第7話「何も起きない日」
翌朝、アルカディアはいつもと変わらなかった。
薄い雲の向こうから恒星の光が差し込み、農業区画の温室群が順番に透明度を上げていく。地表を走る輸送車が道路の上を滑り、軌道エレベーターの根元では、夜勤を終えた作業員たちが食堂へ向かっていた。遠くの山脈には、採掘施設の照明がまだいくつか残っている。
人口420万人。帝国の中心から見れば、地図の端に記された小さな数字にすぎない。だがこの惑星で暮らす人々にとっては、そこにあるものすべてが世界だった。
レオン・アルヴァレスは、軍服ではなく古い上着を着て、町の中央市場を歩いていた。休日だった。厳密には、前線部隊の再編に伴う待機時間であり、いつ呼び出されてもおかしくない。それでも、上官から外出を禁じられていない以上、今日を休日と呼ぶことに問題はなかった。
市場には人が多かった。農業区画から届いた果物が並び、修理工たちは工具を売り、子供たちは自律走行する小型玩具を追いかけている。食料品店の前では、値上がりした輸入茶をめぐって店主と客が言い争っていた。
「帝国が戦争を始めたわけでもないのに、なんでこんなに高くなるんだ」
「戦争が始まってから文句を言っても遅いよ。今のうちに買っておきな」
「だから、まだ始まってないだろうが」
レオンはそのやり取りを聞きながら、店先の果物をひとつ手に取った。表面に小さな傷があったが、食べるには問題なさそうだった。
「それ、いくらですか」
「軍人さんなら少し負けてやるよ」
「本当ですか。助かります」
「なんだ、もっと遠慮するかと思ったよ」
「せっかくのご厚意ですから」
「調子のいい軍人さんだな」
店主は笑いながら、果物を袋に入れた。
何も変わらない。少なくとも、ここで暮らす人々はそう信じていた。
数日前から、帝国軍の通信網では不穏な情報が流れていた。未登録天体の出現、航路データの欠損、観測施設との通信断絶。レオンの部隊にも異常報告を徹底するよう命令が届いていたが、具体的な説明はなかった。上官たちは詳しいことを知らないふりをし、兵士たちは知らないことについて冗談を言った。
軍隊とはそういうものだった。上から何も説明されないときほど、余計なことを考えないほうがいい。
レオンは果物をかじりながら空を見上げた。
昼間の空に星は見えない。大気の向こうには、目では捉えられないほど多くの星があるはずだった。幼いころ、彼はそれを知ってから宇宙に憧れるようになった。見えないものがある。知らない場所がある。自分の人生が終わっても、世界はその先へ続いていく。そのことが、彼には希望に思えた。
軍人になれば、宇宙へ出られる。そう考えて軍に志願したのは、家族を守るためだけではなかった。もちろん、家族を守りたい気持ちはあった。だが本当は、いつか自分の目で、まだ誰も見たことのない景色を見たかったのだ。
宇宙は広い。人間の都合など気にかけず、ただそこに広がっている。だからこそ恐ろしくはなかった。少なくとも、以前はそう思っていた。
***
家に帰ると、ノアが庭先で何かを作っていた。
庭といっても、地表に直接土を敷いた場所ではない。アルカディアの住宅区画では、土壌の管理と水の節約のため、家庭菜園にも専用の培養土が使われていた。ノアはその隅に座り、細い金属片や壊れた玩具の部品を並べている。
「何を作ってるんだ」
「船」
「船なら、部品が足りないだろ」
「これは普通の船じゃないから」
ノアは顔を上げずに答えた。まだ幼い彼は、思いついたことを説明するのが苦手だった。頭の中には完成形があるらしいのだが、それを言葉にしようとすると、いつも途中で諦めてしまう。
レオンは隣にしゃがみ、並べられた部品を見た。金属片は船体、円形の部品はエンジン、細い線は推進器のつもりだろう。だが、全体を眺めても、船というより奇妙な輪に見えた。
「どこへ行く船なんだ?」
「向こう」
ノアは空を指さした。
「向こうって、どこだよ」
「ここじゃないところ」
レオンは笑った。
「それなら、宇宙船は全部そうだな」
「違うよ。これは帰ってくる船なんだ」
その言葉に、レオンは少しだけ考え込んだ。
「宇宙船は、帰ってくるために飛ぶのか?」
「うん。行くだけなら、帰ってこられないから」
ノアは当たり前のことを言うように、部品をひとつ付け加えた。
レオンは彼の頭を軽く撫でた。
「お前、軍人に向いてるかもしれないな」
「軍人にはならないよ」
「どうしてだ?」
「おじさん、宇宙に行っても、いつも疲れて帰ってくるから」
思いがけない答えに、レオンは声を出して笑った。ノアは笑わなかった。彼にとっては、ただ目の前にある事実を述べただけらしい。
家の中からマリアの声がした。昼食ができたという。
ダニエルは仕事で戻らない。数日前に到着した輸送船の件で、港湾施設では確認作業が続いているらしかった。航路管理局から問い合わせが何度も届き、船員たちは同じ質問に何度も答えさせられているという。船の遅延そのものは珍しくない。辺境航路では機器の故障も、通信の不調も起こる。だが、今回のように記録の一部だけが説明できない形で欠けているのは、ダニエルも初めて見たと言っていた。
レオンはその話を思い出した。
航路管理局の記録では6時間42分。船内時計では約3分。数字を頭の中で並べてみても、意味は見えてこなかった。船が時間を失ったのか、記録する側が時間を取り違えたのか。あるいは、何か別の問題があったのか。
どれもあり得る話だった。少なくとも、今のところは。
「レオン、聞いてる?」
玄関からマリアが顔を出していた。
「何を?」
「昼ごはん。冷めるって言ったの」
「聞いてるよ」
「じゃあ、どうしてそこに座ってるの?」
「宇宙のことを考えてた」
「食事の前に宇宙を考えるのはやめて。せめて食べ終わってからにして」
マリアは呆れた顔で笑い、家の中へ戻った。
レオンは立ち上がり、ノアの作った船を見下ろした。奇妙な輪の中央には、小さな空洞があった。何かを取り付けるための場所なのかもしれない。
「完成したら見せてくれ」
「うん。でも、まだ足りないものがあるんだ」
「何が?」
「分からない」
ノアは空洞を見つめていた。
「でも、そこに何かがないと、帰ってこられない気がする」
レオンは返事をせずに家の中へ入った。
***
昼食のあと、レオンは軍から支給された端末を確認した。
新しい命令は届いていなかった。部隊の連絡網には、周辺宙域で予定されていた輸送便の遅延情報と、定期訓練の一部変更が流れている。どれも通常の業務連絡に見えたが、いつもより情報量が少なかった。
試しに帝国軍の公開通信を開くと、皇帝府の広報映像が最初に表示された。
銀河統合帝国第119代皇帝、アウレリアン・ヴァル・セヴェル。濃紺の正装をまとった皇帝は、議会での演説を終えたばかりだった。映像の背景には帝国の紋章が掲げられ、報道官は辺境の治安維持と航路の安全性について説明している。
皇帝本人が話したのは、ほんの短い時間だった。
「帝国は、すべての市民の安全と生活を守るため、必要な措置を講じています。辺境の航路を含め、帝国の交通網は管理下にあります。市民の皆さんは、日常を変える必要はありません」
落ち着いた声だった。表情に乱れはない。政治家として、軍人として、数多くの危機を乗り越えてきた男の言葉だった。
レオンは映像を止めた。
航路は管理下にある。そう言い切れるのなら、なぜ前線の兵士に、説明のない異常報告命令が届いているのだろう。
端末の画面を閉じかけたとき、軍の緊急回線が短く点滅した。レオンはすぐに接続したが、表示されたのは自動更新の通知だけだった。通信障害に伴う再送信の案内。本文にはそれ以上の情報がない。
彼はしばらく画面を見つめてから、端末を伏せた。
何かが起きている。それは間違いない。だが、何が起きているのかは分からない。そして、分からないことを分からないままにしておくよう、帝国は命じている。
レオンは窓の外を見た。通りを子供たちが走り、隣家の老人が植物に水をやっている。道路の向こうでは、修理業者が故障した家庭用ロボットを運び出していた。世界は平穏だった。誰も空を恐れてはいない。
自分が何を知っているのか、何を知らされていないのか。それを考え始めると、急に家の中が狭く感じられた。
彼は上着を取り、外へ出た。
***
日が傾くころ、レオンは町の外れにある丘へ向かった。
そこは子供のころから好きな場所だった。住宅区画と農業施設の境目にあり、少し高いところからなら、港湾施設も軌道エレベーターも見渡せる。夜になれば、地表の照明の向こうに星が現れる。
丘の上には、すでに何人かがいた。散歩する夫婦、犬型ロボットを走らせる少年、遠くの港を眺めている年配の男。誰もがそれぞれの理由で空を見ていた。
レオンは草地に腰を下ろした。
地平線の向こうに、軌道エレベーターの上部が細い線のように伸びている。その先には宇宙があり、さらにその向こうには数えきれない星がある。帝国の領域だけでも、数億の星系が存在するとされている。そのひとつひとつに誰かの生活があり、誰かの記憶がある。
それらを守るために軍は存在する。
少なくともレオンはそう信じてきた。
端末が振動した。部隊からの連絡ではなかった。差出人の情報がなく、暗号化もされていない短いメッセージだった。
『空を見ていますか』
レオンは周囲を見回した。丘にいる人々は変わらず、それぞれの時間を過ごしている。誰かが自分を見ている気配もない。
彼は返信欄を開いたが、何も入力しなかった。
数秒後、次のメッセージが届いた。
『見えるものだけを信じないでください』
レオンの指が止まった。
先ほど受け取ったメッセージと同じ送信元なのかどうか、端末では確認できなかった。記録上は、どちらも発信者不明。経路も不明。返信先すら存在しない。
軍へ報告するべきだった。
そう考えた瞬間、端末の画面からメッセージが消えた。
受信履歴にも残っていない。通信障害で表示が乱れたのかと思い、保存記録を確認したが、何もなかった。最初から届いていなかったかのように、端末は正常な状態に戻っている。
レオンは端末を握りしめた。
背後で子供が笑った。遠くで車が走り、港の作業灯がひとつずつ点灯していく。誰も気づいていない。あるいは、気づく理由がないのかもしれない。
彼は空を見上げた。まだ星は見えなかった。
***
その夜、レオンは家族と夕食をとった。
マリアは翌日の買い物について話し、ダニエルは港湾施設での作業が長引いていると連絡してきた。ノアは昼間に作った船を食卓の端へ置き、誰にも触らせないようにしていた。レオンが尋ねても、まだ完成していないとしか答えなかった。
食事が終わるころ、ノアがふと窓の外を見た。
「ねえ、おじさん」
「なんだ?」
「星って、なくなったら分かるの?」
レオンは箸を止めた。
「何を言ってるんだ?」
「星だよ。空にある星。なくなったら、誰かが気づくの?」
マリアが笑った。
「星は遠いから、見えなくなることだってあるでしょう。雲に隠れたり、昼間は見えなかったり」
「そうじゃないよ」
ノアは首を横に振った。
「最初からなかったことになったら?」
食卓が静かになった。
レオンは、ヘリオス観測所の通信断絶を思い出した。未登録天体の報告。消えた星。異常を確認しなかったことにするという命令。そして、誰が送ったのかもわからないメッセージ。
見えるものだけを信じないでください。
「誰かにそんな話を聞いたのか?」
レオンが尋ねると、ノアは不思議そうな顔をした。
「聞いてないよ。ただ、そう思ったんだ」
マリアが息子の肩に手を置いた。
「変なことを考えてないで、早く寝なさい」
ノアは素直にうなずいたが、食卓の端に置かれた船を持ち上げると、その中央の空洞を確かめるように指でなぞった。
レオンは何も言えなかった。
夜が深まるにつれて、家の中は静かになった。マリアたちが寝室へ向かったあとも、レオンはしばらく居間に残り、窓の外を見ていた。雲が流れ、暗い空の一部が開いている。そこに星々が見え始めていた。
星はある。
今は、確かにそこにある。
それでもレオンは、視線を外すことができなかった。
彼が宇宙を恐れたことはなかった。宇宙は広く、冷たく、人間の事情に無関心だ。だが、その無関心こそが世界の確かさだと思っていた。星は人間が見ていなくても存在する。記録されなくても、誰かに忘れられても、そこにあり続ける。
もし、その確信が間違っていたら……。
午前3時40分。軍の緊急通信が届いた。
『全辺境部隊に告ぐ。ヘリオス観測所の通信断絶を受け、周辺宙域の警戒レベルを引き上げる。各部隊は即時待機態勢に移行せよ。繰り返す。これは訓練ではない』
レオンは立ち上がった。
窓の外では、アルカディアの町に灯る明かりが、いつもと変わらず地表を照らしていた。家々には人がいる。食事を終えた家族が眠り、明日の仕事を考え、子供たちは夢を見ている。
まだ誰も知らなかった。この平穏が、どれほど脆いものの上に成り立っているのかを……。
レオンは軍服を取り出した。袖を通し、留め具をひとつずつ締める。慣れた動作だった。何度も繰り返してきたはずなのに、その夜はひどく時間がかかった。
窓の向こうで、ひとつの星が雲に隠れた。
レオンは、その星が再び現れるまで見届けようとした。だが、雲が流れ去ったあとも、その場所には何も見えなかった。
彼は端末の観測補助機能を起動した。表示された天体位置情報には異常がない。該当する星の登録も、観測履歴も、正常だった。
見間違いだ。
そう結論づけようとしたとき、端末の表示が一瞬だけ暗くなった。そして、ほんの短い時間、画面の隅に見慣れない文字列が浮かんだ。
『記録は、残っていますか』
レオンが読み終えるより早く文字列は消えた。今度は端末を確認する必要もなかった。彼は確かにそれを見たのだ。そして初めて、宇宙の広さではなく、そこにあるはずのものが失われることを恐れた。
彼は家族を起こさないように玄関を出て、基地へ向かった。




