黒き器
冬が深まるにつれ、王都の空気は濁っていった。
照安王の乱は鎮圧された。
だが勝者であるはずの朝廷には、安堵がなかった。
誰もが疑っている。
誰もが怯えている。
そして誰もが――次の裏切りを待っていた。
◇
副王・新庄実伸は、ひとり執務室にいた。
机には山のような処断状。
粛清。
没収。
左遷。
連日続く裁可に、筆を持つ手が止まる。
窓の外では雪が降っていた。
「……いつからだ」
実伸は呟いた。
かつての自分を思い出す。
若き日の理想。
腐敗した王権を立て直し、民を飢えから救う。
そのために誰より働いた。
誰より耐えた。
だが今、机の上にあるのは血判ばかりだ。
「私は……何を守っている」
沈黙。
その時、扉が叩かれる。
「閣下」
入ってきたのは麻生廣頼だった。
「失礼いたします」
実伸は表情を戻す。
「どうした」
「霊殿廣実の残党狩りですが、地方で反発が強まっております」
「……当然だな」
廣頼は一瞬、目を細めた。
副王が弱音を吐いた。
それは初めてだった。
「閣下」
「何だ」
「今なら、まだ戻れます」
実伸は顔を上げた。
廣頼は静かに続ける。
「恐怖で縛る政は、長く続きません」
「照安の乱は、その証です」
「地方を赦し、人を信じるべきです」
長い沈黙。
やがて実伸は、小さく笑った。
「……お前は変わらんな、廣頼」
「変わってはならぬものもあります」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
◇
一方。
端原では、壮真が変わり始めていた。
乱後、各地から密使が来る。
亡命貴族。
没落武士。
流浪兵。
誰もが端原へ集まっていた。
壮真は彼らを受け入れた。
以前なら、選別した。
危険な者は切った。
だが今は違う。
「使えるなら使え」
それだけだった。
豪政は違和感を覚える。
「父上」
「何だ」
「最近、あまりにも人を入れすぎでは」
「戦には数がいる」
「ですが忠誠の保証が」
壮真は笑った。
「忠誠など要らん」
「恐怖で縛ればいい」
豪政は言葉を失った。
達範だけが静かに目を伏せる。
彼は理解していた。
壮真はもう、“天下を変えたい男”ではない。
天下を奪いたい男になっている。
◇
その頃。
尾賀瀬諸澄は端原へ向かっていた。
若き武人。
地方豪族の次男。
彼は照安の乱を見ていた。
朝廷は腐っている。
地方は虐げられている。
ならば、新しい時代が必要だ。
その希望が、端原壮真だった。
「きっとこの人なら」
諸澄は本気で信じていた。
◇
初対面の日。
壮真は広間の上座にいた。
その姿には、奇妙な威圧感があった。
諸澄は膝をつく。
「尾賀瀬諸澄」
「御身に忠義を捧げたく参上いたしました」
壮真はじっと見下ろした。
「何故、私を選ぶ」
「この国を変えられるのは貴方しかいないと思ったからです」
即答だった。
壮真は笑う。
昔なら、その真っ直ぐさを気に入ったかもしれない。
だが今は違う。
「綺麗だな」
「……は?」
「理想を信じている目だ」
壮真は立ち上がる。
「ならば見せてやろう」
「天下というものを」
◇
数週間後。
端原軍は、小領主・柊木家を制圧した。
理由は単純。
従属を拒否したから。
戦そのものは一方的だった。
問題は、その後だった。
「敗残兵の身内も悉く処理しろ」
壮真が命じた瞬間、空気が止まった。
豪政が顔を上げる。
「父上……?」
諸澄も凍りつく。
「なぜです!」
「報復を防ぐためだ」
「ですが、彼らは戦ってすら……!」
壮真は冷たく諸澄を見る。
「甘いな」
「敵の種は残すな」
諸澄は絶句した。
目の前にいるのは、理想の英雄ではなかった。
恐怖で支配する覇者。
乱世の怪物だった。
「……承服できません」
諸澄は震えながら言う。
壮真はゆっくり近づいた。
「ならば去るか?」
威圧。
殺気。
諸澄は息が詰まる。
だが。
その時。
豪政が前へ出た。
「父上、それ以上は」
壮真の目が細くなる。
親子の間に、初めて冷たい空気が流れた。
◇
夜。
諸澄はひとりで座っていた。
手が震えている。
「違った……」
信じていたものが崩れていく。
だが、それでも。
彼は端原を離れなかった。
もう乱世は始まっている。
今さら戻れない。
そして何より。
あの男を止められる者がいるとすれば。
「豪政殿しか……」
雪は静かに降り続けていた。




