第3話「観測所閉鎖」
受信ランプがもう一度だけ点滅した。エレナは画面から目を離さなかった。
「マーカス、記録を止めないで」
「止めてない」
マーカスは端末を操作しながら答えた。声が少し低くなっている。さっきまでなら、異常なデータが届いたことに興奮していたかもしれない。
だが今は違った。
18年間で47件──それは偶然と呼ぶには多すぎた。
しかもその47件は、銀河のあちこちで無秩序に発生していたわけではない。古い記録を重ね合わせると、ひとつの傾向が見えてくる。
異常は人類圏の外縁に向かって伸びていた。まるで何かがこちらへ近づいているように……。
「エレナ」
マーカスが呼んだ。
「何?」
「これを見てくれ」
彼が画面を切り替える。そこには、47件の異常が発生した位置を示す銀河地図が表示されていた。
点がいくつも浮かんでいる。最初はばらばらに見えた。だが時間軸を加えると違うものが見えてきた。
古い異常ほど外側にある。新しい異常ほど人類圏の内側に近づいている。
そして最も新しい47件目は、ヘリオス・ステーションからわずか数百光年の位置だった。
エレナは椅子から立ち上がった。
「これ、誰かに見せた?」
「まだ誰にも」
「中央にも?」
「送ってない」
「どうして?」
マーカスは少し迷ってから言った。
「送る前に確認したかったんだ」
「何を?」
「帝国中央が本当に何も知らないのか」
その言葉にエレナは黙った。
18年間で47件。もし帝国が本当に知らなかったのなら、人類史上最大級の観測事故になる。
だが、もし知っていたのなら、これは事故ではなく隠されていた事件だ。
そのとき、室内の照明が一度だけ暗くなった。エレナが天井を見る。すぐに照明は戻った。
「電源系統?」
「違う」
マーカスが端末を見る。
「観測システムは正常だ」
「じゃあ何?」
返事はなかった。
マーカスが別の画面を開く。そこには、ステーション外部との通信状態が表示されていた。赤い文字がひとつだけ浮かんでいる。
『通信回線制限』
エレナの胸の奥が冷たくなった。
「いつから?」
「今」
「中央から?」
「たぶん」
マーカスが通信回線を手動で開こうとした。
接続要求──認証──拒否──再試行──拒否。
「おかしい」
「何が?」
「中央の観測施設に、こんな制限をかける権限は軍でも持ってない」
「じゃあ誰が?」
その瞬間だった。ステーション全体に低い警告音が響いた。続いて天井のスピーカーから機械的な女性の声が流れる。
『銀河統合帝国中央観測局より通達します』
エレナとマーカスは顔を見合わせた。
『ヘリオス観測ステーションは、ただちに全観測業務を停止してください』
エレナは立ち上がった。
『職員は各自の居室へ移動し、中央局からの追加指示を待ってください』
マーカスが通信端末を叩く。
「おい、ちょっと待て」
当然、返事はない。
『本施設への外部通信はこれより制限されます』
エレナはスピーカーを見上げた。
『これは安全確保を目的とした一時的な措置です』
そこで放送が終わった。静寂が戻る。
数秒後、マーカスが笑った。乾いた笑いだった。
「安全確保だってさ」
エレナは答えなかった。机の上に残された記録端末へ視線を落とす。
18年間で47件の異常。そして、今この瞬間の通信封鎖。偶然が三つ重なることはある。
だが四つ目からは、何かを疑うべきだ。
エレナは端末を開き、47件の記録を別の保存領域へコピーしようとした。
進行率が表示される。
12%──27%──43%
そのとき画面が止まった。
保存先が消えていた。
「……何?」
エレナが再び保存先を指定する。
存在しない──
別の保存先を指定する。
そこも存在しない──
まるでステーション内の記録領域そのものが、一つずつ消されているようだった。
「マーカス」
「分かってる」
彼も同じことに気づいていた。
「データを外部に出せない」
「違う」
エレナは首を振った。
「外部に出せないんじゃない」
画面を指差す。
「消されてる」
マーカスの表情が変わった。2人は何も言わなかった。
そのとき、廊下の向こうで扉が閉まる音がした。ひとつ、またひとつ、そしてもうひとつ。ステーション内の区画が順番に封鎖されていく。
誰かがこちらへ近づいている。
マーカスが立ち上がった。
「中央の職員かもしれない」
エレナは首を横に振った。
「中央の人間なら、事前に名前を送ってくる」
「じゃあ誰だ?」
答えられない。
足音が近づいてくる。重くはない。規則正しくもない。ただ、確実にこちらへ向かっている。
エレナは机の下にある非常用記録装置を取り出した。普段は使われない古い装置だった。ネットワークから完全に切り離されている。
そこへ47件の記録をコピーする。今度は進んだ。
3%──8%──16%
エレナは息を止めた。
もしこの記録まで消されたら二度と戻せない。
43%──
廊下の足音が止まった。扉の前だった。エレナとマーカスは動かなかった。
数秒──
何も起こらない。
やがて、扉の向こうから声がした。
「エレナ・クロフォード博士」
女の声だった。
「はい」
「中央観測局です。扉を開けてください」
マーカスがエレナを見る。エレナは非常用記録装置を握った。
「身分証明を」
「規定により提示できません」
エレナの背中に冷たいものが走った。
「では、扉は開けられません」
沈黙──
その向こうで誰かが小さく息を吐いた。そして女の声が言った。
「博士。あなたは今、何を記録していますか?」
エレナは答えなかった。
「答えてください」
それでも沈黙した。
すると、扉の向こうから別の声が聞こえた。男の声で低く落ち着いている。
「エレナ・クロフォード、KX-4471の記録を持っていますね」
エレナの指が止まった。
その名称を知っている人間は、このステーションにはほとんどいない。中央へ報告した記録からもすでに消えているはずだった。
マーカスが小声で言う。
「エレナ、開けるな」
扉の向こうの男が続けた。
「あなたが見つけたものについて、帝国は18年間、沈黙してきました」
エレナは息を呑んだ。
「なぜなら、まだ誰も理解できていないからです」
足音が一歩近づいた。
「ですがあなたが記録を続ければ、次に消えるものが何なのかも分かってしまう」
エレナは思った。この人間は何を知っている?そして何を恐れている?
「次に消えるのは何ですか?」
初めて扉の向こうが沈黙した。長い沈黙だった。
やがて男が答えた。
「星ではありません」
エレナの心臓が大きく跳ねた。
「では、何が?」
男は答えなかった。
その代わり、ステーション全体の電源が落ちた。完全な暗闇になった。非常灯さえ点かない。
そして暗闇の中で、エレナの手元にある非常用記録装置だけが小さな緑色の光を放っていた。
保存完了。
エレナは装置を握りしめた。その直後、ステーションの外で何かが光った。
窓の向こう、星々の中に、本来そこには存在しないはずの巨大な黒い領域が浮かんでいた。
まるで宇宙そのものが、誰かに切り取られたように。
そしてエレナは気づいた。
あの黒い領域はこちらへ近づいている。星ではない何かがこちらを見ている。
その瞬間、暗闇の中で通信端末がひとつだけ起動した。
画面に見知らぬ文字列が表示された。その下に、たった一行だけ日本語が現れた。
『記録してください。まだ間に合います』
エレナはその言葉を見つめた。誰が送ったのかは分からない。だがひとつだけ分かった。
自分たちはもう観測者ではない。何かに、観測されている。




