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五章 タスクキル

⚠️※Trigger Warning※⚠️


頭痛・頭痛薬への依存


この章では、頭痛による強い精神的な混乱や切迫した心理状態を描写しています。

心身にご負担のないよう、ご無理のない範囲での閲覧をお願いいたします。

「小フーガ ト短調?」

「ブブーッ、スーパーでよくかかってる呼び込みのあの曲でしたー」

「え、ズル。そんなの分かんないよー」


「だって仕方なくない? おれだって、朝から軽快な電子音の時だってあるよ」

 燎太郎(りょうたろう)は、エキナセアの湯気に眼鏡を曇らせながら笑った。


 我ながらよく続いているな、と思う「今朝の音楽」ゲーム。

 ルールは至極、単純明快。お互いの頭の中で掛かっている音楽を当て合う。高校生の時に燎太郎が考えた。


 こんなにシンプルなルールなのに、未だに正解を出たしたことがない。

 お互いに絶えず音楽が頭の中で切り替わる。かと思えば、延々と同じ曲がループする。チャンスは一日一回。色んな要素があるだろうが、難易度は高かった。


 ダイニングテーブルから投げかけた視線の先には、コタツに座ってノートパソコンと液晶タブレットを立ち上げる健吾(けんご)

 ――ああ、もう会話ができなくなっちゃう。ドットが飛んじゃうもんね。

 燎太郎は、淹れたばかりの薬湯が入ったマグカップを包みこむ。冗談かと思うくらい熱かった。火傷するかと思った。何を血迷ってそんなことを……。と、燎太郎は自問しそうになるが、理由は分かっていた。


 窓の外に目をやると、冬の空はレースカーテン越しにもグレーだ。

 その上、空気はピリピリと肌を切るように張り詰めている。大学、行きたくないな。いや、学びたくない訳じゃない。

 手ぶらならいくらでも学んでやるさ。しかし、今の燎太郎は荷物を抱え過ぎていた。

 ベッドの横に用意した、聖ハニエル記念音楽大学のロゴが入ったトートバッグがまるまると肥えている。





「健吾はねえ、アレでしょう。『セイレーンの嘆き』でしょ」

 パソコンの中の青いぐるぐる――ずっとぐるぐるしてていいのに――を見ながら、今度は燎太郎が攻める。

「あ、惜しいね。シーンとしてはその次、『美しき記憶』だ。サントラでも順番は次だぞ」

 健吾は液タブをじっと見ながら笑ったが、その笑い声は弱々しかった。


 本当に惜しかった。昨日ちょうどその出典元であるゲームの話をしていたから、当てられると思ったのに。

 燎太郎は、君枝(きみえ)に持たされたエキナセア――喉に良いらしいハーブティーを、今度こそ慎重に持ち上げる。


「あ!」

 健吾が液タブから目を離すと、小さく叫ぶ。

 彼は振り向き照れくさそうに笑うと「これこれ」と呟き、コタツの傍にどけておいたフェルト素材を掴む。

 三面鏡のようにコタツに広がるグレーのパーティション。

「忘れるとこだった、危ない」

 ご機嫌そうに健吾は呟くと、『セイレーンの嘆き』を鼻歌で鳴らす。こういう時、明日の朝は余裕でじゃあこの曲じゃん、と燎太郎は何度か試みてみたが、何故か当たったことはなかった。


 燎太郎は、静かにため息を吐き出す。

 ピンクの花を咲かせるそのハーブティーの湯気がゆらりと揺れた。



 健吾のパソコンが起ち上がりそうな気配を見せたので、燎太郎は健吾の側まで移動し膝を折ると、

「じゃあ、行ってくるから」

 挨拶がてら健吾の顔色を見る。健吾は「あ、行ってらっしゃい」と、こちらに顔を向けると、おもむろに眼鏡を外す。

 燎太郎が、なんだろう顔色を見やすくしてくれたのかな、と考えていると、健吾との距離が一気に縮まる。

 健吾の手が燎太郎の頬に触れ、朝の淡い光が遮られたかと思ったら、燎太郎の口は最も柔らかい感触をくらった。

「気をつけてね」

 健吾が、また照れくさそうに笑うと、スタイラスペンを本格的に握った。ああ、いよいよ終わりだ。

 ――でも、そんなつもりじゃなかったのに。

 そう考えながらも、燎太郎は健吾から触れてくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。


「ありがとう。じゃ、本当に行ってくる」

 じゃあ嘘の「行ってくる」ってなんだよ。燎太郎は自分にツッコミを入れながらも、まだそこそこ熱いハーブティーを無理に流し込むと、洗って水切りラックへ逆さにして置いた。


 まあ、健吾の好意だから素直に受け取ろう。

 燎太郎は、高まる胸を罪悪感で抑えつける癖を少しだけ手放しながら、あの確実に重いトートバッグに歩み寄ると、持ち上げる。……本当に重いな。


 再び眼鏡をかけて、ペンを一心不乱に操る健吾の横を静かに通り過ぎ、燎太郎は寒空の下に放り投げられる。

 鍵をかけるのを忘れないように、しないとだ。

 

 



 燎太郎は、この時期になるとトレンチコートの上からさらにマフラーで武装する。盆地にあたるこの地域は、夏が暑いことでは有名だが、冬の攻撃力もなかなかだった。

 赤みがかかったグレーと黒、バイカラーの千鳥格子のウールで燎太郎は防御力を上げる。


 満員電車では、暖房と人々の熱気が混ざり合う。不快指数百パーセント。

 燎太郎は吊り革に掴まって曇った窓を見つめる。眼鏡も曇ってきた。左右からも、後ろからも押されがら、網棚に上げたトートバッグに視線を移すと、改めて健吾がフルリモート勤務に切り替えられて良かったと思った。空いている電車を探していたと、健吾は言っていたが、この一極集中の都心部では――我々が生まれた街では、空いていると言っても高が知れている。



 佐伯(さえき)美雨(みう)は厳重注意を受けたようだ。渡邊(わたなべ)チーフから直々に。

 健吾が「大事にしないで欲しい」と言った意向を汲んでくれたらしい。燎太郎はチーフには会ったことがないけれど、それでも頭が上がらない。だけど……。


「社内で『良識の範囲で社用チャットの使用を心がけてください。各班のチーフは現在の社内チャットにおける使用状況を報告してください』って注意喚起のメールが回っちゃった……やっぱり、ぼくが前例を作ってしまった」

 パーティションを買って帰った翌日、健吾がリモート会議を終えると、身を小さく小さく縮めてこう言った。燎太郎は、この日どうしても大学をサボってしまった。健吾の会議中、隣で譜読みをしながらも、燎太郎は内容が全然頭に入ってこなかった。


 燎太郎はデスクからコタツへ、健吾の側に移動して彼の背中を必死に撫でながら、

「そもそも健吾のせいじゃないし、この前例は悪いものじゃないと思う。言えないだけで、嫌がらせに近いことされてたの、健吾だけとは言い切れないでしょ」

 と、言ったが、これも掛け値なしの本心だった。


 美雨は、同じようなことを繰り返すようならば、インターンシップを早めに切り上げることになっているらしい。

 燎太郎は正直に言うと、一発アウトで、よかったんじゃ……ないか、そう思った。



 埼京線が渋谷駅へと侵入してゆく。

 燎太郎は網棚から荷物を回収してホームに降り立つと、ヨレてしまったマフラーを整えて再武装し、切り裂くような乾燥した空気の中を歩いて行く。ポケットからエキナセアハーブのど飴――これまた君枝に持たされた――を取り出すと、口の中に放り込む。




 十二月の音大は様々な音で溢れている。

 年末になると、コンサートやイベントその他、音楽が必要になる場面が増えるからだ。


 その中でも第九――ベートーヴェン作曲による交響曲第九番。そのフレーズがよく聞こえてくる。

 座学ではよく「この曲を歌う意味、たとえどんなに綺麗事となじられようとも、それは人類が絶対に忘れてはならないものだ」と、そう聞いていた。それこそ様々な講義で。

「さもなくば、音楽というものは血で汚れてゆくばかりだろう」

と。

 燎太郎は、それは嫌だと思う。カルメンがカスタネットを鳴らしながら歌い踊る姿を、目を輝かせながら観ていた幼い自分を裏切ることになるから――


 大学中の学部が全部集まっているのではないかというくらいに第九のフレーズで溢れているが、それぞれが思い思いのフレーズを弾いているので、同じ曲でありながらコラージュのようだと燎太郎は思う。チェロのピチカート。合唱の始まり、語り部のようなバス独唱を相棒のように支えるコントラバス、喜びに跳ね上がるようなティンパニ。

 同じ曲なのにズレている。完成前の「工場見学」を特等席で……燎太郎はそれはそれで音大生の贅沢だ、とそう思った。


 タイルで舗装されたキャンパスの道の上では、楽器のケースを背負った学生が肩を丸めて白い息を吐く。空を突き刺すランスのようなチャペル。煉瓦造りの脇を抜け、構内を歩きながら、それぞれの第九とすれ違う。




 スマホからできる歌唱レッスンの予約は全部埋まっていた。しかし万が一、キャンセルかなんかでレッスン室の空きが出ていないかな、という期待で燎太郎は、レッスン棟まで足をのばしてみたが、同じような思惑を抱えた学生で溢れかえっていた。

 重い防音扉をいくつも抱えた廊下は、声楽専攻科の面々を乗せたベルトコンベアみたいだ。――カーペットの敷き詰められたベルトコンベア。

 レッスン室から漏れた音に隠れるように、柱の影でちょっとした井戸端会議も発生している。

 アーチ状の天井を見上げながら、燎太郎は引き返して講義室へ向かおうかと踵を引くと、

「あ、燎太郎くんおはよー。やった、バリトン確保ー! こっちこっち」

 同期の梅谷(うめや)(じゅん)が柱の影からひょっこりと顔を出し、燎太郎に声を掛けると手招きした。舞台袖のファランクス、あの中の一人だった。


「おはよう准くん、どうかした?」

 燎太郎が挨拶を返し、音を立てないように小走りで准の側まで駆け寄ると、

「ここ、第九の〝ダラダッタ〟のとこ、和音確認したいからちょっとバスの音貸してくれない?」

 准はスコアを指さした後、畳んでもう片方の手で燎太郎の腕に手を添えると、人混みを避けて廊下の隅へと誘導する。ソプラノとアルトの学生と合流した。


 テノールの彼はいつもボソボソ喋る。なのに人懐っこいもので、健吾に誤解をさせてしまうのでは、と最近では少し警戒していたが、准はいつも恋人である「よっちゃん」の話を嬉しそうに喋るので、まあ大丈夫か、と思う。

 ちなみに燎太郎はよっちゃんのこともよく知っている。彼女も例のファランクスの一員だから。

 

 

「あ、ちな。レッスン室いま、空いてないからね」

 准は小さく笑った。「見れば分かるよ」のギャグだと思うので、燎太郎は愛想笑いを浮かべた。同じように乾いた笑いを浮かべるソプラノとアルトの学生に軽く会釈をしたら、燎太郎は「ちょっと待ってね」と、トートバッグを漁ってスコアを取り出す。

「わ、燎太郎くん。荷物ヤバくない? 何が入ってんの?」

 心配そうな准の声が飛んでくるが、燎太郎自身もよく分からなかったので曖昧に笑って答えた。空笑いだ。


 燎太郎がスコアをめくると、

「じゃ、ここからね。ダラダッタ」

 と、准が自分の楽譜を指差し該当箇所を示す――その楽譜には鉛筆の書き込みが几帳面に並んでいた。ラストに向かって駆け上がってゆく、祝祭のような賑やかなフレーズだ。

 ソプラノ、アルト、テノール、そして燎太郎のバスが、頭の一音を取るためにハミングで和音を奏でる。そして、そのままハミングで何小節か、繰り返し確認する。

 しばらく准のちょっとした指揮で合わせていると、彼は納得したのか何度か頷き、

「おっけ。時間くれてありがとう、みんな。助かったよ」

 親指と人差し指を結び、丸を作るとこう言った。

「こっちこそ」

「助かったよ、ありがとね」

 女声の二人は、今度は心からの笑顔を浮かべ、准に手を振ると去って行った。みんな、この時期はやっぱり第九なんだな、燎太郎はそう思った。

「燎太郎くんも、ありがとう」

 准は燎太郎に向き直ると、改めて謝意を述べる。

「んーん、おれも第九あるし、確認できてよかった」

「へえ、どこの?」

 燎太郎が答えると、准は興味深そうな顔をしてこう尋ねたので、

「地元の学校を回る予定、学校ならできるだけ呼ばれたら行きたいなって思ってる。子ども達いるからね」

 燎太郎は笑い、更にこう答えた。

「へえ、いいじゃん」

 おっとりとした笑顔を浮かべ、准はスコアをバッグに仕舞う。品のいい深いグレーのチェスターコートに斜めがけしてある合皮のバッグ。そんな彼だが、黒いマッシュヘアの左側をぺろりと捲ると、剃り込みラインというパンクが隠れている。前に見せてもらったが、「ワックス使ったらツーブロック風にも出来るんだよ」と、んふふと笑っていた。

 おっとりとしているようで芯が強い、燎太郎は准と話す時間は嫌いではなかった。


 そう思いながら講義室の方へ歩き出すと、当たり前のように准もついてくる。燎太郎は苦笑いを浮かべながら。

 ――まあ、嫌いではないって言ったからね。

 と、准との「歩きながらトーク」を楽しむことにした。



「ねえねえ、燎太郎くんって帰省ってか、年末実家に帰る予定?」

 白い息を吐きながら、准が尋ねた。キャンパスは相変わらず第九のコラージュで溢れている。

「いや、初めて一緒に年越しするからさ彼と。帰るもんか」

 以前、准に乗せられて健吾と一緒に暮らしていることを白状してしまったので、半ばやけっぱちで燎太郎は答えた。准は人と話すことが好きなようだ、ついつい乗せられて気がついたらペラペラと喋ってしまう。特にこう……恋バナとか。

 それでいて、話し終わったら妙にスッキリするので、人のガスを抜くのがうまいのだろうと思う。――恋バナに対する報酬なのだろうか。妖怪・恋バナ喰い。そう思うと燎太郎はちょっと可笑しかった。


「えー! いいなあ。はあ、やっぱ同棲いいよね。年越して、おめでとーって、そのまま一緒に眠れるんでしょう、エモ」

 燎太郎は同棲という言葉に少しこそばゆくなってしまう。そっか、おれたちはハタから見たら同棲カップルなんだ、そっか。燎太郎は今、自分の顔を見るのが怖かった。また河童になってる気がする。


「あのさ、同棲する上で気をつけた方がいいことってあるかな?」

 准はうーんと唸りながら燎太郎にこう尋ねた。よっちゃんと同棲を検討しているのだろうか。

「うん。やっぱり、大家さんにはちゃんと『ルームシェアしてます』って挨拶・報告することだね。でないと、印象が悪くなっちゃうと思うよ」

 アパートのエントランスで落ち葉をかき集める大家さんに、今朝も改めて挨拶したっけ。「一部屋しかなくてごめんね」と謝らせてしまったので、逆に恐縮してしまったが。

「えー……まさかの実務。まあ、実務こそ大事だよね。同棲は恋愛じゃなくて生活だからさ」

 准はだんだん、納得したように頷く首が深くなってくる。

 燎太郎は、恋バナの上にアドバイスまで重ねたので、報酬、もらっていいよね……そう、思いながらこう切り出す。

「あのさ、パートナーがさ、先に就職して稼いでて……置いて行かれた感とか、その、劣等感とか、どうしたらいいと思う?」

「んー、ゆうて、ぼくも学生だからなんだけどさ、『私はまだ学生に過ぎない、さりとて学びを得ている。しばし待たれよ』ってさ、割り切るしかなくない?」

 准は眉間に皺寄せ、考え込んでいた。

「人生これからだから、って開き直って行こうよ」

 一転して人懐っこい笑顔を浮かべ、准は燎太郎を横から見上げた。


「そうだね、そうだよね」

 燎太郎もつられて笑う。カサカサとタイルの上を乾いたイチョウの葉っぱが這ってゆく。

「じゃ、ぼくドイツ語なんで」

 イチョウ並木からひょっこり語学棟が顔を出したので、それを指差しながら准が歩調を強めそうになる。燎太郎は、ふとあることを思い出し、

「あ、待って准くん」

 と、准を呼び止める。全くの予想外だったらしく、その友人はぽかんと燎太郎の顔を見た。

「こないだのど飴もらったから、お返し。ちょっと待ってね、実家で仕入れてきた」

 准といるとこちらまで軽口っぽい喋り方になってしまう。健吾とはまた全然違うこそばゆさを感じながら、燎太郎はバッグを再び漁ると、外装袋のままのエキナセアのど飴を引っ張り出す。

 ――あはは、こんなの入れてるから重くなるんじゃん。

 燎太郎は苦笑いを噛み殺すと、結んでいた口をほどいてそれに手を突っ込み、わしっと数個掴む。そのまま空中に突き出すと、准が両手を出して開くので、その上に飴の小袋をそっと置いた。

「わっ、エキナセア! レアなやつじゃん。こんなにもらっていいの?」

 准は、目を見開きはしゃいだ声を上げる。

「うん、あの生薬との等価交換だから、気にしないで」

「ゆうて、あっちはその辺で買えるからね。ま、アレもいいのど飴だけどさ」

 燎太郎が戯け返すと、准は面白そうにくすくす笑った。


「じゃ、またね燎太郎くん。レアハーブありがとう」

 准は今度こそ歩調を軽やかにすると、燎太郎に手を上げ語学棟の方へ向かって行った。

「こっちこそ、色々ありがとう」

 燎太郎も手を振り返し、講義室へと向かう。

 准が飴を受け取ってくれたから、少しは軽くなったものの、トートバッグはずしりといまだに重い。肩が痛いな。

 建物の影に入ると木枯らしは少し和らぐが、今度はかろうじて暖かかった陽の光さえも遮ってしまった。

 うまくいかないな、と思いながら燎太郎は、帰ってから荷物を整理しなくてはと、そう思った。




 講義やゼミの合間に、レッスン室が空いていないか燎太郎はスマホで確認するが、予約フォームの部屋割りには『予約済』の文字ばかりが並んでいる。

 今日は諦めて帰ろうと思った。肩の痛みも上の方に登って来ているし……。


 最近では、薬が効かない日が多くなったように思う。いや、むしろ飲んだら余計に酷くなるような、そんな気もする。

 構内のベンチに腰掛け、重いバッグもそこに預けた。マイボトルのお湯を啜りながら、燎太郎はエポレットの下に手を潜り込ませて肩を揉む。結局は血流なんだよな……。燎太郎は、凝り固まった血管を柔らかくするイメージで硬くなった僧帽筋を掴んでは緩める。それも素人の生兵法だっていうのも充分に分かっているのだけれど。

 燎太郎は荷物を再び持ち上げると、渋谷駅まで歩いて行くことにした。


 黄色いイチョウ並木の上に、ピンク色のシルクが覆い被さる。そこに猫の爪が突き刺さってしまったかのように丸く漏れ光る西の空。

 普段だったら、泣きたくなるような景色だが、燎太郎にはそれを鑑賞する余裕が無かった。


 痛い。脈打つたびに、撒菱(まきびし)が血液と一緒に運ばれているのではないかと思う。

 気持ち悪い。ほんとうに最近、全然薬が効かないような気がする。どんな顔して帰る?


 満員電車に揺られながら、このままずっと目的地に辿り着かなければいいと呪いたい気持ちと、早く帰って健吾の顔を見たいとはやる心が同居している。そんなシュレディンガー、あるかよ。


 燎太郎は、最寄りのターミナル駅に降り立つと、運よく空いていたホームのベンチに座ってお湯をちびちび飲む。最近では自動販売機で白湯も売っているらしい。

 そこを覗くと、なるほど本当に売っていたので、ありがたく思いながらICカードをかざす。



 さっき買ったお湯も飲み干したので、とぼとぼ家路に着く。冷蔵庫に昨日のご飯の残り、たしかレタスもあったので買い物しなくていいか、と燎太郎は考えていた。

 冷凍のエビを使ってレタス炒飯にしよう。塩と片栗粉でよく揉み臭みを取ったら、健吾も大丈夫だと言っていたので。

 楽しいこと、考えよう。紹興酒のアルコールが抜けたら香りだけが残るから、それをエビとご飯ひと粒ひと粒に纏わせる。すると、湯気まで香ばしくなる。レタスは予熱だけで充分火が通るから、最後に火を消してから加える。シャキシャキだ。よし、大丈夫!


「ただいま」

 また、なんでもないような声で革靴を脱いだ。



 燎太郎は、シャワーを肩に当てる。ここでも生兵法だ。温めたら血行が良くなると、どこかで聞いたから。

 何を姑息な真似をやっているんだとため息をつきながら、脱衣所に用意してあった部屋着のトレーナーとチノパンに着替える。

 そろりと、部屋に入るとコタツに向かって背中を丸めた健吾が目に入った。寝息を立てている。黒猫のモノグラムがプリントされた青い半纏を着て、液晶タブレットを煌々と光らせたまま。

 


 ――この間は。

 コタツで寝たら風邪引くって早く起こすべきなのに。すぐに声を掛けなかった。薬を飲むために。

 譜読みをしていたら、どうしようもなく撒菱が暴れだしたから。

 一緒に住む前は、隙を見て飲めばいい、そう思っていた、なのに。隙なんてない――。

 プラスチックを押すパキリとした音、アルミの擦れる摩擦。いつもフルボリュームで鳴り響くから、いつ健吾の耳に届くかと、気が気ではなかった。



 こんな逡巡すら、止めるべきだろ。

 燎太郎は、健吾の側に膝を折るとシーリングライトを遮るように位置取る。そして指先から沈み込ませるようにそっと背中に触れ、

「健吾、コタツで寝たら風邪引くよ」

 健吾の耳から出来るだけ離れて、声を掛ける。


「あっ! 燎太郎、お帰り。あれ、ぼく寝てた?」

 少しびっくりさせてしまったが、健吾は無事に起きてくれた。あたふたと眼鏡を掛け直している。

「ただいま」

 燎太郎は改めて声を掛けながら、ふと視界の端に白くて小さな紙袋を捉えた。油が染み出す見慣れたその袋。

「あ、ゴミ捨て忘れてた。恥ずかし。小腹が空いたからさっき買ってきて食べてたんだ。さっきって言ってもいま何時だろ、わ、こんな時間だ」

 その視線に気がついたのか、健吾がノートパソコンで時間を確認しながら気恥ずかしそうに捲し立てる。

「そのチキン、おれもよく食べてたよ。高校の頃」

 部屋にこもった油の残り香は、白湯で満たした胃に少しだけ刺さるが、それ以上に燎太郎は、本当に懐かしくて笑った。




 健吾はマスクをして、レタスをちぎってくれた。火を通す前のエビの匂いに警戒して。

 寝てしまった分、食事が終わったらまた仕事に戻るらしいが、晩ご飯はなるべく一緒に食べたいようなので、その好意も素直に受け取るようにしている。

 フライパンの熱が肌に伝わってボーっとする。危ないな、火を使っているのに。


 健吾が一緒にご飯を食べてくれているというのに、考えることといえば、

 ――もう、四時間経ったよね。

 そんな、ことばかりだ。もうダメだと思った。

「健吾、せっかくだからさ、おれん家のルール言っていい?」

 最後の一口まで炒飯を掬い終わった健吾は、なんだろうとスプーンを置いてこちらを見る。思わず、目を逸らしそうになってしまうが、健吾をまっすぐ見据えて燎太郎はこう言う。額に汗を滲ませながら。

「コロナ禍の時から続けてる習慣でさ、家に帰ったらすぐシャワーを浴びるんだ。健吾、さっきチキン買いに行たって言ってたよね、そういう時ってさ……」

「あ」

 健吾は得心がいったという様子で呟くと、目を見開く。

「そっか、コロナ。COVID -19はまだ終息してないもんね。それだけじゃなく、他の感染症予防も。慎重になるに越したことはない。あ、そっか。だから燎太郎はいつも帰ってすぐシャワーに行ってたんだ」

 はーっと感心したように息を吐くと、健吾はこう続けた。

「……そのルールって、今からでも間に合う?」

 少し、身をすくめて気まずそうに健吾が尋ねる。

「もちろん」

 燎太郎は微笑み、何度も頷く。少し……ホッとしてしまった。いや、嘘だ。かなり。

「じゃあ、行ってくるよ。お皿あとで洗うから置いといてね」

 健吾はダイニングテーブルから立ち上がり、急ぎ足でクローゼットを開け着替えを用意する。

「いいよ、今日は洗っとくから」

 座ったままの燎太郎の横を、「すまないねー」という健吾の声が通り過ぎて行く。 


 心なしか慌ただしいシャワーの水音が上がるのを確認したら、燎太郎はすっと立ち上がる。

 本棚へ向かい、救急箱を開けた。胃薬を飲むためにこの箱をよく開ける健吾は、薬が減ったことに気がつくだろう。

 こんなの本当に姑息な手段だ。

 そう思ったら燎太郎はいよいよ泣けてくる。我慢しろ。健吾が戻った時にさめざめと泣いていたらその方がよっぽど心配させる。


 ダメだ、もうダメだ。

 あの重苦しい箱からどうやって離れたか、覚えていない。でも、炒飯を乗せたお皿が二枚、水切りラックの中に並んでいる。

 ああ、洗い物はしたんだ。


「燎太郎、どうかした?」

 コタツに座ってぼーっとパーティションの影に隠れていた燎太郎に、いつの間にか健吾が声を掛けていた。ほかほか、湯気を纏っている。ほかほか。

 じわりと脇に汗をかく。そういえば、健吾はストレス汗を嗅ぎ分けると言っていた。それを思い出すと、余計に汗が噴き出す。眼鏡も曇ってきた。


「あのさ、明日って金曜日だよね」

 やめろ、何を言う気だ。

「あのコワーキングスペースって、もう行かないの?」

 やめろ、やめて。

 頭では叫ぶのに、カラカラに乾いた喉が勝手に開いた。

 ヒュッと小さく息が漏れる。

 

「おれもたまにはさ……ひとりになりたいっていうか」

 ――おれ、今なにを口走った?



「……分かった。週末、実家に一回帰るね」

 思い出させないまま、健吾はこう言った。

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