第63話:シュレディンガーの箱を開けるな
論理で私に敗れたラプラス枢機卿が、ついに純粋な暴力による制圧を開始した。
彼の杖の先から放たれた不可視の空間圧縮と重力魔法が、地下のコントロールルームを蹂躙する。
「ぐあああッ!」
リックが決死の突撃を試みるが、見えない壁に激突したかのように吹き飛ばされ、床を転がった。
「リック君!」
ボブが叫び、魔導書のページを猛烈な勢いでめくって多世界解釈のシミュレーションを回す。アリスも杖を構えて援護しようとするが、ラプラスは彼らの筋肉のわずかな収縮や視線の動きから数秒先の未来を完全に読み切っていた。
通信の特異点となる皆既日食の最大直列位相まで、残りわずか三分。
どんな魔法を放とうとも、ラプラスは軽々と無効化していく。
「無駄だ。お前たちの取るに足らない抵抗など、すでに計算の内に収まっている」
無慈悲な宣告と共に、ラプラスがゆっくりと私と加速器へ近づいてくる。
だが、メインコンソールの前に立つ私は、絶望するどころか、彼の動きを極めて冷静に観測していた。
ラプラスの能力、デモンズ・カリキュレーション。
それは空間を満たす粒子の現在の位置と運動量を正確に把握し、ニュートン力学的な計算によって未来を確定させる古典力学の極致だ。
つまり、彼の計算は初期値となる変数が完全に確定しているマクロな事象に対してのみ無敵なのだ。私はそこに、勝利のための致命的なバグを見出した。
「アリス!君の不確定性魔法を全開にしろ!」
私の唐突な指示に、アリスが弾かれたようにこちらを向く。
「は、はいっ!でも、何を撃てば……!」
「何も撃つな! 炎が出るか、氷が出るか、重力異常が起きるか。 君自身も結果を思い浮かべるな! 魔力を極限まで引き上げ、ただ確率の波だけをこの空間に充満させろ!」
通常、アリスの暴走する確率の波は、私という観測者が結果を定義することで百パーセントの事象として固定される。
しかし今回、私は信じられない指示を飛ばした。
「僕も一切観測しない。 波束が収縮していない、確率が重なり合ったままの不確定なノイズだけを、極限まで増幅させるんだ!」
「……分かりました! 私、やってみます!」
アリスは私への絶対的な信頼から、自身の魔力を結果の伴わない純粋なカオスとして暴走させた。
コントロールルームの空間に、熱と冷気、光と闇の可能性が同時に存在する、局所的なシュレディンガーの箱が形成される。
さらに私は、アリスにマクロな現象ではなく、極小の素粒子レベルの量子揺らぎを増幅させるよう命じた。
「ラプラス! 君の計算にはプランク定数が欠けている!」
私の叫びと同時に、空間を満たしたミクロのノイズがラプラスを包み込む。
「馬鹿な……なんだ、これは。事象が確定していないだと……?」
ラプラスの脳内演算に、突如として無限の分岐が発生した。
彼を襲うのは、炎が来る未来、氷が来る未来、そして何も起きない未来が確率的に重なり合ったノイズ。変数が一つに確定していないため、ラプラスの古典力学的な方程式に初期値を代入することができないのだ。
「計算が……できない……!」
常に数秒先の未来を見据えていたラプラスの完璧な無表情が崩れ去る。
処理能力の限界を超え、決定論の悪魔の脳が初めて完全にフリーズした。
古典力学の極致が、量子論の不確定性の前に足を踏み外した瞬間だった。
(続く)











