聖魔
四月。
王都に、桜は咲かなかった。
焼け跡と処刑場の臭気が、春風に混じっていたからだ。
◇
四月条約。
それは和平ではなかった。
降伏文書だった。
朝日観察府代臣・下条範舜が起草し、秘書・湾内充敬が中央へ送りつけたその文は、王都の者たちを震え上がらせた。
一、知事人質を解放せよ。
一、首相を置け。
一、端原壮真を書記官に任ぜよ。
一、逆臣を差し出せ。
新庄実伸は、その文を何度も読み返した。
指先が震えていた。
「……余に、これを呑めと言うのか」
未来沢渡流は静かに答えた。
「呑まねば、戦になります」
「既に戦ではないか」
実伸は乾いた笑みを浮かべた。
「余はまだ……主君なのか」
誰も答えなかった。
◇
翌日。
王宮警察が動いた。
西村治浪。
西村武博。
彼らはかつて中央秩序の守護者だった。
だが今や、端原の命令で中央貴族を狩る猟犬である。
蒼佐厚繁が執務室で拘束された時、老官僚は笑った。
「まさか……王警に捕まる日が来るとはな」
堂坂善臣。
須貝斉景。
葉村瓜氏。
次々に引き立てられる。
管理局照真だけは抵抗した。
刀を抜き、三人を斬り伏せる。
だが銃弾が胸を穿った。
血を吐きながら彼は叫ぶ。
「新庄様を……頼む……!」
その叫びは、誰にも届かなかった。
◇
4月2日。
端原壮真、入京。
王都の民衆は道の端に跪き、彼を見上げた。
黒衣。
金刺繍。
無数の武装親衛。
その姿は、もはや地方豪族ではない。
王そのものだった。
壮真の後ろには。
上大年諌。
湾内八海。
下条達範。
犬法良。
木帋翔吾。
端原豪政。
名だたる将たちが並ぶ。
誰もが血の臭いを纏っていた。
◇
謁見の間。
新庄実伸は、玉座の前に座していた。
本来なら。
臣下が平伏す場。
だが。
壮真はほとんど同じ高さに座った。
実伸は理解した。
これは、演出だ。
誰が支配者か。
天下に見せつけるための。
「逆臣討伐、大義であった」
実伸は言った。
喉が焼けるようだった。
「ありがたき幸せ」
壮真は微笑する。
だが目は笑っていない。
「四月条約に基づき、そなたを……書記官に任ずる」
沈黙。
そして。
「加えて、帝王赤丑景厚の養子とする」
どよめき。
未来沢渡流が目を伏せる。
浜昌幸は唇を噛む。
夷川達規は拳を握った。
誰も止められない。
壮真は、ついに王家の血に触れた。
◇
その夜。
壮真は御所の庭園を歩いていた。
豪政が後ろに従う。
「父上」
「何だ」
「……本当に、これで良かったのですか」
壮真は立ち止まる。
「何がだ」
「実伸公を辱めるような真似を」
しばし沈黙。
やがて壮真は低く笑った。
「辱め?」
振り返る。
その目に、人の温度はなかった。
「豪政。あれはまだ“生かされている”」
「……」
「余が本気なら、新庄はもう滅んでいる」
豪政は息を呑んだ。
父が変わっていく。
いや。
もう変わり終えている。
◇
一方。
奥宮殿。
実伸は一人、灯火の前に座っていた。
未来沢渡流が静かに薬を置く。
「お休み下さい」
「眠れぬ」
実伸は苦笑した。
「余は、何をしている」
「国を守っておられます」
「守れておるか?」
沈黙。
実伸は続けた。
「逆臣を売り渡し、玉座を貸し与え、敵を養子に迎え……」
その声は掠れていた。
「余は……帝王か」
沢渡流は静かに頭を下げる。
「貴方様だけが、帝王にございます」
実伸は、しばらく泣いていた。
◇
だが。
端原政権内部もまた、綻び始めていた。
5月19日。
御前楽舞。
雅楽が鳴り響く中、壮真は突如立ち上がった。
「止めろ」
場が凍る。
壮真の顔は蒼白だった。
「音が……狂っている」
楽人たちは震えた。
醜毎浄実が平伏する。
「恐れながら――」
次の瞬間。
壮真の刀が振り下ろされた。
血飛沫。
楽士・蒼佐繁勝の首が転がる。
もう一人の楽人も、逃げる間もなく斬殺された。
絶叫。
誰も動けない。
壮真は血の付いた刀を見つめながら、静かに呟いた。
「……耳障りだ」
それだけだった。
◇
林原政文は、その場で土下座した。
「監督不行届、万死に値します」
壮真は彼を見下ろす。
「お前は、どう思う」
「は」
「余は間違っているか」
政文は顔を上げなかった。
だが。
答えは早かった。
「いいえ」
即答。
「天下が乱れるのは、不純があるからです」
「不純?」
「はい。閣下は、穢れを祓っておられる」
壮真は笑った。
嬉しそうに。
まるで救われたように。
◇
その頃。
実伸は武器密輸取締の命令書を書いていた。
夷川達規。
浜昌幸。
未来沢渡流。
彼らは疲弊しきっていた。
それでも政務は止めない。
止めれば、本当に国が壊れるからだ。
「尾賀瀬の件ですが」
浜昌幸が口を開く。
実伸の顔が曇る。
最悪の事件だった。
◇
尾賀瀬諸澄。
忠臣だった。
少なくとも本人は、そのつもりだった。
彼は二志伸彦と久倉範政を匿った。
義があった。
恩があった。
だが壮真は、それを許さなかった。
逮捕命令。
諸澄は逃亡。
そして乱へ。
◇
「撤回しろ!!」
実伸は端原御所へ乗り込んだ。
刀を抜き放つ。
周囲が騒然となる。
上大年諌が前へ出る。
「お鎮まりを!」
下条達範も叫ぶ。
「帝王様!!」
だが実伸は止まらない。
「尾賀瀬は忠臣だ!!」
「証もなく逆賊扱いするか!!」
壮真は黙っていた。
ただ見ていた。
すると。
未来沢渡流が一喝した。
「貴方達は誰の臣下か!」
空気が凍る。
「主君の正当なる行為を止める道理が何処にある!」
誰も動けない。
実伸だけが、息を荒げていた。
その姿は。
もはや帝王というより、国を守ろうとする老人だった。
◇
結局。
命令は撤回されなかった。
葉村瓜氏が既に全国へ布達していたからだ。
壮真は、その失態すら利用した。
「勅命は絶対である」
その言葉で全てを押し潰した。
◇
そして。
尾賀瀬諸澄の乱。
赦免。
祝宴。
涙。
歓喜。
その全てが、罠だった。
長池怜の銃声が響いた瞬間。
尾賀瀬諸澄は、自分が捨てられた事を理解した。
「……壮真様……」
血を吐きながら崩れる。
端原豪政は絶句した。
「何を……」
長池怜は冷たく言う。
「御命令です」
豪政の顔から血の気が引いた。
「父上が……?」
「最初から、赦す気などありません」
宴席は地獄になった。
悲鳴。
銃声。
逃げ惑う与党。
その中で。
尾賀瀬諸澄は最期まで壮真の名を呼んでいたという。
◇
後日。
実伸は報告書を閉じた。
「……これが、王道か」
誰も答えない。
初村廣兼は沈黙し。
霊殿瓜時は目を伏せ。
葉村瓜氏は病床で咳き込んでいた。
そして。
壮真だけが、ますます神格化されていく。
逆らう者を滅ぼし。
血で秩序を作る。
民は恐れ。
兵は崇め。
官僚は跪く。
いつしか人々は、こう囁き始めた。
「端原様は、聖人だ」
「いや――」
「魔王だ」




