第68話:見えざる世界樹のパラドックス
教団本部の地下が最悪のダンジョンと化しているという過酷な真実を突きつけられ、コントロールルームに重苦しい沈黙が降りていた。
焦げ臭い空気の中、私は腕を組み、床に座り込むラプラス枢機卿を見下ろした。
「暴走するヴォイド・コアの機能を停止させ、ダンジョン化の進行を止める方法はないのか?」
私の問いに、ラプラスは力なく首を横に振った。
彼の能力であるデモンズ・カリキュレーションは、あらゆる事象を計算で導き出す古典力学の極致だ。
しかし、無限に増大し続けるエントロピーの奔流を制御する方程式など、彼の完璧な脳をもってしても導き出せないという。
「私たちの力では、あのエントロピーの坩堝を押さえ込むのが限界だ。だが……」
ラプラスは顔を上げ、どこか遠くを見るような目をした。
「すべての魔力の源である北の果ての世界樹に辿り着ければ、解決策があるかもしれない。教団の古い伝承では、そう語り継がれている」
「世界樹!」
リックが顔を輝かせた。
「あのバカでかい木だろう?王都からでも天気の良い日にはうっすら見えるやつだ。だったら、教団本部に殴り込む前にそこを目指せばいいじゃないか!」
明確な目標ができたことで、リックとボブが希望に満ちた顔を見合わせる。
しかし、ラプラスはひどく疲れた顔でそれを否定した。
「行けばいいという単純な話ではない。あれは、誰も辿り着けない永遠の蜃気楼なのだ」
「蜃気楼?あんなにでかくてはっきり見えているのにか?」
「そうだ。何百年もの間、教団の優秀な探索隊が何度も北を目指した。だが、どれだけ歩みを進めても、世界樹までの距離はいっこうに縮まらない。歩いても、走っても、飛んでもだ。あれはまるで空に描かれた絵画のように、絶対に触れることができない特異点なのだ」
ラプラスの言葉に、リックたちが不気味さに息を呑む。
見えているのに、永遠に辿り着けない。
それは人間の方向感覚や認識を狂わせる、ファンタジー世界ならではの呪われた領域の話に聞こえた。
だが、彼らが絶望と不気味さを感じている中、私の反応は全く違っていた。
私の胸の奥で、先ほど論文の送信という夢を失って空いたばかりの巨大な穴を埋め尽くすように、激しい知的好奇心の炎が煌々と燃え上がっていた。
「光が届いて視界に映っている以上、そこにも必ず物理的なルールがあるはずだ」
私が口元を押さえ、ニヤリと笑うと、全員の視線が一斉にこちらに集まった。
「空間そのものが膨張して距離を無限に引き延ばしているのか。あるいは、巨大な質量による事象の地平線の内側に隠されているか。はたまた、ホログラフィック原理による三次元空間への単なる投影に過ぎないのか……」
次々と口を突いて出る物理学の仮説に、私の血は沸き立っていた。
「面白い。ファンタジーの神秘だか何だか知らないが、その見えざるパラドックス、僕の物理学で片っ端から解き明かしてやろうじゃないか」
魔法の絶対領域を、物理学のメスで解剖してやるという私の不敵な宣言。
それを聞いたアリスは、困ったような、それでいてひどく誇らしげな笑顔を浮かべた。
リックとボブも、いつもの私の調子が戻ってきたことに安堵の息を吐く。
論文の送信というかつての目標を失った私にとって、この理不尽な世界の理を解き明かすことこそが、次なる証明の旅となるのだ。
「……ふん。相変わらず、理屈の通らない男だ」
私たちの決意を見届けたラプラスは、ボロボロになった純白の法衣の埃を払い、ゆっくりと立ち上がった。
そして、静かに踵を返す。
彼の決定論は私の前に崩れ去った。
だが、教団の最高権力者として、王都を離れて本部へ戻り、暴走するダンジョンを一日でも長く結界で押さえ込む義務が彼にはある。
階段を上りかけたラプラスは、一度だけ足を止め、背中越しのまま口を開いた。
「エミール」
「父さん……」
ボブが弾かれたように顔を上げる。
「お前が選んだ不確定な未来が、どこに行き着くのか……せいぜい、足掻いてみせろ」
それは、計算された未来しか信じなかった悪魔が、初めて息子の可能性を認めた不器用な言葉だった。
ラプラス枢機卿はそれ以上振り返ることなく、静かに王都の暗闇へと消えていった。
強大な敵との別れ、そして途方もない謎への挑戦が、今まさに始まろうとしていた。
(続く)











