第5話「二つ目の星」
暗闇の中で、エレナ・クロフォードは自分の呼吸だけを聞いていた。
ヘリオス観測ステーションの電源は落ちたままだった。非常用記録装置の緑色のランプだけが、彼女の手の中で弱々しく光っている。扉の向こうにいた人間たちの気配はいつの間にか消えていた。彼らが立ち去ったのか、それとも最初から誰もいなかったのか、確かめる手段はない。
「マーカス、いる?」
「いるよ」
すぐ近くから声が返ってきた。彼も無事らしい。
「通信端末は?」
「ダメだ。施設内ネットワークも完全に停止した。こんな落ち方は見たことがない」
「予備電源は?」
「反応なしだ」
エレナは窓の外を見た。
宇宙はいつもと同じように見えた。無数の星が暗闇の中に散らばり、遠くの星雲が淡い光を放っている。だが、その景色の一角だけが不自然だった。
星がない──
正確には、星があるはずの場所に星が存在しない。
そこには何もなかった。黒い天体があるわけでも、光を遮る雲があるわけでもない。周囲の星々は何事もなかったように輝いているのに、その一角だけが、宇宙の背景から切り抜かれたように暗かった。
「マーカス、窓を見て」
彼が近づいてくる。
「何が……」
言葉が止まった。
「なんだ、あれ」
「分からない」
エレナは記録装置を操作した。装置に残された直近のデータを呼び出す。電源が落ちる直前までの観測記録は、かろうじて保存されていた。
画面に銀河座標が表示される。
黒い領域の中心は、KX-4471の座標と一致していた。
「やっぱり、あそこに何かがある」
「何かって、星じゃないのか?」
「星なら光がある。少なくとも周囲への重力の影響は残るはずよ」
「ブラックホールなら?」
「ブラックホールでも重力は消えない」
エレナは画面を拡大した。古い観測記録と現在の座標を重ね合わせる。KX-4471が存在していた時代のデータを基準にすれば、何かが変化したのかどうかを確認できるはずだった。
だが、比較対象そのものが見つからない。
記録装置には、KX-4471のデータが残っている。少なくともエレナが先ほど保存した47件の異常記録には、その星の存在を示す情報が含まれていた。
一方、ステーションの観測システムからは、その星の情報が消えている。
2つの記録は同じ装置の中にあるのに、互いに矛盾していた。
「こんなことが起きるはずがない」
マーカスが呟いた。
「データの破損なら説明できる。通信障害でもシステムの誤作動でもいい。だけど、同じ場所について、存在したという記録と存在しないという記録が同時に成立するなんて……」
「成立しているんじゃない」
エレナは画面から目を離さずに言った。
「どちらかが間違っているのよ」
「どっちが?」
彼女は答えられなかった。
そのとき、手元の記録装置が短く震えた。
電源は落ちているはずだった。装置に残されたわずかな蓄電量で、表示を維持することしかできない。それなのに画面の隅に新しい数値が現れていた。
時刻だった。
その下に見慣れない表示が続いている。
『観測開始まで、00:12:00』
「マーカス、これを見て」
彼が覗き込む。
「何のカウントダウンだ?」
「分からない」
エレナは表示を操作しようとした。反応はなく、電源を入れ直すことも、記録を消すこともできなかった。
数字だけが減っていく。
00:11:59
00:11:58
「誰かが仕込んだのか?」
「この装置はネットワークに接続されていない。外部から操作することはできないはずよ」
「じゃあ、内部に何かある?」
エレナは装置の外装を見た。旧式の記録装置は、数十年前に製造されたものだった。内部の制御回路も単純で、複雑なプログラムを隠せるような構造ではない。
それでもカウントダウンは続いていた。
00:10:41。
エレナは決断した。
「観測する」
「何を?」
「次に起きることよ」
「電源が落ちてるんだぞ。観測装置だって動かない」
「だからこの装置を使うの。外部システムから独立しているなら、少なくとも何が起きたかを記録できる可能性がある」
「何が起きるか分からないのに?」
「分からないから観測するのよ」
マーカスは彼女を見つめた。反対したそうな顔だったが、結局は何も言わなかった。
2人は観測室の中央へ移動した。エレナは記録装置を端末に接続し、手動で観測データを読み込めるように準備した。マーカスは非常用の光学望遠鏡を起動しようとしたが、駆動系は動かなかった。そこで彼は、窓から見える星々の位置を肉眼で確認し、過去の星図と照合し始めた。
カウントダウンは続いていた。
00:05:00。
エレナは窓の向こうを見た。
黒い領域は、先ほどより大きくなったように感じられた。だが、比較するための基準がない。人間の目は、何もない場所の大きさを正確には測れない。
00:03:00。
マーカスが息を呑んだ。
「エレナ、あれを見ろ」
彼が指差したのは、黒い領域のすぐ外側だった。
星が1つ、瞬いていた。
普通の瞬きではない。恒星が大気の揺らぎで明滅する現象とも違う。その光は一定の周期で強くなり、弱くなっていた。まるで、何かが星の向こう側で呼吸しているようだった。
エレナは星の位置を記録した。
「座標を確認して」
マーカスが古い星図を呼び出す。
「LX-9132……いや、違う。座標が少しずれている。周辺の恒星と照合する」
彼の指が止まった。
「そんなはずはない」
「何が?」
「この星、カタログにない」
エレナは彼の端末を覗いた。確かに、既存の恒星カタログには該当する天体が見つからない。だが、窓の外には星がある。光学望遠鏡が動かなくても、肉眼で確認できるほど明るい。
「記録にない星が、そこにある」
マーカスが呟いた。
「それとも、記録から消された星なのか」
00:01:00。
エレナは記録装置を窓に向けた。もちろん、装置自体に光を捉える機能はない。それでも、残された観測データを時刻に合わせて表示すれば、外部から得られるわずかな情報を記録できるかもしれない。
00:00:10。
マーカスが彼女の腕を掴んだ。
「エレナ。もし、あれが何かの罠だったら?」
彼女は彼を見た。
「その可能性はあるわ」
「それでもやるのか」
「ええ」
「なぜ?」
エレナは少しだけ考えた。
「私たちが何も記録しなければ、最初から何もなかったことにされるから」
00:00:03。
00:00:02。
00:00:01。
数字がゼロになった。
何も起きなかった。
星は光っていた。黒い領域も変化しない。警報も鳴らず、通信も戻らない。
マーカスがゆっくりと息を吐いた。
「……ただのカウントダウンだったのか?」
エレナは答えず、記録装置の画面を見つめていた。
新しい表示が現れていた。
『観測対象を確認』
続いて座標が表示された。
その位置は、窓の外で瞬いている星と一致していた。
さらに文字が現れる。
『対象の存在記録を照合します』
エレナの喉が乾いた。
「マーカス、下がって」
「何をする気だ?」
「分からない。でも、これから何かが起きる」
画面の文字が切り替わった。
『過去記録:存在を確認』
『現在記録:存在を確認』
『未来記録:該当なし』
エレナは眉をひそめた。
「未来記録?」
次の瞬間、星の光が消えた。爆発はなかった。閃光も、衝撃波も、星を覆う巨大な構造物も見えなかった。ただ、そこにあった光が消えた。
エレナは瞬きをした。目の錯覚ではない。周囲の星の位置を確認する。星図と照合する。窓の枠を基準に、消えた星の位置をもう一度確かめる。
そこには何もなかった。
「記録しろ!」
マーカスの声で、エレナは我に返った。
装置の画面が激しく点滅している。表示されていた座標が消え、代わりに複数の警告が並んだ。
『観測対象の消失を検出』
『過去記録との不一致』
『記録の再構築を開始』
「止めろ!」
エレナは操作したが、反応がない。
「再構築って何よ!」
装置は彼女の声に応えなかった。数秒後、画面の表示が正常に戻った。
そこには、先ほどまで存在していた星の記録が残っていた。座標も、光度も、スペクトルも表示されている。
消失の瞬間までのすべて記録されていた。
エレナは安堵しかけたが、直後に気づいた。記録の末尾に見覚えのない項目が追加されている。
『対象名称:未登録』
『対象分類:恒星』
『存在期間:0秒』
「……そんな」
マーカスが画面を見つめた。
「存在期間が、ゼロ?」
「観測開始前には存在していた。私たちは見ていた。なのに、記録上は一度も存在していないことになっている」
エレナは過去のデータを呼び出した。星が消える直前の映像も、光度の変化も、すべて残っている。それなのに、装置はその星が存在した時間をゼロ秒と記録していた。
まるで、観測したという事実と、存在したという事実が切り離されているようだった。
「この装置は何を基準に記録しているの?」
マーカスは答えなかった。
画面に新しい文字が現れた。
『観測を継続してください』
その下に、別の行が追加される。
『残りの対象:46』
エレナは息を止めた。
「46……?」
彼女の保存した異常記録は47件だった。
今、目の前で消えた星が、そのうちの1つに数えられたのだろうか。それともこれから消える星の数なのか。
確認する間もなく、画面が暗くなった。非常灯が点灯する。観測室の照明が戻り、端末が次々に再起動していった。外部通信も復旧し始めている。
あまりにも突然の復旧だった。
マーカスは窓の外を見つめていた。
「エレナ」
「何?」
「今の星、覚えてるか?」
「もちろん」
「どんな星だった?」
エレナは答えようとした。だが、言葉が出なかった。
光度は覚えている。位置も、消えた瞬間も覚えている。装置に記録されたスペクトルも、まだ画面に残っている。
それなのに、星そのものの姿が思い出せなかった。
色も、形も、どんな印象を受けたのかも。
確かに見たはずなのに、記憶の中に星がいない。
エレナは自分の手を握りしめた。
「記録を確認する」
彼女は端末を操作した。観測映像を再生する。
窓の外に星々が映っている。消えた星の位置にも光点があった。
再生時間を進める。
星は消え、映像が終わる。
もう一度、最初から再生する。
今度は星が映っていなかった。消失前の映像から、星だけが抜け落ちている。
「どうして……」
エレナは別の記録を開いた。光度データは残っている。スペクトルも残っている。星があったことを示す数値は、いくつも残されていた。
だが、それらをひとつの天体として結びつける情報だけが失われていた。
彼女は記録装置を胸に抱えた。この装置には、消失前の記録が残っている。少なくとも、先ほどの瞬間までは……。
だが、いつまで残るのかは分からない。そして、なぜこの装置だけが記録を維持できたのかも。
マーカスが通信端末を見た。
「中央からだ」
画面には、帝国中央観測局からの命令が表示されていた。
『観測業務を再開せよ。異常は確認されなかったものとする』
エレナは文字を読み返した。
「異常は確認されなかったものとする……?」
「どういう意味だ?」
「私たちは、星が消える瞬間を見たのよ」
マーカスは通信端末を握りしめた。
「中央はそれを知っているのか?」
エレナは答えず、命令の送信時刻を確認した。
星が消える数秒前だった。
つまり帝国中央は、観測が行われることを知っていた。そして、何が起きるかも予測していた可能性がある。
エレナが命令文を保存しようとした瞬間、文字が消えた。端末には、通常の業務再開命令だけが残っている。彼女は何度も画面を更新した。
『異常は確認されなかったものとする』
その一文だけが、どこにも見つからなかった。
マーカスが低い声で言った。
「エレナ。もう、誰を信じればいいんだ」
彼女は窓の外を見た。
星々は輝いている。先ほどまでと同じ、何も変わらない宇宙だった。だが、エレナにはもう、それが平和な景色には見えなかった。
星が消えたことよりも恐ろしいのは、消えた星が存在しなかったことにされることだ。そして、それを実行している何かが、こちらの観測を知っている。
エレナは記録装置を開いた。画面には、最後に受信したメッセージが残っていた。
『記録してください。まだ間に合います』
その下に、新しい一文が追加されていた。
『次は、あなたたちの番です』
エレナは画面を閉じなかった。
今度は、自分たちが観測対象になったのだと理解していた。




