EP 3
運用資金ゼロの絶望。一方その頃、氷の公爵様からの極甘スカウト「君の価値も分からない愚か者は放っておこう」
「どうして動かないんだっ! クソッ!」
ルージュ伯爵家の執務室。
セドリックの怒声が響き渡り、彼が乱暴に叩きつけた魔導デバイスが鈍い音を立てて床に転がった。
「ええい、誰か! 誰かこのシステムのロックを解除しろ!」
セドリックが血走った目で叫ぶが、誰も答えない。
空中に投影されたホログラムのウィンドウには、無情にも赤字でこう表示され続けていた。
【アクセス権限がありません。管理者:ミレイユ・アークライトの魔力、およびスキル『絶対監査』の認証が必要です】
ミレイユが婚約破棄の言葉通りにすべての運用資金を引き揚げてから、わずか三日。
ルージュ伯爵家の領地経営は、完全に機能不全に陥っていた。
彼女が構築した魔導管理システムは、ミレイユ本人の魔力とスキルを鍵としていたため、彼女が去った瞬間にただの黒い箱と化してしまったのだ。
そこへ、文官長が分厚い書類の束を抱えて青ざめた顔で入ってきた。
「せ、セドリック様……」
「おお、お前か! ちょうどいい、早くこのシステムのロックを……」
「申し訳ありません。私を含め、文官十五名全員の『辞表』をお持ちしました」
「……は?」
セドリックは間の抜けた声を漏らし、文官長が差し出した書類の束を呆然と見つめた。
「ふ、ふざけるな! 誰が辞めることなど許可した!」
「許可も何も、私たちはミレイユ様にその実務能力を買われて直接ヘッドハンティングされた身です。契約書には『ミレイユ様がこの領地の財務から離れた場合、無条件で契約を解除できる』という特約が含まれております。ミレイユ様という絶対的な保証人がいないこの領地に、これ以上留まる理由はありません」
「ま、待て! お前たちが辞めたら、明日からの税の計算は! 今月末の支払いはどうするんだ!」
冷や汗をダラダラと流すセドリックに、文官長はさらに一枚の羊皮紙を突きつけた。
「それにつきまして、大陸屈指の大企業『ゴルド商会』および『タローマン』から緊急の通知が届いております」
「通知、だと?」
「はい。――『我が商会がルージュ伯爵家と取引を行っていたのは、ひとえにミレイユ・アークライト様の完璧な資金繰りと信用によるものです。彼女の保証が失われた現在、今後の掛け売りは一切停止。さらに、現在貸し付けている金貨300枚の借入金について、即刻一括での返済を求めます。期日までに支払いなき場合は、領地の差し押さえ手続きに入ります』……とのことです」
「き、金貨300枚の一括返済だとぉっ!?」
セドリックの顔色から、一瞬にして血の気が引いた。土気色を通り越して、もはや純白である。
国庫補助金や水害復旧費を横領してクロエのドレスや高級ホテル代に注ぎ込んでいたため、金庫の中身はすでに空っぽだ。ミレイユが運用益を引き揚げた今、ルージュ家には日々の生活費すら残っていない。
そこへ、何も知らないクロエがふんわりとしたピンク色のドレスを揺らしながら執務室に入ってきた。
「セドリック様ぁ。昨日お願いしていたルナミスデパートの新作の宝石、いつ買ってくださるの? 私、今度の夜会で絶対に着けたいんですけれど……」
「……っ! ふざけるな! 宝石など買える金があるわけないだろうが!」
「ひっ!?」
これまでは甘い言葉しか囁かなかったセドリックの突然の怒鳴り声に、クロエは怯えて肩をすくませた。
「お前のそのドレス代のせいで、うちは破産寸前なんだぞ! ええい、なんとかしてミレイユを連れ戻せ! あいつを呼んでこいっ!」
自分が浮気をしておきながら、金がなくなった途端に元婚約者にすがりつこうとする見苦しい男の叫び声が、機能停止した執務室に虚しく響き渡るのだった。
* * *
一方その頃。
そんな帝都の混乱など知る由もないミレイユは、ポポロ村の大通りにある24時間営業ファミレス『ルナキン・ポポロ支店』のテラス席で、心地よい風に吹かれながら優雅に書類仕事に没頭していた。
「ふふっ、素晴らしいわ。ドンガン地下帝国からの密輸ルートを正規の特区取引に組み替えて、タローマンの物流網に乗せれば、この村の『太陽芋』と『ポポロシガー』の輸出利益は今の三倍にはなるわね」
手元には、ルナキン名物のドリンクバーで淹れた香り高いポポロ・コーヒー。
【絶対監査】のスキルを活用し、村の無駄な経費を削り、最適な物流ルートを再構築する作業は、前世のメガバンク時代を思い出させるが、あの頃のような胃の痛みはない。
何より、親友のキャルルが「ミレちゃんすごーい!」と手放しで褒めてくれるため、仕事のモチベーションは最高潮だった。
そんなミレイユの様子を、少し離れた席から静かに、だが熱を帯びた鋭い眼差しで見つめる一人の美青年がいた。
(……驚いたな)
男は、仕立ての良さが隠しきれないシンプルなシャツを身に纏いながらも、その周囲には触れれば凍りつきそうなほどの絶対的な威圧感と気品を漂わせていた。
プラチナブロンドの美しい髪に、氷のように透き通った青い瞳。
彼の名は、ユリウス・フォン・ルナミス(25歳)。
ルナミス帝国筆頭公爵にして、帝国の全財政を裏で牛耳る財務卿、通称『氷の公爵』その人である。
ユリウスは、三カ国の緩衝地帯であるポポロ村が、最近になって異常なまでの経済成長を遂げている理由を調査するため、お忍びで視察に訪れていたのだ。
そして今、彼の目は、ミレイユの手元にある事業計画書と帳簿に釘付けになっていた。
(圧倒的だ。我が帝国の財務局にいるトップエリートたちを集めても、ここまでの完璧な計画書は作れまい。リスクヘッジ、コストカット、さらには魔導ドローンを用いた画期的な流通ルートの構築……。あれは、ただの文官の仕事ではない)
ユリウスはポポロ・コーヒーの入ったカップを静かにテーブルに置き、彼女の横顔を見つめた。
(ミレイユ・アークライト。先日、ルージュ家の馬鹿息子に理不尽な婚約破棄を突きつけられた令嬢……。あの男の領地がここ数年、不自然なほどの黒字を叩き出していた理由が、今ようやく理解できた)
ユリウスの唇の端が、微かに、そして艶やかに釣り上がる。
(あの愚か者は、自ら国庫に匹敵する『至宝』を手放したというのか。なんという喜劇だ。……だが、私にとってはこれ以上ない好機だな)
ユリウスは静かに立ち上がると、迷うことなくミレイユのテーブルへと歩み寄った。
「――隣、よろしいかな?」
頭上から降ってきた、甘く、そして深みのあるテノールボイス。
ミレイユが書類から顔を上げると、そこには息を呑むほどの美丈夫が微笑みを浮かべて立っていた。
「えっと……あなたは?」
ミレイユは目を丸くした。前世も含めて数多くのエリートを見てきた彼女だが、目の前の男が放つ『只者ではないオーラ』は群を抜いている。
「お忍びの身ゆえ、名乗るのが遅れた無礼を許してほしい。私の名はユリウス。ユリウス・フォン・ルナミスだ」
「っ!? ルナミス……!? 筆頭公爵様!?」
帝国の経済の頂点に立つ男の名に、ミレイユは慌てて立ち上がって礼を取ろうとした。
しかし、ユリウスはスッと手を伸ばし、ミレイユの華奢な肩を優しく押さえてそれを制した。
「そのままでいい。私は今日、君のその『頭脳』に敬意を表しに来ただけだ」
「私の、頭脳……ですか?」
「ああ。偶然耳に入ってしまってね。君が今構築しているその物流モデル……まさに芸術だ。君のような類稀なる才能が、腐った男の影に埋もれていたことは、帝国にとって最大の損失だった」
前世の銀行員時代から、ミレイユは常に「結果を出して当然」と扱われ、誰かに手放しで仕事を評価されたことなどなかった。
ましてや、帝国最高の権力者に、ここまで真っ直ぐな称賛の言葉を向けられるなど想定外だ。ミレイユの胸が、ドクンと大きく鳴る。
ユリウスの氷のように冷たいはずの瞳が、今は熱を帯びた甘い光を宿し、ミレイユを逃がさないように真っ直ぐに射抜いていた。
「どうだろうか、ミレイユ嬢。私の領地の財務……いや、私の『右腕』になってくれないか?」
「公爵様の、右腕……っ?」
「君の才能を100パーセント活かせる最高の環境と、君を縛り付けるあらゆる理不尽を焼き払う『絶対の権力』を、私が約束しよう」
それは、帝国筆頭公爵からの極上のスカウトだった。
ユリウスは少しだけ身を乗り出し、ミレイユの耳元で甘く、独占欲を滲ませた声で囁いた。
「君の価値も分からない愚か者のことは放っておこう。万が一君に牙を剥くようなことがあれば、私が合法的に完全に潰しておく。……だから君は、ただ私の隣で、君の好きなように笑っていればいい」
ただのビジネスの誘いのはずなのに、まるで極上の求愛のようなその言葉に、元・鬼の監査OLのミレイユの頬は、自分でも驚くほど熱く染まっていくのだった。
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