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神話世間  作者: 西堂有規
5/10

聖魔

 四月。


 王都に、桜は咲かなかった。


 焼け跡と処刑場の臭気が、春風に混じっていたからだ。


    ◇


 四月条約。


 それは和平ではなかった。


 降伏文書だった。


 朝日観察府代臣・下条範舜が起草し、秘書・湾内充敬が中央へ送りつけたその文は、王都の者たちを震え上がらせた。


 一、知事人質を解放せよ。

 一、首相を置け。

 一、端原壮真を書記官に任ぜよ。

 一、逆臣を差し出せ。


 新庄実伸は、その文を何度も読み返した。


 指先が震えていた。


「……余に、これを呑めと言うのか」


 未来沢渡流は静かに答えた。


「呑まねば、戦になります」


「既に戦ではないか」


 実伸は乾いた笑みを浮かべた。


「余はまだ……主君なのか」


 誰も答えなかった。


    ◇


 翌日。


 王宮警察が動いた。


 西村治浪。


 西村武博。


 彼らはかつて中央秩序の守護者だった。


 だが今や、端原の命令で中央貴族を狩る猟犬である。


 蒼佐厚繁が執務室で拘束された時、老官僚は笑った。


「まさか……王警に捕まる日が来るとはな」


 堂坂善臣。


 須貝斉景。


 葉村瓜氏。


 次々に引き立てられる。


 管理局照真だけは抵抗した。


 刀を抜き、三人を斬り伏せる。


 だが銃弾が胸を穿った。


 血を吐きながら彼は叫ぶ。


「新庄様を……頼む……!」


 その叫びは、誰にも届かなかった。


    ◇


 4月2日。


 端原壮真、入京。


 王都の民衆は道の端に跪き、彼を見上げた。


 黒衣。


 金刺繍。


 無数の武装親衛。


 その姿は、もはや地方豪族ではない。


 王そのものだった。


 壮真の後ろには。


 上大年諌。


 湾内八海。


 下条達範。


 犬法良。


 木帋翔吾。


 端原豪政。


 名だたる将たちが並ぶ。


 誰もが血の臭いを纏っていた。


    ◇


 謁見の間。


 新庄実伸は、玉座の前に座していた。


 本来なら。


 臣下が平伏す場。


 だが。


 壮真はほとんど同じ高さに座った。


 実伸は理解した。


 これは、演出だ。


 誰が支配者か。


 天下に見せつけるための。


「逆臣討伐、大義であった」


 実伸は言った。


 喉が焼けるようだった。


「ありがたき幸せ」


 壮真は微笑する。


 だが目は笑っていない。


「四月条約に基づき、そなたを……書記官に任ずる」


 沈黙。


 そして。


「加えて、帝王赤丑景厚の養子とする」


 どよめき。


 未来沢渡流が目を伏せる。


 浜昌幸は唇を噛む。


 夷川達規は拳を握った。


 誰も止められない。


 壮真は、ついに王家の血に触れた。


    ◇


 その夜。


 壮真は御所の庭園を歩いていた。


 豪政が後ろに従う。


「父上」


「何だ」


「……本当に、これで良かったのですか」


 壮真は立ち止まる。


「何がだ」


「実伸公を辱めるような真似を」


 しばし沈黙。


 やがて壮真は低く笑った。


「辱め?」


 振り返る。


 その目に、人の温度はなかった。


「豪政。あれはまだ“生かされている”」


「……」


「余が本気なら、新庄はもう滅んでいる」


 豪政は息を呑んだ。


 父が変わっていく。


 いや。


 もう変わり終えている。


    ◇


 一方。


 奥宮殿。


 実伸は一人、灯火の前に座っていた。


 未来沢渡流が静かに薬を置く。


「お休み下さい」


「眠れぬ」


 実伸は苦笑した。


「余は、何をしている」


「国を守っておられます」


「守れておるか?」


 沈黙。


 実伸は続けた。


「逆臣を売り渡し、玉座を貸し与え、敵を養子に迎え……」


 その声は掠れていた。


「余は……帝王か」


 沢渡流は静かに頭を下げる。


「貴方様だけが、帝王にございます」


 実伸は、しばらく泣いていた。


    ◇


 だが。


 端原政権内部もまた、綻び始めていた。


 5月19日。


 御前楽舞。


 雅楽が鳴り響く中、壮真は突如立ち上がった。


「止めろ」


 場が凍る。


 壮真の顔は蒼白だった。


「音が……狂っている」


 楽人たちは震えた。


 醜毎浄実が平伏する。


「恐れながら――」


 次の瞬間。


 壮真の刀が振り下ろされた。


 血飛沫。


 楽士・蒼佐繁勝の首が転がる。


 もう一人の楽人も、逃げる間もなく斬殺された。


 絶叫。


 誰も動けない。


 壮真は血の付いた刀を見つめながら、静かに呟いた。


「……耳障りだ」


 それだけだった。


    ◇


 林原政文は、その場で土下座した。


「監督不行届、万死に値します」


 壮真は彼を見下ろす。


「お前は、どう思う」


「は」


「余は間違っているか」


 政文は顔を上げなかった。


 だが。


 答えは早かった。


「いいえ」


 即答。


「天下が乱れるのは、不純があるからです」


「不純?」


「はい。閣下は、穢れを祓っておられる」


 壮真は笑った。


 嬉しそうに。


 まるで救われたように。


    ◇


 その頃。


 実伸は武器密輸取締の命令書を書いていた。


 夷川達規。


 浜昌幸。


 未来沢渡流。


 彼らは疲弊しきっていた。


 それでも政務は止めない。


 止めれば、本当に国が壊れるからだ。


「尾賀瀬の件ですが」


 浜昌幸が口を開く。


 実伸の顔が曇る。


 最悪の事件だった。


    ◇


 尾賀瀬諸澄。


 忠臣だった。


 少なくとも本人は、そのつもりだった。


 彼は二志伸彦と久倉範政を匿った。


 義があった。


 恩があった。


 だが壮真は、それを許さなかった。


 逮捕命令。


 諸澄は逃亡。


 そして乱へ。


    ◇


「撤回しろ!!」


 実伸は端原御所へ乗り込んだ。


 刀を抜き放つ。


 周囲が騒然となる。


 上大年諌が前へ出る。


「お鎮まりを!」


 下条達範も叫ぶ。


「帝王様!!」


 だが実伸は止まらない。


「尾賀瀬は忠臣だ!!」


「証もなく逆賊扱いするか!!」


 壮真は黙っていた。


 ただ見ていた。


 すると。


 未来沢渡流が一喝した。


「貴方達は誰の臣下か!」


 空気が凍る。


「主君の正当なる行為を止める道理が何処にある!」


 誰も動けない。


 実伸だけが、息を荒げていた。


 その姿は。


 もはや帝王というより、国を守ろうとする老人だった。


    ◇


 結局。


 命令は撤回されなかった。


 葉村瓜氏が既に全国へ布達していたからだ。


 壮真は、その失態すら利用した。


「勅命は絶対である」


 その言葉で全てを押し潰した。


    ◇


 そして。


 尾賀瀬諸澄の乱。


 赦免。


 祝宴。


 涙。


 歓喜。


 その全てが、罠だった。


 長池怜の銃声が響いた瞬間。


 尾賀瀬諸澄は、自分が捨てられた事を理解した。


「……壮真様……」


 血を吐きながら崩れる。


 端原豪政は絶句した。


「何を……」


 長池怜は冷たく言う。


「御命令です」


 豪政の顔から血の気が引いた。


「父上が……?」


「最初から、赦す気などありません」


 宴席は地獄になった。


 悲鳴。


 銃声。


 逃げ惑う与党。


 その中で。


 尾賀瀬諸澄は最期まで壮真の名を呼んでいたという。


    ◇


 後日。


 実伸は報告書を閉じた。


「……これが、王道か」


 誰も答えない。


 初村廣兼は沈黙し。


 霊殿瓜時は目を伏せ。


 葉村瓜氏は病床で咳き込んでいた。


 そして。


 壮真だけが、ますます神格化されていく。


 逆らう者を滅ぼし。


 血で秩序を作る。


 民は恐れ。


 兵は崇め。


 官僚は跪く。


 いつしか人々は、こう囁き始めた。


「端原様は、聖人だ」


「いや――」


「魔王だ」

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