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コスパの悪い魔法の世界で、僕は地球に論文を送る。 ~異世界転生した天才物理学者は事象の地平線を越えて真理を証明する~  作者: あとりえむ
第3部:事象の地平線を越えて編

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第66話:マクスウェルの悪魔

コンソールのモニターで『SEND』の緑色の文字が無機質に点滅している。


皆既日食の直列位相が保たれる特異点のタイムリミットまで、残された時間はあと数十秒。


床に倒れ伏しているラプラス枢機卿は、血反吐を吐きながらもその光景を冷徹に見つめていた。


冷酷な科学者が、邪魔になった変数を切り捨てて真理へと手を伸ばす瞬間を待っているのだ。


「レイ様……」


震える声で、アリスが私の袖を掴んだ。

彼女の瞳からは大粒の涙が溢れ落ちている。


「ウィンドウが開いています……今ボタンを押せば、レイ様の夢が……っ、でも、リックさんとボブさんが……!」


アリスは言葉を詰まらせた。

彼女は優しい。

私の夢の重さも、二人の命の重さも理解しているからこそ、引き裂かれそうになっていた。


私は点滅する送信ボタンを見つめた。


地球へ論文を送り、自らの仮説が真理であることを証明する。

それは私の人生のすべてであり、科学者としての存在意義そのものだった。


だが、視線を下ろせば、私の身代わりとなって飴玉のように溶け落ちたリックの鋼の剣と、完全に灰となったボブの魔導書が転がっている。


「押せばいい、レイ・カルツァ」


沈黙を破ったのは、ラプラスの掠れた声だった。


「お前は真理を探求する者だろう。血肉は一時の幻に過ぎないが、数式は永遠だ。彼らもそれを望んでお前を庇ったはずだ。押せ。お前の理を証明してみせろ」


悪魔の囁き。


それは徹底的に合理的で、かつての私なら一秒の躊躇いもなく同意していたかもしれない。


だが、私はゆっくりと送信ボタンから手を離した。


「……ふざけるな」


自分でも驚くほど、私の声は低く、感情に震えていた。


「真理だと?永遠だと?そんなもののために、僕の計算を狂わせたこの愛すべき馬鹿たちを見殺しにしろと言うのか」


「……何?」


ラプラスが息を呑む。


私はコンソールのキーボードへ両手を叩きつけ、凄まじい速度で座標入力のコードを書き換え始めた。


「数式で世界が記述できるなんてことは、とっくに分かっているんだよ!でも、こいつらが僕の人生にもたらした感情というノイズは、どんな数式でも観測できなかった!」


「僕にとっては、地球の物理学史なんかより、この理不尽なノイズのほうが何倍も価値があるんだよ!」


「レイ様……」


アリスが両手で口を覆い、せき止めていた涙を一気に溢れさせた。


「貴様、正気か!?自らの手で、生涯の証明を捨てるというのか!」


ラプラスが信じられないものを見る目で私を睨みつける。

私はキーを叩きながら、彼に向かって不敵に笑い返した。


「証明なら今からやってやるさ。地球の座標にロックしていた重力レンズの焦点を解除。空間座標を、目の前の二人の肉体へと強制書き換えだ!」


「そんな……まさか、加速器の全エネルギーを……!」


「エントロピーの逆転現象を証明する。起動しろ、マクスウェルの悪魔!」


私は祈るような思いで、エンターキーを強く叩き込んだ。


加速器から放たれたテラワット級の圧倒的なエネルギーの奔流が、コントロールルームを真っ白に染め上げる。


次元を穿つはずだった光が、リックとボブの肉体を包み込んだ。


それは奇跡と呼ぶにはあまりにも強引な、物理法則の強制執行だった。


床に広がっていた血液が重力に逆らって宙を舞い、逆再生の映像のように彼らの傷口へと吸い込まれていく。


細胞の崩壊というエントロピーの増大が、莫大なエネルギー消費によって無理やり巻き戻されていく。


リックの抉られた胸が凄まじい速度で編み込まれ、ボブの焼け焦げた皮膚が元の完全な状態へと再構築される。


熱力学第二法則に対する、科学の反逆。


その信じがたい光景を前に、世界の守護者たるラプラスはただ呆然と口を開け、アリスは奇跡の光に照らされながら祈るように手を組んでいた。


「ゴホッ、ガハッ……!?」


光がおさまり、無傷で息を吹き返したリックとボブが激しくむせ込みながら身を起こす。


だが、その直後に背後で悲鳴のような破裂音が連続して鳴り響いた。


加速器の超伝導ミスリルコイルが規格外の負荷に耐えきれず、激しい火花を散らして完全に焼き切れる。


莫大なエネルギーを供給し続けていたヴォイド・コアも光を失い、ただの乾いた石の塊となって床に転がり落ちた。


コンソールのモニターが暗転し、送信可能ウィンドウが完全にロストしたことが示される。


皆既日食の特異点は過ぎ去り、地球への窓は永遠に閉じられた。


地球へ論文を送るという、私の人生最大の目標は失われた。

だが、胸の中に後悔の念など微塵もない。


私はただ、呆然と自分の身体を見下ろしている親友たちを見て、心の底から笑っていた。



(続く)

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