2. 昨夜も、夫は来なかった
七の月四日の昼。光が白く、広間の床の傷まで残らず見える。
夏の昼というのは正直で、隠しておきたいものを片端から表へ出してしまう。壁の染み、絨毯の擦り切れ、そしてこの家に立っている女が、二年経ってもまだ客のような顔をしていることも。
領の医師のオノレ先生が、女の瞼を持ち上げ、それから卓の上の小瓶を取り上げる。赤ら顔の、太い指をした方である。
「これは、奥様のもので?」
「はい。芥子の水です」
「空でございますな」
「昨夜、いただきました。頭が痛みましたので」
太い指が、瓶を灯りにかざす。底に、乾いた輪がひとつ残っているだけである。
「量は?」
「いつもどおり、三滴」
「……ふむ。芥子の水の、飲みすぎでしょうな」
その言い方には、この女が誰なのかもう分かっているという響きがある。
「瓶は、いつも卓に?」
「はい。誰でも手の届くところに」
言ってから、しまったと思う。誰でも手の届くところにある薬が空になっていて、わたしの寝台に女が死んでいる。それを、自分の口で並べてしまった。
「奥様。この方と、面識は?」
「ございません」
「昨夜、物音は?」
「……聞いておりません。薬を、いただきましたので」
答えるたびに、自分の輪郭が一本ずつ細くなっていく。嘘は一つも言っていない。言っていないのに、正直に答えれば答えるほど、わたしという人間の形が薄くなる。
◇
お義兄様が、二脚の杯と壺を白い布に包む。手袋の指が、布の端をきちんと折り込んでいく。盆だけが、空のまま卓に残される。
「隣領に来ております司法官へ、今朝のうちに早馬を出しました。それまで、この二脚と壺は書斎の金庫へお納めいたします」
「……早うございますね」
「早いほうがよろしゅうございます。噂は、馬より速うございますから」
「……お義兄様が、お預かりに?」
「鍵は二つでございます。わたくしと、旦那様と。誰にも触らせぬのが、いちばん安うございますから」
鍵の輪が、手袋のなかで小さく鳴る。
「はい」
「奥様。これは、奥様をお守りするためでございます」
布の角が、寸分たがわず重なっていく。この方の指は、物を扱うときだけ迷わない。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。十二年、この家の物を数えてまいりましたので」
「……お義兄様は、何でも数えていらっしゃるのですね」
「奥様も、二年と四月と二十日、この家においでです。今日で」
親切である。何ひとつ間違っていない。
それなのに、布に包まれていく杯を見ていると、扉が一枚ずつ閉まる音に聞こえる。閉めているのは、笑って見える目をした、この家でいちばんよく働く人だ。
昼過ぎ、あの方は裏庭の氷室へ運ばれる。夏なので、司法官が来るまではそこに置くのだという。
鏡の前を通ると、榛色の目だけが妙に落ち着いていて、それが自分のものに見えない。
◇
人が出払って、夫人の間にマルトと二人きりになる。
マルトは白髪の混じった鳶色の髪をきつく丸めて布で包んでいる。荒れた手が、畳んでも畳んでも同じ布を畳み直している。
「奥様、あの、あたくし、申し上げてよろしいでしょうか、蝋燭が、いつも二本なんでございますよぉ」
「マルト」
「一本じゃなくて、二本。毎晩二本でございます」
「マルト」
「それに杯も、毎朝二つ洗うのに、今朝は洗えないのでございますよぉ。あたくし、二年、二つ洗ってまいりました」
声が、いつもより低い。この人は分かっている。分かっていて、数えずにいられない。二十二年、この人は怖いときにいつも数を数えてきた。数え上げるときの節回しだけは、わたしもこの人から覚えている。
「もう、およしなさい」
「……はい。はい、奥様」
「誰にも言ってはなりません。わたしのためではなく、あなたのために」
「あたくしのために?」
「そう」
二十二年そばにいる人の口から、わたしの夜が一つずつこぼれていく。二人きりの部屋でよかった、と思ってしまう。思ってしまう自分が、また嫌になる。
わたしは、この人を守る言葉を持っていない。持っていないことに、二十二年かけて慣れてしまった。
二年前の婚礼の夜のことを、こういう日にかぎって思い出す。
あの夜、旦那様がわたしに約束させたことは、一つだけだった。
「マチルド。人前では、私と不仲でいてください」
理由は、おっしゃらない。訊いても答えは同じだったろうと思う。わたしはその夜から、廊下ですれ違っても会釈だけで通り過ぎる女になっている。屋敷の者はそれを二年見ていて、だから今朝も、誰もわたしを慰めない。慰める理由が、この家には一つも無いことになっている。演じるのは、思ったより簡単だった。もともとわたしは、人に何かを求める顔をしたことがない。慣れというのは、諦めの別の名前である。
◇
その夜――。
東の小間の長椅子に横になっていると、耳だけが壁の方を向いている。
窓の外で、夏の虫が三種類鳴いている。低いのと、高いのと、途切れ途切れのと。数えているうちに、廊下の灯りが一つずつ落ちていく。
屋敷じゅうがわたしを見ている日に、わたしは待っている。待つことは、いつのまにか演技ではなくなっていた。その自分が、少し恥ずかしい。
壁掛けの裏で、蝶番が鳴る。
「マチルド」
「……はい」
旦那様が、肩の埃を払いながら出ていらっしゃる。埃と、石と、古い木の匂いがいっしょに入ってくる。二年、わたしはこの匂いを夜の匂いだと思って生きてきた。
あの晩で、ちょうど八百六十の夜になる。そのうち、この方がここへ来なかったのは三つだけ。八百五十七の夜、あの方はこの壁から出てくる。
そして一度も、寝台に触れていない。
「水を」
「はい」
旦那様は水差しを置こうとして、卓の上の盆を一度持ち上げ、場所を空けて、置き直す。いつもの手つきだ。この方は物を置くとき、必ず一度、盆ごとどかす。
「杯は、金庫だそうです」
「聞いた」
「鍵は、お義兄様とあなたの二つだそうです」
「知っている」
短い返事が二つ続くと、部屋の空気が薄くなる。わたしはいつも、そこで言葉を探しそこねる。
「……旦那様」
「マチルド。――荷を作りなさい」
言葉の意味が、耳から胸へ落ちるまでに一拍かかる。
「……はい」
「明日、離縁を申し出る」
「はい」
「早い方がいい」
理由は、おっしゃらない。
「なぜ」と訊けば、たぶん答えてくださる。訊かないのは、答えが「あなたのためだ」でも「家のためだ」でも、わたしがそれを信じられないからだ。
二年、この方の親切はいつも用件の形をしている。用件の形をした親切は、演技と見分けがつかない。
旦那様が帰られたあと、椅子の座面がまだ温かい。
わたしはそこへ手を置く。布地の毛足のあいだに、人ひとりぶんの熱が沈んでいる。じきに冷める。毎晩冷める。それでも、この温度だけが、あの八百五十七の夜のあいだにわたしが受け取ってよかった、たった一つのものである。
――昨夜も、夫は来なかった。
毎朝そう思って、毎晩それを取り消す。ほんとうのことを書くなら、こう書かねばならない。
夫としては、来なかった。




