第2話「存在しない恒星」
午前4時12分。ヘリオス・ステーションの観測室にはまだ夜が残っていた。
人工照明は最低限に落とされたままだった。窓の向こうでは星々が何事もなかったかのように輝いている。
その景色を見ていると、さっきまでの出来事が夢だったように思えた。だが、観測モニターに表示された空白だけは消えない。
KX-4471
そこにあるはずの恒星がない。そして、存在していたという記録まで少しずつ失われている。
「バックアップの確認が終わった」
マーカスが言った。エレナは振り返った。
「どうだった?」
「全部ない」
「全部?」
「このステーションに保存されていたKX-4471関連の観測記録は、最後のものまで消えてる」
「最後のものまで?」
「昨日の22時41分に取得したデータもない」
エレナはモニターを見た。
「でも私たちは、さっき見た」
「ああ」
「確かに見た」
「ああ」
「じゃあ……」
言葉が続かなかった。自分の記憶だけが、データから切り離されているような感覚だった。
記録がない、観測結果もない、中央データベースにもない。それなのに、エレナとマーカスだけは知っている。昨日までそこに星があった。
エレナは椅子に座り直した。
「もう一度観測する」
「何を?」
「KX-4471があった場所」
マーカスが彼女を見る。
「エレナ」
「何?」
「そこには何もない」
「分かってる」
「だったら……」
「だから確認するの」
エレナは観測システムを操作した。
「このステーションだけじゃない観測系統を使う。独立したセンサーを全部回して」
「何を見る?」
「何でもいい」
エレナは画面を見つめた。
「そこに何かあるなら、何かが出るはず」
マーカスはそれ以上何も言わなかった。
観測システムが切り替わる。
可視光──
赤外線──
X線──
ガンマ線──
ニュートリノ──
重力──
暗黒物質分布──
通常なら恒星一つを調べるには過剰なほどの観測だった。だが今のエレナには、それでも足りない気がした。
「開始」
データ取得が始まる。画面に無数の数字が流れた。エレナは一つずつ確認していく。
何もない。やはり何もない。
「……変ね」
「何が?」
「静かすぎる」
「宇宙なんだから静かだろ」
「そういう意味じゃない」
エレナは観測範囲を少し広げた。
「恒星が消えた場所っていうのは、普通ならもっとノイズが出る」
「何かが爆発した場合はな」
「そう。でも今回は何も起きてない」
エレナは画面を拡大する。KX-4471が存在していた座標。
その周囲、さらに外側。
「ここを見て」
マーカスが身を寄せる。
「何だ?」
「周辺の恒星」
「普通だな」
「そう。全部、普通」
KX-4471だけがない。それ以外は何も変わっていない。宇宙はそこだけが切り抜かれたように正常だった。
「まるで……」
マーカスが言葉を止めた。
「まるで何?」
「いや」
「言って」
「誰かが、星だけを取り除いたみたいだ」
エレナは返事をしなかった。その表現が頭から離れなかった。
誰かが取り除いた。もし本当にそうなら誰が?どうやって?
恒星を消す。それだけでも現在の人類文明では考えられない。
銀河統合帝国は数千年をかけて銀河各地に進出してきた。恒星そのものを操作する技術も存在する。人工的な恒星炉や恒星採掘施設、巨大なエネルギー回収構造物さえ珍しくない。
それでも恒星を痕跡なく消すことはできない。少なくともエレナは、そんな技術を知らなかった。
「もう一つ調べる」
「何を?」
「近くの星」
「KX-4471の?」
「そう」
エレナは恒星カタログを開いた。KX-4471から近い順に並べていく。
数十個。数百個。さらに範囲を広げる。その中から観測履歴にわずかな欠損がある恒星を探した。
「何か出る?」
マーカスが聞く。
「まだ」
エレナは検索条件を変えた。観測データの完全消失ではなく、部分的な欠損、記録時間の不自然な途切れ、複数の観測機器で同時に起きた異常。通常なら無視するような小さなデータの乱れまで拾い上げる。
検索結果が表示された。エレナは画面を見て動きを止めた。
「……あった」
「何?」
「記録欠損」
「どこ?」
エレナが座標を表示する。
KX-4471から約14光年。「恒星 LX-9132」
昨日の21時58分から約8秒間、すべての観測データが途切れている。
「8秒?」
「うん」
「その後は戻ってる?」
「戻ってる」
「じゃあ観測障害じゃないのか?」
「分からない」
エレナはLX-9132のデータを詳しく調べた。
8秒──
可視光──
赤外線──
X線──
ニュートリノ──
すべて同じ時間帯で途切れている。そして8秒後には何事もなかったかのように復帰している。
「ステーション側の障害じゃない」
「そうだな」
「恒星側?」
「それも変だ」
マーカスは画面を見ながら言った。
「8秒だけ星そのものが消えて、また戻った?」
「理論的には……」
エレナは言葉を濁した。
「理論的には?」
「説明できない」
マーカスが苦笑した。
「天文学者がそれを言ったら終わりだろ」
「私だって言いたくない」
エレナは検索範囲を広げた。
KX-4471から50光年──
100光年──
500光年──
検索結果が増えていく。ほとんどは通常の観測誤差だった。だが、いくつかの星で奇妙な欠損が見つかった。
数秒──
数十秒──
最長で3分12秒──
そしてそのほとんどが同じ方向に集中していた。
「マーカス」
「分かってる」
「これ……」
「偶然じゃないな」
エレナは画面に表示された恒星分布を見つめた。KX-4471を中心に、いくつかの恒星で観測データが途切れている。
その分布は不規則だった。しかし完全にランダムでもない。
何かを避けるように。何かへ向かうように。
エレナは銀河地図に重ねた。
「線になってる」
「何が?」
「欠損した星」
マーカスが画面を見る。
エレナは赤い点を表示した。
いくつもの恒星が銀河の外縁に並んでいる。その一部が赤く点滅していた。
観測データに欠損がある星。完全に消えたKX-4471。
そして、さらにその先──
「これ……どこに向かってる?」
マーカスが地図を拡大した。赤い点を線で結ぶ。それは銀河外縁部を横切り、ある方向へ伸びていた。
「中心じゃない」
「うん」
「外へ向かってる」
エレナは黙っていた。
銀河の外側──
人類の文明圏の境界に近い方向だった。
マーカスが椅子から立ち上がった。
「中央に報告する」
「待って」
「なぜ?」
「まだ確証がない」
「星が一つ消えてる時点で十分だ」
「そうじゃない」
エレナは画面を指した。
「もしこれが本当に連続して起きてるなら、KX-4471だけを報告しても意味がない」
「じゃあ何を報告する?」
「全部」
エレナは深く息を吸った。
「過去の18年間を調べたい」
マーカスの顔から笑みが消えた。
「18年?」
「うん」
「なぜ18年?」
「分からない」
エレナは自分でも説明できなかった。ただ、嫌な感覚があった。
KX-4471のデータを追っていると、もっと前から何かが始まっていたような気がする。まだ形になっていないだけで。
「過去18年間の全恒星観測記録を検索する」
「それ、何十億件あると思ってる?」
「分かってる」
「数時間じゃ終わらないぞ」
「AIにやらせる」
「それでも──」
「やる」
マーカスはエレナを見た。しばらくして、諦めたように息を吐く。
「分かった」
彼は端末を操作した。
「18年間の観測記録を抽出する」
検索が始まる。巨大なデータベースから、過去18年分の観測情報が流れ込んでくる。
数十万──
数百万──
数千万──
やがて画面の表示が高速で更新され始めた。エレナは黙って待った。
そのとき警告音が鳴った。短い電子音。
マーカスが顔を上げる。
「何だ?」
エレナが画面を見る。
新しい異常が表示されていた。
「……観測所の外部アンテナ」
「どうした?」
「何か受信してる」
「どこから?」
「分からない」
受信方向を計算する。エレナは結果を見て眉をひそめた。
「方向がない」
「どういう意味だ?」
「全方向から来てる」
マーカスが立ち上がる。
「そんな通信あるか?」
「普通はない」
受信データがモニターに表示された。最初は意味のないノイズだった。
低周波。高周波。さらに複数の帯域が重なっている。
エレナは解析を開始した。
「暗号?」
「分からない」
「人工信号?」
「判断できない」
ノイズの中に、周期的なパターンが現れた。
1
1
2
3
5
7
11
13
素数だった。マーカスが息を呑む。
「誰かが送ってる」
「たぶん」
「帝国の通信規格じゃない」
「うん」
エレナは解析を続けた。素数列の後ろに、別のパターンが続く。
数値。座標。そして短い文章。
翻訳システムが自動的に処理を始める。
エレナとマーカスは黙って画面を見た。
数秒後、翻訳結果が表示された。
短い文章だった。たった一行。
『それを記録し続けてください』
マーカスがエレナを見る。
「……誰が?」
エレナは答えられなかった。
「送信元は?」
「まだ特定できない」
「追跡は?」
「やってる」
解析画面に通信の発信地点が表示される。エレナはその座標を見た。そして、顔から血の気が引いた。
「どうした?」
「これ……」
「何?」
エレナは画面を指した。発信地点。そこには恒星が登録されていない。
惑星もない、航路もない、観測施設もない、何もない。ただの空間だった。
「KX-4471があった場所」
マーカスの表情が固まった。
「……何だって?」
「同じ座標」
観測室が静まり返る。
エレナは通信データを見つめた。その文章には発信者の名前もなかった。
警告もない。脅迫もない。ただ記録しろとだけ書かれている。
誰かが知っている。KX-4471が消えたことを。
そしておそらく、エレナたちがそれを観測していることも。
その瞬間、観測室の照明が一度だけ明滅した。
エレナは顔を上げた。
モニターの片隅に、新しいデータが表示されていた。
過去18年間に観測された異常恒星の一覧。
検索結果が確定した。
47件
エレナはその数字を見つめた。
47個の星。そのうち、完全に消えているものがいくつあるのかまだ分からない。だが、KX-4471が最初ではない。それだけは確かだった。
エレナは静かに呟いた。
「……誰かが、ずっと見てたんだ」
そして誰もいないはずの観測室で、通信端末の受信ランプがもう一度だけ点滅した。




