1. わたしの寝台に、知らない女が寝ていました
七の月四日。卯の刻の光は薄い蜂蜜の色をしていて、東の小間の絨毯の毛の向きまで見せてしまう。
わたしは長椅子の上で目を覚ます。芥子の水の名残が後頭部の底に溜まっていて、起き上がると視界の端がゆっくり傾く。窓の隙間から入ってくる風には、刈ったばかりの草と、井戸の石の匂いが混ざっている。夏の朝の匂いだ。
昨夜、旦那様は「今夜は隣で休みなさい」とおっしゃった。頭が痛いと申し上げたわけでもないのに、あの方はいつも、わたしが黙っている理由のほうを先に見つける。
肩掛けを直して、夫人の間へ続く扉を開ける。
壁掛けの裏から、冷たい風が来る。夏の朝だというのに、そこだけが井戸の底のような温度をしている。古い家というのは、どこかしら夏を忘れている。
卓の上に、盆がある。
わたしは毎晩、盆を窓の桟と平行に置く。金の縁を窓側、銀の縁を扉側。盆の隅には古い蝋の垂れた跡があって、それが窓のほうへ来るように置く。二年、一度も違えていない。
蝋の跡は、扉のほうを向いている。
その盆の、窓側に立っているのは銀の縁の杯だ。伏せられていない。底に、飲み残しの澱がうっすら残っている。
金の縁は、盆に無い。
目が、勝手に先を追う。
黒い髪が枕に広がっている。豊かで、癖のある髪だ。わたしの亜麻色とは似ても似つかない、夜のような黒。
女がひとり、わたしの寝台で仰向けになっている。
色の白い喉。薄い唇。左の耳たぶに、小さな古い傷がある。右手のそばに、金の縁の杯が倒れている。こぼれた酒が敷布に丸い染みを作っていて、その縁だけが乾いて硬くなっている。
枕元には、封の切られていない手紙が一通。
女はまるで置物のように固まっている――――息をしていない。
部屋の空気は、ふしぎなほど静かである。人が一人いなくなった部屋というのは、こんなに音がしないものかと思う。廊下では誰かが桶を運んでいて、階下では鳥が鳴いていて、それなのに、この四方の壁の内側だけが世界から切り離されている。
「杯が二つ、燭台が一つ、履物が一足」
わたしは声に出す。喉から出た自分の声が思ったよりずっと平らで、それが少しこわい。
悲鳴の出し方を知らないわけではない。ただ、わたしの体は驚いたとき、まず数を数えるようにできている。人の顔色を読むのを二十二年あきらめてきた者は、そのぶん物を見る。物は嘘をつかないし、こちらを嫌いもしない。数えているあいだだけ、頭の中が平らになる。
「……履物が、一足」
もう一度、そこだけ数え直す。指の先だけが、氷のように冷たい。
◇
最初に来たのはお義兄様である。
ギヨーム・ドラクロア様は麦藁色の髪を七三にきっちり撫でつけていて、鬢には白いものが混じり始めている。手袋をした指で、まず袖口を直す。話し出す前に、必ずそうなさる方だ。
「奥様。……失礼いたします」
「お義兄様」
「お声が、廊下まで」
「数えておりました」
「さようで」
寝台の三歩手前で止まり、琥珀色の目を細める。目尻が下がっているので、この方は黙っていても笑っているように見える。笑っていない朝でも、そう見えてしまう。それが、この方の不幸の一つなのだろうと、いつか思ったことがある。
「これは……弟の、昔の」
昔の。
その二文字の後ろに、お義兄様は何も足さなかった。足さないことで、部屋の空気に一語が置かれる。愛人、と。
置かれた語は、床に落ちた水のように広がって、乾かない。
「お名前を、ご存じですの?」
「存じております。ラ・トゥールの、末の娘御でございます」
「わたしは、存じません」
「でしょうな。……弟君が学舎へお出になる前のことでございますから」
十二年前。わたしがまだ、この家の名も知らなかったころの話である。
「いつ、お気づきになりましたか?」
「たったいまでございます。昨夜は、ここで休んでおりませんでしたので」
「では、どちらで?」
「東の小間で。頭が、痛みましたので」
「さようで」
手袋が、また袖口を直す。
「お顔を、ご覧になりますか。奥様」
「……いいえ」
「賢明かと存じます」
わたしは、この人を知らない。顔も、声も、この屋敷で会ったこともない。
それなのに、この人はわたしの寝台にいる。旦那様のために、夜更けにここまで来て、ここで死んでいる。
最初に立ち上がったのは、怒りではなかった。
――この方は、そこまで想っていらしたのですね。
八百六十の夜。わたしはこの部屋で待って、一度も寝台に触れられていない。触れられたいと思ったことがあると自分に認めるまで、二年かかっている。認めたところで、誰にも言えない。
その寝台に、他人が横たわっている。みぞおちの奥で立ち上がったのは、みっともないほど単純な、羨ましさだった。
――わたしは、この方の半分も、あの方へ近づいたことがない。
そう思ってしまう自分の卑しさが、朝の光のなかで、いやにくっきり見える。
◇
旦那様がいらしたのは、それから四半刻ののちである。
ローラン・ドラクロア。黒に近い濃い栗色の髪を短く刈って、襟足を落としている。瞼が重く眉が濃いので、黙っていると不機嫌に見える。屋敷の者は皆そう思っている。
薄い青灰色の目が、寝台の女を見る。
わたしを、見ない。
「触れるな」
最初の一言がそれである。
「……はい」
「誰か触ったか?」
「いいえ。お義兄様も、三歩手前で止まられました」
「そうか」
それきり、この方は盆のほうへ目を移される。
「旦那様。杯が、一つだけ」
「見た」
それきり、この方は黙ってしまわれる。
わたしは手を後ろへ回す。物を運ぶのに便利な、女にしては大きな手だ。子どものころ、この手を親戚の誰かに笑われてから、人前ではいつも隠す癖がついている。その手を、背中で握る。
触れるな、の四文字は、二年ぶんの距離とそっくり同じ形をしている。あの方はいつもこの言い方で、わたしに自分を守らせてきた。分かっていても、毎回、同じところが痛む。痛む場所は決まっていて、右の鎖骨の下あたりである。
旦那様は女の顔を見て、それから盆を見る。それから、部屋の隅の壁掛けを、ほんの一瞬だけご覧になった。
◇
午前のうちに、屋敷が動き出す。
人が集まり、人が下がり、人が目を伏せる。使用人たちはわたしを嫌ってはいない。ただ、どこを見ればいいのか分からないという顔をされるだけだ。それは二年前からずっとで、伏せられた目は視線よりはっきりと皮膚の上を滑っていく。
「奥様、お召し替えを」
「あとで」
「奥様……」
「あとで。お願い」
医者が呼ばれる。早馬が出る。
わたしは廊下の隅に立って、また数えている。扉が四つ。燭台が九つ。窓が三つ。
数えていないと、足の裏が床から浮きそうになる。
昨夜も、夫は来なかった。
だからわたしには、この人がいつ、どうやってここへ来たのかも分からない。




