第6話「辺境の兵士」
レオン・アルヴァレスは、目覚ましが鳴る3秒前に目を覚ました。
理由は分からない。子供の頃からそうだった。どれほど疲れていても決まった時間になると意識が浮かび上がり、目覚ましが鳴る直前には天井を見つめている。軍の医療検査では体内時計の精度が異常に高いと診断されたが、本人にとっては自慢にもならなかった。戦場で役に立つことはあっても、休日の朝まで正確に起きてしまうのだから、むしろ欠点に近い。
午前6時。
窓の向こうでは、アルカディアの朝が始まっていた。
青白い恒星が地平線から顔を出し、低い雲の端を金色に染めている。遠くの山々にはまだ夜の名残が残り、住宅地の屋根には朝露が光っていた。窓を少し開けると、涼しい風とともに、近所の農業ドローンが飛び立つ音が聞こえてきた。
レオンはベッドから起き上がり、窓辺に立った。
アルカディアは銀河統合帝国の辺境にある小さな惑星だった。人口は約420万人。主要産業は農業、鉱物加工、そして近隣の恒星系を結ぶ輸送船の整備だ。帝国の中心部から見れば、銀河地図の端にある無数の居住惑星のひとつにすぎない。
首都惑星のような巨大都市もなければ、歴史的な宮殿もない。銀河の運命を左右する研究機関も、文明の最先端を示すような施設も存在しなかった。
それでも、レオンはこの惑星が好きだった。
朝になると市場の屋台から焼きたてのパンの匂いが漂い、学校へ向かう子供たちが通りを走り、港では整備士たちが昨日と同じ船を修理している。夕方になれば、仕事を終えた人々が広場に集まり、休日には家族で山へ出かける。
銀河の歴史に名前が残ることはなくても、人々はここで生きていた。
それで十分だと、レオンは思っていた。
「起きてるなら、手伝って」
階下から妹の声がした。
レオンは窓を閉め、制服の代わりに古いシャツを着て階段を下りた。
台所では、妹のマリアが朝食の準備をしていた。28歳の彼女は、レオンより1つ年上の夫と、6歳になる息子のノアと暮らしている。夫のダニエルは惑星港の整備士で、早朝から仕事に出ていた。
「何をすればいい?」
「テーブルを片付けて。それからノアを起こしてきて」
「自分で起こせばいいだろ」
「私は朝食を作ってるの」
「俺も休暇中なんだけどな」
「知ってる。だから頼んでるの」
マリアは振り返りもせずに言った。レオンは反論を諦めた。
軍では中尉として部下を率いるが、実家に帰れば妹の使い走りだった。階級章を見せれば多少は態度が変わるかもしれないが、そんなことをすれば一生笑い話にされる。
廊下の突き当たりにある部屋の扉を開けると、ノアが毛布にくるまっていた。
「起きろ、ノア」
返事はない。
「朝だぞ」
毛布が少し動いた。
「今日は学校が休みだよ」
「知ってる」
「じゃあ、なんで起きるの?」
「朝ご飯を食べるためだ」
「ベッドで食べればいいじゃん」
「それをやると、お前の母さんが俺を宇宙の果てまで追いかけてくる」
ノアは毛布から顔を出した。
「宇宙の果てって、どこ?」
「俺も知らない」
「軍人なのに?」
「軍人だからって、宇宙の全部を知ってるわけじゃない」
ノアは納得していない顔をした。
レオンは甥の頭を軽く撫でた。
「ほら、起きろ。今日は港まで連れていってやる」
「本当?」
「ああ。ダニエルの仕事場を見に行こう」
ノアは一瞬で毛布を跳ねのけた。
子供というのは単純だ。少なくともレオンはそう思っていた。
朝食の席には、焼いたパンと卵、野菜のスープが並んでいた。マリアが市場で買ってきた果物もある。ノアは椅子に座るなり、港で見たい船について話し始めた。
「昨日、すごく大きな船が来たんだ。お父さんが言ってた」
「輸送船だろうな」
「軍艦より大きい?」
「種類による」
「宇宙で一番大きな船は?」
「さあな。帝国には惑星くらい大きな構造物もあるらしい」
「惑星くらい?」
「本当かどうかは知らないけどな」
ノアは目を輝かせた。
「レオンおじさんは見たことある?」
「ないよ」
「じゃあ、なんで軍人になったの?」
レオンはスプーンを止めた。
マリアが弟の顔を見た。彼女も答えを聞いたことがなかったわけではない。ただ、ノアの前で改めて説明する機会はなかった。
「遠くへ行けると思ったからだ」
「遠く?」
「この星の外だ。いろんな場所を見て、知らないものを知りたかった」
「じゃあ、今は知ってるの?」
「知らないことが増えた」
ノアは不思議そうに首を傾げた。
レオンは笑った。
「そういうものだよ」
軍に入ったのは、戦争をしたかったからではない。
少年時代のレオンにとって、宇宙は可能性そのものだった。父親が持っていた古い航行記録を読み、遠い惑星の写真を眺め、いつか自分の目で別の星を見たいと思った。
帝国軍の士官になれば、民間船では行けない場所にも行ける。まだ地図に載っていない領域を調査する任務だってあるかもしれない。
実際に軍へ入ってみると、宇宙は彼が想像していたほど自由ではなかった。
命令があり、規則があり、階級がある。航路は管理され、危険な宙域は封鎖され、行ってはいけない場所には近づくことさえ許されない。宇宙を知るために入った軍で、彼は宇宙の多くが知られないままにされていることを学んだ。
それでも軍を辞めようとは思わなかった。軍人として働くことで守れるものがある。そのことも彼は知っていたからだ。
朝食を終えると、レオンはノアを連れて港へ向かった。
住宅地を抜けると、通りは次第に賑やかになった。小型輸送車が荷物を運び、歩道には仕事へ向かう人々が行き交っている。店舗の壁面には帝国の紋章が掲げられ、その下では商店主が開店準備をしていた。
通りの中央に設置された情報パネルには、帝国中央からのニュースが流れていた。
新しい恒星間航路の開通。外縁惑星での農業生産量の増加。銀河議会で可決された交易協定。どれも平和で、豊かで、退屈なニュースだった。
レオンはパネルを見上げた。
「ねえ、レオンおじさん」
ノアが手を引いた。
「どうした?」
「宇宙って怖い?」
唐突な質問だった。レオンは甥を見下ろした。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「昨日、学校で先生が言ってた。宇宙は広くて、人間がまだ知らないものがいっぱいあるって」
「先生の言う通りだな」
「じゃあ、怖い?」
レオンは少し考えた。
「怖くないさ」
「どうして?」
「人間がもう、宇宙より強いから」
口にした瞬間、少し大げさだったかもしれないと思った。
だが、ノアは満足したように笑った。
「すごいね、人間って」
「ああ。すごいよ」
レオンはそう答えた。
その言葉を疑う理由は、今の彼にはなかった。
惑星港は、アルカディアで最も活気のある場所だった。
貨物船が離着陸する巨大な発着場の周囲には、整備工場や倉庫が並んでいる。空には輸送機の航跡が伸び、管制塔からは発着許可を伝える通信が絶えず流れていた。
ダニエルは第4整備区画で作業をしていた。
「おう、レオン。休暇は終わったのか?」
「まだ3日ある」
「それなら、その顔は休暇中の顔じゃないな」
「どんな顔だよ」
「仕事をしてないと落ち着かない顔だ」
ダニエルは笑いながら工具を置いた。彼はレオンより体格がよく、整備服の袖を肘までまくり上げている。軍人ではないが、機械の扱いにかけてはレオンよりはるかに優秀だった。
「ノア、触るなよ。昨日、工具箱をひっくり返しただろ」
「今日は触らない」
「昨日もそう言った」
「今日は本当に触らない」
ダニエルは肩をすくめた。
「まあ、見ていけ。ちょうど面白い船が入ってきたところだ」
整備区画の向こうに灰色の輸送船が停泊していた。船体には帝国の航路管理局を示す識別標識がある。外装は古く、何度も修理した跡が残っていたが、船の大きさはアルカディアの港にある一般的な輸送船を上回っていた。
「どこから来たんだ?」
レオンが尋ねると、ダニエルは端末を確認した。
「外縁の第7航路だ。予定より2日遅れたらしい」
「故障か?」
「それが、よく分からないんだと」
ダニエルは声を少し落とした。
「航行記録の一部が欠落してる。船長は航路管理局に説明を求めてるみたいだが、向こうも原因を特定できてない」
「門の異常か?」
「さあな。航路そのものは正常だったらしい」
レオンは輸送船を見た。
銀河統合帝国が管理する恒星間ゲートは、数千光年離れた星系同士を短時間で結ぶ文明の要だった。人類が銀河の11%を支配できるのも、そのネットワークがあればこそだ。
ゲートが止まれば、惑星は孤立する。
交易も、移住も、軍隊の移動も、すべてが滞る。
だが、帝国の門が大きな障害を起こしたという話は、レオンの知る限りほとんどなかった。少なくとも、公式にはそうだった。
「航行記録を見られるか?」
「軍の人間が興味を持つような話じゃないぞ」
「ただの好奇心だよ」
ダニエルはしばらく考えた後、端末を操作した。
「機密情報じゃない範囲ならな」
表示された航行記録は、確かに奇妙だった。
船は予定通りゲートを通過し、航路管理局の中継施設を経由している。通信記録にも大きな異常はない。
ただし、ある区間だけ、時刻が不自然に飛んでいた。
「ここだ」
ダニエルが指で示す。
「航行時間が6時間42分になっている。でも船内時計では、通過に6時間42分もかかっていない」
「どれくらいだ?」
「記録によって違う。船内時計だと、約3分」
レオンは画面を見つめた。
「時計の故障じゃないのか?」
「船内時計と航路管理局の時刻は別系統だ。両方が同時に故障するのは考えにくい」
「それで、原因は?」
「不明。航路管理局はデータの欠損として処理した」
レオンはそれ以上、質問しなかった。
ただの航行記録の異常だ。珍しいことではない。巨大な帝国のネットワークには、毎日膨大なデータが流れている。どこかで誤差が生じることも、記録が欠落することもあるだろう。
そう考えれば、何も不思議ではなかった。
「レオン」
ダニエルが言った。
「最近、軍の方はどうなんだ?」
「いつも通りだよ」
「本当に?」
レオンは義兄を見た。
「何か聞いたのか?」
「いや。ただ、港の連中が妙な噂をしてる。外縁の航路で、連絡がつかなくなった船があるらしい」
「海賊かもしれないな」
「帝国領内で?」
「辺境なら、絶対にないとは言えない」
ダニエルは納得していないようだった。
「まあ、軍の人間がそう言うなら、そうなのかもしれないが」
レオンは輸送船をもう一度見た。
そのとき、船体の照明が一斉に点滅した。
一瞬だけだった。
整備区画の作業員たちは誰も気に留めていない。照明の故障など、古い船では珍しくもない。
だが、レオンは気づいていた。
照明が消えた瞬間、船の周囲にある空間が歪んだように見えたのだ。
ほんの一瞬、船体の輪郭がずれた。まるで船が別の場所に存在していたかのように。
「今の、見たか?」
レオンが尋ねると、ダニエルは首を傾げた。
「何を?」
「いや……何でもない」
レオンは目をこすった。
疲れているのかもしれない。休暇に入る前の任務では、連日長時間の勤務が続いていた。自分では平気だと思っていても、身体には疲労が残っているのだろう。
ノアが輸送船を指差した。
「ねえ、あの船、どこに行くの?」
「さあな。修理が終わったら、また別の星へ行くんだろう」
「いいなあ。いろんな星に行けて」
レオンは笑った。
「お前も大きくなったら行けるさ」
「僕も軍人になる!」
「それはよく考えてから決めろ」
「どうして?」
「宇宙を見るために軍人になると、宇宙以外のこともたくさんしなきゃいけないからな」
「例えば?」
レオンは答えに迷った。
命令に従うこと。仲間を守ること。ときには、自分が正しいと思わないことを実行すること。
そして、誰かを殺すこと。
最後の言葉だけは口にしなかった。
「例えば、朝早く起きることだ」
ノアは笑った。ダニエルも笑った。その場には、何も問題などないように思えた。
午後、レオンは家に戻る前に軍の端末を確認した。
休暇中とはいえ、緊急連絡が入ることはある。画面には部隊からの通常報告が並び、特に異常は見当たらなかった。
ただし、受信箱の一番下に、見慣れない通知がひとつあった。
『中央司令部より、全辺境部隊へ』
本文を開く。
『当面の間、恒星間ゲートを通過する艦船の航行記録について、異常の有無にかかわらず詳細な報告を提出せよ』
その下には追加の指示があった。
『未確認の天体、航路の時間差、観測データの欠損を確認した場合、現地での独自調査を行わず、直ちに中央司令部へ報告すること』
レオンは眉をひそめた。
随分と細かい指示だった。
天体の未確認や航行データの欠損は、航路管理局の管轄だ。通常、前線部隊が関わることではない。
発信元は、確かに中央司令部からだった。配信時刻は今朝の午前6時14分。
つまり、レオンが目覚めた直後には、すでにこの命令が発令されていたことになる。
彼は少し考えた後、端末を閉じた。
命令には従う。それが軍人の仕事だ。
だが、命令が出された理由まで、いちいち気にしていたら身が持たない。そう自分に言い聞かせた。
夕方、レオンはマリアたちと食卓を囲んだ。
ダニエルが港で見た輸送船の話をし、ノアが学校で習った宇宙の話をした。マリアは明日の買い物について相談し、レオンは休暇が終わる前に家の修理を手伝うと約束した。
何も特別なことはない。だからこそ、レオンはこの時間が好きだった。
食事の後、ノアが眠るまで、レオンは居間で古い航宙図を眺めていた。
銀河の地図は、子供の頃から変わっていないようで、少しずつ変わり続けている。新しい航路が開かれ、居住惑星が増え、帝国の領域が広がっていく。
人類はまだ先へ進める。そう信じられる地図だった。
端末が震えた。レオンは画面を見た。発信元は不明。
通常の軍用通信ではない。暗号化された信号でもなかった。短いテキストがただ1行だけ表示されていた。
『アルカディアの空を、よく見ていてください』
レオンは画面を見つめた。
誰が送ったのか。なぜ自分に送ってきたのか。そして、なぜアルカディアなのか。
返信を試みたが、送信先は存在しなかった。通信記録を確認しても、受信経路は見つからない。
数秒後、メッセージそのものが消えた。
レオンは端末を閉じた。窓の外では、夜空に星が輝いていた。
アルカディアから見える星空は美しかった。都市の照明が少ないため、天の川の淡い帯まで見える。子供の頃、父親に連れられて郊外へ出かけた夜のことを、レオンは今でも覚えている。
父親は星を指差しながら、そこにも誰かが暮らしているかもしれないと話してくれた。あの星の下にも家があり、家族がいて、朝になれば誰かが仕事へ出かける。
宇宙は広い。
けれど、そこにいるのは自分たちと同じように生きている者たちなのだと、父親は言った。
レオンは窓辺に立った。
メッセージのことは、明日になれば忘れているかもしれない。軍の端末に届く不可解な通知など、珍しくもない。そう考えながら、彼は空を見上げた。
星は、いつも通り輝いていた。その中にひとつだけ、名前を知らない星があった。
レオンは、なぜかその星から目を離せなかった。何かが変わったわけではない。光の強さも、位置も、周囲の星との関係も、すべて正常だった。
それでも、彼は奇妙な確信を抱いていた。
あの星は、以前からそこにあったのではない。そして、誰かが自分にそれを見つけさせようとしている。
端末が再び震えた。今度は軍の緊急通信だった。レオンは画面を開いた。
『中央司令部通達。辺境宙域における観測異常について、全艦艇の警戒レベルを引き上げる』
続いて、座標が表示された。
【ヘリオス観測ステーション】
その下に、短い補足があった。
『現地との通信が途絶。状況確認のため、近傍部隊は待機せよ』
レオンは窓の外を見た。知らない星は、まだ輝いていた。
だが、その光はもう、ただの星の光には見えなかった。




