EP 5
激務なはずの公爵様が毎日村に通ってきます。「君の淹れるコーヒーが一番美味い。いや、君自身が……」
ポポロ村の財務顧問に就任してから、私の毎日は前世のブラック企業時代とは打って変わって、信じられないほど充実していた。
新しい物流ルートが開拓されたことで、村の特産品である『月見大根』や『太陽芋』は適正な価格、いや、それ以上の高値で飛ぶように売れている。
村人たちの生活は潤い、私への待遇も「至れり尽くせり」の一言だった。
村の皆からは採れたての新鮮な野菜が毎日差し入れられ、親友のキャルルは私の専属ボディーガードとして常に目を光らせてくれている。
「ふぅ、午前の帳簿チェックはこれで終わり、と」
私はペンを置き、凝り固まった肩を軽く回した。
【絶対監査】のスキルを使えば、書類の山も一瞬で処理できる。前世のように徹夜で胃薬をかじる必要もない。
「少し休憩にしましょうか」
私はオフィスに備え付けられた魔導ケトルでお湯を沸かし、戸棚からお気に入りのコーヒー豆を取り出した。
この村の特産品の一つ、『ポポロ・コーヒー』だ。
豊かな土壌で育った上質な豆は、挽きたての香りが素晴らしく、一口飲めば深いコクとほのかな甘みが口いっぱいに広がる。前世の安っぽいインスタントコーヒーとは比べ物にならない代物だ。
丁寧にドリップし、カップに注ぐ。
芳醇な香りが部屋いっぱいに広がった、まさにその時だった。
「――やはり、この部屋は素晴らしい香りがするな。私の到着を予期して淹れてくれたのかな?」
ノックの音とともに、甘く、鼓膜を心地よく震わせるテノールボイスが響いた。
振り返ると、そこには完璧な仕立てのフロックコートに身を包んだ、ルナミス帝国筆頭公爵・ユリウス様が立っていた。
氷のように透き通った青い瞳が、私を見つけて優しく細められる。
「ユ、ユリウス様!? どうしてまたこちらに……っ」
「『また』とは冷たいな。私の愛しい右腕候補の顔を、一日でも見ないでいると禁断症状が出そうでね」
ユリウス様はふわりと微笑みながら、当然のように私の向かいのソファに腰を下ろした。
ガバン商会の一件以来、ユリウス様は何かと理由をつけては、こうして頻繁にポポロ村へ足を運んでくるようになった。
帝国の全財政を裏で牛耳る財務卿が、辺境の村に毎日お忍びで通ってくるなど、前世の常識で考えれば「メガバンクの頭取が、地方の小さな支店に毎日遊びに来る」ような異常事態である。
「公爵様、帝都のお仕事はよろしいのですか? 決算期が近いと伺っておりますが……」
「君が先日、遊び半分で書き直してくれた『帝国予算の最適化フォーマット』のおかげで、文官たちの作業効率が劇的に上がってね。私の決裁など午前中で終わってしまうのさ。……それに、二人きりの時は『ユリウス』と呼んでほしいと言ったはずだが?」
「っ……ゆ、ユリウス様」
私が顔を赤くして言い直すと、彼は満足そうに目を細めた。
この人は本当に、息を吐くように甘い言葉を紡ぐ。前世で仕事の会話しかしてこなかった私にとって、この極上のスパダリ公爵からの猛アプローチは、心臓への負担が大きすぎる。
「さあ、ミレイユ。君の淹れたその素晴らしいコーヒーを、私にもご馳走してくれないか」
「は、はい。すぐにお持ちします」
私は慌ててカップを二つ用意し、ユリウス様の前に差し出した。
彼は優雅な所作でカップを手に取り、目を閉じて一口味わう。
「……美味い。帝都の最高級ホテルで出されるものより、ずっとだ。やはり、君の淹れるポポロ・コーヒーが世界で一番美味いな」
「それは、豆の品質が良いからですわ。それに、タローマン製の最新式魔導ドリッパーを使っているので……」
「いや、違うな」
ユリウス様はカップをコトリとソーサーに置き、長い指で私の手首をそっと掴んだ。
そのまま、私の手の甲に彼のひんやりとした唇が触れる。
「ひゃっ……!?」
「豆や道具が良いからではない。君が淹れてくれたからこそ、私にとってこれ以上ない特効薬になるんだ。君の気遣い、君の温もり……そのすべてが、私の乾いた心を甘く満たしてくれる」
氷の公爵と呼ばれる彼が、私にだけ見せる熱を帯びた瞳。
真っ直ぐに見つめられ、手首から伝わる彼の体温に、私の顔は火を吹くほど熱くなった。
「あ、あのっ……ユリウス様、距離が……!」
「嫌か? 私はもっと、君に近づきたいのだが」
言いながら、彼はさらに身を乗り出してくる。
美しい顔が間近に迫り、彼のプラチナブロンドの髪から香る上品な香水の匂いが私の鼻腔をくすぐった。
「ミレちゃん! 今日のランチ、ルナキンで新作の――って、ちょっとぉぉぉっ!!」
バンッ!! と扉が勢いよく開き、私の愛すべきボディーガードが飛び込んできた。
キャルルだ。彼女は私の手首を握るユリウス様を見るなり、ウサギ耳を逆立てて愛用のダブルトンファーを構えた。
「公爵! アンタまた仕事サボってミレちゃんにちょっかい出してるの!? 離れないと、昨日タローマンで買ってもらった特注の安全靴の試し蹴り(超電光流星脚)を、アンタの顔面にぶち込むわよ!」
「おや、元気な親友殿だ。だが安心してくれ。私はミレイユ嬢の手の疲れを、マッサージで癒やしていただけだ」
ユリウス様は悪びれる様子もなく、爽やかに微笑んで私から手を離した。
キャルルはジト目でユリウス様を睨みつけている。
「嘘ばっかり! ミレちゃん、騙されちゃダメだよ! この男、顔はいいけど絶対腹黒いから!」
「ふふ、キャルルの言う通りかもしれないな。私は欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れる主義だ。……ところでキャルル。今日からルナキンで『メロロンの完熟果肉入り・特製メロンパフェ』が期間限定で始まっているのを知っているか?」
「えっ!? メ、メロロンのパフェ!?」
キャルルのウサギ耳が、ピクッと反応した。
メロロンといえば、収穫係が誘惑されて正気を失うほど甘くて美味しい、超高級な魔性の果実だ。
「君が持っている私の年間パスポートで、もちろん一番大きなサイズが食べ放題だ。急がないと売り切れてしまうかもしれないぞ」
「ぐぬぬ……っ! パ、パフェには釣られないんだから! ……ちょっと味見してくるだけだからね! ミレちゃん、30分で戻るから、この男に食べられちゃダメだよ!」
キャルルはトンファーをしまい、マッハの速度でルナキンへと走っていった。
買収に弱すぎる最強の親友の後ろ姿を見送って、私は思わずため息をつく。
「ユリウス様……キャルルをあまりからかわないでください。彼女は本当に私のことを心配してくれているんですから」
「分かっている。君を心から大切に思う彼女には、私としても最大限の敬意と……パフェを払うつもりだ」
ユリウス様はクスッと笑い、再び私に向き直った。
今度は手首を握るのではなく、私の頭をポンポンと、まるで壊れ物を扱うように優しく撫でてくれた。
「ミレイユ。私は本当に、君という存在に出会えてよかった」
「え……」
「前世の君がどのような人生を歩んできたのか、私には分からない。だが、今の君が持つ才能、優しさ、そして村の者たちに向けるその温かい笑顔……すべてが愛おしい」
彼の言葉には、一切の打算も、貴族特有の駆け引きもなかった。
ただ純粋に、私の「能力」だけではなく「私自身」を見てくれている。前世のブラック企業で、ただの歯車として使い潰された私には、その言葉がどれほど嬉しかったか。
「ユリウス様……」
「私の領地の財務を任せたいと言ったのは本心だ。だが、それ以上に……私は君を、私の隣で、誰よりも幸せにしたいと思っている。ゆっくりでいい。私の愛が君に届くのを、待っているよ」
甘く、優しく囁かれたその言葉に、私の胸の奥でかつてないほど大きな「トクン」という音が鳴った。
ただの優秀なビジネスパートナーでいるつもりだったのに。
この極上のスパダリ公爵様の溺愛包囲網から逃れることなど、きっと私には不可能なのだと、もう悟り始めていた。
* * *
一方その頃。
帝都のルージュ伯爵家では、セドリックがいよいよ完全に追い詰められていた。
「金が……どこからも借りられない! ゴルド商会もタローマンも、ミレイユがいないというだけで話すら聞いてくれないっ……!」
ガバン商会が壊滅し、一切の資金源が絶たれたセドリックは、ボロボロになった執務室で頭を抱えていた。
傍らにいたクロエは、すでに見切りをつけたのか「親戚の家に行く」と言い残して逃げ出している。
「くそっ、ミレイユめ! あいつさえいれば、あいつを連れ戻しさえすれば、俺の領地は元通りになるんだ! こうなったら……強硬手段に出るしかない!」
セドリックは血走った目で、領地の奥底で待機させている非合法な『私兵部隊』の召集状に手を伸ばした。
自分の愚かさが、間もなく『ヤンデレ最強兎』の物理粉砕と『氷の公爵様』の絶対的な権力によって、完膚なきまでに叩き潰されることなど、微塵も想像すらできずに――。
読んでいただきありがとうございます。
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