21.霧中
頭が真っ白になってしまって、その日の午後は割と思考が取り留めもつかなかった。
ちなみに璃絵は終始美術室には戻ってこなかった。
緋鞠先生はいつものように笑いながら戻っていった。
銀河も―――まあ、この日常の裏側に、そういう世界があることは、だいぶ前々から知っていたし。
神様がワープしたトコロなんかも見てはいたけれど。
しかし、平然と、目の前に、バケモノ―――いわば人間の上位存在じみた生物がいて。
そして平然とバケモノじみたことをされると、さすがにすぐには思考が平静を保てない。
まあ先生がいい人なのは重々承知もしているけれど、まさかまさか、最初から吸血鬼というトンデモバケモノである。
神様もまあいたが、まああの神様は―――あんな神様だし。
「(先生が吸血鬼とか、知ってるの、殆ど誰もいないんだろうが…)」
そう思いながら、教室を見回しながら、まんじりともせず頭を落とす。教科書に集中しているフリ。
「(先生が吸血鬼…)」
そして咲月さんもそれを知っていて平然と採用している。そしてそれよりはるか前には普通に先輩後輩の契りを結んでいたのだろう。
しかしメイさんも悟さんも似たようなものだと咲月さんは言うだろう。
別に裏切られたなどという気持ちはないけれど、まあ、単なる衝撃である。
隠し事ならば俺だって山のように持っている。むしろ俺が多すぎるくらいに。
だが、別に緋鞠先生や咲月さんだって、俺に明かしてないことは山のようにあるだろう。
―――だが。
「(吸血鬼なんて本当にいたんだ…)」
その衝撃が、一時間もしないうちに、感嘆に変わり、興味関心に変わってくるのは、やはり自分に耐性や心構えがある故であろう。
普段何してるんだろうとか、何で咲月さんと知り合ったのかとか。
しかし、そうなると、と考える。
―――もしかして、あの緋鞠先生が本気を出しても、咲月さんは抑えられてしまうんじゃないかとか。
―――吸血鬼を抑えられるくらいとか、そうなるととんでもないけれど、咲月さんの人柄に惚れたゆえに従っているという可能性もあって、想像の翼は広がるところを知らない。
しかし咲月さんは、本人曰く二体の式神がいるという。
メイさんと悟さんだ。
それを考えると、咲月さんもきっと、並大抵じゃ、ないのだろう。
紅葉さんも天狗だという。
天狗と友達で、式神が二体で、吸血鬼が後輩なのだ。
そして学長。
色々とブッ飛んでいる。
色々出来たっておかしくはない。帰ったら、色々訊けることもあるだろうか。そんなことを考えているうちに、午後の時間は終わってしまった。
宮原銀河の帰りは早い。
予鈴が終わるや鞄を引っ掴んですぐさま帰りである。
ここ連日は屋敷で勉強する璃絵と連れだってバスに乗っていたが、璃絵の追試も一段落…というか一通り終わった。
今日お昼の何だかんだもあったから、約束もしていないし、何かあるならクラスメイトのほのかを通じて連絡がある筈だったがそれもない。
傘を掴んで、数日ぶりに一人での帰り道である。
陽が高い中、市街地の外れのスーパーへと足を向ける。
今日は実は買い物を頼まれているのだ。
買い出しをせねばならない。
市街の外れを流れる川の土手を登り、歩道を早歩きでゆく。広いに関わらず車は通れないが、自転車や徒歩にとっては格好のショートッカットコース。
朝はジョギングや犬の散歩で賑わうというその道も、霧雨の夕方となれば人影もない。
叢が梅雨にしっとりと濡れている。時折草影にカタツムリが這う。
土手の下、小さな河川敷沿いの川は、薄い水色に濁りを湛えて、いつもより少しばかり荒れた流れを形作っていた。
霧雨と、川の音だけが響いている。
気持ちが良い放課後だった。
そんな中、銀河はふっと立ち止まる。
人影が見えたからだった。
見覚えのある人影だった。
菫色の雨合羽を羽織っている。フードの下から飛び出しているボサボサのツインテール。小柄な女の子は、キャリーバッグ一つを手に、朧な景色の中を佇んでいた。
女の子の視線は、土手道にある、一つの郵便ポストに向いている。
手に封筒を一つ。
それを投函するつもりであるらしい。
しかし、女の子は、まんじりともせず、ただ、静かに立ち尽くしているだけだった。
俯き加減で、表情はうかがえない。
けれども、決して、嬉しそうな雰囲気ではなかった。
何かがあったのだと、そう察するに十分だった。
その風景を、―――哀しげだけれど、美しいと感じたのは一瞬で。
宮原銀河は、躊躇いなく一歩を踏み出していた。
「どうしたんだ、璃絵」
「!?」
跡部璃絵が弾かれたように顔を向けた。全く不意討ちだったらしい。思った以上に仰天したような表情。いきなり尻尾を踏まれた猫のような表情と気配に、逆に銀河が面食らうくらいだった。
「…お銀君…!?」
「…そんなに驚かなくても」
「来ないで!」
「!?」
だが、いきなりの拒否に、銀河はその動きを止める。激しい拒否だった。小さな瞳が激しく揺れていた。
銀河は面食らっていた。あらゆることが想定外―――拒否されたことも、驚かれたことも、何もかも銀河の予想からは外れていた。
だがそんな銀河の驚きなんてものはお構いなしといった表情で、璃絵はその身を震わせた。
「…どうしてここに…?」
「どうしてここにって…?」
「…?」
だが、璃絵はきょとんとした銀河の表情を悟ったらしく、何やら怪訝な表情だった。
「どうしてここにって…。普通に放課後買い物に来ただけだぞ」
「…そう」
「そう、って何がだ?」
明らかにそれ以外のものへの驚きを含んだ表情だったと思えたのだが、璃絵の表情はいつものような無表情だった。かえって冷たいくらいだった。
その感情の起伏が、どうにも引っかかる。
何かがあるとしか思えなかったし、多分、ある。
璃絵の小さな唇が開く。
「…本当にそれだけ?」
「それ以上に何があるんだって」
銀河は引きつった笑いを浮かべるしか出来なかった。璃絵は相変わらず、茶封筒を手で忙しなく弄り回している。どこかに投函するつもりらしいそれは、ずいぶんと手の中でいじられたらしく、だいぶクシャクシャだった。
―――出すのに迷うものなのだろうか。
そう銀河は思った。
「…帰りがけって様子でもなさそうだが」
だが、口から洩れたのはそんな言葉だった。
璃絵は妙に気になる格好だった。
だぼだぼの菫色の雨合羽はともかく、引きずっているのは馬鹿でかい余所行きのキャリーバッグである。
先程の態度といい、何やら怪しい…というか、怪しさ満点であった。
「…お銀君には関係ない」
そして、そのそっけなく突き放す態度が、ますます気になった。
―――璃絵はそんなことを言わない。
短い付き合いたが、俺、宮原銀河はそう知っているし―――知っているはずだ。
跡部璃絵は、理由もなく、友達に、そんな言葉を吐く奴じゃないのだ。
始めての友達だけど、それくらいのことは分かる。
かつての令嬢とは違う。
かつての令嬢は―――いつも俺を突き放したが―――絶えず高慢そうな表情と、その次に、俺を愚弄する言葉がセットになって飛んできたものだった。
だがこいつは違う。
何でかって言われたら。
―――何で、お前は。
跡部璃絵は。
そんなに、雨に溶けてしまいそうなほどに、辛そうな表情をしているんだと。
それを、問いかけたかった。
「…どこか行くのか」
「関係ない。放っておいて」
「放っておけるか」
だが、そこで、呟くような台詞が―――本当はもっとお利口な台詞を言う筈だったのに―――銀河の口から洩れていた。
自分自身でも驚いていた。
本当は、もっと、大人びた台詞を言う筈だったのに。自分でも制御出来ない、もう一人の自分が、顔を出したようで。
『そいつ』は俺の口を借りて―――子供っぽい本音を語り始める。
「…俺の友達が、そんな表情してたら、放っておけない」
―――そんなヒーロー気取りなこと言っておいて、お前に何が出来るんだ。
この間まで、人にコキ使われて、奴隷同然で、何一つ出来なかったお前に何が出来るんだ。
大人の俺が、自分の中で嘲笑う。
だが、もう一人の俺が、反撃した。
黙れ、と。
その瞬間、心の中で、電撃が閃くように、一つの言葉が蘇った。何の前触れもなく、唐突に、啓示のように閃いた言葉。思い出した言葉。
『余は反逆の神である』
誰かが俺の心の中で、そう言った。誰と語るまでもない。あの胡散臭い、子供っぽい―――神様が、俺の目の前で、笑った気がした。
それでいい。
逆らっていけ―――。
勝ち目がないなどと悲観をするなと。そうやって諦めれば、全てが終わる。
そう、あの時だって、俺は―――屋敷から、逃げ出したんじゃないか、死ぬ覚悟で。
結果として、今がある。
今が拓けた。
捨て鉢だって、向こう見ずだって構いやしない。そうやって、進むしかない時だってある。そういう星の下ならば、そう進むしかない。
それが俺の学んだこと。
―――目の前に進め、お利口ちゃんを捨てろ。自分の中で意志が形を作ってゆく。ギラギラと何かが燃えてゆくように、足に力が入っていくのを感じた。誰かが俺に、ガソリンをブチ込んだかのような感覚だった。
「…璃絵、気づいてんのか、泣きそうな表情してるじゃねえか」
「…関係ない」
「やかましい」
「関係ない!」
だがそこで、璃絵は張り裂けるような声を上げた。霧雨の朧な風景を切り裂いて、川の向こうまで届きそうな声だった。
そんな声を初めて聞いたけれど、しかし、銀河の表情は欠片も揺るがなかったし、地に着いた足は一ミリも動じなかった。
「お銀君が聞いたところで、何か出来る訳でもない!どうにもならないの!!」
「うるせえ、そんなこと誰が決めた」
誰が決めたってんだ。
「俺が何も出来ないって誰が決めた。おいてめえ、もう一度言ってみろ」
「…」
「俺は無力かもしれねえ、確かにな」
拳は堅く握られる。食い込んだ爪、血が流れだす。それでも意志は変わらない。
「だがそうやって最初から決めつけてたら、諦めてたら、何も出来ない、始まらない、ただ死ぬだけだ、終わるだけだ」
「お銀君に何が分かるの!?」
璃絵はまた叫んでいた。涙が頬を伝っている。フードが外れた。その下の顔は、クシャクシャに歪んでいた。見ていて―――とても痛かったけれど、それでも、銀河の表情は、それでも変わらない。
唇を引き結んだ、凶暴な男の表情だった。
それに押されたか、璃絵の表情が、一層崩れて、
「お銀君!これから私逃げなくちゃいけないの!もうすぐ誰かが私を連れ戻しに来る!逆らうなんてそんなのムリで、でも従うのも嫌だから…!」
「―――ああ、そうだ、そんなことだろうと思ってたよ」
「…!?!?」
予定調和のように落ち着いている鼓動。全てを予期していたかのような心。
そう、どこかで分かっていたさ。
だから俺はお前に惹かれたんだ。
―――そう。
諦めていた日から、一縷の望みもなくて、逆らうことも出来ず、しかしただ―――逃げ出した、俺。
―――その先には俺はこれがあった。
俺にとっても、これが、果たして、希望なのかは分からない。
この街が、希望なのかは、分からない。
―――俺が無力なのは相変わらずだ。
そして璃絵もそうだ。
それだけで分かる。
家出して、一人でここに住んでいて。
そして頑張って来たけど―――今になって、連れ戻されそうになっているのだと、それだけで分かってしまった。
どこかで似たもの同士。
―――だけど、俺は、何となく分かる。
あの啓示。
『余は反逆の神である』
―――ここからさらに逃げたら、多分、きっと、後は無い。
ここに在るのは、反逆の神。
ならば―――。俺や、璃絵にもきっと―――。




