16.まつろわぬ神
夕食に呼ばれたのは、愚痴とも、地元自慢ともとれる話がいよいよ盛り上がってきた頃であった。
夕食の席は、当然のように、蕎麦と天ぷらが並んだメニューであった。
「おお、天ぷらだ。どれもここで揚げたものだな」
祀様の言葉。折り目正しく座布団に腰を落ち着ける咲月さんは優しく頷いていた。
「ええ。ナマズがメインですが、かき揚げも海老天も、磯部揚げも用意してありますよ」
「いいな。余の神社ではそのようなものは滅多にない…」
ご馳走になるぞ、とばかりにヨダレを垂らしながら着席の祀様。頂きますの挨拶が唱和する。ほのかな暖色の光が満ちる客間。
本日メインのナマズ天は、銀河も口にするのは初めてである。
蕎麦湯の準備まで万全の中で、銀河は口に出した。
「そういえば、メイさん、ナマズなんてこのへんで売ってるんですか?」
スーパーの店頭で見たことなどない銀河である。
職業柄、珍味なども扱ったことはあるが、ナマズは初めてである。
メイは頷いた。
「星ヶ嶺の裏手に、養殖場があるんですよ」
「出井の養殖場だ。他にアユなども扱っている」
祀様の補足。出井というお宅がやっている、個人経営の養殖場であるらしい。そこから分けてきて貰ったのだとか。
早速口にする天ぷらは、臭みなども全くなく、淡泊ながらも美味だった。
悟が長い腕で蕎麦を上手に啜りこみながら、
「ワサビもワサビ田から貰って来たものですぞ」
「そうなんですか?」
「星ヶ嶺の山伝いの一つにワサビ田をやっているお宅がありましてな」
指を立てながら、「今度案内しますぞ」と悟。祀も上機嫌に頷いていた。
「そうしてやってくれ。なかなか地元でも皆知らぬのは勿体ないことだぞ」
「かえって余所から来るお客様の方が多いようだとの評判ですな」
「今の時代、ネットでそういう噂もすぐ広まるからな」
ブログやちょっとしたツイートですぐ広まるからな、と祀様。そんな彼女の蕎麦の啜り方は、悟と違って危なっかしい…というか拙いものだった。
だが銀河は口には出さない。
「我が星嶺も、オカルトの聖地としては一定の知名度はあるはずだぞ?」
「良いのか、悪いのか…」
「余としてはひとまず嬉しいことだぞ」
咲月の静かな言葉にそう言う祀だが、その笑みも100%ではない。どこか翳ったものを感じさせる口調でもあった。
「だが変な盛り上がりのせいで、元々のこの街の雰囲気が壊されるのも余の好むところではない」
「先程仰られた、人為的なミステリー…とかですか」
「ドローンを飛ばして似非UFOなど面白くもあるまい?」
そういうつまらん企画ばかり考える役人連中がおる、と祀は溜息だった。
「予算を取るつもりだか何だか知らぬが、つまらんコトばかり考える。余の社にも何だかんだとポスターを貼れだの協力しろの何だのと…」
「先日そういえば伺いましたが、」
そこで、ふと神妙な表情になったのは咲月である。
「…星天社の、磐座が解禁されるとか何とかいう、噂が流れていましたね」
「許可が出せる訳がなかろう」
しかしピシャリとそう跳ねつけるような口調の祀。不思議そうな顔の銀河に、咲月はいつもの儚げな表情を向けた。
「山の上の星天社だけれどね、磐座があるの」
「知っているか?」
「神の宿られる、信仰対象としての石…御神体でしょう?」
銀河はそう言った。うむ、と祀は満足そうに頷いた。
銀河が知っているのには、理由がある。
かつて仕えていた屋敷は、そこの屋敷そのものではないが…むしろ執事の実家の方は、オカルトではなく、マジの超能力に片脚を突っ込んでいた。
神社回りの知識も、そこで得たものだ。
銀河は実際見たことはないが、この日ノ本に、八百万の神様があるというのも、事実であるらしい。
そういう御神体に、宿っているのだという。
「余の社の磐座は、禁足地にある」
「妄りに足を踏み入れることまかならぬ、聖域という訳ですな」
補足したのは悟である。「滅多に人を入れさせぬ」と語ったのは祀。
「神社はどこもそうであるが、神も妄りに人に触れられるのは好まぬのだ。故に精進潔斎をしてから人は神事に臨む。力があり、障るものゆえに、丁寧に祀れば利益がある。この日ノ本の神というのは、そういうものなのだ」
「特にここの星天様は荒ぶることがありますからね」
「必要以上に荒ぶりはせぬ、疲れるからな」
メイの、どこかからかうような言葉に、祀は溜息だった。食卓の上の魔法使いの帽子が、ぴこぴこ動いたのは…気のせいと思いたい銀河であった。
「しかしその磐座を是非御開帳して欲しいという役所からの要請が最近絶えなくてな」
「それはやはり、観光客を呼びたいから故ですかな?」
「で、あろうな」
悟の言葉に、こくりと頷く祀。その愛嬌ある吊り目が、再び銀河を見て、
「余の磐座は、隕鉄なのだ」
「隕鉄…?」
「隕石だよ、宇宙からの飛来物という訳だ」
星天社の御神体は三つあるという。
一つはその磐座。
そしてあとの二つは、その飛来した磐座…隕鉄の一部から作り上げられた、神剣が二本。
「どれも門外秘、神事の時に神職のみが触れることが出来るものだ。妄りに開帳して良いものではない。商売道具ではないのだ」
どこかの仏像と同じにしてくれても困る、と祀様が言った。
「余の社は、この日ノ本ならずや、地球の外からやってきた岩に宿りし神を祀った社だ。宿るは普通の神ではないぞ?」
ニヤリ、とどこか試すような口ぶりと視線の祀様。
まるでこちらが―――そういう知識を持っているのを、見透かしているかのような口ぶりだった。
―――実際、悟られてしまっているのかも知れない。
そんなことを、根拠もなく、しかし漠然と、銀河は考える。しかし狼狽える気持ちもなく、心臓の鼓音もいつも通りで、ただ箸も食卓の上を滑ってただ磯部揚げをつまみ上げる。
冷静だった。
祀様は続けた。
それ以外の音が聞こえないようにも思えた。
「先程メイも言ったが、荒ぶる神というのも間違いではない。星ヶ嶺星天社は、その名の通り、―――宇宙からの磐に相応しき、星の神を祀っている」
「星の神…」
「この日ノ本はな、」
―――この日ノ本は、基本的には、日の神を祀っているのだという。
「何せ『日ノ本』と書いて日本だ。日出ずる国。象徴するは旭日。かつての厩戸王の遣隋使の時代、魏志倭人伝からこの国はそうだ。しかもそれとて、その時代に定められた信仰という訳でもない。むしろその時代から、隋の国にそう主張するくらいだということは、当然、その前からそうだということは分かるな?」
―――その時代には、既に確立していた信仰。
「天つ神、その頂点は天照大神。伊勢の国の旭日の巫女神だ。熊野の八咫烏もまた太陽の象徴。金烏玉兎との古代からの言い伝えもある」
基本的に、日を祀る国。
「しかし月がない訳でもない。月読命、月読宮もまた伊勢の社に付随している」
目立たないが、月の神を祀っている社がない訳でもない。
しかしそれも、所詮は天照、伊勢の神話の附属に過ぎない、と祀様は言った。
「…だがな」
―――だが。
「星の神は、日でも月でもない。日でも、月でもないそれらを祀っていた勢力を、かつて大和王権は駆逐するために躍起になっていた」
それは、遥か古代の話。
日の神を祀る古代大和朝廷と。
それに従わぬ、地方の多くの氏族―――そしてそれらが信仰していた、多くの神々。
それらの争いは、豪族の勢力争いでもあり、神々の争いでもあった。
「多くの神が、大和朝廷に組み敷かれる中で、しかし、星の神は、屈することはなかった」
―――それを、大和朝廷は、記紀に記した。
それが。
「それが、『まつろわぬ神』。従わぬ神、反逆の神。日でも月でもない神。反逆者の象徴だ」
ニヤリ、と祀様は笑った。
あッ、とその瞬間、銀河は何故か―――理解出来てしまった。
何故理解出来たのかは分からない。恐らく理屈ではない。ただ閃くように、啓示じみたものがあったのだ。
―――この人は、人ではないと。
「星天社は、星の神を祀る。多くの圧迫を受けながら、屈さなかった神、そして最早、屈さないことそれ自体が存在意義になった神だ」
この星嶺の地は、多くの反逆者の拠り所になっていた、と祀様は言う。
東国で叛乱を起こした梟雄。中央で政変を起こした貴族。
「星の神。実態は最早明らかではない。夕の星、金星と言う人もいるし、北辰、極星即ち北極星、ポラリスという人もいる」
だが星の神は未だに此処に或る。
「金星、すなわち明星は智慧の象徴でもある。空海阿闍梨はかつて星を飲み悟りを開いたというし、虚空蔵菩薩の象徴でもある。即ち仏だが…」
その仏も、分からないことが多いという。
「そして北星の象徴は妙見菩薩。妙見菩薩も仏のようでありながら、道教の神でもあり、すなわち純然たる日本の神ではない」
すなわち…
祀様はドヤ顔であった。
しかし、何よりも真面目なドヤ顔であった。
―――神様のような、ドヤ顔であった。
「此処にあるのは日本の神ではない…というよりも、日本によって定められない神と言った方が良いな。時の帝、すなわち天皇や、中央政権にさえ靡かなかった神。すなわちそういうことだ、反逆の神、逆徒の守護神だ。となれば、当然、荒ぶらぬ訳もないだろう?」
ここの神様は、お利口さんな馬鹿者が大嫌いなんだよ、と祀様は最後にふんぞり返ってドヤ顔をキメていた。
銀河は何故か開き直ったような気分になっていた。
目が冷たい。
心も何故か冷えていたが―――目の前のダレカを憎むような気には、さっぱりなれなかったのだった。
「…だから、嫌なんですね?」
「そうだ」
祀様はドヤ顔でふんぞり返る。
「誰かに命令されて磐座開陳とか死んでもやるものか。役人どもめ偉ぶりやがって、頼み事のクセしやがって菓子折りの一つも持ってきやしない。中央の出先だからって木で鼻をくくってやがるんだ。中央の言いなりになんて絶対ならないのが余のポリシー、主義なんだ。何も分かっていやしない」
―――まるで駄々っ子だが、しかし。
それで、ここまで、突き通してきたんだろうなあ。
この人―――いや、神様。
そう、不思議と、銀河は、気持ちよく、納得出来てしまった。
そう。
この人、神様は、最初、言ったのだ。
『巫女ごときに敬意を払う花月じゃないだろう』。
―――まあ、だが、神様なら。
しょうがないというか。この一人称でも仕方ないというか。
不思議と気持ちの良い気分だった。
それをきっと、咲月さんも、悟さんも、メイさんも分かっているのだろう―――。
ということは、もしかしたら、と考えた矢先で。
パアッと祀様は花咲くような笑みで、パンと手を叩いた。
「そうだそうだ、今度お銀も余の社に参拝しに来れば良いではないか。むしろそれが筋であろう、お銀もこの街の住人ならば、カミサマへの挨拶も重要だぞ?」
うむうむ、と頷く祀様。銀河がメイや悟、咲月に目配せすれば、皆柔らかい苦笑…としか言いようがない
表情であった。
銀河も苦笑いして、
「むしろ一ヶ月も挨拶してなくて、神様はお怒りじゃないですか?」
「忙しく立ち働いていたのであればそれを認めぬ神ではないぞ、勤労は良いことだぞ?」
いつの間にか蕎麦を綺麗に平らげた祀様の前に、悟が手際よく蕎麦湯を注ぐ。
祀様はドヤ顔で、
「何かお銀が美味なるもの、特に甘味を作ってくればさぞ喜んで許すであろうな」
そうですか、と銀河はどこか冷たい瞳で頷いた。
―――甘味を御所望であるらしい。
甘味といえば、とメイが手を叩いた。何かを思い出したような顔である。顔の上に電球が灯ってそうな顔。
「そうですよ、思い出しましたよ祀様。甘味といえば、今『さんらいず』で新しいデザートを作ってるとか。折角一度夕飯前に話題にしたのに、すっかり言い出しはぐれてしまっていましたよ」
「おお、それは行かねば」
わくわくとばかりの祀様。咲月が「それは私もメイから聞いています」と笑っていた。
「紅葉が何やら作っているとか」
「おお、紅葉殿が、となると期待大ですな」
悟は笑顔で言ってから、「『さんらいず』の女主ですぞ」と補足してくれる。
「なかなか良い料理の腕をしているのですぞ。お嬢様と仲がよろしいですゆえ、今度御挨拶されるがよろしいですぞ」
「そうだったんですか」
「むしろ、今度お銀を連れていくべきでしょうね」
ここ暫く屋敷に籠りきりだったし、とどこか思い返すような咲月。メイが手早くシステム手帳を取り出してめくりながら、若干の苦笑だった。
「お嬢様、お銀さんを連れてきてからお屋敷をお出になられておりませんが…」
「そんなにだったかしら。紅葉にも悪いことをしているわね」
「はい。以前お使いでお伺いした折にも、お嬢様がいらっしゃられないと紅葉さんからもお言葉を頂いたのですが、お嬢様は何分その時は制作にかかりきりでして…」
「気苦労かけたわね、メイ」
「痛みいります」
素直に頭を下げるメイ。咲月は頷いていた。
「メイと悟にも働いて貰っているし、今度久しぶりに外食をしましょうか。『さんらいず』ならば異論はないでしょう?」
「お気遣い恐縮であります、無論でございますぞ」
「喜んでお供させて頂きます!」
「余も行きたい」
そこで指をくわえて横やりの祀様。咲月さんは優しい顔だったが溜息で、
「少なくとも、皆さんの許可を得てからにしてくださいね」
「ちぇ」
「お銀、とりあえず近いうちに知らせるわ。その時は放課後、少しのんびりしていらっしゃい。現地集合にしましょう。そうでもしないと、遊んでくるということもしないのだから」
小さな顔を少し傾けて、咲月さんのほのかな心配そうな表情。栗色の豊かな髪が流れる。
―――気を遣わせてしまっているのだろうか、と銀河は思ったが、「ありがとうございます」と返事をするに留めた。
しかし待て、と思う。
これで『さんらいず』に行くとしたなら、散財をする機会もないだろう。
きっと咲月さんが財布から出してしまうんだろうなあと思うと、ますます小遣いを遣うアテもない銀河だった。
しかも―――放課後遊びに行く予定なんかも―――。
しかしソコで、銀河はあることを思い出す。
かなり重要なことを、―――忘れかけていたが、思いだした。
「あ、そうだ、咲月さん」
「何?」
「えと、言い出しにくいんですが…」
―――しかし、ここまで来て、隠したり躊躇ったりということも、むしろ不審を招く。銀河は腹をくくって話し始めた。
璃絵のことである。
あの同級生が、勉強に詰まっていること。
助けになりたいこと。
漫画なんかを貸してやりたいこと。
だが―――あくまでここの屋敷の書庫のものであること。
それを説明し終わる頃には、食卓はすっかり片付いて、食後のお茶の時間となっていた。
玉露入りの茶碗を傾けながら、しかし、主の返事はごくあっさりとしたものだった。
「何だ。そんなことを、そんな真剣な顔で悩まなくてもいいのに…」
優しい顔だった。
だが、それゆえに、銀河は心苦しい。
―――咲月さんが、その優しい顔をしているから、かえって、粗相なんかが出来ない―――甘える気分にはなれない。かえって、身を引き締めたくなる。その優しい笑顔が、痛ましい顔に変わる、そんな場面を、銀河は欠片も見たくはなかった。
だからこそ、真剣になっているのだと。
この咲月さんは分かっているのだろうか―――。
「どうぞ、貸すわ。良ければ、璃絵ちゃんにも、お勉強、教えてらっしゃい」
遅くなっても構わないわ、と咲月である。微笑み。
「勉強をするのに、学校が居づらかったら、うちの空き部屋だって構わないわ。むしろそちらの方が、お銀もついでに家事がしやすくていいかしら?」
くすくす、と笑う。
だが、と銀河は思う。
彼女のぶんのバス代は俺が持てばいいと考えれば―――あながち悪い案にも思えない。悟が指を立てていた。
「私ならば歓迎ですぞ」
「私も問題ないですよ、むしろ張り切っておやつの準備のしがいもありますね♪」
悟さんの…半分スケベ心の見える笑顔…は複雑な気分にしろ、メイさんの笑顔には銀河も助けられる。そうしようと心に決める。
祀様が、顎に手を当てながら、
「ふむ、余の他にも氷川屋敷に気軽に出入りが出来る人間が増えてきたか。これはまた興味深いな」
「絵が、上手な子です」
「ほう。画才を買ったか花月。お前も面白いことをしているな」
「お銀の縁ですよ」
「ふむ、花月にそんなことをさせるとは。ますます面白い男だな、お前も」
そう言って、祀様はお茶を最後に呑みながら言った。ただ銀河は笑いながら、頭を下げた。
夕食と歓談は終わり。
外は夜の帳の下。
見送りは銀河が命じられた。
門の前までで良いという話に従い、銀河は祀の斜め後ろを歩く。夜の真っ暗な庭の下でも、何故か星明りのせいか―――祀の背中はクッキリ見えた。
ローブの背中の、北斗七星が輝いているようにも見えた。
「…お銀」
「はい」
玉砂利を踏みしめる音。
見上げるまでもなく、空の上で、満天の星の瞬く音が、微かに混じっている―――そう思ったのは気のせいか。
振り返ることもなく、祀は傲然と言った。
「…余の正体、気づいておろう」
「俺の推論が、正しければ」
「間違ってはおらぬ」
祀は言った。
「お銀の考えていることくらい、見通しているぞ。神だからな」
祀様―――神様はそう言った。
自分で、とうとう、名乗った。
砂利を踏みしめながら、目の前の北斗七星を纏った背中は進む。闇の中で、その背中が輝いて見える。
「ただ、余も、反逆の神ではあるが、性格が悪いつもりもない」
「…」
「お銀がどういう経緯でここに来たか、詳しいことはまだ知らぬし、詮索するつもりもない」
その時、祀様はちらりとこちらを振り返った。奥深い瞳だった。吸い込まれてしまいそうな―――夜の天のような瞳。
「しかし、余はお前が好きだ」
「恐縮です」
何故俺を気に入ったのか―――しかしその答えは早速だった。
「運命に逆らう星を、余はお前に見ている」
そう、祀様は言った。
「何せ、花月が拾うような男だ。只者ではあるまい。何か、揉め事、荒事、不穏な出来事―――そのようなものを、貴様は身に纏っているのだろう?」
「…」
「気が向いたら、まあ、余の社にて願うが良い。願えば、余は、力を貸そう。何せ―――逆らいゆくものに、護りを授けるのが、我が神徳よ」
ニヤリ、と唇に笑みを浮かべた。ドヤ顔のようだが違う。頼りになる―――神様の笑みが、闇の中で輝いている。
ばさりとそのローブを翻して、門の前で、神様はその両手を広げた。
ふわりとその身体が浮き上がる。
髪が広がる。
そしてそのローブの中には、無数の星雲と銀河が広がっているのを―――宮原銀河は、見てしまった。
―――神様が、銀河の目の前に居た。
超常現象を、見るのは、決して、初めてではないが―――。
それでも、度胆を抜かれたのが、銀河の正直なトコロで―――。
その髪を、天からの風に翻して、宇宙からやってきた神は告げた。
「余は星の神である。まつろわぬ神である。
汝、願うならば、絶えずまつろわぬ者であれ。
驕ること勿れ。
意志を信じ、恃むことをよしとせよ。
数に頼み、徒党に恃まば、余が加護即ち失われると知れ。
余は反逆の神である。
強き者への逆徒であれ。
汝が下に逆徒、逆心を生じさせれば、汝への加護失われると知れ。
それ、確と、心得るならば―――」
余は汝の神とならん。
最後にそれだけ告げて、星雲のような輝きを残して、その身体が闇の中に消えていた。
―――さすがは神様、と銀河はそれだけの感想だった。
まるで星屑の海を渡ってきたかのような、清々しい爽快感だけが、胸の中に残っていた。
ただ、闇の中、星の海の下を歩いて、屋敷に戻る。
玄関先では、橙の和装姿の咲月さんが、優しい微笑みで俺を出迎えてくれていた。
玄関の灯を背後にして、その微笑みが―――何よりも暖かだった。
こんな暖かい光景を、見たことがないというくらいに―――そして、その場に立ち止まって、暫く見惚れてしまいたいくらいに―――それは、美しい光景だった。
俺が、もしも、絵を描けるのだったら。
この一瞬を、切り取ってしまいたい―――。
そう、思える一瞬。
あの三郷湖でも感じた、あの感情が、再び胸の中にあった。
―――だから、俺は、この咲月さんのことが、大好きなのだ。
「お帰りなさい、お銀」
「戻りました」
「お風呂に入ったら、お話でもしましょう?」
「はッ」
期待してもいたし、聞きたいこともあった。―――咲月さんも予期していたんじゃないかと思う。
風呂に入るのもそこそこに、早速に咲月さんに言われた通りに出向く。
咲月さんは、縁側を開け放して、籐の安楽椅子にゆったりと腰掛けていた。浴衣姿ではあるが、やはり淡い橙で統一されたそれが良く似合っている。
向かい合うように一つの椅子があり、卓があって、ポットが置かれていた。
灯りは、卓の上に輝くカンテラと、星と月の灯だけである。
しかしそれで充分だった。
「失礼します」と声をかければ、咲月さんは閉じていた瞳をゆっくりと開いて、
「そんなに肩肘張らなくてもいいのよ、お銀」
「は」
「腰掛けて頂戴な?」
言われるがままに腰を下ろす。優しい雰囲気が満ちているが、それを享受すること自体が、銀河にとっては幸せ過ぎて、もうこれ以上何も望むものはなかった。
ポットからお茶を注ぎ、主の目の前に置く。だが咲月はそれを手に取ることもなく、ゆっくりと天井に近い闇を見上げているだけだった。
優しい瞳であった。
どこか遠くを見るようでもあった。
「…もう少し、秘密にしておきたい気もしたんだけれどね」
「は…」
「まあ、お銀も、薄々気づいていたのでしょう?」
このお屋敷がどこが普通ではないことは、と主は言った。銀河は素直に頷いていた。
「それは、確かに。俺を何も言わずに受け入れてくれるなんて、それだけで普通ではないですし」
「それに、貴方からも、微かに、そんな気配を感じたもの」
「は…?」
「霊力とか、魔力とか、そういう気配よ」
奥深い瞳であった。初めて主の瞳がこちらを向いていた。真正面から見つめ返した。淡々としていた。正直に答える準備は出来ていた。
「お銀そのものは、そういう能力者ではないにせよ…。身近にそういう人がいたような気配は、最初から感じていたわ」
「…」
「それに、あの三郷湖の畔は、そういうものを惹きつけるというか…そういう土地でもあることは、事実でしょうしね」
その理由を、主は語らなかったが―――。きっとそういうものなのだろう、と銀河は淡々と納得しただけだった。
「お銀は、この世界を、どれくらい知っているのかしら?」
「実は、ほとんど知らないというか…」
咲月さんの瞳は優しい。
叱られるとか、怒られるとか、そんな気配は微塵も感じられないし、咎めるような気配は、欠片も、ミリパーセントもなかった。
だから、銀河も、躊躇なく、切りだせる。
「…俺も、そういうのが存在してるってことは知ってますし、近い知り合いに、超能力者、異能力者はいましたけど」
「見も知りもしてるし、存在を肯定はするけれど、その世界の構造とかは全く知らないといった感じかしら」
「仰る通りです」
銀河は言った。咲月は小さく頷いていた。
「分かったわ。当座はそれで十分ね…」
「は…?」
「私もある程度を教えるけれども、まあ、私は、そういう異能の家の、お嬢様なの」
どういう能力かはまだ告げないけれども、と咲月さんは言った。余り明らかにしたくもないのだろうと何となく分かったから、銀河は全く深追いもしない。
「それでまあ、食べていけているのよ。かつて実績も作ったわ」
「実績」
「祀様が仰っていたけれど、花月、というのは私の名前の一つでね」
咲月さんは微笑んでいた。
「私がかつて使っていた名前の一つよ。この世界、一人の能力者が偽名を幾つも使い分けるのは珍しくもないわ。師匠も4つは持っていたし…」
「だから、花月、と祀様は呼ぶんですね」
「そう。未だにその名前で呼ぶ人は滅多にいないのだけれど」
そう咲月さんは言ってから、茶碗を初めて手に取った。ほうじ茶の水面に、静かに物憂げな顔が映って揺れている。
「今は私は隠居の身ね。余り表にも出ず、ただ絵を描いて暮らしている、深窓のお嬢様気取り…と言ったところかしら」
どこか自嘲するような笑みに、銀河は自分の痛みのような痛々しさを感じる。しかし主の過去を何一つとして知らないから、それを否定も出来はしない。ただその場にいるだけが、銀河に許された選択肢だった。
「ついでに告げておくと、メイと悟は式神よ」
「式神…?」
「知らない?使い魔の類と考えてくれて良いわ」
だから、お給金も表だっては出しているけど、本来は要らないくらいなのよ、と咲月は言った。笑っていた。
「何せ人間じゃないわ。お金とはまた別のもので対価…というか契約を結んではいるけれどね」
「そうだったんですか」
二人とも、何せ一見人間にしか見えない。主、咲月は初めてそこで少し得意げな笑みであった。それもまた、儚い印象ではあったが―――。
咲月は再び深く安楽椅子に腰をかけると、はるか彼方、満天の星を見上げ、
「人に化けるにあたっては、私からも少し細工をしているしね。二人とも人に化けるのは少しまだ未熟な部分もあるから、私が細工もしているわ。でもそうなると一般人はおろか異能者にだって感づかれない。気づけるのは祀様くらいなものだと自負してるわ」
「人間だと思ってました」
「まあ、お銀に見破られてしまっては私の術も三流以下だということだけれど」
何せ見破られないようにしているから、と咲月は小さく笑みを浮かべた。
「だからお銀、二人に遠慮は要らないわ。あの二人は人間ではないから、文字通り人間離れした労働も出来るのよ。無理をして風邪を引くこともないわ。少し甘えたってバチは当たらないし、お銀は人間なのだから、人間らしくしなさい」
二人に合わせることはないわ、と咲月さんはそう言った。
そして、ふっと苦笑。
「…今まで、少し二人とも、お銀に気を遣ってた部分もあってね」
「気を…?」
「お銀の手前、余り人間離れした労働をしてもお銀が不審に思うでしょう?不気味がられないかって割と二人ともセーブしていたのよ」
…それは、全く銀河のあずかり知らぬトコロの話であった。
となると、お屋敷の手入れなんかも、むしろ俺が来たことで手際が悪くなっていた部分があったんじゃ…?
そう思う銀河の前で、咲月は気まずそうに笑っていた。
「だからといってお銀は気に病むことはないわ。私の采配ミスよ。もうちょっと私が、うまくお銀に誤魔化すように出来れば良かったのだけれど、結局一ヶ月引きずってしまったわ。二人にも、お銀にも悪いことをしたわね…」
だけれど、それも今日までね、と咲月は言った。
「悟なんかは山の中を文字通り飛び回って仕事も出来るわ。気味悪く思わないで頂戴ね」
「はい。それは…」
それは無論だ。
むしろ、気遣わせてしまうような二人なのだから―――良い人であることは、分かっている。
「バケモノではあるけれど、何であるかは伏せておくわ。まあ、二人からおちおち聞いて頂戴ね」
直接のお楽しみにしておくわ、との言葉に、銀河は「そうさせて頂きます」と笑って頷いた。
「ああ、それはそうと、一つ、なら渡しておくものがあるわ」
「はい?」
そう言って、咲月さんは浴衣の袖に手を突っ込み、一つの小さな何かを取り出す。
紅の折鶴だった。
一見、何の変哲もない折鶴に見えた。
「手に取って頂戴」
それを受け取る。掌の上で、それは普通の折鶴であった。
しかし、咲月さんが、パチンと指を一つ鳴らすや、それが掌の中で、微かな熱を持ったのが分かる。銀河は目を丸くした。懐炉みたいに暖かくなる折鶴なんて聞いたことがなかった。
「外食、いつにしようかと思っているんだけど…。お銀、スマホも持ってないし、ポケベルを学校で鳴らす訳にもいかないし」
だからといって、帰宅してからまた街中にゆくのも面倒でしょう?と咲月である。
「その折鶴は、私の術で作ったもので、私の意志に応じて発熱したりできるわ。他にも機能があるけどひとまずそれだけ。畳んでポケットの中に入れておいてね。それが熱を持つようだったら、学校帰り、直接『さんらいず』に来て頂戴。時間は18時半を目安にしてくれていいわ」
「18時半固定でいいんですか?」
「18時半か19時で予約を入れるつもりだから」
咲月さんはそう言った。
「もしも良ければ、璃絵ちゃんも連れておいでなさい」
「いいんですか?人数とか…」
「連れて来れるとなったら、折鶴に向かってそのことを吹き込みなさい。そうすれば、私には伝わるわ」
便利な能力だな、と思うが、所詮スマホ一台があれば足りるのだというのもまた事実だったりする。
銀河がそれを仕舞うのを見て、咲月は頷いた。
「お銀。祀さんも言っていたけれど…」
「はい」
「力が必要なら、言いなさい。まだ、貴方が詳しく話したくない気配なのは、感じるけれど…」
それでも、と咲月は言った。優しい瞳は変わらない。
「直接的な助力はさておいても、貴方の背中を押すことは、多分出来るわ」
その時は、言いなさい、と咲月は言った。銀河は黙って、頷くことしか出来なかった。
―――いいのだろうか、という思い。
この咲月さんがどの程度のお嬢様なのかは知らないが、しかし実家も、かつて仕えていた家も、相当のもので―――。
そうなったら、と考えると、やはり恐ろしい気分にもなる。
それに、俺が、このお屋敷で、お役に立てたと言うには、やや不足が過ぎる部分もあるだろう。
―――反逆の星が見える、と神様は俺に言った。
運命に逆らう者。
―――逆らえるのだろうか。
俺にそんな力があるのだろうか。ただそれを星の彼方に思う。主の優しい微笑み、今はそれだけを考えていたい気分だった。
現実逃避なのかも知れないけれども。
俺は、今、このお屋敷に全力を傾けていたかった。
それが、本音だった。
「今度、お参りもしてらっしゃいね」
その言葉に、最後に銀河は頷いた。
カンテラが煌々と輝いていた。




