七章 あるブラフ(前編)
⚠️※Trigger Warning※⚠️
頭痛薬の離脱症状・嘔吐・毒親
この章では、市販の頭痛薬をやめた際に起こりうる激しい離脱症状の描写があります。
また、嘔吐描写がありますので、嘔吐恐怖症の方はご留意ください。
毒親描写につきましては、怒鳴ったりするタイプではなく、笑顔と言葉で支配するタイプの、心理的に生々しい描写になっております。
フラッシュバック等に充分ご注意の上、心身にご負担のないよう、ご無理のない範囲での閲覧をお願いいたします。
「あっ、健吾。君枝さんだ、ちょっと挨拶していっていい?」
初売りで家庭用ゲームソフトが安くなっているかもしれない、そんな口実で燎太郎を街に連れ出した健吾は手を引かれる。
家電量販店へ向かう途中だったふたり。隣合うデパートの近くを歩く買い物袋をぶら下げたひとが、見知った顔だったのか、燎太郎は人混みを避け小走りで駆け寄る。
「ホラ、高校の時。健吾のウチに遊びに行った時さ、君枝さんがいるからエスカミーリョの世話は大丈夫だって言ってたじゃん。あの君枝さん」
燎太郎が後ろから小走りについて行く健吾に軽く説明すると、健吾は、納得してなんどか頷いた。
確かに、高校生の時にそのような会話をした覚えがある。健吾の部屋に茜色がさすころ、エスカミーリョをひとりにしていいのか、とそのように尋ねたら帰ってきた答えだ。健吾にとってそれは、今考えると「もう帰ってしまうのか?」という問いも同然だったので、いや、問いではないな「寂しい」という自分なりのストレートな感情表現だった。
そう思い出すと、こんなに風が冷たいのに、顔が熱くなってしまう。健吾はニット帽を脱いで鞄の中に仕舞った。ノルディック柄の紺色のニット帽。
燎太郎と君枝はお互いの顔を確認すると、「あらー」と挨拶を交わす。そして、人の流れから出るように、デパートの壁へと少し近づく。健吾は燎太郎の後ろに少し隠れるようにして立っていた。
「おめでとうございます、君枝さん。今日は休み? 今年もお願いします」
燎太郎は少し改まった感じで頭を下げた。
「おめでとうございます。こちらこそお願いしますね。ええ、今日はお暇を頂いてウィンドウショッピングをね、こちらは……」
君枝も微笑みを返し、会釈をすると健吾に顔を向けるので、健吾はぴょこりと頭を下げ、
「はじめまして」
と、少し強張った声で挨拶をする。
「君枝さん、いつも言ってた健吾だよ」
燎太郎が、少し体を下げ健吾をちょっとだけ前に出すと手のひらを健吾に向け、少し気恥ずかしそうにこう言った。
「ああ、あなたが健吾さん。はじめまして」
「そう。健吾、こちら君枝さん。エスカミーリョを見ててくれたひと」
健吾を見るなり、君枝は目を細め嬉しそうにする。燎太郎は子どもみたいに無邪気な様子で照れている。
「あらー。話に聞いていたとおり、可愛らしいお坊ちゃんねえ。もちろん、外見の話じゃなくてね……あら、こんな言い方だと、じゃあ外見はどうなんだって話よね……あー、今の全部なし!」
君枝は、一気に捲し立てると、手のひらを地面に向け、一文字に振る。まるで九字でも切るかのような勢いだ。
燎太郎は「ちょっと君枝さん」と、恥ずかしそうにしていた。
……わかります、外見がどうのとか初対面の相手には気をつかいますよね。健吾は心で呟いた。新人研修の時に教わった内容だった。……あ、この間、燎太郎のお友達に「可愛い男の子」って言っちゃった。健吾は苦笑いをこぼす。
「立ち話もなんだからさ、どこかで座って話でもしない?」
燎太郎は、キョロキョロと辺りを見回す。温かい飲み物を飲めるようなお店を探しているようだ。
「いやいや、お気遣いなく。まだまだアタシ、買い物ありますし。おふたりもこれから買い物でしょ?」
君枝は遠慮した様子でこう答えた。燎太郎は少し残念そうにしたが、君枝に気を遣わせるわけにもいかなかったのか、
「そっか、引き続き楽しんでね」
と、見送ることにしたようだ。
「そちらこそ、楽しんでくださいね」
君枝はからりと笑うと、買い物袋を引き上げる。燎太郎と君枝はまたお互いに「じゃあまた」と挨拶をするので健吾も、
「またどこかで、お会いしましょう」
と、辿々しく口にする。
「はーい、楽しみにしていますね、健吾さん」
手を振り君枝は、買い物客が賑わう通りへと消えて行った。
「話に聞いていたとおり、明るくてユーモアのあるひとだったね」
ものの数分だが、健吾は心からそう思った。
「ふふ、でしょう。両親にひとつだけ感心してるとこがあるとしたら、君枝さんを家政婦さんとして選んだとこ。偶然ならそれはそれで運が強い」
言いながら燎太郎は、だんだんと苦笑いになってくる。
――燎太郎が両親の話をすることは、かなり珍しい。病院で「あの人たちは来ない」と思わず口にしてしまった様子だったあの時から、少しずつ栓が外れたように口にするようにはなったが……。
頭痛の方の根本的治療は専門家に任せるしかないが……。健吾は、十二月頭から続けている対症療法の記憶を思い出す。
燎太郎の頭痛は、医師の診断によるとストレスやプレッシャー、肩凝りなどの複合的な要因からきているのではないか、ということだった。
病院に行ったあと処方された薬に切り替え、市販薬をやめた時に燎太郎は、激しい頭痛や吐き気に見舞われることになった。窓の光も障るので、健吾はカーテンを引いてパーティションの中で燎太郎の様子を見ながら仕事をした。
このパーティションはノート型パソコンや液晶タブレットのブルーライトも遮ることができるので、ちょうどよかったと健吾は思う。燎太郎が買ってきてくれたこのフェルトの吸音材は、色の正確性を期すための遮光パーティションとしても優秀だったが、まさか燎太郎の脳を守る防壁になるとは思わなかった。
ベッドに横たわり、氷嚢をこめかみに当てながら燎太郎は、
「ごめんね、一部屋しかしなくて。ごめんね、暗いなか仕事させちゃって」
うわごとのように繰り返すので、健吾はそんな時は仕事を少し離れ、
「今は考えなくていいから」
と髪を撫でた。燎太郎は呻き声を上げながらも、酷く汗をかいていた。こんな時、健吾はフルリモートに切り替えてよかった、と改めて思った。
一週間から二週間はこの激しい症状がどうしても出てしまうことになるだろう、ということだったのでこの時期は大人しく燎太郎には大学を休んでもらった。
結構ギリギリだったんだなと、健吾はヒヤリと身体が冷たくなる。燎太郎の身体症状も、自分が買ってきたにおいの強めな食べもの――たこ焼きという選択も。
――もし、自分の思い過ごしだったら……。燎太郎はものすごくプライドが高い。
そう思うと、あまり深刻っぽくなく、気軽に食べられるおやつの定番だから買って来たことにすれば良いと、そうたかを括っていたから。
燎太郎の呼気から、なにか薬剤っぽい匂いがするのは本当だった。アルミ臭のような。しかし、アセトアミノフェンだと断言したのは、健吾の……ブラフだった。
事態は好転したからよかったようなものの、今考えると燎太郎を騙すようなことをしてしまったかな、と健吾は罪悪感を少し抱えていた。
そもそも、燎太郎のプライドよりも心身の健康の方が大事だろう、と健吾は今なら思える。なのにそれを優先させてしまったのは、健吾が燎太郎に嫌われたくなかったから……結局一番優先させたのは自分だ、健吾は燎太郎の汗を指先に感じながら何度も何度も自戒した。
燎太郎が寝息を立て始めたので、健吾はそっと離れタオルを用意する。起こしてしまうかな、と健吾は思うが身体が冷えてしまうので汗を拭いてあげたかった。
まずは首筋、空気に触れた部分から。勝手にごめんと断りながらも健吾は掛け布団と、燎太郎の肌着ごとパジャマを捲る。そして、少し手を突っ込んで腹から胸元まで冷たくなった表皮を拭う。
荒い燎太郎の息。寝ているのか朦朧としているだけなのか健吾には判断がつかなかったが、そっと掛け布団を掛け直すと、手を洗って仕事に戻る。まあ、もっとも、とても集中できたものではなかったが。
この頃の燎太郎は、ふと匂いが鼻につくと吐いてしまうことがあった。何より苦しそうだったが、恥ずかしそうに顔を顰める燎太郎は、健吾には見ていられないほど胸を締め付けた。
燎太郎はきちんと、あらかじめベッド脇に用意したガーグルベースン(健吾が事務用品通販サイトで買った)に吐くが、それでも。
奇しくも健吾のために用意された洗剤類は無香性だが、それでもそれらの薬品そのものは臭う、そして料理中のにおいでも。健吾は分子に分解するが、燎太郎が反応する匂いはまちまちで、何が燎太郎の鼻に障るのか分からなくて歯痒かった。もちろん生体反応は機械のように規則的ではない。それはわかっているのだが……。
ALAを中心に様々な栄養素を偏らず、そう考えると、健吾はもう水と塩で茹でるしかレシピが思いつかなかった。いらないと、燎太郎は言うがそういった訳にもいかないので。
燎太郎は毎日きちんと献立を考え、しかも健吾に飽きさせずにおいも抑えて、改めて凄いことをしていたのだと、痛感した。
健吾は昼休みになったら、CO・OPで買ったほうれん草のペーストをスープに仕立てる。赤ちゃん向けの商品のような気もするが、ごめんね赤ちゃん、と思いながら活用させてもらった。
少し冷ますと、トレーに乗せて健吾はベッドまで運んだ。
…◇…◆…◇…
「燎太郎、サングラスと耳栓大丈夫?」
家電量販店に一歩踏み入れると、てらてらとアクリルオリゴマーで化粧した商品を照らすための白い光、購買意欲をそそるため、軽快に重なり合った店内BGM、そういったものが刺激となって燎太郎の脳を襲うからだ。
「うん。大丈夫そう」
健吾の問いに燎太郎はそう答えるが、健吾はいつでも取り出せる位置に偏光レンズサングラスと耳栓があるか、肩掛けバッグの上から触って確認した。耳栓は健吾も幼少期に使っていたし、今でも時々お世話になることもある。
ざわめきとすれ違いながら、浮き立つ様子で燎太郎はエスカレーターへと乗り込んだ。スマートフォンやタブレット端末の四角い展示を尻目に。
楽しめていればいいが、健吾は後に続きながらそう思った。
ゲーム売り場の一角まで来ると、そこはいっそうと賑わっていた。
お年玉を抱えているであろう子どもたち、優しそうに、そして少しだけデレデレした目線で子どもたちを見る大人たちで溢れていたからだ。
「あ、アウェーな感じだね、ぼくたち」
健吾はその様子を遠巻きに見ながら小さくため息をつき、笑った。子どもたちの手に、自分が関わった商品のパッケージが握られていると、健吾はニヤニヤと口元がゆるんでくる。
「そだね、また改めてこよっか」
燎太郎も空笑いを浮かべながらも、おそらく同じ理由でにこにこと笑みを浮かべていた。
コーナーを仕切る壁、そこに飾られた愛らしいキャラクターが描かれたポスターを見ながら燎太郎は、
「ねえ、これの新作さ、こないだ発表されたよね。健吾って参加する?」
こう尋ねた。健吾の勤める株式会社オルドスコラが手がける作品だからだ。
「んー、ごめん。守秘義務あるからまだ言えないや」
健吾は深刻になり過ぎないように、軽い調子で答えると、
「ん、そうだよね。とほほ」
燎太郎も戯け返す。大袈裟な仕草で涙を拭うフリをしたらば、ふふと笑った。
「あ、そうだ。キャリーケースも見ていい?」
燎太郎は、照れくさそうな、バツが悪そうな、そんな感情が程よくブレンドされた顔をした。
「いいよ、行こう。何階だっけな」
健吾は答え、エスカレーターの方へ並んで歩き始める。
…◇…◆…◇…
治療開始から、一週間が過ぎた頃、ようやく燎太郎は少しずつだがベッドの上で起きて座っていられる時間が持てるようになって来た。
この頃になると、もはや燎太郎も開き直ったのか「お水ちょうだい」だとか、自分の要求を素直に言うようになった。
そうなってきても、まだ燎太郎はボーっとしている時間の方が多いが、健吾に思わず謝ってしまうことは格段に減ったので、健吾も胸が痛まずに、居心地が良くなる。……正直に言えば。
二週間を過ぎた頃に病院へ行くと、燎太郎は医師と相談して頓服薬を利用しながら第九の学校公演を回るように決めたようだ。
健吾は、これまた正直に言うと、公演は生演奏という仕様上、どうしても大きな音が鳴る上に、燎太郎のパートであるバスの配置は男声に囲まれ低音が響く、なので無理はしない方がいいのではないか、とそう思った。
しかし、燎太郎は「せめて出身校と地元だけでも」と、寂しそうに、言い訳がましそうに笑うので、燎太郎には燎太郎の思いがあるのだろう、と健吾はどうにか飲み込んだ。
燎太郎が大学にも通い始め、公演のリハーサルも始まる頃、コタツに座って仕事をしていた健吾の鼻先をパラジクロルベンゼンがふと掠めた。
思わず振り返ると、燎太郎は黒くて、いかにもフォーマルなつやっとした生地で仕立てられた服を、クローゼットから取り出していた。
「あ、ごめん。防虫剤臭っちゃうよね」
申し訳なさそうに、燎太郎はいちど、その服――タキシードの状態を確認する動作をピタリと止め、健吾の方を見た。
「大丈夫。許容範囲だ」
健吾は答えながらも、ちらちらとその格好のいい服から目が離せなかった。燎太郎はカラーシャツの上に手際よくカマーバンドなどの小物を取り付けると、あっという間にタキシードを着こなしてしまった。
仕事中だというのに、思わず目を奪われてしまった健吾は、燎太郎に許可をもらうと夢中で写真を撮り始める。
燎太郎は白手袋を重ねて手のひらに乗せる、そんな所作もいちいち様になっていたので、彼を取り囲むような軌道を描いてはカシャカシャとシャッターを押し続けた。
ベッドに登っている時に、無意識にシーリングライトの紐を引いた健吾は、そこで少しだけ我に帰る。
――あ、この写真。燎太郎の姿勢確認にも使えるかも。
人は、精神的にまいっている時、体を無意識に傾けてしまう場合もある。燎太郎はいつもピシッと背筋を伸ばしているイメージがあったが、今レンズ越しに見る燎太郎は……。健吾はカメラの機能からグリッドを引っ張り出した。確かに、いつもより真っ直ぐには立てていない、気がする。
今はそのまま資料にもなりそうな被写体の撮影に夢中だが、あとでその旨を伝えてみようと思った。肩凝りも姿勢を正すと少しはマシになるかもしれない、そう考えながらも健吾は、
「ここの、肘の皺のとこ……四色で打てるかも」
思わず、脳内の別タブで考えていたことが口から溢れた。燎太郎は一瞬だけ、なんとも言えない複雑そうな表情を浮かべたが、再び電気を点けたこの部屋で、さまざまなポーズを取ってくれた。
燎太郎は症状が落ち着いた頃から、「頭痛日記」と呼ばれる記録をつけていた。その記録を健吾にも共有してもらったらば、パソコンの表計算ソフトで情報を数値化してグリッドに記録していた。
そのグラフに姿勢確認用の写真を添付しようと、健吾は考えた。シャッターを押す手が落ち着いたら燎太郎に言わないと。
ふと、健吾の耳に低音のハミングが耳に入る。
ポーズを取りながら燎太郎は鼻歌を鳴らしていた。ほぼ無意識のようだ。壁の向こうから時々聞こえてくるあの旋律に合わせて。この曲の名前はサン=サーンスの『白鳥』だと、燎太郎が教えてくれた。
――やっぱり燎太郎にとって歌うことって特別なことなんだろうな。
理系クラスにいた時、レトロゲームオタク仲間同士で行くカラオケ、そういった時にゲームの主題歌やCMソングを歌うだけ、そんな自分とは違って。
健吾は、そう思うと、燎太郎にとっては今纏うこの服も「ただのタキシード」それ以上の意味があるんだろうな、とそう思った。彼の鼻歌にしばし耳を傾ける。
…◇…◆…◇…
「二泊三日ってどれくらいの荷物になるかなあ、どれがいいかな、どう思う健吾?」
一階に降りてトラベル用品売り場に辿り着くなり、燎太郎は言った。色とりどりのキャリーケースがぎっしりと並べられている。
「布製よりもABS樹脂の方が手入れは楽だぞ。雑巾で拭けるから……っていうか。燎太郎の方が使うでしょ、釈迦に説法だよ」
健吾はいったん乗せられてしまったが、思い出す。燎太郎は海外への短期留学経験もいくつか持っていることを。
「バレた?」というような悪戯ぽい笑みを燎太郎は浮かべるが、健吾は「そういうことじゃない」と、だんだん分かるようになってきた。
――ぼくと、一緒に行く旅行のためのものを、ぼくと一緒に選ぶ。そのことに意味があるんだろうな。
ぼんやり考えながらも、燎太郎を温泉旅行に誘ったあの時を思い出す。
「体が落ち着いたら、行けそうならで構わないんだけど、温泉に行かない? 湯治はさ、通い続けて初めて効果が出るものではあるんだけど」
湯治、というのは方便だった。ただ、燎太郎に広い景色を眺めて、大学のことや日常の細々としたことから少しだけ離れ、ただ、ゆっくり療養してもらいたいだけだった。
健吾は荷物を片付けたコタツの天板の上に、駅でもらった温泉宿泊プラン付き特急乗車券のパンフレットを並べた。
地元公演も一段落ついた大晦日近く、燎太郎はコタツで健吾と向かいあい、煎茶の気分だけでも楽しむために湯呑みに白湯を入れていた。
ストイックにハーブ以外のお茶は控える、そんな燎太郎。
燎太郎は不意を突かれたように目をまん丸とさせる。それもそうなのだろうか、健吾はひとりで食料品を買い込んだ時、ついでに駅の方に足を運び、もらってきたものだから。
「ありがとう、健吾。でもね、大学も休んじゃったし、言いにくいんだけど……宿泊費とか払えないから、さ。第九の公演数も削ったし……」
燎太郎は、目を左右に何度か泳がせると、湯呑みを握りしめて小さくなり下を向いてしまった。
「お金は気にしないで。ぼくからのプレゼントだから。ホラ、去年の燎太郎の誕生日、ちょうど連絡取れてなかった時だし、日頃の感謝も込めて。燎太郎にはいつもお世話になってるから」
健吾は、湯呑みにしがみついて小さくなっている燎太郎の手を上から握った。
「ダメだよ、お世話になってるのはおれの方。そればかりか、最近では迷惑ばかりかけて……」
「燎太郎」
また謝罪の言葉を口にしてしまいそうな燎太郎を遮って、健吾は握った手に力を込める。
「ぼくって、そんなに頼りないかな?」
健吾の単純な疑問と、そして少しの抗議、最後にほんの少しの駄々を込めた声だった。
「そんなこと!」
燎太郎はすぐに顔を上げて、しまったという顔をした。
一緒に暮らしてみて痛感したことは、健吾は燎太郎にかなり守られている。高校生の時からそう思っていたが、改めて。
ツードアの冷蔵庫ラック上に置かれた、背の高いフレンチドアのスパイスラック、焦茶色に塗装された木で出来ていた。棚板が三枚取り付けられたそれに、塩の入ったキャニスターが一番上の棚板に置かれていた時があった。
オクラの板ずりを頼まれた健吾は、粗塩が詰められたそのSALTと書かれた容器を取ろうと手を伸ばしたが、すんでのところで届かない。
「ごめんね」
その健吾の様子をすぐに察知して、燎太郎は謝りながら飛んできてくれる。後ろからひょいと陶器の入れ物をことなげもなく掴んだ。
二十センチの身長差……。
容姿のことにコンプレックスを抱いていても仕方がないのだが、それでも。思わずにはいられない。
――人の視線が気になるぼくを、その大きな体で隠してくれる燎太郎。
やせぎすで、舐められてしまうから、すぐ近くで目を光らせて、わざとぶつかってくる怖い人を牽制してくれていることも、健吾は知っていた。
「ありがとう、よく使う調味料は下の方に入れてくれると助かる」
燎太郎からつるりと丸い筒を受け取ると、健吾は下を向いてお願いをした。ちょっと、なんだろう、悔しい……そっか、悔しいのかな。そんな気持ちを噛み殺しながら。
「うん、もちろん。今度からそうする。気がつかなくてごめんね」
申し訳なさそうに、燎太郎は笑う。――ああ、そんな顔、させちゃった。
それから、塩と砂糖と、胡椒と。それらの容器が一番下の棚に収納されていない日はなかった。健吾はこの二十センチをどうしても、もどかしく思ってしまう。
どうにもならないことに、コンプレックスを持っていても、本当にどうしようもないのだけれど。
「うん……じゃあ、お言葉に甘えて。プレゼントありがとう健吾、思い切り楽しませてもらうね」
白湯の湯呑みを握りしめた燎太郎は、目を細めると、健吾の目を見てこう言った。
「うん、単位とか体が大丈夫だったらで、本当にいいからね」
健吾はホッとして微笑みを返す。
…◇…◆…◇…
「あ、これ最新のTSロックだ……。っていっても県内旅行だけどさ。あ、違う。アメリカの大きなエキスポに健吾のドット絵が招待されたりして。知ってる? アメリカのレトロゲー人気。そしたらおれ、ボディーガードも兼ねて一緒に行っちゃうもんね、ふふ」
燎太郎は健吾のアドバイス通りハードタイプのキャリーケースのタグを手に取ってはひっくり返したりして、じっくり見ていた。
「ちょっと、話が飛躍し過ぎでしょう」
一緒に旅行に行く予定の恋人が浮かれた様子を見せるので、健吾は思わず吹き出してしまった。
「いいじゃん。想像するだけなら自由だし」
戯けた時のいつもの調子、燎太郎は鼻に皺を寄せてはにこにこと笑う。今日はその鼻柱の上に眼鏡の鼻当ては乗っていなかった。
今日は、というか頭痛外来で治療を始めてからは、燎太郎は目に負担のかかる眼鏡は掛けていなかった。もともと彼の眼鏡は度がそんなに高くなく、外しても視界がぼやけるだけでそこまで不自由はないらしい。
「ぼくのキャリーケースにふたり分の荷物をまとめる手もあるけど。ボストンバッグもあるし。あまり荷物が増えても大変だぞ」
燎太郎なら健吾のキャリーケースを引きたがるだろう。ボストンバッグもきっと持ちたがる。病み上がりの彼の負担を考えると、できるだけ荷物の総数を減らしたい。健吾はそう考えた。
「あ、そっか。ふたりの荷物の総量として考えるんだ……。え、ちょっと。ふたりの荷物の総量だって」
にわかにお腹を抱えて笑い始める燎太郎。健吾が心配になって「何?」と尋ねると、
「だって〝ふたりの荷物の総量〟だよ? ふたりで行くこと前提の言葉じゃん。嬉しくない?」
燎太郎は涙を拭ってこう言った。そんな、泣くほど笑わなくても……。しかし、この浮き立った様子の燎太郎を見ると、誘ってよかったのかも、健吾はそう思えた。
ひとしきり燎太郎は笑うと、「あーあ、もう」なんて楽しそうに言いながら再びタグを手に取りキャリーケースの品定めを始めた。
健吾が視線を燎太郎の顔から手元に落とすと、さっきよりタグをめくるスピードが遅く感じられた。慌てて燎太郎を見上げ直すと、少し呼吸が乱れていた。笑ったからではないだろう。
「燎太郎、サングラスか耳栓いる?」
「大丈夫……。いや、うん、やっぱりサングラスしようかな。ちょっと目がチカチカするかも」
燎太郎からじわりと汗の匂いが増す。……これも汗っかきだからと、最初はそう自分を納得させようとしていた。正常性バイアスだったな、と健吾は今になって肝を冷やす。燎太郎は自分よりも遥かに健康だと、どこかでそう思いたかったのかもしれない。健吾は奥歯を噛み締めた。
「こっち」
健吾は燎太郎の背中に手を当てると、売り場の影、ベンチが置いてある暗い廊下まで誘導した。燎太郎を座らせると、健吾はさっき確認した場所からサングラスのケースを取り出す。開けて中身を燎太郎に渡した。
「ありがとう」
燎太郎は受け取るとツルを開いて、サングラスを掛けた。
「耳栓は大丈夫?」
「うん、耳は大丈夫だと思う。ちょっとここで座っていいかな」
何かを確認するように燎太郎は指先を耳の穴に当てると、呼吸を整えるように何回か息を吐く。
健吾はもちろんと答えると、燎太郎の隣に腰掛け背中をさすった。
しばらくすると、燎太郎は「さっぱりしたお蕎麦が食べたい。帰って何もしたくない」と言うので、店内が比較的静かなデパートのレストラン街に向かった。
家電量販店とデパートを繋ぐ連絡通路を通って、冷たい風を凌ぐ。
ふたりでエスカレーターを延々と上ると、反対に下りてゆく景色がエンドロールみたいだと思った。ゲームが終わった後のあの余韻。自分達はそれに手を振り登ってゆくスタッフロールみたい。
そんなことを考えていたら、チラリと振り返る燎太郎の視線を感じた。――あ、余所見しちゃってるから「危ない」って怒ってるな……。健吾はまっすぐ前を向いた。
お琴の音色が響くお蕎麦屋さんで、燎太郎はせいろ蕎麦を食べていた。いつもなら天盛りやカツ煮なんてつけてもっと「ガッツリ」したものを食べるから、本当にさっぱり済ませたかったんだな、と健吾は考えた。ざる蕎麦の麺を啜る。
しかし、燎太郎には更に思惑があったようで、「餡子系の甘いヤツが食べたい」と、暖簾をくぐるなり言った。
まあ、食欲が出てきたのはいいことだ、と健吾はエスカレーター付近まで進みフロア案内図を見ると、甘味処を見つけたので、ここでいいかと燎太郎に聞いた。
「うん、おれこのお店好き」
満面の笑みで燎太郎は答えるので、馴染みの店なのだろうと、健吾は思った。
栗善哉の栗を嬉しそうに頬張る燎太郎。付属のお茶は白湯に変更してもらっていた。
間接照明のようなオレンジの光の下で、シンプルだけど洒落た椅子が並んでいた。初売りでお蕎麦屋さんは少し待ってしまったほどデパートは賑わっているが、このお店は比較的に空いている。フロアの奥の方に隠れ家みたいに佇んでいるからだろうか。
健吾はクリーム餡蜜が盛られた器から、キウイを救い上げると口に含む。酸っぱい。
「餡蜜も美味しそう」
サングラスを額に乗せた燎太郎は、じっと健吾の手元を見ながら白湯の入った湯呑みを傾けた。
「こっちもちょっと食べてみる? お腹いっぱいになっちゃうし」
言うが早いか、健吾はスプーンに、餡子と花型にくり抜かれた寒天を乗せると、燎太郎の方に向ける。
「あはは、また催促したみたいになっちゃった」
恥ずかしそうに燎太郎は笑うと、パクリと一気に健吾の差し出したスプーンに食らいつく。
「うん、美味しい」
そう言いながら目を細めると今度、燎太郎は栗を乗せたおさじを健吾に向けてくるので、健吾はそれを頬張る。
「うん、栗、美味しい」
健吾がこう言うと、燎太郎は満足そうに笑った。
…◇…◆…◇…
旅行の行き先は県内有数の観光地、山間部の温泉旅館に決定した。
旅館と言っても、客室の構造はホテルに近く、格式ばってかえって肩の凝る感じの宿ではなかった。もちろん、旅慣れた人ならば、そういったホスピタリティに溢れる旅館は、最高級のおもてなしになるのだろうが。
社会人一年生で、人見知り。そんな健吾には少々気後れしてしまう、そんな気がしたから。
広縁からは山々が見渡せる、露天風呂付きの客室を選んだ。食事を部屋に持ってきてもらうと、各種移動の手間も減るので、燎太郎の負担も減らせると思った。
いよいよ明後日が出発日となった今日。健吾はコタツに座って、チェックインの時間などをスマホから確認していた。
燎太郎は、
「化粧水とかってどうしよう。小さなボトルに詰めよかな、それとも『外泊セット』みたいなのを薬局で買ったらいい? シャンプーは山間部の観光地なら、環境配慮のものが置いてあるはずだからそれ、使うとして……」
思考をやや散らかせながらも、準備に余念がないようだった。
今日は土曜日、平日は休日より色々空いているだろうという願いを込めて月曜日から旅を始める。
鏡台も兼ねたデスクの引き出し、そこから普段使っているスキンケアのボトルを燎太郎が引っ張り出したら、デスクに並べる。
そんなことをしていたら、突然、玄関チャイムが鳴る。
「え、なんだろう。土曜日にセールスとか……」
少々警戒した様子の燎太郎が、インターホンのモニターにそろそろと近づくと、画面を覗くなりサッと顔色が変わる。
燎太郎は慌てた様子で玄関に駆け足で行くと、もたつく手でチェーンと鍵を開けた。
「お久しぶりー。燎ちゃん」
玄関で賑やかな声がした。健吾は聞き覚えがあるような、そんな気がした。
「ママ、いきなり来ないでって言ったじゃん」
続けて明らかに困った燎太郎の声が聞こえる。ガチャリと鍵を掛け直す音を背に、赤いステンカラーコートを着た長い黒髪の女性がツカツカと部屋に入って来た。むせ返るほどのバニリンが、香った。
燎太郎のお母さんは、堤寿子という名前で健吾は見知っている。父と母が時々リビングで観るテレビドラマで見かけたから。
その途中のスポット広告なんかでは「ゲストは堤寿子」という煽りで、バラエティ番組への出演を報せていたこともある。
健吾はそちらを見た事がない。何故なら両親はバラエティ番組が始まりそうになると、チャンネルを変えるか、テレビを消してしまうから。
健吾は思わず立ち上がってしまう。
「ロケで近くまで来たんだってば。あら、お友達。ゆっくりして行ってね」
寿子は健吾の方をチラと一瞥すると口角を吊り上げ、顔から剥がしたサングラスのツルで健吾を指した。燎太郎が今使っている、光から目を守る用途ではなく、彼女の場合は顔を隠す道具だろうな、と健吾は考えた。
――でも、ここ燎太郎の部屋じゃない?
「こんにちは」
疑問に思いながらも、健吾は挨拶をする。寿子はもう健吾に目を向ける気配はなかった。バニリンの奥からアルデヒドのRCHOが白銀の鎖のように絡みつくみたいだ。
「ママ、健吾だよ。炎色反応でお世話になった、あの、」
「エンショクハンノウ? なんだっけそれ」
燎太郎は、寿子と健吾の間に入るように体を押し込む。しかし半笑い、といった感じで返ってきた自分の母親の言葉に、打ちのめされたように燎太郎は項垂れた。
「センベロ街はまだ本当に千円で呑めるのか? っていう企画モノロケなんだけどさ、もー誰かさんが『目指せカルメン』の企画を降りちゃったもんだから、ママ仕事減ったんだよ? もう選んでられる状況じゃない、の」
寿子は笑う。その声はからりと乾いているが、言葉の内容は鋭く尖っている、健吾はそんな印象を受けた。以前、燎太郎から「優れた役者は場を支配する」と聞いたことがあるが……。いや、これは役者として放つ場の支配力とも違うような……。
健吾は燎太郎のすぐ側に今すぐ駆け寄りたかった、彼は唇を噛んでしまっている。だが何故だか体が動かなかった。
ふと、視線が奪われる。クリスタルガラスでデコレーションされた、名刺ケースをひと回りふた回り大きくしたステンレス製の容器がチカと光ったから。
寿子がそれを開けると、細長い紙巻きタバコを取り出した。健吾は実物を初めて目の前で見た。あ、ネオメントール……C10H20O……。
「ママ、ここ禁煙だってば」
悲鳴に近い燎太郎の声、それを受けた寿子はシガレットケースをハンドバッグに仕舞い直し、大袈裟な仕草で両手を上げ、コクコクと頷く。ごめん、ということなのだろうか。
「ま、燎ちゃんには稼ぎたいって気持ちは分からないか。貧乏ごっこがしたいんだもんね。『神田川』の世界観だよそれ、ママの親世代の流行りだよフォークブーム。あ、そういえば、じいじとばあば『燎ちゃん最近来ないね』って、寂しがってたよ、顔出したげたら」
またカラカラと寿子は笑った。燎太郎は口の端を必死に吊り上げているようだが、目は光を宿していない。
「……うん、顔出したいとは思ってる。あのね、でもぼくはごっこ遊びをしたいわけじゃなくてね」
「あ、アンタ。そんなにカラーコーデのセンスがない子だっけ? 浮いてるよ、ベッドカバー」
燎太郎の言葉を遮って寿子は空色のベッドを指差す。相変わらず笑ってはいるが、言葉と合っていない。質の悪いキュビズムのようで健吾は酔ってしまいそうになる。
「好きな、色だから……」
燎太郎がやっとのことでこう絞り出したようだ。ごめん、燎太郎。ぼくの好きな色にしてもらったせいで……いや違う、それって本当にぼくらが悪いの?
「それにさ、貧乏ごっこじゃなければなに? パパとママに言えばこんな部屋でうずくまって生きなくても、もっと広い部屋に住めるのにさ。だいたい高校だってエスカレーターで行けたのに、わざわざ普通の私立を受験してさあ。感じ悪いよ? まるでウチの子になるのは嫌だったって言われてるみたいじゃん」
眉を顰め、さらに寿子はケタケタと笑う。そこで初めて「ねー?」と、健吾に目をやり同意を求めた。
燎太郎はついに、顔から表情が消えてしまった。
健吾は、ふたりが何かの符牒を使って喋っているのかと思った。あまりにも会話が噛み合っていないものだから。
どうしよう、何か何か燎太郎にしてあげたい。燎太郎の方に歩み寄ろうと健吾はなんとか金縛りを解こうとする。
「あ、待って。帰ってこいだって。全く、息子の部屋に行ってくるってちゃんと言ったのに」
コートのポケットから振動を感じたのか、寿子はスマホを引っ張り出すなりこう言った。健吾は申し訳ないが「やっと」と、思ってしまった。
寿子は体を捻り、ヒラヒラと手を上げると、
「じゃあ、『センベロ』見てね! まあ、アンタの部屋にテレビはないけどね。ホント、広告屋の息子にあるまじきだわ」
こう言い捨てて、寿子は背中を向けた。かと、思ったらにわかにガバッと振り向いて、サングラスのツルで燎太郎と健吾を交互に指す。
「あなたたち、行いには気をつけなさいよ」
ニヤリと歪に頬を持ち上げると、今度こそ扉を開けて去って行った。
ジャスモン酸メチルばかりが残る玄関、燎太郎はドアスコープを覗くとのろのろ鍵を掛ける。体を引きずるように廊下を渡ると、
「あはは、ごめん騒がしくて。何がしたかったんだろうね、あの人」
乾いた笑い声を浮かべ、無理矢理顔を引き攣らせると、笑顔を作ろうとした。
部屋の入り口まで健吾は駆け寄り、燎太郎まで一気に距離を詰める。すっかり青ざめた彼の顔を見上げると、
「燎太郎、ぎゅってしていい?」
そう尋ねた。
燎太郎は目を見開くと、そのまま膝から崩れた。大きな体を目一杯震わせている。
健吾も膝を折ろうとしたら、燎太郎が腰に抱きついてきたので、折れなくなってしまった。
代わりに、健吾は燎太郎の頭をしきりに撫でる。
「ねえ、健吾。おれが『ママのことが怖い』って言ったら、笑う?」
健吾の腹に顔を埋めたまま、震えたか細い声で燎太郎がこう尋ねるので、
「笑わないよ。燎太郎のお母さんを悪く言っちゃダメだと思うけど、ぼくもあの人怖かったもん」
少し躊躇いつつも、健吾はこう答えた。
スウェット越しに、肌が濡れる。「うぅ、うっ」と嗚咽を漏らしながら、燎太郎が雫を落としているようだ。
しかし、その声は「悲しい」だとか、そんなネガティブな方向ではなく、安心した様子を健吾は感じた。
「もうやだ、最近泣いてばっか。カッコ悪いよ、おれ」
しばらくすると、燎太郎は膝を抱えてうずくまってしまった。笑顔は戻ったが、涙はゆるゆるとまだ燎太郎の頬を濡らしていた。
「カッコ悪くないって。例えカッコ悪くても、ぼくは嫌いにならないから。それに、その評価軸の方がおかしいと思う」
解放された健吾は、燎太郎の横に座りスウェットの裾で燎太郎の涙を拭う。
「……反則だよ、それ」
息を吐き出すように笑うと、燎太郎はされるがままになった。頼りない黄色の斜陽が部屋にさす。落ちた影にも飲み込まれるまま。
「あのね、高校生の時に、健吾とさ健吾の家族と一緒にバーベキューに行ったことを覚えてる?」
忘れるわけがない、と思いながら健吾は燎太郎の問いに「うん」と答えた。
「その時、功一さんが『寂しいって親御さんに伝えた方がいい』って背中を押してくれたから、伝えたんだよおれ、うちの両親に『今まで寂しかった』って」
自分の知らない間に、お父さんとそんなことを話してたんだ、健吾は少しの寂しさを抱えながらもまた「うん」と、答える。
「その時はさ、両親とも神妙な顔をしながら『悪かった、気づかなかった』って謝ってくれたんだけど、変わらなかった。……変わらなかったんだよ、なにも」
虚を見つめていたような燎太郎の目から溢れる涙が、まん丸の粒になって落ちる。燎太郎はそれを素手で、指の先で拭き取るので、健吾は自身の裾を引っ張りあげてそれを拭った。
「あの人たちがその場しのぎで謝ったのか、それとも自分の変え方が分からなかった……あ、違う、はは、『自分』じゃないよね、子どもとの、自分の子どもとの関わり方が分からなかったのか、分からないし、分かりたくもない。分かったら『あっち側』に行ってしまうから嫌だ、とすら思うからね」
ずずと音を立て、燎太郎は鼻水をすすった。そこも拭ってあげたいけれど、燎太郎は嫌がるだろうな……。でも気持ち悪そう。
健吾はコタツまで走ってティッシュを取りに行って、燎太郎に渡してあげたかった。でも、いっときたりとも泣いているこの人の側を離れたくないとも思う。
視界の端に、黒いティッシュボックスをとらえながらも、健吾は『ティッシュのジレンマ』に苛まれていた。
「それがあるからってわけじゃないけど、おれ、子どもたちが嫌な思いをしてるかもしれないって、ちょっとでも思えたら、すごく嫌なんだ。我慢ならないって、まさにそんな感じで。それはさ、過去の自分を助ける行為だってよく分かってるんだけどさ」
燎太郎はとうとう自分のトレーナーの裾で鼻を拭い始めた。ああ、ぼくがティッシュに走るのを踏み切れなかったせいだ……。少し、背徳感を抱えながらも健吾は燎太郎の話に耳を傾ける。
「健吾のこと、テレビで見てたあの時間がもしかしたら原点なのかもしれない。『この子を助けたい』って。なんでもいいから手を差し伸べたいって、思うのはさ。ちっぽけでもいいから。それこそおれには歌うことくらいしかできないけど、この人の歌、聞いたから今日はいつもよりちょっとだけ楽しかったって、そう思ってもらえたら。はは、でもそっちの方が難しいかもね」
燎太郎はしきりに裾で鼻を擦りながらも、取り留めなく喋った。
――たまにはそれでいいと思う。燎太郎は思考を整理して考えすぎる癖がある。
「大丈夫? 頭、痛くない?」
「別の意味で『頭が痛い』けどね……ふふ、ごめん。『心配事を抱えて頭が重い』ってことだよ」
燎太郎の答えに健吾はきょとんとした顔をしてしまったのか、燎太郎が笑って補足を入れてくれた。……そっか慣用句、慣用句の方ね。……恥ずかしい。
「旅行、大丈夫? 行けそうかなあ」
恥を振り切るように健吾は改めてこう尋ねると、燎太郎は、
「行く! こんなことで楽しみにしてたことを奪われてなるものかって、思う。行ってやるさ」
鼻に皺を寄せ笑った。強がるように。
「無理はしないでね」
健吾は手櫛で燎太郎の髪を漉くと、燎太郎もゆるりと微笑み、
「うん、無理のない範囲でね」
と、今度は心から楽しそうに、笑った。
大きなキャリーケースを引いた燎太郎を空港まで見送った。高校生の時、海外短期留学に行く彼を。電車にコトコト一時間以上揺られて。
今、思うとこんな距離感なのに、自分たちは関係性のラベルを「友達」から頑なに変えようとしなかったのが、笑える。シュール過ぎるだろ。
ぼくたちは搭乗口まで無言で歩く。寂しいねってどちらからも言い出せない。ひょっとしてぼくらはふたりとも意地っ張りなのかもしれないな。
夏休みの空港は、大きなキャリーケースを引く人々で溢れている。家に帰る人と、これから旅立つ人がすれ違いながら。笑う人、眉を寄せて俯いてる人、ぼくらは無表情かな。
いやきっと、すれ違う人の中には「寂しそう」って、そう気づいた人もいたかもしれない。
ベンチと受付カウンターが並んだ場所で、燎太郎は搭乗手続きを済ませると、
「ひとりで帰れるかな?」
と、この日初めて心配そうな声を出す。こんな時に人の心配……。しかも、ぼくは子どもじゃない。
「失礼な」
ぼくが少し拗ねると、燎太郎は焦って「ごめん」と言う。
今なら分かる。燎太郎のこの感じ、ぼくに……触れたかったんだろうな。
「見送りありがとう、またね」
燎太郎はそう言いながら軽くハグするけど、そんなことではなくて。もっと肌と肌が直接触れる場所に。なにを遠慮しているのだろう、と今なら笑える。
でも、燎太郎は――。必ずハグの前に腕を伸ばして「今から触れるね」と、確認してくれた。嫌がったら触らない……もっともぼくは、拒んだことはないけれど。それでも、その予備動作が、ぼくにとっては心地よかった。
まあ、遠慮しているとしたら、同じ年頃の留学生たちにだろう。グループ留学なので、同じ飛行機、同じエージェントで一緒に行くのだろうから。
しかし、彼らと燎太郎に違うところがあるとしたら。
彼らは大きなスーツケースを取り囲んで、家族と思われる人たちと笑い合っていた。
この頃は、燎太郎が自立した強いひとだからだと思っていたけれど……。燎太郎は、そんなに強いわけではなかった。
時々、振り返りながら検査のゲートを潜る燎太郎。心細そう。ぼくは飛行機を見渡せる場所まで移動して見送るけれど、行ってしまった後も、しばらくそこを動けなかった。
燎太郎、ぼくはそんなに軽い人間じゃないよ。ベッドで抱きすくめてくるようなひとを、またその中に招くと思う?
なんとも思ってなかったら……。
ぼくは不服で、この「関係性」に解をつけて欲しかった。
でも、それ。ぼくがつけても、なにも問題なかった。
燎太郎。
ぼくたちはあの頃、なにをそんなに怖がっていたんだろうね。
争いを望まない、アメリカをはじめとしたゲーム仲間達へ。
そして、世界の市民へ、思いを寄せて。
文化や芸術などを通じて、友達になれますように。




