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六章 アセトアミノフェン

⚠️※Trigger Warning※⚠️


頭痛・頭痛薬の連用・過呼吸描写


この章では引き続き、頭痛による強い精神的な混乱や切迫した心理状態を描写しています。また、過呼吸描写につられて呼吸に不安が出る場合はお気をつけください。


心身にご負担のないよう、ご無理のない範囲での閲覧をお願いいたします。

 燎太郎(りょうたろう)は音も立てずに泣いていた。ただ、しおしおと表情も変えずに。

 カーテンも開けていない金曜の夜の防音アパートは、静かで暗かった。電気の点いていないこの部屋では、黒い家具がいっそう暗くなる。彩度の高めな細々とした小物も「やる気ありませーん」とばかりにグレーアウトしているかのようだ。


 コタツで、いつも健吾(けんご)が座っている席で、電源も入れていないのに足を潜らせ突っ伏す。

 時々、スマホを見ては連絡がないか確認した。この場合に限り、時々というのは一〇分に一回という意味だった。

 燎太郎は、六角健吾の名が冠されたチャット画面を開く。


 なにもメッセージはないと分かっているのに、その画面を上に引っ張っては、チョークが円状に並べられたようなグレーの濃淡の移り変わりを見ていた。唐突に終わるその動きは何の結果も連れてこない。


 こんな状態で通学しても、また何かしらの心配を周囲の人たちに掛けそうだったので、大学は休んでしまった。

 朝から一秒も涙が止まった事がない。ただ、ほろほろと音もなく涙を流していた。ほろほろべそべそ。




 ――あの時、すぐに「嘘だよ。帰らないで」と言えばよかった、のだろうか。

 しかし、それでは余計にパニックにさせてしまうだろうし、健吾相手に一度言ってしまった言葉は引っ込められない。

 矛盾をすぐ見抜いてしまうから。そうすると、今まで燎太郎が積み上げたものがガラガラと跡形もなく崩れ落ちてしまうと思ったから。

 

 こんな時でも自分のプライドを優先させるのか?

 燎太郎は激しく自分を問い詰めるが、それがいつか行き詰まる事も分かっていた。


 本当に、週末を終えて健吾が帰って来たとしても、また隠れて薬を飲む日々が始まるだけだ。何の解決にもなっていない。


 そしてそもそも――。健吾は帰って来てくれるのだろうか。

 健吾の〝引き癖〟はこうなったからもう安心できる。とか、基準のあるような、そんなレベルではない。一生警戒しなければいけないものだろう。

 なのに、問題を抱えた健吾を家から放り出すような真似をしてしまった。

 なんて、なんてメッセージを送ればいいんだろう。ごめんね、嘘だよ……。「何で?」と聞かれてしまう気がする。

 燎太郎は、健吾のスレッドで文字列を打っては消していた。


 コチコチ、時計は深夜二時過ぎを指している。

 燎太郎は、ノロノロとキッチンの関節照明をつけると、ダイニングテーブルの上で、水を張った電気ケトルの電源を入れる。

 フリーズドライの卵スープを何とか流し込むため。もはや、今日の食事は薬を飲むために胃になにかを入れる作業だった。


 

 薬を飲んで、震える手でスープボウルを洗う。落としてしまいそう。

 そうすると、歯を磨いてもう寝ることにした。


 空色のベッドカバーのこのベッド。昨日までは健吾が寝ていた。

 燎太郎は布団を敷く気力がなかったし、ベッドシーツを変える余裕もなかった。

 だから、空色の寝床へゆっくり沈み込んでゆく。

 ……何より、健吾の残り香――気配を感じられる気がした。


 よく涙で枕を濡らすという慣用句を聞いた事があったが、本当に枕は……濡れるんだね。



 ――昨日、まだ自分が床で布団にくるまって寝ていたあの夜は、眠れなかった。健吾の寝息をただ聞いていた。



「……あ、でも。無理にとは、言わないんだけど」

 ひとりになりたいと言った後で、我に帰った燎太郎は健吾の方に慌てて向き直り、取り繕うようにこう言った。

「いいや、ちょうど実家から持って来たかった荷物もあったし」

 健吾は音もなく頷く。燎太郎にはその声が恐ろしく平坦に聞こえた。


「あ、洗い物ありがとう」

 健吾はキッチンの方へ首を捻りこう言う、燎太郎は「大丈夫」と答えつつも健吾のその表情が見えなかった。



 それから、健吾は今日の仕事を終えた後、ほぼ無言で就寝準備を始めると、室内干しハンガーにぶら下がっていた洗濯物を少し畳んで、ベッドにもそもそと潜り込んだ。

「おやすみ。そこまで追い詰めてたなんて、本当にごめん」

 顔まですっぽり、布団を被り健吾がこう言った。くぐもった声で。


 燎太郎は、心臓をぎゅうっと掴まれる。痛い、鼓動が、痛い。

「健吾が追い詰めたんじゃ、絶対ないよ。……大学のプレッシャーとか、そんなだから」

 今ならバレないかと思って、燎太郎は目に溜まっていた涙を音もなく流して出した。

 健吾の返事はない。代わりにしばらくすると寝息が上がり始める。


 燎太郎は室内灯をオレンジまで落とすと、さっき敷いた布団に静かに潜り込みベッドを見上げる。ベッドのフレームとマットレスしか見えなかった。頭が痛くて眠れない、比喩でもあるし実際の身体症状でもあった。

 それから燎太郎は、マットレス、天井、アップライトピアノのペダルをごろごろと順番に見つめながら一睡も出来なかった。明るくなるまでは。



「あ、寝ちゃった」

 目覚まし時計が鳴り、燎太郎がガバリと慌てて跳ね上がるように起きると、健吾がカーテンを開けてくれたのか、部屋の中は明るかった。チンダル現象のように光の筋が差し込んでいた。

「健吾、おはよう」

 まだ、間に合う。やっぱり嘘だったよ、そう言おう。燎太郎は立ち上がると、健吾を探そうとした、が。


 布団を敷くため、窓側に避けたコタツの上には畳まれたパーティションが置かれてあった。

 ノート型パソコンと、液晶タブレットは、なかった。


 ――あ、行ってしまった。

 燎太郎は両膝を布団につけると、今度は手のひらで床を押すようにこうべを垂れる。

 ぱたた、と敷布団に何かが落ちる音に気づいた時には、涙と鼻水で水たまりが出来ていた。





     …◇…◆…◇…





 土曜日も、空色のベッドに横たわってずっと天井を見ていた。

 健吾も気力が切れた時はいつもこうやって寝ているが、――しんどいね、これ健吾。

 もちろん、燎太郎と健吾ではしんどさやだるさの由来が違うので同じものでは決してない。


 それでも、燎太郎の目尻からはしょっぱい水がこぼれ、こめかみを通り抜けては落ちた。


 もし、週末が明けても健吾が帰らなかったら。恥を忍んで実家まで迎えに行こう。ご両親が出たら息子さんを傷つけてごめんなさいって、謝ろう。

 追い返されてしまったら……どうしよう。こめかみはもはや水路になった。目尻から枕への。


 そうして、一日に三回、軽食――ヨーグルトだとか、本当に軽いもの。を食べると、薬を……飲んで。寝た。



 日曜日、燎太郎はベッドに寄りかかって膝を抱いていた。

 頭は痛いけど、もう何か軽いものを食べる元気も、薬を飲む気力もなかったので、カーテンも開けずにただ、コタツを乗せたラグの縫い目を目で追っていた。追っては戻って、行ったり来たりを繰り返す。



 頭の中を直接、ギリギリと締め付けられてるみたい。もはや痛みはこめかみだけじゃなくなっていた。

 あ、このトレーナーとチノパン、昨日と同じ。

 あ、お風呂入ってない。

 帰って来た健吾に「臭いな」って思わせちゃダメだ。健吾にとって「臭いな」は攻撃に等しい。

 シャワーだけでも、浴びないと、帰って来てくれない、そんな気がした。

 どうにか立ち上がって、シャワールームに向かいたいが、どうにも足に力が入らない。

 あと、もう少し休んで、そして立ち上がろう、そんなことを何回か繰り返して、そしていまだに座っている。

 膝に顔を埋めて燎太郎は、全部諦めそうになる。



 

 玄関で鍵を鍵穴に突っ込む音がした。

 ドアが開く乾いた空気を切り裂く音の直後、金属が擦れ合う激しい音が鳴る「ガコン」と。

「あれ?」

 ドアの向こう側に健吾の声だ――待って! いまチェーン外すから。


「待って、待って、今行くから! お願い、待ってて健吾、待って」

 今の自分にこんな声が出るとは思わなかったボリュームを出しながら、玄関へと一直線に燎太郎は走った。

 サンダルに足を突っ込むと、「一回、チェーン外すから、閉めるからね」燎太郎は、ドア越しの健吾に話しかけた。月曜日に帰ってくるのだと思っていた――。

「うん」

 健吾の返事を確認すると、燎太郎は微笑みドアを閉める。しばしの間。

 チェーンを外してドアを開けると、燎太郎は全力で「お帰り」そう言った。


 沓摺(くつずり)の向こうに立っていた健吾は黒いソフトケースに入ったギターを背負っていた。手にはキャリーケースとその上に置かれたボストンバッグ。

 このどちらかに、いつものリュックとガジェットが入っているのだろう。

 次に、小麦粉とお出汁を香ばしく焼いたにおいがした。

 ――なんだろう、チヂミかな?


「入っていいかな?」

 健吾が尋ねた。それもそのはず、燎太郎が玄関で茫然として立ちはだかっている形になっていた。

「あ、もちろん。入って」

 燎太郎は弾かれたようにのけぞると、スリッパを脱ぎ捨て廊下にバックして避けた。

 健吾は、鍵を閉めチェーンをかけると、ギターを玄関ホールに置く。

「よく考えたらさ、防音の部屋ならぼくもギター弾けるんじゃないかって、そう思って」

 そして、こう言った。燎太郎は確かに、何でそんな簡単な事に気が付かなかったんだろう、と目を見開く。


「じゃあ、ぼくシャワー行ってくる。これ、預けていいかな」

 健吾は玄関に置いたボストンバッグから買い物袋を取り出し、燎太郎の前にぶら下げると、

「これ、たこ焼き」

 袋をずいと燎太郎の前に近づける。

「たこ焼き?」

 燎太郎が、不思議そうな声を出すと、健吾はこう続けた。

「この前エビを食べた時に思ったんだ。ぼくらの食卓にはALA(アラ)が足りないんじゃないかって。だから、たこ焼き買って来た。タコにはエビの十倍近く含有されている場合もあるからね。まあ、ご飯は好きなように食べるのがいいとは思うけど、こういった優れた分子も取り入れていこうよ。このアミノ酸は、ミトコンドリアの活性化を助けるぞ」


 燎太郎が、ぽかんとその袋を受け取ると、健吾はスニーカーを脱ぎ、上り框を跨ぐ。コートをラックに掛け、「じゃ」と呟きシャワールームへと入って行った。

 あ、着替え用意するの忘れてるよ健吾。このままじゃスッポンポンでお風呂から出る事になっちゃう。

 燎太郎は、いつものスウェットを、脱衣所に用意しようと、そう思った。




 預かったたこ焼きをダイニングテーブルへ置くと、健吾の着替えを用意し、ささやかな脱衣所に置いてあるカゴへと入れた。

 

 それが終わると、燎太郎はまず顔を洗った。すりガラス越し、健吾が几帳面にシャンプーを泡立てる音を聞きながら。

 だいぶ酷い顔だったと思うけど、健吾は何も言わないでくれたな。

 燎太郎は、洗顔フォームの泡を注意深く洗い流す。

 洗面所を出たら次に、デスクへ小走り、眼鏡ケースを拾うと今度は眼鏡を掛ける。暗い部屋に赤いカーネーションが咲く。

 

 今度は窓際に向かい、チャコールブラウンの遮光カーテンを開く。白い光が差し込んだ。

 ――冬でもこんなに明るい日が差すことがあるんだ。

 燎太郎はそう思ったが、ここ数日閉め切っていたせいで、目が光に慣れていなかっただけのような気もしてきた。


 次に何しようか、あ、この服……。汗や涙で汚れた服。着替えよう、少しは匂いがましになるだろう。カーテンを開ける順番、間違えたような気がする。誰が見るわけでもないけれど……。

 煌々とこの部屋を照らす太陽の下で、燎太郎は服を脱ぎ捨てると、新しい部屋着を出して素早く身につける。


 再び洗面所に近づくと、健吾がまだシャワーの水音を立てていることを確認した。鉢合わせることになると、びっくりさせてしまうので。

 燎太郎は水音が止まないうちにさっき脱いだトレーナーを、洗濯機ラックの洗濯カゴに小さく小さく畳んで入れた。


 廊下に出て玄関の方に視線を移すと、ギターと健吾の荷物が目に入ったが、これは……勝手に触らない方がいいか。

 燎太郎は、ワンルームの部屋に戻り、あと何をしようかうろうろと歩き回る。


 あ、換気……。燎太郎はキッチンへ走り換気扇を回すと、コタツの横に置いてある空気清浄機の電源を入れた。そのまま窓際まで小走り、窓を少しだけ開ける。じわりと冷気が侵入してくる。

 ――あれ、加湿機能って窓開けたまま使って効果あるっけ?

 少し混乱してきた燎太郎がふとコタツの天板を見ると、自分のスマホが目に入る。吸い寄せられるようにノロノロとそれに近づくと、持ち上げる。


 燎太郎の顔を捉えたスマホは鍵を開けるが、通知が一件入っていたので、燎太郎はそれを押す。メッセージアプリに繋がった。


『今から帰るね』

 今日昼の日付で、健吾からメッセージが届いていた。健吾が実家に帰った直後、最初はあんなにメッセージを確認していたのに。

 ……こんな感じで、大事なものを見落としてしまうんだろうな、燎太郎はそう思った。


 腰を下ろして電源を入れたコタツにモゾモゾと足を突っ込むと、燎太郎は一息つく。


「ありがとう、ぼく着替え忘れてたよね。用意してくれたんだね、すまない」

 健吾の声がしたのでそちらに振り向くと、またほかほと湯気を纏った声の主が立っていた。部屋の入り口。ふと彼はダイニングテーブルに目をやると、視界の端にたこ焼きが目に入ったのか、何かを確認するようにそれに近づいてゆく。

「あのね、健吾。こっちこそごめん……」

 燎太郎は続ける言葉を考えあぐね、口をぱくぱく金魚のように動かしていると、

「お父さんと、話してきたよ」

 健吾が、遮るようにこう言った。たこ焼きをじっと見たまま。


 ――え? 功一(こういち)さんが出てくるような事態になってるの……?

 燎太郎の耳に、ピアノのC8よりも遥かに高い音が通り抜ける。それからは無意識だった。

 チノパンのポケットから薬のシートの端切れを取り出し、薬を押し出すと、そのまま飲んだ。喉にざらりとした不快感が張り付いたようだ。


「燎太郎! たっぷりの水と一緒に飲まないと、肝臓に負担がかかる」

 パキリとした乾いた音に気づいた健吾が叫びながら燎太郎に駆け寄るが、彼が辿り着いた時には、もう白い錠剤は燎太郎の胃液の中にゆっくりと沈み始めた。


「待ってて」

 健吾は、キッチンに引き返すと、水切りラックに置いてあったグラスをすすぎ、水道水をたっぷり注いだ。

 小走りで燎太郎の側まで来ると、健吾は膝をつきグラスを差し出す。

 燎太郎はそれを受け取ると、ちびちびと口につけた。


「……今日、初めてじゃないよね。燎太郎、キミは時々呼気からアセトアミノフェンの匂いがしていた。水を飲まず、乾いた胃に薬を摂取するのは、よくない」

 言いにくそうに、健吾が告げた。

 アセトアミノフェン……。頭痛薬に入っている成分なのかな――。きっとそうだろうと燎太郎はぼんやり考えた。

 飲んだ水がそのまま涙になって出てきているみたい、そんなわけないけれど燎太郎はそう思った。音もなく頬を走る。

 ――名探偵はどっちだよ。いや、健吾がこういう人だっておれは知っていたはず。何を挑んでいたんだろう。

 燎太郎は、やがてごくごくと喉を鳴らして水を飲み干す。グラスをコタツの天板に置くと、コトリと乾いた音がした。


「クマも、ずっと取れていないみたいだし……」

 続く健吾の言葉に反射したかのように、燎太郎は目元に手をやる。眼鏡の下に激しく指を突っ込む形になってしまう。指先が濡れた。もう、隠しきれない。明らかに動揺している人の動きだ。


「燎太郎、頭痛外来に行こう」

 健吾は意を決したように頷くと、燎太郎の顔を覗き込み、こう言った。




 その言葉が本当に合図だった。

 今までとんと忘れていました、そんな顔をしながら嗚咽が溢れ出す。燎太郎にはもう抑えきれなかった。

 健吾はすかさず、燎太郎の背中をさすった。

「いい。またどうせ〝ただの頭痛〟って言われるだけだし、いい」

 ちぎれてしまうんじゃないかと思った膝の痛みも、苦しくて死んでしまうんじゃないかと思った変な呼吸も『ただの成長痛ですね』『ただの過呼吸ですね』と、燎太郎はそう言われてきた。親のいない、君枝に付き添われた冷たい診察室で。


 健吾が口を動かす気配を見せたので、燎太郎は続ける。

「それに、健吾にくっついてたら平気だから、大丈夫」

 嘘ではなかった。健吾を抱きしめている時は、信じられないくらい頭痛を忘れることができたから。いや、抱きしめている時ではない……燎太郎がちらりとそう考え始めると、

「それは依存先をぼくにすり替えているだけだ。ぼくを薬の代わりにしないで」

 それを見透かしたように健吾がこう言う。ゆっくりと諭すように。……そうだな、抱きつく、だ。もっと言えばしがみついている……。


 燎太郎は、本当に自分が情けなくなってくるので、嗚咽がどんどん大きくなってくる。しゃくりも混ざり始めた。健吾が燎太郎の背中を撫でる逆の手で、コタツの上のティッシュボックスを引き寄せるが、燎太郎はそれを引く気になれなかった。代わりに健吾がティッシュを一枚取り出すと、それを差し出しながらさらに続ける。

「燎太郎、ぼくのお父さんの仕事、覚えてるよね。化学者は……少なくともぼくのお父さんは、苦しめるために薬を作っていない。医療を怖がらないで」

 目の前で白くて薄いパルプがゆらゆらと揺れていた。功一の仕事、化学会社の製薬部門に勤めていると、そう聞いていた。――そうか、おれは功一さんの仕事に泥を塗るようなことも……やっていたのか。


 燎太郎は、荒くなる呼吸の中で、

「嫌いに……なって、ない?」

 なんとか言葉を捻り出した。自分でも驚くぐらいに声が震えた。視線が重力を得たように重く、突っ伏してしまいそうなほど頭が下に降りてゆく。

「どうしてそう思ったの? 嫌いになるわけないでしょ」

 健吾は呆れたようにこう言うと――そう、呆れられて仕方ない――燎太郎が頑なに受け取らないティッシュを頬に寄せた。燎太郎の背中に手は当てたままだが、その動きはピタリと止まり、利き腕ではない手で不器用にも一生懸命に涙を拭ってくれる。


 燎太郎は、たまらずに健吾に抱きついてしまった。だらんと垂らしていた腕が、手繰り寄せるように健吾の胴にしがみつく。赤ちゃんのような泣き声をあげながら、時々呼吸が荒くなる。うまく息が出来ない。

「大丈夫、燎太郎。ゆっくり息、吐いて。吸うのは勝手に入ってくるから、吐く息だけ長く、意識して」

 最初は戸惑ったように彷徨わせていた健吾の両腕も、燎太郎の背中を強く包み込む。


 シャワーを浴びたばかり、まだシャンプーの残り香――無香料だから何が匂っているか燎太郎にはわからないが。が残る健吾を涙と鼻水で汚してしまう、そう思いながらも、燎太郎にはもう止めることができなかった。






 燎太郎は、まだ完全には涙が止まらなかったが、健吾に新しいスウェットを渡すと、自分もバスルームに向かい、この二日間の汚れを洗い流した。

 これ以上洗濯物を増やすわけにはいかないので、少し時間が早いがパジャマへと着替える。

 赤いタータンチェック。まだ健気に冬空を照らす太陽の下、なんだか、ひとり浮かれて早々にホリデーカラーを取り入れてるひとみたい。恥ずかしくなって燎太郎は、少し、笑った。


 ダイニングでは、健吾がテーブルに腰掛けて剥き出しになったたこ焼きをじっと見ていた。へえ、最近のテイクアウトのたこ焼きは、ソースが小袋に入ってあるんだ。だからあの特有のソースのにおいがしなかったんだ。

 燎太郎がそんなことをボーッと突っ立って考えていると、

「燎太郎はさ……。ぼくにはなんでも相談してなんて言うくせにさ、自分はひとりで抱え込んでるなんて、それはちょっとズルいよ。いや、違うなかなりだ。うん、かなりズルいよ」

〝すっぴん〟の、きつね色のたこ焼きを眺めながら、健吾はそう言った。

 燎太郎の目からまた、音もなく涙が溢れる。

「ほんとうに、ごめん」

 燎太郎は、謝ることしかできなかった。





 すっかり冷めてしまったたこ焼きを、健吾がレンジで温めてくれた。

「あまりやると硬くなるからね。ほかほかじゃなくても勘弁して」

 大きな平皿へひとつにまとめたたこ焼きをレンジから取り出しながら、健吾がフッと笑った。

 ダイニングテーブルにコトリと着陸する音が響くと、健吾が「あち」と呟くので、燎太郎は「大丈夫?」と笑った。


 たこ焼きを円卓に見立てたみたいにふたりで囲む。

 「いただきます」

 燎太郎は、箸でひとつまみ上げると小皿に移し、小袋のソースをかけた。

「ぼく、タコの食感って実は苦手なんだ。でも、生地は好き。だから昔からタコだけお父さんに押し付けて……もとい、食べてもらってた」

 健吾も丸いたこ焼きを箸で掴みながらこう言った。

「え、じゃあおれも食べたげる。タコ、おれの小皿にちょうだいよ」

 小皿を手のひらに乗せ、燎太郎は健吾の方へと運んだ。

「いや、薬と思って食べる。ぼくもALAを摂るに越したことはないからさ」

 そう言い終えると健吾は、小皿を顔の前まで持ち上げフーフーと息をかけた。燎太郎はくすりと笑うと、ひとつ頬張る。ハフハフと熱い空気を逃しながら、たこ焼きの中心をしっかり噛み締めた。ざらりと吸盤が舌を押してくる。

 「うん、ぼくソースなくて大丈夫みたい。お出しがいいね」

 健吾もハフハフ食べると、頷いた。

 涙がひと粒溢れた。顔は笑ってるのに。燎太郎は嫌になっちゃうと、うそぶいた。



 カラになった円卓をいまだに囲みながら、ふたりは話をした。グラスに水を注ぎ、ちびちび飲みながら。


「信じられないかもしれないけどさ、頭痛薬の副作用に『頭痛』があるんだよ。まあ、ちゃんと診てもらわないと副作用だったとは断定できないし、怖がらせるつもりはないんだけど、大きな病気が隠れている可能性も……ゼロじゃない。逆に言うとその最悪の可能性を検査で潰すと、そう考えればいい」

 健吾は実家で功一と話して来てくれたことを、訥々と話している。

 ――頭痛薬の副作用に頭痛。燎太郎には何かのコントの筋書きのように思えてしまうが、しかし何か自分にはよく分からない原理があるのだろうと、そう思った。少しゾッとしてはしまったが。


「お父さんがさ、町内会の友達にいい病院がないか口コミを聞いて回ったみたい。リアル口コミだね、ネットの上じゃなくて。そして、安心して。誰それが頭痛で……とか、ましてや燎太郎の名前を出して訊いたんじゃないから」

 健吾は更に続ける。燎太郎は頷いて答えた。

「もちろん病院には合う合わないがあるからさ、燎太郎にあったいい病院、焦らずに探していこうよ」

 健吾の方も何度も頷きながら、燎太郎の顔を見た。燎太郎も「うん」と首肯する。


「おれさ、正直に言うと焦ってた。健吾は自分でお金を稼いでいるのに、おれは親からもらったお金で家賃払ってさ、置いていかれると思った。健吾が眩しかったし、羨ましかったし、ちょっと劣等感……持ってた」

 これって言い訳かな、燎太郎はこれこそちょっとズルいんじゃないか、そう思って俯いていると、

「それは、ぼくも同じだよ。燎太郎」

 思いもよらない健吾の言葉が返ってくる。

「ぼくだって、大学、行ってみたかったよ。でもさ、人生を共にするって決めた相手ですらさ、ぼくらも含め、ね。人生設計がずれることだってある、それだけだよ。きっと優劣とかじゃないと思う」

 燎太郎はほんとうに面食らって、目を見開いた。健吾は自由に空を羽ばたくカッコいいイベリアカササギ。本当にそう思っていたから。自分の選択に割り切れないものを抱えていたなんて……。


「インターンで良くしてもらって、みんなフレンドリーだし。こんな職場、二度と出会えないかもしれないと思った。逃すもんかってね。だから専門学校で一年だけガチって、飛び込んでみようと思ったんだ。つまりは、ここがぼくの就職するタイミングだった、それだけだったんだと思うよ」

 そう言ってグラスを持ち上げると、健吾は水をグビリと飲み込み、またフッと笑った。


 そんな健吾を、燎太郎はまた涙を落とし眩しく見つめながらも、彼が置かれている状況をいま一度、思い出す。

 頭が痛い話だけど、いまは相手の出方を窺うしかないのか――燎太郎は唇を、噛んだ。



「ちょっと待ってね」

 健吾はそう言い残すと、席を立つ。トストスと足音を立て廊下を歩いたかと思ったら、ゴソゴソと玄関に置いてあったボストンバッグをかき回す音がした。

 燎太郎が体を捻って廊下の方を見ていると、ややあって健吾が紙束を持って戻って来た。

「これ、ブルーライトは頭痛にも響くだろうから、印刷してまとめてきた」

 不安そうな燎太郎の視線に気づくと、健吾は紙束を少し掲げこう言った。


 また、燎太郎の対面に健吾は座り直すと、円卓のようなお皿を傍に寄せ、ダイニングテーブルの上に広げた。

「お父さんが集めた口コミをまとめてあるから、東京の方まで行かなきゃいけないような場所もあるけど……まあ、必要な情報があったら拾って」

 燎太郎は、少し震える手でそれを持ち上げる。

 病院の公式ホームページを印刷したもの、余白に「午前中は混む」などの情報、更には付箋にも「受付にやや難あり、しかしそれは混んでいるので患者を捌くキャパがないのであろう」と、所見が健吾のあの右上がりの字で書いてあった。


 これを書くために、土曜日を丸一日使って、早く渡すために日曜日の昼に帰って来たのか。

 燎太郎は、ほんとうに、ほんとうに、自分が情けなくなってくる。

 涙の止め方を忘れたんじゃないかってくらい、表情に反して涙が流れ落ちる。いま、心から微笑んでるのに、何だよ、ほんとうに嫌になっちゃう――。

「ありがとう、健吾。ほんとうに、功一さんにもちゃんとお礼しなきゃ」

 泣きながら笑ってるっていうのに、もはや健吾はなにも言わない。ただ、真っ直ぐ燎太郎の目を見て頷いた。


「あのね、健吾。改めて伝えたいんだけど、おれは健吾のことが好きです、大好きです。ひとりになんか、絶対になりたくなかったんだよ、本当は」

 こんな時くらい涙を止めようと試みるが、燎太郎の頬はべしゃべしゃに濡れてゆくばかりだ。

「うん、わかってるよ。ぼくも燎太郎のことが好き。ちゃんとって言うのもおかしいかもしれないけど、大好きだよ」

 好きとは言ってもらえていたけど、大好きって初めて言ってもらえたかも……。燎太郎はついに、顔を伏せてしまう、静かにしゃくり上げるとパジャマの裾で涙を拭った。

 健吾が、コタツからティッシュボックスを持って来てくれたので、今度はそれを受け取り、鼻を噛む。


 それから、燎太郎は健吾と一緒にいろんなことを話した。高校時代、休み時間に、放課後に、いっぱい喋ったはずなのに。まだ足りなかったのかな、いや、一日ずつ自分たちの中に月日が積み上がってゆくのだとしたら、情報量は当然増える。

 ここまで話せば安心、なんてことはないのかもしれない。ベッドにふたり横たわりながらも、まだ喋る。くだらないことも、健吾が取得条件の厳しいゲームのプラチナトロフィーを取った話なんかも。

 そして、そのまま――今日だけは、健吾の隣りで眠らせてもらった。





 

     …◇…◆…◇…






 予約外診察だから、待合室で長い時間待ってしまうらしい。月曜日の朝。

 だが、歌手というものは身体を使う職業なので、早めに診てもらった方がいいだろうと、功一はそう言ったらしい。

 燎太郎は、しかしそれは受診をためらってしまわないための方便だろうと思うが、素直に受け取ることにした。


 通いやすさも考えた駅近のビル、その中に入った神経内科の頭痛外来へと足を運ぶ。


 そのクリニックの最寄り駅では、功一が待っていた。花壇と大きなモニュメントが背景の、待ち合わせの目印として絶妙な場所だった。

 心配で来てくれたらしい。燎太郎と健吾を見つけると、あっと口を開き駆け寄ってくれた。

「功一さん、お久しぶりです。すみません、ろくに挨拶もせずに……」

 燎太郎が、軽く頭を下げこう切り出す。

「お久しぶり、でもそういうの後でいいから、さ、寒いし行こうか」

 功一は、いなすように手をブンブン振ると、雑踏の中をさっさと歩き始めた。相変わらずふくふくと朗らかそうだったが、燎太郎が見たことのない洒落たクリーム色のハットを被っている。

 駅ビルやデパートが整然と並ぶその中に、まるで隠れているような煉瓦色のこぢんまりとしたビル。ここに辿り着くためにあまり歩かなかった。ビルをちょっとだけかき分けた、そんな感じ。

 自動ドアを潜ると、長椅子の置かれた待合室では既に沢山の人が待っていた。



 受け付けを済ませると親切なひとが詰めてくれたので、燎太郎はお礼を言うと健吾と並んで座った。功一は少し離れたパイプ椅子に座る。

 問診票を記入し終えると、辺りを見回す。

 白い壁に絵画が飾っていたので燎太郎は座ったままじっとそれを見ていた。

 健吾が隣でスマホゲームをしている。ブロックを動かして消すタイプのパズルゲーム。ぼくはちゃんと時間を潰せるから気にしないで、ということなのだろう。

 その視線に気づいたのか、健吾は燎太郎の顔をちらと見ると、画面をメモ機能に切り替え、

“Take it easy.”

 と、文字を打った。また、燎太郎の顔を見てニヤと健吾は笑う。燎太郎は少し、肩の力を抜いた。そして微笑み返す。

『あまり、ブルーライト見ちゃダメだよ。ぼくのスマホだろうとね』

 続けて健吾が釘を刺したので、燎太郎はこんど、苦笑いをした。

 またじっと、絵画に目をやる。




 こういうのって、意外とお医者さんが自分で描いて飾ってたりして、そう思いながら燎太郎は絵を観察していたら、その中の一枚、キャンバスの隅にピカソのサインが残されていることに気づいた。

 

 ……ピカソの愛犬、ダックスフントのランプかな。茶色い体と、その下に草原を思わせる黄緑のラインだけで構成された本当にシンプルな構図。なのに、やたらと可愛いと思った。あとで、健吾にも教えてあげたいな。急に耳打ちしたらびっくりさせちゃうよね……。

 そんなことを考えていたら、ひとり、またひとりと、診察室へと呼ばれていった。


 だいぶ待ったような、それともあっという間だったか、それでもようやく自分の名前が呼ばれた時、燎太郎は手に汗をぐっしょりかいていた。

「ついて行こうか?」

 スマホをポケットにしまった健吾がこう尋ねるので、

「ううん。大丈夫」

 燎太郎はこう答えた。実際に健吾がいたらまた格好をつけたがって、本当の症状が言えなさそうだと思ったから。この期に及んで情けなくはあるけれど。



 医師は、功一と同じ年頃の落ち着いた先生だった。色々と問診が進む中でこめかみの拍動が四分音符イコール九十六で刻まれる、と話したら変に思われてしまうかと思ったが、「なるほど」と、頷いてちゃんと聞いてくれた。

 穏やかな先生だと思った矢先に「毎日のように市販の頭痛薬を飲んでいる」と燎太郎が答えた時は、サッと顔色を変えさせてしまったが。

 肩も凝っていると話したら注射を打ってもらえた。痛いのは決して好きじゃないけど、こうして処置してもらえることは、ちゃんと自分が頑張って受診した証だとそう思ったら、少し嬉しかった。


 念のために頭部CTを撮るので、一度待合室に戻ってくれと言われた。

 患者さんは、もうぽつぽつしか残っておらず、長椅子には健吾と功一が並んで心配そうな顔を燎太郎に向けた。

 燎太郎がふたりに向かって頷くと、待合室の奥に呼ばれる。

 廊下を歩いて辿り着いたそこは、がらんどうといった感じで、長椅子だけがぽつりと置かれてあった。重い金属製の扉、その横にはCT室と書かれたプレートと、危険を知らせる黄色いマークが貼り付けてある。


 薄暗くひんやりとした空間に、思わず喉を鳴らすと、左隣りに座った健吾が最小限の動きで髪を撫でてくれた。さらに左にいる功一に見られたら恥ずかしいのだろう。

「健吾、もし大きな病気だったらどうしよう」

 指先から、微かな健吾の体温を感じたら、今日一日抑えていたものが溢れ出す。毎度お馴染みの涙さんたちですが。

「大丈夫、念のためって先生は言ったんでしょう。昨日も言ったけど検査は不安を潰すものだと思えばいい」

 健吾が声を落としてこう言ってくれた。

 燎太郎は今日、眼鏡をかけて来なかったので、遮るもののない頬を勢いよく雫が滑り落ちて行く。……もう、クマを隠す必要もないし。


「燎太郎のご両親は……来なくてよかったのかな?」

「あの人たちは来ないよ、典型的な『お金さえ渡しとけばいい』そう思ってる親だから」

 健吾は心配して尋ねてくれたのだろうに、キッパリと言い放つような答え方になってしまった。雫が大きくなる。


「え? なん……そっか」

 健吾はいつもお決まりのフレーズを飲み込んでくれた。燎太郎の髪を撫でながらひとつ頷くと、「そっか」また呟く。

 今の燎太郎にとって、それはひどく安心する言葉だった。



「冷泉さん……は、」

 医療スタッフに呼ばれたので、燎太郎は「はい」と返事をする。健吾が腕をサッと下ろす。

「あら、不安になっちゃったのかな?」

 びしょびしょに濡れた燎太郎の頬に、少しだけギョッとした様子のスタッフは心配して、こう尋ねてくれた。

「はい、不安になっちゃって」

 燎太郎は、正直に答えた。パンツのポケットからハンカチを取り出すと、頬を拭う。


「大丈夫ですよ、検査はすぐに終わりますからね。……ご家族、の方ですか」

 健吾と、功一の方に視線を移したスタッフが、今度はこう尋ねた。健吾が困った様子でオロオロと口を開こうとすると、

「ふたりとも、私の息子です」

 功一が、代わりに答えた。スタッフは頷くと、燎太郎をCT室へと促す。

「まあ、ひとりは義理のっていうかね……」

 燎太郎の耳に、功一のモゴモゴとした早口が微かに届くと、少し笑ってしまった。

 質問の答えとしてはちょっと変だし、今日のこの場合は、違うと答えても追い返されるわけではないだろうが、それでも燎太郎は嬉しかった。

 健吾が、なぜ嘘のつけない性格なのか、その原点を見た気分だった。



 CT検査の結果は異常がなかった。やはり市販薬の飲み過ぎが頭痛を悪化させた可能性が高いらしい。

 健吾と、功一と、燎太郎。三人で食事をして帰ることになった。

「いやあ本当に、年末になって医療機関が休みになる前に、間に合って良かったよ」

 ここでも小洒落たトラットリア――でもそんなに肩肘を張るような格式があるわけでもない、リラックスできる木の家具に囲まれた席で、安堵の息を吐きながら功一がお冷のグラスを傾けた。


 その対面では健吾がマルゲリータピッツァのチーズをみょんと伸ばしている。

「健吾、待合室にピカソの絵があったの気づいた? あの、わんこが描いてあったシンプルな……」

 燎太郎は隣りに座る健吾にやっとこう教えることができた。

「ええ、早く言ってよ」

 健吾は当然、この話に食いつく。絵を描くひとなので。抗議の声を上げると、燎太郎の方へ勢いよく首を振る。

「ごめんごめん、今度機会があればね」

 燎太郎は、バツが悪そうに返した。

「うーん。まあ、今度一緒に行った時にね」

 健吾は少し膨れると、再びピザにかじりついた。モッツァレラチーズがみょんとまた伸びる。その様子に燎太郎がニコニコ微笑んでいると、視界の端に目を細める功一が見えたので、燎太郎はとたんに恥ずかしくなる。

 ふふと照れ笑いを浮かべると、目の前にある黄色と緑が鮮やかなフリッタータを一枚取り皿に取った。


 ローズマリーが一房乗ったチキンが運ばれて来る。カリカリにローストされて見た目にも香ばしさが伝わってくる。

 においが頭痛に響かないか、功一に心配されてしまったけれど、「頑張ったから美味しいもの食べたい」と言ったら、頷いてオーダーしてくれた。……子どもみたい。



 そんな予感はしていたが、食事代は全て功一が持ってくれた。燎太郎はご馳走様でしたを言うと、駅で別れる。

 

 ……お医者さんに、年末の学校を回ることを話したら「少しセーブできますか?」と、訊かれてしまった。


「子どもたちに歌を届けたい」その心が第一だったのは間違いないが、ほんの少しだけ、学校講演の数をこなして稼ぎたい、という気持ちも、あった。

 でも、今はその必要はないと割り切れるので、治療を進めながら回れるところだけ回るように方針転換をしようと、思う。まずは、市販薬をやめることだ。


 健吾は鞄からニット帽を取り出すと、冷たい風に備えるように頭に乗せては引っ張る。

 カラカラに乾いて灰色だ、そんな風に見える駅のホームで電車を待った。


 


 


     …◇…◆…◇…


 



 大学から帰ると燎太郎は学校講演で着用するタキシードのサイズ確認をする。


 クローゼットから引っ張り出してカバーを外すとまずカビていないか見た、まあ大丈夫そう。細々としたパーツも一応ちゃんと着けてみる。

 横隔膜が膨らんでも苦しくないか、胸まわりを確認していたら、

「なにそれカッコいい! 写真撮らせてよ」

 健吾が作業の手を止めて、キラキラした目をこちらに向ける。

 燎太郎はまんざらでもなかったので、

「どうぞ」

 と、少し文字通り斜に構えて返事をしたら、健吾はわっと声を上げんばかりにはしゃいでスマホを掴む。いつもからは信じられない素早さで健吾は、さまざまなアングルからシャッターを切る。


 しゃがんでローアングルから、ベッドに登って俯瞰で。シーリングライトをオレンジに落としたあたりで、燎太郎は薄々「あ、これおれじゃない。画としてカッコいいから撮ってるんだ」と気がついた。

「ここの、肘の皺のとこ……四色で打てるかも」

 カメラロールを確認しながら健吾がこう言うので、その思いは確信に変わった。……なんだ作画資料か。燎太郎は一気に複雑な気分になるが、それで健吾の役に立てるのであれば、それもいいかと笑った。




 治療と講演を往復する毎日はあっという間に過ぎて行く。

 約束通り、健吾は大晦日くらいは仕事をせずに一緒にお出しを取っていた。ダイニングテーブルで煮干しのワタを取って、キッチンペーパーに乗せている。あの猫が走り回る青い半纏を着て。

 お蕎麦の麺だけ、近所のお蕎麦屋さんから買って来た。小上がりとカウンターと通路、そんな感じのシンプルだけど賑やかな店内は年越し蕎麦を堪能する人々の熱気で溢れていた。


 燎太郎と健吾は静かな家の中、コタツでお蕎麦を啜る。窓の外は行き交う人々で賑わっているが、この防音の部屋では麺を啜るちゅるちゅるとした音だけが響いていた。


 食べ終わって、就寝準備まで済ませて一息つくと、

「第九の年越し生配信観よ、友達が行ってるんだよ」

 燎太郎はデスクからタブレットを引っ張ってくる。タブレットカバーを使ってコタツの上に立てた。


 動画配信サイトのアプリをタップすると、同期の梅谷(うめや)(じゅん)が言っていた地名、スペースを開けて「第九」と検索窓に打ち込んだ。すると、それらしい配信がヒットした。


 演奏はもう始まっていた。第四楽章からの抜粋らしく、オーケストラの後ろで合唱隊は座っていた。誰もが耳にしたことのあるだろう有名なフレーズも聴こえて来るが、まだ楽器が奏でている。

 燎太郎は、合唱隊の中に准を見つけるたびに「ほらココ」と指差すが、健吾は、

「うん」

 と、どうにも空返事だ。「あれ、なんだろ」燎太郎は少し焦ってくる。


 やがて合唱が始まると、男声が固まったブロックもアップで映されるようになった。そうすると、いよいよ准の顔がはっきり見えるようになるので、

「この子だよ」

 と、指差す。

「どのくらいぐらいの友達? 可愛い男の子だね」

 健吾が、やっとまともに言葉を発したかと思うとこうだった。


 燎太郎は、健吾が人の容姿に言及するなんて本当に珍しいな、と不思議に思いながらも、

「クラスメイトくらいの友達」

 と、答える。

 「ふーん」

 気のない健吾の返事。

 燎太郎は、頭の上に思い切り疑問符を浮かべながらも、可愛い男の子だね、がどういった意味かをもう一度考える。

 えっと、燎太郎はどう思うかって聞いているわけではないと思うから……あれ、これって、そうするとつまり妬いているのでは。


 ああー……。燎太郎は頭を抱えそうになってしまう。こんなに具体的に相手のいる健吾の嫉妬は、生まれて初めての体験だったので、どうすればいいのか分からない。

 誤解させちゃった? いや、健吾も本気で疑っているわけじゃあないだろうから、安心、安心させなきゃ……そうだ。


「こないだこの子、准くんさ、恋人のよっちゃんと釣りに行ったって言ってて」

 燎太郎は、准から聞いたエピソードトークを必死に思い出す。

「そうなんだ」あいも変わらずそっけない健吾の返事。

「でもさ、ふたりとも虫が苦手なのに。釣り餌が虫だったんだって。お互いに『うわー』とか言いたい気持ちを必死に我慢してたら、よっちゃんが意を決して、枝を手に取ったんだって」

 燎太郎は、少し話を盛り始める。いや、エピソードではなく演出面なので……ごめん准くん、芳野(よしの)さん。燎太郎は心の中に泣き笑いのような顔を浮かべて手を合わせる。

「え、枝? それってブドウ虫かな? じゃあニジマス釣りなのかな」

 健吾が食いついてくれた。燎太郎はいまだとばかりに話を続ける。

「そうそう、こうやって枝を折ったって言ってた」

 燎太郎は、シャープペンシルくらいの大きさの枝を想像して、それを折る仕草をした。

「あ、やっぱりニジマスじゃない?」

 にわかに輝き始める健吾の顔。

「もう、惚れ直したって言ってたよ准くん。だから頑張って准くんも釣り餌を付けたんだって」

 燎太郎は、ブンブンと首を縦に振る。

「でもさ、全然釣れなくてさ、結局スタッフさんに網で掬ってもらったんだって。焼き場でニジマスを食べながらさ『餌、つけるところが最大のイベントだったんじゃない』って、ふたりで笑ったんだって」

 ニジマスと、准から聞いていたわけではなかったが、燎太郎は健吾に釣られてニジマスと言ってしまった。

「仲良さそうだねー、ふたり」

 健吾はついに笑った。

 よかった……。燎太郎は安心して泣きそうになるが、堪えて一緒に笑った。

 画面の向こうで准が一生懸命歌っている。


 


「ぼくも、お父さんとお母さんと一緒に、ニジマス釣りによく行ってたんだよ。燎太郎とも一緒に行きたいな」

 少しとろんとした目で健吾がこう言った。例年ならこの時間はもう寝ていると言っていた。

「そうだね、どうやって行こうか。准くんとよっちゃんは免許持ってるからね。交代で運転したって言ってたけど」

 燎太郎が答えると、健吾はとうとう船を漕ぎ始める。コタツに頭がぶつかりそうだ。

「健吾、ベッドまで運ぼうか?」

「大丈夫、自分で行けるよ。子ども扱いしないでったら」

 言いながらも、ふらふらと健吾は立ち上がる。燎太郎は健吾のすぐ側に立ち、何かあってもすぐ動けるようにした。

 しかし、それは杞憂で、健吾は無事にベッドに滑り込む。あくびをひとつ、大きな口を開けると、

「燎太郎は、最後まで第九、観てていいからね」

 健吾は今にも眠ってしまいそうなふわふわな声を出す。

「うん、お言葉に甘えて」

 燎太郎はそう答えるとベッドの横に膝をつき、健吾の頬に手をやると、おやすみ前の習慣をした。

 それから「おやすみ」って言って、それで終わりのはずなのに、今日は健吾が絡みついてなかなか離れなかった。

 

 ――あれ? なんか……長くない?

 燎太郎が不安になると、健吾はやっと口を離し、

「今年最後かもしれないからね、おやすみ」

 と、くすくす笑った。……あ、これ俗に言う深夜テンションだ。健吾にとっては深夜だよね。いや、現代社会では麻痺しているだけで、午前〇時付近はもう充分に深夜だ。そんなことをぐるぐる考えながらも、

「おやすみ」

 燎太郎は紳士な顔をして答えた。だってそうしないと……。


 カチコチとコタツに戻り燎太郎は腰掛け、再び第九の配信を眺めながら、

 ――酷いよ健吾。なんで火をつけて寝ちゃうの。

 頭を抱えて悶々としていた。祝祭はいよいよ盛り上がりを見せるというのに。

 こんな煩悩を抱えて第九を聞いているなんて、燎太郎の頭の中で教授たちの呆れた顔が浮かんでは、去って行く。

 燎太郎は、除夜の鐘が聞こえるかな、と耳を澄ます。実家ではどこかしらからゴーンとあの厳かな音が聴こえて来たから。

 しかし、燎太郎は忘れていた。この部屋が防音室だということを。



 そんなこんなで、第九はフィナーレを迎えた。祝福の気配が画面の向こうから、窓の外から溢れ出すみたいだ。

 燎太郎は、心の中でもいいので健吾におめでとうを言おうとベッドに目をやると、健吾のお腹が目に飛び込んで来た。

「ああ、もう。また布団剥がして寝ちゃってる。え、ていうか肌着、着てないの」

 燎太郎が確認しようと、近づいて見ると肌着ごとめくれていたことが確認出来た。

 そーっと、燎太郎は健吾のスウェットを下そうと手を伸ばすと、うーんと唸りながら健吾が寝返りを打つので、燎太郎はホーミングして健吾のお腹を隠した。掛け布団も掛け直す。

「健吾に腹巻とか、勧めた方がいいのかな」燎太郎はそう考えながら、コタツを隅に追いやり自分の寝床を整えた。


 さっきまで、眠れるかなとあんなに不安だったのに、布団の中で健吾の腹巻について考えていたらいつの間にか、燎太郎も眠りについていた。



 そうやって、ふたりの一年は幕を閉じていった。

※演出の都合上、作中ではマスクを着用していないような描写になっております。

実際に医療機関を受診される際は、マスクの着用をお願いいたします。

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