第64話:不確定性原理の鉄槌
アリスの杖の先から溢れ出したのは、熱でも冷気でもなく、純粋な可能性の奔流だった。
アリスが展開した、確率が重なり合ったままの量子揺らぎ。その局所的なカオスの中に放り込まれ、ラプラス枢機卿の脳内演算は完全に泥沼の無限ループへと陥っていた。
彼の視界では、灼熱の業火が肌を焼く未来と、絶対零度の吹雪が四肢を凍らせる未来、そして鼓膜を破る落雷の未来が、文字通り同時に重なり合って点滅している。
あらゆる可能性が同時に存在するため、彼の能力であるデモンズ・カリキュレーションは、方程式の初期値をたった一つに絞り込むことができない。ミクロの揺らぎがバタフライ効果となってマクロな不確定性へと拡大し、数秒先の未来を完全に予測して回避するという神の如き絶対防御システムが、根本から機能不全を起こしていた。
「くっ……計算が、まとまらない……!」
常に冷徹だったラプラスの顔が苦悶に歪み、脂汗が滲む。彼はかつてない未知の事象に脳の処理能力を奪われ、純白の杖を支えにして大きくよろめいた。
計算機の処理能力が限界を超え、ラプラスの防御の隙が完全に生じたその一瞬。
私はメインコンソールの前で目を細め、無数の可能性の中から最も致命的な一つの結果だけをピンポイントで観測した。
「これが量子力学だ。不確定性原理の鉄槌を受け取れ」
私が事象を明確に定義した瞬間、暴走していたアリスの魔力が、一つの極端な確率へと一気に収束する。
それは、ラプラスの周囲の空気分子がすべて外側へと逃げていくという、熱力学的に異常な現象だった。
一瞬にして局所的な完全真空状態が形成され、音が消え失せる。ラプラスが息を呑もうとするが、肺に入る酸素すら存在しない。
そして次の瞬間、周囲の空気が超音速で真空の中心に向かってなだれ込んだ。
真空圧壊、インプロージョンが現実の物理現象として強固に固定される。
「ごはァッ……!?」
予測できていない超音速の衝撃波を、ラプラスは相殺することも回避することもできない。
絶対防御を破られたラプラスの身体を、四方八方から殺到した空気の壁が容赦なく押し潰した。鼓膜を破るような轟音が地下のコントロールルーム全体を揺らし、教団の権威の象徴であった純白の法衣がボロボロに引き裂かれる。
教団の最高権力者にして世界の守護者であるラプラス枢機卿が、ついに力なく冷たい床へと叩き伏せられた。
神の計算たる古典力学が、物理学の量子論に完全敗北した歴史的な瞬間だった。
「レイ君、皆既日食が最大直列位相に入る!」
ラプラスが倒れた直後、コンソールに張り付いていたボブが歓喜に満ちた声を上げた。
「太陽と月の重力ベクトルが完全に同調した!高次元バルクを貫く巨大な重力レンズ、形成完了!」
計器類が次々と緑色のランプを点灯させ、加速器のミスリルコイルが甲高い共鳴音を響かせる。
ついに、通信の特異点が訪れた。
時空のノイズが晴れ、地球へと繋がる不可視の窓が開く。あとは水晶基板のデータを重力パルスへ変換し、メインコンソールの送信ボタンを押し込むだけで、すべてが終わる。
私の仮説が、世界の真理になる。
私は振り返り、迷いなく巨大なスイッチへと手を伸ばした。
勝利は目前だった。私の指が冷たい金属のボタンの表面に触れようとした、まさにその時。
地下施設の強固な天井が、凄まじい爆発音と共に突如として内側へ吹き飛んだ。
「なんだッ!?」
リックが叫び、崩れ落ちる巨大な瓦礫と土煙からアリスを庇う。
けたたましいレッドアラートが鳴り響く中、天井に開いた大穴からコントロールルームの機器の上へと重々しく降ってきたのは、教理監査局のジオットだった。
その姿は、凄惨を極めていた。
彼はラプラスのように罠を計算で見切ることはできない。ボブが通路に何重にも仕掛けていた高圧電流のミスリル網や防衛トラップを、己の肉体を文字通り黒焦げにしながら無理やり強行突破してきたのだ。
全身の皮膚は爛れ、教団の制服は焼け焦げてへばりついている。だが、その両目だけは不気味なほどに爛々と輝き、純粋な狂気で真っ赤に血走っていた。
「神の……威光を……!」
血の混じった泡を吹きながら、ジオットが呪詛のように呟く。
決定論の悪魔の計算にも、私の構築した緻密な論理にも存在しなかった。
一切の理屈が通じない狂信者という最悪のノイズが、極限のタイミングで盤面をひっくり返しにきた。
(続く)











