第1話「消えた星」
星が消えたことにエレナ・クロフォードが最初に気づいたのは、午前3時17分だった。
ヘリオス・ステーションの観測室には人工的な夜があった。照明は最低限まで落とされ、壁面を埋める観測モニターだけが淡い光を放っている。窓の向こうには、銀河の中心から遠く離れた外縁部の星々が広がっていた。地上の夜空とは違う。大気に遮られることもなく、数百万、数千万の恒星が暗闇の中に浮かんでいる。
その一つが、消えていた。
エレナはしばらく画面を見つめていた。
「……おかしい」
彼女は椅子を少し前へ引いた。表示されているのは「恒星 KX-4471」
ヘリオス・ステーションから約18,000光年離れた場所にある、特に目立った特徴のない恒星だった。太陽より少し小さく、年齢も若すぎず老いすぎず、周囲に大型惑星も確認されていない。帝国の恒星カタログに登録されている星の中では、ほとんど誰も気に留めない部類に入る。
だからこそエレナは違和感を覚えた。KX-4471が暗くなったわけではない。観測値そのものが……ない。
可視光──
赤外線──
紫外線──
X線──
ガンマ線──
どの観測帯域にもKX-4471の痕跡が存在しなかった。エレナは手元の端末を操作した。
「過去24時間の観測データを呼び出して」
『指定期間のデータを表示します』
画面に時間軸が伸びた。
昨日の22時──21時──20時
エレナはさらに遡る。KX-4471はそこにいた。
安定した光度。安定したスペクトル。恒星活動にも異常はない。ところが22時41分を境にデータが途切れていた。それ以降は何もない。
「観測機器の再起動ログ」
『正常です』
「主望遠鏡」
『正常』
「補助望遠鏡」
『正常』
「赤外線系統」
『正常』
「X線観測系」
『正常』
エレナは眉を寄せた。
「ニュートリノ観測所との同期は?」
『正常です』
「外部観測所からのデータは?」
『現在照合中です』
数秒後、結果が表示された。
『KX-4471からのニュートリノは検出されていません』
エレナは背もたれに身体を預けた。
恒星が消える。それ自体は宇宙では珍しいことではない。超新星爆発なら、突然明るくなったあとに崩壊する。恒星がブラックホールになる場合もある。巨大な天体現象が起きれば、周囲の空間には必ず何らかの痕跡が残る。
だが今回は違う。爆発していない、崩壊していない、暗くなったわけでもない。ただそこから届いていたはずの情報が、すべて途絶えている。
しかも重力場に変化がない。それがエレナには理解できなかった。
「……そんなこと、ある?」
誰に向けた言葉でもなかった。観測室には彼女しかいない。
ヘリオス・ステーションは、銀河外縁部の観測拠点としては比較的大きい施設だった。それでも深夜の観測室は静かだった。
遠くで機械が動く音がする。空調が風を送る。船体を微細な振動が伝わってくる。それ以外は何もない。
エレナはもう一度、KX-4471の座標を確認した。画面の中央に赤い点が表示される。本来ならその位置に恒星がある。
だが、何もない。
エレナは観測データを切り替えた。
可視光──何もない。
赤外線──何もない。
X線──何もない。
重力観測──何もない。
「……おかしい」
今度ははっきりとした声になった。
背後のドアが開いた。
「何が?」
エレナが振り返ると、そこにはマーカス・ベルが立っていた。
観測主任の彼は、眠そうな顔で髪をかいていた。片手にはコーヒーの入ったカップがある。
「まだ起きてたのか」
「起きてる」
「見れば分かる」
マーカスはエレナの横まで歩いてきた。
「何を見つけた?」
「KX-4471」
「また変光星?」
「違う」
エレナは画面を指した。
「いなくなった」
マーカスは数秒黙った。
「……何が?」
「星」
彼はエレナの顔を見た。冗談ではないと判断したらしい。コーヒーを机に置き、画面を覗き込む。
「観測障害?」
「最初はそう思った」
「機器は?」
「全部正常」
「通信障害」
「違う」
「データ処理」
「独立系統でも確認した」
「外部観測所は?」
「ニュートリノも同じ」
マーカスは腕を組んだ。
「重力波は?」
「何もない」
「恒星崩壊じゃないな」
「うん」
「ブラックホール化でもない」
「うん」
マーカスはしばらく画面を見ていた。
「じゃあ、どこに行った?」
エレナは答えられなかった。その問いに対する答えを彼女自身が探していた。エレナは観測履歴を呼び出した。
「昨日までは確実に存在してる」
「見せて」
画面に過去の観測記録が並ぶ。
1日前──
1週間前──
1年前──
10年前──
100年前──
さらに遡る。KX-4471は、人類が銀河へ進出し始めた時代から記録されていた。名称こそ観測番号だったが、同じ座標、同じスペクトル、同じ特徴を持つ恒星が長期間にわたって確認されている。
マーカスは画面を見ながら言った。
「これ、最初の記録は?」
「今調べてる」
検索が走る。
帝国天文局──
旧地球観測記録──
火星天文網──
初期の恒星カタログ──
検索結果が次々と表示されていく。
KX-4471は10,000年以上前から存在している。エレナはその数字を見て、少しだけ息を吐いた。
「少なくともデータ上は存在してた」
「少なくとも?」
「今は存在してないから」
マーカスが黙った。
エレナは自分でも妙な言い方だと思った。だが他に表現がなかった。
現在のKX-4471には、存在していたことを示すものが何もない。それでも過去には存在していた。その矛盾が、観測室の静けさの中で奇妙な重さを持っていた。
「帝国中央のデータベースと照合しよう」
マーカスが言った。
「今?」
「今だからだ」
エレナは中央データベースへの接続を開始した。
銀河統合帝国の情報網は単なる行政システムではない。人類が支配する領域に存在するほぼすべての恒星系が登録されている。惑星の軌道、恒星の寿命、資源量、人口、航路、軍事情報。星一つの情報であっても、何千年という時間をかけて蓄積された記録の中に存在する。
KX-4471の情報も当然あるはずだった。
検索欄に番号を入力する。
「KX-4471」
エレナは送信した。数秒待って検索結果が表示された。
彼女は黙った。マーカスが横から画面を見る。
「……何だ?」
エレナは答えない。
「エレナ?」
画面には一行だけ表示されていた。
『該当天体なし』
マーカスが眉をひそめる。
「もう一度」
「うん」
エレナは再検索したが結果は同じだった。
『該当天体なし』
「座標で検索」
結果は同じだった。
「旧名称」
同じ。
「観測番号」
同じ。
エレナは椅子に座ったまま動かなかった。
「……おかしい」
「そうだな」
「いや」
彼女は首を振った。
「違う」
「何が?」
エレナは画面を見つめた。
「観測データが消えたんじゃない」
「……」
「帝国のデータベースから、KX-4471そのものが消えてる」
マーカスは何も言わなかった。2人の間に沈黙が落ちる。エレナは無意識に指先を握りしめた。
宇宙では何かが消えることはある。星も消える。惑星も消える。文明さえ消える。
だがそれは物理的な消滅だ。そこに何が起きたのかを示す痕跡まで消えるわけではない。少なくとも人類はそう考えていた。
エレナはもう一度、観測画面を見た。
KX-4471があった場所には何もない。まるで最初からそこには星などなかったかのようだった。
「マーカス」
「何だ?」
「私たちの記録を確認して」
「何の?」
「このステーションが持っている記録全部」
「全部?」
「KX-4471に関係するもの」
マーカスが操作を始める。その間、エレナは観測窓の外を見ていた。
無数の星が輝いている。人類はそのほとんどに名前を付けている。何世代もの天文学者が星を観測し、位置を測り、分類し、記録してきた。
人類は宇宙を理解しようとしてきた。そして今では、その宇宙の一部を自分たちの文明圏と呼んでいる。
銀河の約11%、数億の恒星系、数千万の居住可能惑星、そこに暮らす膨大な人々。
エレナはふと思った。もし宇宙が巨大な本なら、人類はそのページに自分たちの名前を書き続けている。
惑星にも、恒星にも、航路にも、歴史にも。
だが、その本から一ページだけ抜き取られたら、誰がそれに気づけるだろう。
「エレナ」
マーカスの声がした。彼女は振り返った。
「何か見つかった?」
「いや」
「じゃあ、何?」
マーカスは画面を見ていた。
「別の問題だ」
「何?」
「KX-4471の最終観測データが、俺たちの記録からも消えてる」
エレナは立ち上がった。
「……昨日のデータ?」
「そう」
「さっき見たじゃない」
「だからおかしい」
マーカスが画面をこちらへ向ける。そこには、昨日22時41分まで存在していたはずのデータがなかった。
空白だった。エレナは言葉を失った。ほんの数分前まで自分はその記録を見ていた。
確かに見た。確かに存在していた。なのに今はない。
「マーカス」
「うん」
「さっきのデータ、バックアップは?」
「確認する」
彼が操作する。
数秒後──
「……ない」
エレナの背中を冷たいものが走った。
「そんなはずない」
「俺もそう思う」
「自動バックアップは?」
「残ってない」
「外部サーバー」
「消えてる」
「観測衛星」
「今、照合してる」
2人は黙った。観測室のモニターが静かに明滅している。そのときだった。
エレナの端末に、1件のシステム通知が表示された。彼女が何気なく画面を確認すると、帝国中央からの自動同期通知だった。
内容は短かった。
『KX-4471に関する観測記録を確認しました』
エレナは眉を寄せた。その下にもう一行ある。
『該当天体は存在しません』
彼女はしばらくその文字を見つめていた。やがて小さく呟いた。
「……じゃあ私が今まで見ていたものは何だったの?」
誰も答えなかった。
観測室の外では、何億光年という距離を越えて届いた星の光が、静かにモニターを満たしている。その中の一つだけがもう存在しなかった。
いや、正確には──
存在していたという記録さえなくなり始めていた。




