいだろうか、イマイチ読めない。
身長は俺よりニ十センチはあるだろうか。肩幅も、そいつの頭の幅の五倍はあるんじゃないだろうかというくらいに、厳つい。
シャツの上からでも、巌のようなその身体つきが、良く分かる。
大きな樽のような二の腕を剥き出しにしている。
赤黒い髪。右眼に走る傷跡。まるでヤクザのようだと思うし、実際そのようなものだろう。
髭はないが、陽気な笑いを浮かべていた。
しかし、どこか、こちらの背筋がうすら寒くなる笑い方だった。
陽気に笑っているとしか言いようがないのに、どこか、圧すような感覚を覚えるのである。
実際そうであろうと銀河は思う。
璃絵は、平坦な表情であった。
冷めた眼で、銀河を挟んだ向こう側の男を見ていた。
「…風馬」
「学校にも、家にもおられませんで」
「何で来たの?」
「御姉様からお聞き及びではなくてですか?」
嫌な声だった。銀河の背筋に障った。璃絵は淡々としていた。表情が消えていた。
「…お姉ちゃん」
「お父様は、全てお見通しですぞ?」
「嫌だと言ったら?」
風馬と呼ばれた男が、その時、ちらりと背後の執事に目をやった。
瞬間、銀河の両の瞳が焼けるように痛んだ。
―――何だ、コレは。
銀河が狼狽したのも無理はなかった。
銀河の瞳に―――今起こっている風景とは、まるで別の風景が映っていたのである。
瞳、というか、脳裏に、といった方が正しいかも知れない。しかしそれは正しく視覚情報として、脳内で電気信号として処理されていた。銀河の脳内で、ありえないはずの―――目の前で進行している風景とは、まるで別の景色が展開する。
銀河に見えていたのは、ある景色だった。
大男の背後から、一人の執事が滑り出てきて―――恐ろしく素早い速度で―――俺に拳を浴びせてくる、そんな画像だった。
スローモーションのように、その画像が、脳内で処理されて、銀河の脳の奥底に焼き付く。危険信号を浴びせてくる。
この間、コンマ数秒、一秒の数十分の一。
その間に、銀河はその画像を、映像を、『視た』。
だから。
一秒後に、大男の背後から、黒いサングラスでスーツの男が滑り出てきた瞬間に、脳内で再びの電流が走る。
―――あッ、と全てが繋がる。
俺は、これから、何をされるのか、それが―――分かったのだった。
先程、脳の中で見たものが、真実だという確信があった。
あれは、真実―――というよりも、これから真実になる映像だ。
原始の本能レベルでそんな確信が迸る。ならば迷わない。ただ拳を振るわれる趣味は銀河には無い。
かつては、ただ暴力を受け入れていた自分―――。
しかし今は違う。
俺は―――今は―――。
あの令嬢に仕えている己ではなく、そう、ただの―――。
跡部璃絵の、友であればいい。
銀河は両腕をクロスさせていた。黒服の執事が、滑るように銀河の前に移動して、岩をも砕くような速度で、拳を繰り出していた。
常人なら、防御は間に合わなかったろう。
銀河は、武道を心得ている―――令嬢の護身用として―――が、それでもきっと、間に合わなかっただろう。
だが、しかし、そこは、―――銀河は、間に合った。
相手のアクションの前に、相手の行動が読めていたから。
だから、眼に捉えきれないような執事の拳を、クロスさせた腕で辛うじて防いだ。
凄まじい衝撃が銀河を襲った。
相手の身のこなしから、分かってはいたが―――それでも、大岩をぶつけられたかのような衝撃。グラつく体幹を立て直す。驚いたような顔の大男。目の前のグラサン執事も同じだった。
璃絵の悲鳴が上がった。
銀河の脳内に再び紅の電流が走る。
次は蹴りが飛んでくる映像が見えた。綺麗な回し蹴りが飛んでくる。風を裂いて、頭の横を狙った一撃だ。もろに貰えば首が折れかねない一撃。
しかし―――。
読めているなら。
相手の身体能力が上でも、まだ―――やりようがある。
防御したままの銀河を狙い、執事の足がふっと動きを見せる。目にも止まらぬ早業と見えたが、しかし銀河は既に身を屈めている。地に這いつくばるような姿勢を作った瞬間、頭の上を綺麗な回し蹴りが掠めて飛んでゆく。
銀河の咆え声が轟いた。
回し蹴りの瞬間、一本の足で立つその瞬間を狙い、銀河の足払いが宙を払う。完璧な不意打ちの軌道、華麗なカウンター。
見事に決まった足払いに、執事の足がもつれ、そのまま背中から地面に叩きつけられる。
大男の顔が、真面目なものになっていた。
「…多少は出来るようだな」
「逃げてお銀君!!」
悲鳴が、俺の背中にかぶさって来る。
「私一人なら逃げられるの!でも、お銀君が一緒じゃ…!!」
「…逃げてどうにかなるのか?」
「…!?」
だが、そこで、銀河の口から洩れたのは、凶暴な溜息だった。拳を引き構えて、焼ける瞳の奥底に、未来を見透かして、ただ敵を見据える。
目の前で、倒した執事も再び起き上がる。
敵は大男含め4人。最早誰の瞳にも油断は無い。
「…璃絵。こいつらは、まあ、さっきのやりとりを考える限り…」
「…」
「璃絵が嫌だというのなら、見せしめに、俺をボコり放題にボコろうと考えている下衆なんだろう?」
その言葉に、誰もが答えなかった。ただ璃絵は悔しそうに唇を引き結び、大男はヘラヘラと笑っている。癪に障る笑い方だった。
「…正直、出来る連中だって分かってる。璃絵の言った通り、勝つのは難しいだろう。俺だって武道をかじったことはある」
「それにしたっちゃあ、さっきの動きはやたらキレがあったがな」
そういう大男のヘラヘラした笑みを、銀河は完璧にスルーした。瞳は敵を見据えているが、意識は背後の女の子に向いていた。
「…俺がここで逃げられれば、璃絵も逃げられるのかも知れない」
「そう…!」
「でも後に何が残る?」
「何がって…?」
銀河は己に言い聞かせるかのようだった。怒りは煮えたぎっているが、既に頭には無い。全ての怒りは手足に回す。鋼鉄のように焼き付き、筋繊維が沸騰しているのが分かる。
けれども―――頭は驚くほど冷静だった。
「後には何が残る?せっかくここで見つけた絵描きの夢も、これから先生に教えて貰う夢も、何もかも捨てて、またどこかにゆくのか」
「…でも、それで、迷惑をかける訳にはいかない…!」
璃絵の瞳から、涙がぼたぼたと零れ落ちる。
はじめて見せた、悲痛な泣き顔だった。
璃絵が、しゃくりあげる。霧雨の中に、嗚咽が響く。
「…お銀君も、先生も、大切な、人だから…!だから、迷惑なんて、かけたく、ないの…ッッ!」
「馬ァー鹿」
しかし、そこで、銀河は拳を引き握り、ニヤリと笑った。
凶暴で―――しかし、とびっきりに純真な、少年の笑みだった。
嬉しそうで、楽しそうで、でも、どこか、獣のようで。全てが混じった、屈託のない、少年の笑みだった。
「…それは俺だって同じだぜ。璃絵。俺だって、お前は、最初の友達なんだ」
「…お銀君…」
「そんな、迷惑なんてどうだっていいんだよ。友達ってそういうもんじゃねえのか?よく知らないけど」
―――そんなのどうだっていい。
ただ、照れたように、ぶっきらぼうに、銀河はそう言った。
「…ただ、俺は。友達が困ってて、そんなに泣いてて、そこで見捨てるようなのは、友達じゃないと思ってる」
「お銀君…でも、私、友達だからこそ…」
「傷ついて欲しくねえってか?うるせえや」
銀河は顎を引いて、構えを作った。―――勝算なんか、最初からまるで考えていないけれど、それでも。それでもやらなくちゃいけない時があると、宮原銀河は信じていた。
頭の中に、再び声が木霊する。
『余は反逆の神である』
―――ああ、分かってる。
銀河は、リフレインする声にそう頷いた。
あの神様は、俺に、反逆の星が見えるといった。
そうなのかも知れない。
ここに来て、友達が出来て、そして初めて―――俺は、逆らうということを、本当に、初めて、意識したのかも知れない。
俺は、今まで、自分のことからも目を逸らしていたけれど。
でも―――璃絵のことに、首を突っ込んで、初めて、嗚呼、と全てが理解出来たのだった。
俺は、逆らいたい―――いや、ここに居たいんだ、って。
この土地が好きで。
咲月さんも、メイさんも、悟さんも、璃絵も、緋鞠先生のことも、きっと好きで―――。
これから、好きになれそうな人もいっぱいいる、この土地で。
もっと、俺は、俺でいたい。俺が俺がいていいと、そう赦してくれるところで、己の生を全うしたいのだと、そう、今、この瞬間、気づいたのだった。
ならば迷うことはない。
ただ、猛り狂った意志のままに、撃鉄を引き起こして―――。
我儘を、突き通すだけだ。
それを由としない連中に、牙を剥いて、反逆の星の下に、ただ、暴れるだけなのだ。
「…璃絵。なら、夢追おうぜ。何言われたのかも知らないけど、こんなゲスの言いなりになるこた、何もない」
「…お銀君…」
「ゲスも何もなあ」
だが、そこで大男は、ごつい肩をすくめた。相変わらずヘラヘラした笑みである。
「俺は命令に従うだけだ、そんな親の仇みたいな眼で睨まないでくれよ?目的のために、リスクに見合う手段があるなら、俺達はそうするだけさ。てめえをなぶって、結果璃絵様が戻ってくれるなら、俺達にとっては大いに結構。てめえや璃絵様から恨まれようが、俺達にとっちゃ雇い主の御機嫌さえ取れりゃあそれでいい」
その言葉に、キッと璃絵が大男を睨む。大男は相変わらずだった。
「そう睨まないでくだせえよ、お嬢様。お嬢様を傷物にしちゃあさすがに俺達も飯が食えねえから、これでも我慢してるんですぜ」
「…嫌だと言ったら、お銀君じゃなくて、別の子でも良かった訳…?」
「まあ、そうですなあ」
大男はヘラヘラ笑っていた。
「まあ、その、件の絵のお師匠さんとかでも良い訳ですからなあ。ここで璃絵様がお逃げになられたならば、そちらの方の身許も保証できませんな」
「心配ない」
だが、そこで銀河はキッパリそう断言した。璃絵が驚いた顔をしている。大男も笑いを少し引っ込めた。
銀河は焼けつくような瞳を自覚しながら、―――半ば既に確信に変わりつつあることを、口にした。
「あの人も相当の式神を持ってるし、土地神様と親しい」
「…!?お銀君…!?」
「結界の中に入っているにしてはやけに常人らしいと思っていたが、やはり異能者だったか」
ケラケラ、と大男が笑う。璃絵は驚いた顔。
「…しかし俺ら跡部家を舐めるなよ若人。貴様は知らんだろうが、陰陽五大の家、玉川が双翼の一翼だ。てめえが思っているような代物より、ずっとデカいんだぜ」
「うるせえ」
だが、最早銀河には関係ない話。焼けつくような息を吐き出して、敵を睨む。
「璃絵。ここで逃げても、―――多分、ずっと、逃げ続けることになるだけだぜ」
「お銀君…」
「戦うなら今しかないんじゃねえのか」
戦うしかない。自分の夢を邪魔するのなら。―――力づくでも止めるというのなら。
娘の友達さえも刃にかけようというのなら、尚のことだ。そうやって他人を巻き込むような親だから、璃絵もきっと、遠慮して、友達がいなかったんじゃないかとか、そんなことを銀河は思う。
本当は、こんなにいい奴なのに。
こんなに優しい奴なのに。
「…璃絵がやらないっていうのなら…」
「やる気かい?ま、遊んでやってもいいぜ」
「俺だって、こんなくだらねえ戦いに巻き込まれるのはゴメンだぜ」
ペッと銀河は唾を吐いた。
「だが、てめえらが、璃絵を泣かせようが腕づくで連れ帰るとか、さもなくば璃絵の友達を見せしめに吊るし上げるとか、そんなことやるようなら―――」
「友達、かい?」
「そういうこった」
「ならまあ最初の予定通りだな」
大男は笑った。うすら寒い、馬鹿にしたような睥睨だった。
「ボロ雑巾にしてやろう。ひよっこな貴様に、一つこの世界の流儀を見せてやるぜ」
「お銀君!」
叫び声と同時に、瞳が焼けついた。脳裏に浮ぶ風景があった。スローモーションで画像が見える。
目の前で、大男が、巨大な斧を、どこからか取り出して、凄まじい勢いで振り落としてくる、そんな映像だった。軌道は単純だが、斧がとにかくデカイ。大男の身体かそれ以上はあろうかという、巨大な戦斧だった。あんな斧をどう振り回すというのか―――しかしそれが異能というものなのだろう。
俺の義妹も似たようなことをしていたし。
今更驚くには値しない。
たった今から使えるようになった、謎めいた能力で、何とかするしかない。
まともにアレを振り落とされれば俺なんて一発で木端微塵だ。肉片が残るくらいだろう。
ではどうするかとなれば、回避するしかない。
どちらに?
前か?後ろか?横か?
―――答えは簡単だ。
前に突っ込んだ。その瞬間、敵が斧を振り落としていた。間一髪だった。凄まじい迅さだった。突っ込む判断が、コンマ一秒でも遅れていたら、恐らくミンチ―――!
だが、宮原銀河は間違えない。
背後で斧が、先程まで自分のいた地面を抉り穿つ。
巨大な爆発音。
砂利が吹き飛ぶ。霧をもかき消すかのように舞い上がる砂煙。
コンクリートが割れて舞い上がる。
そんな中、銀河は懐に潜り込み、敵の顔面に向けて正拳を繰り出していた。
いくら男が異能使いといえど、巨大な戦斧を使うのは片手という訳にはいかない。
両手が塞がっている。
案の定、防御は間に合わない。
鼻面に向けて、拳を繰り出した。
しかし、拳に返って来たのは―――まるで、鋼鉄を殴ったかのような衝撃だった。
「!?!?」
右左と、二発、確かに至近距離から鼻面に浴びせる。連撃。しかしいずれもが硬い衝撃。
―――少し、義妹から耳にしたこともあった。
強化の術。
裏世界の異能者、戦闘向けの能力者ならば、心得ている者が多いという。義妹も使えたハズだ。
しかしこんなに鋼鉄のように固くなるのか。しかしこいつがそういうことに長けているということも、容易に想像がつく。
殴ったハズの顔面は、欠片も堪えた様子もなく、ニヤリ、と笑った。
脳裏に過るビジュアルがあった。
飛び退いた敵が、飛び退きざまに斧を一閃する映像。横薙ぎに薙ぎ払われる大戦斧。
どう躱すか。思考している余裕すらも無い。だが軌道が地面を抉っていないのを見て、銀河は伏せるのを選択した。
瞬の判断。飛び退きながら、まるで蜘蛛のように身を伏せる。頭上を巨大な戦斧が、銀色の軌跡を引きながら薙ぎ払っていった。
だがそこまでだった。
銀河はブッ飛ばされていた。
「!?!?!?!」
何が起こったのか分からなかった。
確かに斧の刃には触れていないのに―――まるで斧本体に殴られたかのような衝撃に吹き飛ばされて、土手を転がり落ちる。
痛みがやってきたのは、土手を転がり落ちて、河原に這いつくばったそれからだった。
立てなかった。
全身、鋼鉄の塊でブン殴られた―――それに等しい痛みだった。
内臓全てが悲鳴を上げている。肋骨の何本かが叩き折られたか―――そんなことを思ったし、河原に血を吐いたのを見て、これはマズいと思ったのも束の間、もう半身を起こすことも出来なかった。
息をするだけで肺が悲鳴を上げる。
―――左はともかく、右腕が変な方向に曲がっているのも分かった。
それが分かるのも奇跡というくらいの痛みだったが、それが分かったのは、―――銀河が、まだ、闘志を失っていなかったからだろう。
肋骨六本が折れていた。
右手首は完全に折れ曲がり、両足もヒビが入っていた。
背骨や頭関係に傷がないのは奇跡に近い。
声がどこか遠くで聞こえて来た。
「…あれ?案外脆かったな。普通に強化してるもんだと思ってたが、防御向きじゃねえのか…?」
「お銀君!!」
「璃絵様、大人しくしてねえと、今度は今度こそコイツの首刎ねることになりますぜ」
ヘラヘラと笑う音。大きな足音。土手を降りて来る、アイツの大きな足音だ。
―――畜生。
血走った銀河の瞳は、それだけで煮えたぎっていた。
敵に対する怒りなどではない。
自分に対する怒りであった。
―――結局何も出来なかったじゃないか。
あれほど大見栄を切っておいて。
なんて無様な、と大人の俺が、心のどこかで嘲笑っている。その俺さえも―――どこかで泣き顔をしている。
畜生。
俺は何も出来ないのか―――出来ないだろう。
―――何も、何も、何も。
何も出来ないのか。友達の泣き顔一つも、どうにも出来ないのか。
―――薄れゆく意識。ブラックアウトしかける視界。どうにか痛みに集中して、それを繋ぎ止めようと歯を食いしばる。だがそれでも止まらない。俺の無力な身体。
何も出来ないのか。
―――ああ、クソッタレ。
―――せめて。俺に力があれば。
こんな奴をぶっ倒せる、力があれば。
そうだ、力があれば。
力があれば、悩まずには済むのだ。俺を追う連中に怯える必要もない。璃絵を追う連中を追い払うことも出来る。胸を張って、咲月さんのところで働くことも出来るだろう。俺が俺で在れるための力、友達が笑顔で居れるための力。
力が欲しい。
力が足りない。
―――それを欲するには、余りにも遅すぎたのだろうか。俺は。
気付くのが遅すぎたのだろうか。
どうすればいいのだろうか。
だが―――とにかく、今は、力が欲しい。守りたいものを守れる力が―――そして、俺が俺で在れるための力が。そのためには、こんなくたばり損ないの身体、いくらだって―――
「力が欲しいか?」
声が聞こえて来た。
不思議な静寂だった。
不思議と意識が覚醒していた。
一体何なのだろうかと思う。
あの男の足音も、璃絵の悲鳴も聞こえない。不思議な、靄がかかったような世界。
ただ、確実に、その瞬間、俺は、這いつくばったままだけれど―――その不思議な世界にいて、その心地よい、愛しい人の声を聴いていたのだ。
「力が欲しい?お銀」
嗚呼。
その声は。
俺が誰よりも憧れる人の声。
―――あの時、俺の原点になってくれた人の声だった。この世の誰よりも美しいと、俺が思った声。この世の何よりも美しいと感じた、儚い横顔の持ち主の声。
這いつくばったまま、動けないけれど、痛みはその時なくて。
ただ、多分、顔を上げた先には、あの人がいるのだと分かった。
「力が欲しい?」
…分かっているような口ぶりで、その人は俺に問いかけて来る。三度目の問い。
「力が欲しい?自分を追ってくる諸々も突き放して、璃絵ちゃんを守り通せる力が欲しい?」
「…俺は…」
「そう…力がなくては何も出来ないわ」
囁くようにその人は言う。
「知っているでしょう?知っているはずよ、お銀。法律やルールなんてものは、私達を守ってはくれないのよ。お銀だって、嫌だというほど、それを知っているでしょう?」
知っている。
幾ら令嬢にぶたれようが、学校で嘲笑われようが、誰も守ってくれなかったし、励ましてもくれなかったし―――守ってもくれなかった。
ただ、惨めに、やられるがままだった。
「誰も守ってはくれないのよ。璃絵ちゃんも、お銀もそう。そういう世界の住人。表、裏、どちらの世界でも同じ」
「…同じ…」
「自分を守るのは、自分でしかない。自分しか、いない。悲しいことに、ね」
どこか、儚く謳いあげるように、俺の主様はそう言った。
「力が無ければ、ただ貪られるだけよ。それも並大抵の力では駄目。相手は卑怯者で、大勢だから。それも、分かっているでしょう?法律や社会のルールなんてものは、彼らに都合の良いように出来ているの」
「…はい…」
「分かっている筈よ。法律も、ルールも、彼らが決めたものなの。彼らに都合が良いように出来ている」
だからこそ、はみ出し者のことは守ってくれないのよ、とその人は言った。
「だからこそ、力を欲するならば―――並大抵では、駄目よ」
「並大抵では…」
「法律も社会をも、全てを凌駕する力を。そのような力を欲しなさい。求めなさい。そしてその力を欲し求めるならば、そう口になさい」
「口に…」
「その覚悟あらば、私が、与えてあげるわ」
―――その力を。
強大な力を。
「その代わり、引き返すことは出来ない。私のところで、本格的に―――いよいよ、働いて貰うことになるわ」
「…咲月さん…」
「覚悟はある?こちらの世界に、裏の世界に、足を踏み入れて―――徹底的に戦う覚悟が」
―――その覚悟あるならば。
「私のところで、学ぶ気があるのなら、口になさい。与えてあげる。その代り、その力で、働いて貰うことにもなるけれど、それでも良いかしら?」
「―――」
ああ、そんな分かり切ったことを。
俺は、貴女に、ぞっこんだというのに。
今更、それを尋ねるのですか。
「…俺は、…」
その答えを聞いて。
俺は、見てもいないのに。
俺は、咲月さんが、微笑んだのが分かった。その唇の、嬉しそうな形が、見えた気がしたのだった。
「…良いでしょう。宮原銀河。私の下で、働きなさい。なれば―――与えてあげましょう。私の力を、学びなさい」
―――それが本当の、契約だった。
思い返せば、そうだ、俺は。
あの場の状況で、「働かないかしら?」という、お誘いに甘える形で、働いていた。
―――今回は、明確な意思表示。
成り行きなんかじゃない。
俺は改めて、あそこで、本当に働きたいと、それを心の底から思っていて。そして、力を欲しているのも、また事実で。
だからこそ。
「―――じゃあ、お銀。少し、そこで見ていなさい」
靄が晴れてゆく。
その世界に居たのは、一体どれくらいの時間だったのか。五分にも思えたし、五秒のようにも思えた。とにかく、そんな、意志の世界だった。
吹き抜けて晴れてゆく視界。
鮮やかに戻ってくる痛みに、俺は闇に引きずり込まれかけていた意識が、浮上してゆくのを感じていた。




