18.さんらいず
疲労困憊といった様子の璃絵を引きずって店を後にしてみれば、夕焼け空も美しい星嶺の風景である。
茜さす旧市街地。平屋と板塀が続く、石畳の風景。艶のある釉を塗って焼いた瓦屋根が、ピカピカに光っている。
脇の水路の中で、小魚が勢いよく跳ねていた。
「ところで、『さんらいず』はここからどう行けば一番近いんだ?」
「ん…。こっち」
すっかり元気を抜かれてしまった様子の璃絵だが、しかしそれでもこれから食事である。憧れの先生の御招待とあれば、普段だったら帰って風呂も浴びずに寝るところ、気力を雑巾のように振り絞って銀河を案内する。
『さんらいず』は旧市街地の路地の中、少し大きなお屋敷―――土塀で囲まれた屋敷の中に存在していた。
かつては代官屋敷か何かの敷地であったらしい。それらしい案内板があったが銀河はチラ見で終わってしまった。
門には、これまたベタな赤提灯。
門の中には一つの大きな平屋の建物があって、引き戸と見せかけた自動ドアの扉である。見掛けは古いお屋敷だが、中は小奇麗になっているのが、開いている扉からは良く見えた。
そう、自動扉が開いているのである。
前に人が立っているからであった。
「あ、もしかして、宮原君と跡部さん?」
そしてその人が、いきなり声をかけてきたものだから、銀河も璃絵も驚いたのであった。
和装に腰巻の、美人さんである。
艶やかな黒髪を、ストレートで、すとんと腰まで落としている。
格好はいかにもな居酒屋の女将さんといった風情だが、しかし若い。二十歳をちょっと出たくらいだろう。自分達よりちょい上くらいの若いお姉ちゃん。姉ちゃん、と呼ぶに相応しい、気さくな雰囲気を纏った若女将であった。
「んー、咲月から聞いてるんだけど、間違ってないよね?」
朗らかな笑みは、本当に敷居の高さを感じさせない。ズケズケとした物言いだが不快にならないのは祀様と同じだった。勢いはあるが決して非礼を感じさせない雰囲気は得だなあと銀河は心の奥底で思ったのであった。
「はい、間違いなく俺は宮原で、ツレは跡部ですが…」
「ああ、良かった良かった。そろそろ来るかと張っておいたんだよ」
案内するように言われてるからね、と若女将は笑顔。「案内?」と首を傾げる璃絵に、若女将頷いて、
「うん、そうそう。今回咲月、『さんらいず』本棟の部屋じゃなくて、別棟の方貸切にしてるから。ま、私がそう仕組んだんだけど」
てへぺろ、と悪戯っぽく舌を出す若女将は、やはり年上の明るいお姉ちゃんといった感じであった。
悪意や下心を全く感じさせず、嫌味な様子は欠片も無い。
その様子から、咲月さんが信頼を置いている様子も伺えた。そして銀河は納得する。
―――この人が、咲月さんの知り合いと言っていた人か。
だとしたら、それも納得というか。咲月さんが信頼を置く人だなあ、という感嘆にも似た感想。
「案内するね。こっちこっち」
そう言って、美人のお姉ちゃんは手招きする。それのままに、銀河と璃絵は歩き出した。
氷川屋敷にははるか及ばないが、手入れされた日本庭園が広がる中を進んでゆく。
苔むした奇岩や、枯山水の庭は、氷川屋敷にはないものだけに、銀河はなんとなく新鮮だった。氷川屋敷の庭は、自然と一体化した、広大な池と、自然に刈り込まれた植生を是とする庭だから、少しタイプも違う。
石畳は曲がりくねり、屋敷の裏側に回り込んだ。
広い空間があった。
そしてそこに、明らかに和風の庭に似つかわしくない―――不釣り合いな、その…建物というにも、やや不自然なものがあるのを、銀河も璃絵も認めざるを得なかった。
銀河は唖然としていた。
だが口から洩れるのは感嘆ではなく、溜息の類であった。
「…何ですかコレ」
「ん?居酒屋さんらいず別棟、『出雲亭』」
何とも外観に似合わない名前をつけたものだと銀河は思う。
目の前にあるのは、寝台車…すなわち、ブルートレインの客車の一両であった。
その、青地に白のラインの引かれた一両が、屋敷の庭に居座って、仄かな灯を窓から漏らしているのである。
若女将は苦笑していた。
銀河と同じようなことを考えているに違いなかった。
「…撤去も考えたんだけどねえ。ウチがこの屋敷買った時からここにあったのよコレ」
「そうだったんですか」
「なら使っちゃえってコトで使ってるのコレ。まあコレはコレで物好きな鉄っちゃんが貸切で使ってくれることもあるし」
写真撮りにくる人もいるよ、と若女将は笑っていた。
「中、貸切だから好きなように座ってて。咲月とかメイまだだけど、そのうち来るだろうし」
「ありがとうございます」
「お冷のサーバーとか中にあるから、それも勝手に使ってていいからね~」
それだけ言って、若女将さんは仕事らしくぱたぱたと戻っていく。璃絵と顔を見合わせて、銀河はその、ブルートレインの客車の車体を見上げていた。
何ともまた、屋敷の中にブルートレインとは、物好きな奴がいたものである…鉄オタとは凄いな、という益体もない感想を抱くだけだった。
「…おや」
だが、そこでかけられた声に、璃絵と銀河は再度驚く。
見知った顔があったからだった。
ずんぐりとした体型の、中年の紳士である。明らかに丸い体型でメタボなのに、嫌味さがないのは、愛嬌に加え、清潔感があるからだろう。
夕方だというのに、埃や皺ひとつない、山高帽にスーツ姿。猫背で杖をついている。
ぎょろりと剥いた目玉、大きな口は愛嬌がある。
そのせいで、生徒からは、「カエル先生」と密かに呼ばれていた。
「教頭先生」
そう、星嶺学園、教頭の姿であった。
銀河も、編入の面接の時に顔を合わせているし、校内の集会で顔を見ている。愛嬌のある顔立ちゆえに、会ったのは数回であっても、なかなか忘れられるものでもない。
璃絵も驚いた顔をしている。
「ん…。宮原君、跡部君も、さすがは早いね」
「?」
だがその言葉に、銀河も璃絵も首を傾げる。言っている意味が分からなかった。教頭も言っている意味が通じていないことはすぐに悟ったらしい。太い指で己の二重顎をさすっていたが、「ああ」と何かを思い出したかのように呟いていた。
「お嬢様は、まだ君達に何も話していないのだね」
「お嬢様…?」
「じきに来られるだろう故、中で待つと良いと思うよ」
そう言って、教頭はニコニコと笑う。
だが銀河はそれだけで確信が持ててしまった。
教頭は、『お嬢様』と言った。
それが誰のことを指しているかは―――もう、語るまでもない。
思えば、あの、海賊先生こと小菅先生も、「あのお方」と、主を呼んだではないか。それを思い出す。
―――もしかして、己の主というのは、改めてとんでもない人物なのかも知れないと、銀河は思い始めていた。
カエル教頭は、その目をぎょろりと剥いて、在りし日のブルートレインを見上げる。
「しかし、お嬢様に、出雲亭を予約して頂けるとは、冥利…」
「…出雲亭?」
「この、ブルートレイン…寝台車は、かつて『出雲』と呼ばれていたのだよ」
だから出雲亭なのか、と銀河は納得。
カエル教頭はブルートレインを見上げたまま、
「しかし、24系がここまで良い状態で残っているとは、存在を知ってはいたがこれは良い…」
何やらブツブツ言い始めたのを見て、銀河は黙って璃絵の手を引く。璃絵も黙って従った。
あれは触れるとヤケドする類のオタクである。
ブルートレインの中に入ると、中は大きなテーブル席を中心に、瀟洒な内装に誂えられた、品の良い居酒屋であった。
空調も適度に効いている。
奥にある、小さなバーカウンターの灯が、また良い雰囲気を醸し出していた。
テーブルには、何人かの知った姿があった。
「お、来たな宮原」
「お姉先輩よりかは早かったね璃絵ちゃん」
「朱鞠内先生、お嬢様をお姉先輩などと呼ぶのはどうかと…」
「私にとってはお姉先輩なんだからしょうがないじゃない」
驚いた。
私立星嶺学園の、教師―――先生たち、そのうち何人かが先客であった。
教頭のように、余り馴染みのない人物もいるが、璃絵や銀河にとっては慣れた人物も何人かいる。
担任の海賊先生こと小菅陽太や、保健室の朱鞠内緋鞠なんかは最たるものであった。
テーブル席に腰を深く下ろしながら、無精髭の海賊先生―――小菅陽太はニヤリと笑う。性悪な笑みである。
「まあ座れ宮原、跡部。教師ばかりで居心地が悪いのは否定もしねえが、何せお嬢様のお達しだからな、そうなるとてめえも断れねえだろ」
その言葉に、銀河の中である確信がいよいよ鎌首をもたげてくる。
それは…。
「小菅先生、それは…」
「ま、そゆことだよ。じきじきにご説明もあるだろうさ」
「お姉先輩となかなか最近ご飯する機会もなかったから私は嬉しいなあ」
そう言って、お冷のグラスをつんつんするのは緋鞠である。璃絵がその隣に座りながら、「朱鞠内先生…」と絶句していた。
「…まさか、朱鞠内先生、…先生と知り合い…?」
「うん、ごめんね。黙ってて。でもまあ、そうだね、知り合いというか」
緋鞠は笑っていた。どこかバツの悪い笑顔ではあったが、
「…古い後輩だよ。古い職場の、後輩」
「…後輩…」
「お嬢様がいらっしゃいましたぞ」
だが、駆け込んできた教頭の声に、騒がしい雑談の声は一瞬にして沈黙になり、銀河も慌てて腰を下ろした。
文字通りガマのような脂汗を流しながら飛び込んできた教頭の後で、執事が先導で入って来る。銀河にとっては見慣れた顔、猿山悟の顔である。
ニヤリと悟は眼鏡を押し上げながら意味深な笑み。「驚きましたか?」と言わんばかりの笑みに、「十分驚きましたよ」と言わんばかりの不満げな銀河の表情だった。
だが、まあ。
何となく、銀河には、理由も分かる。
あの人は、隠居志望なのだ。
―――表に立ちたくない、理由はあるのだろう。
足音が二つ入って来る。緑の袴、橙の着物の上から、揚羽蝶の紋付を引っかけ、主役のお嬢様が入場であった。
背後に控えるは瀟洒なメイドが一人である。
咳払い一つもない沈黙、注目が集まるは今宵の主役。
お嬢様は相変わらずの微笑みであった。
「…特に何も言わないわ。挨拶なんて不要でしょう。ただ、皆、良く頑張ってくれているから、ただ呑んで騒ぎなさい。お銀と璃絵ちゃんには、詳しく私から説明するから、余り余計な茶々を入れないでくれると助かるわ」
「マジかよお嬢様そらねえぜ」
「お嬢様、そこの小菅の馬鹿は私が黙らせておくのでお嬢様は心置きなくどうぞ」
遮った海賊先生こと陽太の口を押えて睨むのはもう一人の若い先生。璃絵と銀河には馴染みはなかったが、別学年の先生ではなかったかと思う。名前も思い出せないが…。
教頭が声を上げる。
「良いのですかお嬢様、それだけで…。久々の挨拶ですに」
「挨拶は終わり。乾杯だけしましょ?」
だがそこでピシャリとお嬢様―――そう、早花咲月は言い切った。愛嬌のある言い方だったが、その目が少し厳しい。思わず銀河の背筋が伸びて、寒気が走った。そんな眼であった。
教頭もガマの脂汗であった。一発でしょげ返ってしまうあたり、このお嬢様の目はやはり効くのだと銀河は思う。
―――俺も真正面から、あの目で睨まれたら、心臓が縮み上がってしまうに違いない。
咲月は背後を振り返った。扉の方である。
「紅葉、挨拶は終わりよ、申し訳ないんだけどあとはお願い」
「はいはーい、かしこまりだよ」
やってきたのは例の若女将である。他にも従業員が何人か、料理や飲み物の乗った盆を載せて入ってくる。
咲月は、
「ビールはサーバーから自由に持って行って頂戴。あとは皆好きそうなものをあらかじめ頼んでおいたわ。適当に盆から取っていってちょうだい。璃絵ちゃんとお銀には適当にソフトドリンクを分けなさいメイ。間違ってもアルコール入りはダメよ」
「承知しております」
ニコニコとカルピスとウーロン茶を既に取り上げているメイである。
咲月の乾杯に、声がともども唱和する。
半ば呆然としているような銀河と璃絵のすぐ傍に、腰を下ろしたのは咲月である。たおやかな仕草であったが、どこか苦笑したような、バツの悪い表情でもあった。
傍にメイも腰を下ろし、ごく自然な様子でオードブルを取り分けてゆく。
メイに御礼を言う暇もなく、銀河は呆然と口を開いていた。
「…えと、咲月さん…」
「驚いたかしら?」
「予想はしてたんだけどそれでも改めて驚いてる雰囲気よね宮原君」
そう言ったのは朱鞠内先生である。紅の眼が璃絵と銀河を交互に見て、それから敬愛する先輩へその視線が向く。
「お姉先輩、ずっと隠してたんでしょ?」
「隠してたというか、言う必要もなかったものね」
「まあ、そりゃそうか」
朱鞠内緋鞠は笑う。
「普段学校来ないものね、姿も見せないし、ねえ?『学長』」
その言葉に、咲月は溜息をついた。否定の言葉は無かった。璃絵も改めて呆然としていた。
「そうよ。―――改めて、学校法人氷川学園、星嶺学園学長、早花咲月よ。よろしくね」
そう言った。




