四章 波形をぶつける
「みんな、あの時は心配かけて本当にごめん。あそこにいるのが例の友達……今は彼氏だけど」
燎太郎のヒソヒソ声に応えて、音もなく「わっ」と歓声が上がった。ここは舞台袖で、今は上演中なので。
自分の出番は終わったけれど、今、舞台でスポットライトを浴びているのは夜の女王。みんな、彼女に釘付けだ。
紫と黒を基調に、ビジューが全身に散りばめられた煌びやかな衣装を纏い、あの有名な激しい怒りのコロラトゥーラを刻む。
いつもよりおめかしをした健吾は、登紀子と功一に挟まれてあんぐりと口を開けていた。
「ああ、健吾。口開いちゃってるよ……。劇場はただでさえ乾燥してるのに、喉が乾いちゃう……いや、たしかに梁さんの夜の女王はすごいんだけども」
燎太郎がカーテン越しにオロオロと心配していると、後ろから「良かったね」という安堵の声や「どこどこ?」という少しはしゃいだ声と共にバシバシ背中を叩かれる。寸止めで。
衣装だから遠慮しているのだろう。
「えとね、あそこ。Iの2、分かる?」
あの日、燎太郎の背中をさすって、そして押してくれた仲間たちが、燎太郎の指差した方を見るため、ファランクス陣形のように固まってしまった。
息を殺した、「良かったね、本当に」という声がまた燎太郎を包む。ボルテージが上がりきってしまわないように、薄暗い舞台袖のファランクスは解散した。
健吾は、ご両親とどこで待ち合わせて来たのだろうか、楽屋に戻りながらそう考えると、燎太郎はキュッと胸が締め付けられる。
今日、功一は劇場内の人混みから健吾を守る「壁」になっているのだろう。
自分のそれと功一さんのそれが一緒だと言うのは烏滸がましいが、と燎太郎は前置きした上で、その役割をきちんと受け継いでいかなければならない、改めてそう思った。
打ち上げやら何やらあるから、先に寝てていいと言ったが燎太郎は心配になる。
ちゃんと、食べてひとりで寝れるかな……。いや、子どもじゃないんだからそれも失礼か。燎太郎はそう思いながらも、せっかくだからご両親と美味しいもの食べて帰りなよ、という文面を考えていた。
…◇…◆…◇…
オリーブグリーンのベッドはいつしか空色のベッドになっていた。
無意識のうちに、燎太郎がまた健吾を抱き寄せる可能性があるならば、健吾がゆっくり休めないので、ベッドを譲った燎太郎はコタツをどかして、ベッドの横に布団を敷いて寝ていた。
健吾は最初のうちは固辞したが、健吾の気力が切れた時に一日中ベッドの上で動けない日がある以上、燎太郎が布団を使った方が素早く畳めるし、生活動線を邪魔しない、と告げたら納得してもらえたが。
舞台の本番前に転がり込んでしまったことを、健吾はしきりに気にしていたが、稽古で燎太郎が遅くなった時に彼が部屋にいてくれると、正直にいうとホッとしてしまっていた……。
とは言えだ。
――健吾の安全基地を作ってあげないとなあ……。
燎太郎は布団の中、オレンジの明かりを灯すシーリングライトをボーッと見つめながら考える。少し上からすうすうと健吾の寝息が聞こえてくる。
しかし、自分の懐事情を考えれば、実家でもらっていた額のおかしなお小遣い――半分も、いや十分の一すら使っていなかった――の貯金と、舞台に立った時のギャランティーくらいしか財産がなかった。
切り崩すものはいつか底が尽きるし、ギャラもお世辞にも今すぐ今より広い部屋に引っ越せるほどのものとは言えなかった。
健吾の寝息を再び確認したら、燎太郎は堪え切れずにため息を吐き出してしまう。
そんな事を考えていた土曜日の朝、まだ目を三の字に腫らした寝起きの健吾がこう切り出した。
「家賃とか、半分払うよ」
燎太郎は、トーストの屑が残った白い平皿に目線を落とす。ピーナッツバターの甘い香りがまだダイニングテーブルに残っていた。
ついに来たか――燎太郎はこの話に備えた頭の中のメモ帳を捲る。
「うん、ありがとう。でもね、半分はもらいすぎなんだよ。だってさ、ここの家具も調味料の配置も全部おれがカスタムしたやつでしょ、おれが使いやすいようにこの部屋は出来てる。だからフェアじゃないでしょ?」
燎太郎は、一気にメモ帳の中身を出力すると、視線を上げて健吾の顔を見る。顎のところくらい。目が見れない。
「うーん、そうかなあ。そういうものなのかなあ」
健吾は腕を組んで考え始めた。そして、しばらく考えると部屋の中を見渡してぶつぶつと言っている。
「使用状況に応じて、従量制にすればいいってこと?」
腕組みの中で健吾が人差し指を立てるので、燎太郎は彼の気が変わらないうちにぶんぶんと首を縦に振る。
「あ、燎太郎。ぼくの懐事情を気にしてるのか? ふふん、なら心配は無用だぞ。成人した時に親から『匂い当てチャレンジ』の時のギャラをまるっと貰ったし、ぼくはこう見えて結構稼いでいるんだぞ、聞きたい?」
健吾は得意げな笑みを浮かべる。
――え? そんな、そんな事聞いていいのかな?
燎太郎が戸惑っているうちに、健吾は前のめりにわざわざ口に手を当て「手取り金額」を口にした。
――え? そんなに。
健吾は姿勢を戻すと、ピースマークを突き出す。
燎太郎は、苦笑いでそれを見ながら、
「分かった。健吾の気の済むように払ってもらうよ。でも、半分未満でだからね。カスタムがおれ仕様なのは変わらないからね」
と、答えた。
「うん、月末でもゴトー日でも、使用状況を算出するから」
健吾は納得したように頷くと、冷めきったココアを啜り始めた。
燎太郎は、弱々しく笑いながら――そんなプライド、捨てちまえよ、なんになるんだ。
激しく毒づく。自分に。
気持ちを切り替えるように、燎太郎は笑顔を作り、こう切り出した。
「あ、月曜日、実家に行こうかと思ってる。なにか、エスカミーリョに伝言ある?」
「あ! エスカミーリョくん! えっと『元気にしてる?』って訊いて来て。それじゃあ味気ないかな、考えておくよ」
実家で飼っていたゴールデンレトリバー、エスカミーリョの名前を出したら健吾の顔が一気に明るくなった。
それを見た燎太郎も、弱々しかった笑顔が元気になってくる。
しかし、その元気も長くは続かなかった。
「あ、救急箱買ったんだ」
健吾が、本棚の隅に置いた木製の収納ケースに気づいたからだ。医療品用の。
「あ、うん。健吾も一緒に暮らすようになったからさ、備えで」
燎太郎は強張った笑みを浮かべる。
「悪いね、それも払うよ。災害時への備えにもなるし、いいと思う」
健吾は立ち上がると、ピーナッツバターのボトルを冷蔵庫に仕舞った。そのままお皿を洗い始める。
「それも、半分ね。おれも使うかもだし」
燎太郎が流しに向かって半身を捻ると、健吾は泡まみれの皿を見たまま「そうだね」と、返事をした。
――半分、なんて言ったら、健吾は救急箱の中を確認して『ちょうど半分』を計算しなければ満足しないだろうな。
燎太郎はそう考えると、頭が重くなってきた。こめかみに指を伸ばす。
パンくずをティッシュで拭って、スープボウルをその上に重ねる。すると、マグカップにマーガリンの膜が張ったハーブティーが残っていることに気づいた。――こっちもすっかり冷めちゃってるな。
燎太郎がそれを飲み干そうか迷っていると、
「まだ食事中? 食事中っていうか落ち着いてるとこごめん。これなんだけどさあ」
赤地に白い十字の入ったラバー素材の札を持ってきた健吾が対面に座り直す。燎太郎は「大丈夫だよ」と答えながら食器を脇にどかす。
健吾が指差したそこは、健吾の右上がりの文字で簡潔に、だが几帳面に「自分の特性が出た時にして欲しい対応」が書かれたラベルシールが貼ってあった。
「ここに、燎太郎の携番も書いていいかな? 一緒に住んでるわけだし……」
燎太郎の顔とラベルを交互に見ながら、健吾が遠慮がちに尋ねた。
「もちろんだよ! むしろそうして!」
健吾の遠慮がちな指ごと、燎太郎が包み込むように両手で握ると、
「ありがとう」
照れくさそうに健吾が下を向く。この、健吾がはにかんでいる時に下を向く癖は、最初の頃はしゅんとさせてしまったかと少し焦っていたが、今では可愛くてたまらなかった。
「あ、緊急連絡先……今書いてる続柄は父と母でしょ、燎太郎の場合、なんて書けばいいんだろう。現状は同居人に過ぎないよね、同居人?」
健吾らしい合理的な考えだが、燎太郎は何も言えなかった。――同居人に過ぎない、か。
燎太郎が言葉をなくしたまま親指の腹で人差し指の爪を撫でていると、
「あ、難しく考えなくても、普通にパートナーって書けばいいんだ。でも、書く場所足りない。新しいラベルシールを買って来なければ」
健吾が灯台下暗しといった様子でくすくす笑っていた。難しく考え過ぎたことが恥ずかしいので、照れ隠しだろう。
燎太郎も、つられてくすくす笑うと、今日は感情曲線がビブラートの波形みたいだと思った。朝から上がったり、下がったり、忙しくて仕方がない。
誰かと一緒に暮らすということは、こういうことなのかもしれないと、燎太郎はそう思った。
合理的だったり感情的だったり、違う波形をぶつけ合うことだと、そう思った。
…◇…◆…◇…
「ウォン! ピィーピィー」
実家の愛犬は玄関を開けるなり、タックルと共に抗議する。金色の毛並みがどっしりと質感を持っている。
「ごめん、エスカミーリョ。元気にしてた?」
燎太郎は気まずそうな声を出しながらも、しきりに擦り付けてくるゴールデンレトリバーの頭を撫でた。
実家にいた時よりも絡みつきが激しいのは……やはり抗議だろうと、燎太郎は苦笑いをこぼした。
自分の指紋でドアを開けた二・五坪の玄関。変わらない廊下が燎太郎を出迎える。
「お帰りなさい、燎太郎さん」
「ただいま、君枝さん」
ひとつ、変わったことといえば、燎太郎が高校を卒業してから、家政婦の篠田君枝を毎日家に入れるようになったらしいことだった。
それは、つまり。高校生の時の自分は君枝が整えた家を数日間きちんと維持出来ていた、ということを意味するので、燎太郎は少し誇らしかった。
革靴の踵を壁に寄せると、彼女とエスカミーリョと並んで歩く。子どもの頃みたいに。
今の一人暮らしのアパートが数駅しか離れていないのも、こうやってちょくちょくエスカミーリョの散歩に戻ってくるためだった。
しかし、今になって思うとそれも言い訳だったのかなあ、と燎太郎は少し笑ってしまう。……いや、言い訳ではないけれど、自分の犬には責任を持たなければ。
「ウォン」
そうだそうだ、とばかりにエスカミーリョが鳴き声を上げる。リビングのソファに腰掛けながら「そうだよね」と燎太郎は答え、愛犬の顔を包み込む。鼻先で眼鏡を押されたので「ちょっと!」と燎太郎はくすくす笑う。
「燎太郎さん、何か飲みますよね。カモミール? エキナセア?」
「あ、自分でやるよ」
ストローイエローのエプロンを着けた君枝がキッチンから顔を出しながら尋ねるので燎太郎がこう答えると、
「いいから、今日の燎太郎さんはゲストなんだから」
君枝は朗らかに笑う。
燎太郎は、こと君枝とエスカミーリョに関しては「ゲスト」という言葉に少し寂しさを覚えながらも、やっぱり彼女には敵わないな、と肩をすくめる。
エキナセア、と答えながらも、実際に燎太郎は君枝に対してはめっきり頭が上がらなかった。
放課後、健吾の家に遊びに行く時は君枝にエスカミーリョを見てもらえる時だった。
「君枝さん、おれがいない時のエスカミーリョのお世話、ありがとうね」
湯気を上げるカップアンドソーサー越しに、燎太郎は君枝の目を見て改めて謝辞を伝える。
最初は両親が呼ぶ通りにこう呼んでいたが、今では心からの親しみを込めた呼び名だった。
「いいのよ、エスカミーリョは本当にお利口さんだから楽よ! 燎太郎さん、頑張って育ててたものね」
エキナセアの乗ったトレーをテーブルに乗せ終わったら、がっしりしたとした君枝にエスカミーリョが擦り寄って行った。
「ホラ、私が熱いもの持ってたって分かってるのよ、本当にお利口」
上半身を屈めて、エスカミーリョを撫でまくる君枝を見ながら、燎太郎は気恥ずかしくなり、エキナセアの湯気に包まれることにした。綻んだ顔を少しは隠せるだろうか。
君枝は庭仕事へと向かった。レースカーテンを開いて、燎太郎はその様子を見ていた。寒くて大変そう――。と思うが、手伝うと申し出たところで「仕事を取らないでください」と笑っていなされるだけだ。
君枝は「この仕事は半分趣味のようなもの」と、いつもあっけらかんと笑っていた。
自分の仕事に誇りを持てるなんて、尊敬もするし、少し羨ましいことでもあった。
庭師が定期的に来ては整えるというのに、君枝はバキバキと庭の枝を剪定してゆく。
――仕事を取ってるのって、君枝さんの方じゃあ……。
燎太郎は笑いそうになりながらも、その辺りの線引きをまだ分かりかねた。
少し落ち着いたエスカミーリョは、テーブルの下に潜り込むように燎太郎の足、スリッパの上に寝そべり飼い主の顔を見るために首を捻っている。
「健吾がね『燎太郎のこと取っちゃってごめん』って。ふふ、それ下手したら挑発だよね、エスカミーリョに対して」
燎太郎がそう言いながら、エスカミーリョの頭を撫でると、その犬は立ち上がり「そんなことよりもっと構いたまえ」と言わんがごとく、前足を差し出す。
「ふふ、昔はさ。エスカミーリョに抱きついちゃってたよね、おれ」
燎太郎は気まずそうに笑いながらも、身動きが取れず眉間に皺寄せ困り顔のエスカミーリョをガッチリホールドした寝顔の自分がいたはずだ。そう思い出しながら、キャビネットに置かれたフォトフレームの群に目をやる。
ゴシック調のガラスキャビネットには、やはりゴシック調のフォトフレームが飾られていた。細かい装飾。
その横で、ブランデーやウイスキーなど、父が来客に振る舞うためのお酒のボトルが並ぶ。
これまた細かい装飾の施されたクリスタルグラスがガラス扉の向こうで閃く。ガラスキャビネットは見せるための家具だ。燎太郎はそう思った。だから――。
「そんな写真、ここにあるわけないか」
燎太郎は呟いた。瞼が重い。
ここにあるものといえば、節目だけに撮られる家族写真。舞台に立ったステージ衣装姿の燎太郎。そして、母の映画賞などの授賞式。そんなもの、ばかり、だ。
燎太郎は高校生の時、健吾と一緒に海ほたるのシールドマシンカッターを遠景に撮った写真を飾ろうと思って、やめた。「なんか、違う」そう思ったから。
母は、元々は売れない歌手だった。
脇役で出演したドラマがたまたま当たって、俳優に転向した経緯を持つ。
だから、と言っていいのか、分からない。まだ、燎太郎には……いや、一生分からないかもしれない。
――ホラやっぱり、ママの子なんだから歌で成功するなんて無理よ。
オペラスクールを辞めた時、ケラケラと笑いながら母に投げかけられた言葉。無理に口角を引き上げて答えたが、今思うと、これ、傷ついてよかったのかな。
父には、早いうちに諦めがついていた。この人は業界の人を家に連れて来て琥珀のお酒を飲み交わすだけの人、ただそれだけの人だと。
「こんな海なし県まで来ていただいて、もっと都心に住みたいのですが。セガレがね、引っ越したくないなんていうもので」
いつもそう笑って、誰か偉い人の機嫌を取っていた。
ただ、母は――。なぜまだ大丈夫、自分の事を見てくれる、と最後まで期待を捨てきれなかったのだろうか。
カルメンは、「女性だから」というラベルをベリベリ剥がす強い人だったから憧れた。なのに。
母だけに「母性」を求めるのは、自分勝手ではないか――燎太郎は手のひらでこめかみをすっぽり覆ってしまった。
埃ひとつ落ちていない、曇りもしないガラス。
これはいつも、君枝さんが整えてくれているものだった。
「クゥン」
エスカミーリョがひとつ、声を上げる。
燎太郎はキャビネットから視線を逸らす。
君枝が防寒具を脱いで、またあのストローイエローのエプロンをつけて、キッチンに立っていた。
「君枝さん、一緒になんかあったかいもの、飲もうよ」
キッチンに顔を向けて、燎太郎はお願いしてみた。君枝は瞳をくるりと回すと(映画みたいと、燎太郎はいつも思う)
「燎太郎さん、私はご一緒できませんよ……」
〝お約束〟を口にする。
「じゃあさ、今から一〇分休憩ということで」
燎太郎が両手を合わせて「お願い」の形にすると、やれやれと君枝は目を見開いて瞳だけが天を仰ぐ。(やっぱり、映画並の感情表現だと燎太郎は愉快に思う)
ほかほかと湯気をあげるコーヒーの入った湯呑みと、カモミール。
そういえば、君枝さんはこの家に似つかわしくない湯呑みをいつもどこかに隠し持っていた。燎太郎はそれも羨ましく思う。
ダイニングテーブルの上に燎太郎の手土産が置かれていた。君枝の好きなバターサンド。どうせ両親は食べないので、ふたりでバリバリ食べる。
エスカミーリョは、さっきまで燎太郎が座っていたソファの上ですやすや寝ているが「散歩」という言葉を聞いたらすぐに飛び起きるので、まあ大丈夫だろうと燎太郎は笑う。
「あのね、もし健吾と喧嘩しちゃったらどうしたらいいと思う? 最近そればかりが心配で」
ソーサーからカップを離しながら、燎太郎はおそるおそると尋ねる。
「言葉を尽くすしかないんじゃないかなあ……やっぱり。そして、たまに抱きしめたりして思いを伝える。逆に言うとそれしか出来ないんじゃないですかねえ、アタシたち人間は」
君枝はしきりに首を捻りながらも、急に話のスケールが大きくなるので、燎太郎は思わず苦笑いを浮かべる。
「……もう、やってるつもりなんだよ。健吾の好きなティラミス買って帰ったりするけど、それも安易かなって」
「出来てるなら、もう、喧嘩になんかなりゃしないって、安心して。ただね、やっぱりこう、生きてる限り『行き違い』みたいなことになるのは、それもどうしても避けられないんじゃないかなあって、アタシなんかは思うわけで」
燎太郎はカップを戻し、黙って頷く。
「ホラ、アタシは早くに家族をなくして……それで、ここの生活を整えるのが生きがいだったりしたんだけど、あらヤダ、話が脱線した」
いつものように、君枝はあっけらかんと笑い、コーヒーをグビっと一口飲む。
「やっぱり、もっと話したいことあったなあとか、あの時もっとこうしてればよかった……、とか思うわけで。もしもよ、燎太郎さんが大切にしたい家族が出来たなら……まあ、出来なかったらその時ですが」
君枝の言葉は慎重だった、燎太郎のことに限らず、あらゆる可能性を否定しない優しい目線だ。
「いつかは時が別れさせるって、少しでも意識してくれたらアタシはね、ここでお説教めいたこと言った甲斐があったかなって。大きな声では言えないですが、念のため、家族って言ってもアナタのご両親のことじゃなくてね、燎太郎さんの選んだ家族をお大事になさってね」
にいっと照れくさそうに笑うと、君枝は「あーヤダー。余計なこと言っちゃったわー」と、空に向かって戯ける。つられて燎太郎も天を仰ぐ。
冬の空は地面に近い。そんなことを考えながら、
「君枝さん、いつか紹介するよ。させて欲しいな」
燎太郎は、肩をすくめながらぽつりと呟く。
「あら、そんな。もったいない。あらー。じゃあ、道でばったりすれ違ったり、そんな時には是非とも紹介してくださいな、楽しみにしてますからね」
君枝は燎太郎の腕をポンと叩くと、また笑った。燎太郎もつられて笑顔になる。
「散歩だよ」と言うと、案の定エスカミーリョはガバッと飛び起きたので、燎太郎は彼を散歩させると家路に着くことにした。ターミナル駅に降り立つ。
家路に着くと言いながらも、燎太郎は駅直結型のビルに入った大型雑貨店に寄った。
什器に整頓されたコスメやステーショナリーに見送られながら、ツヤツヤの通路を進んでゆく。
健吾は燎太郎のピアノや歌声は大丈夫だと言ってくれるが、生活音で集中が途切れてしまうことはどうしても避けられなかった。
「ああっ! 頭に入れてたここの三十六マスが消えちゃった!」
なにか、気が逸れてしまうこと――不意に上がった家鳴りや、窓を横切る鳥の羽ばたき。そういったことが起きるたびに健吾はこう叫んでしまうので、燎太郎は気の毒に、そして申し訳なく思う。
124、248、数字が大きくなるたびに燎太郎の方も頭が痛くなった……比喩ではなく。
燎太郎は季節コーナーに寄ると、まず座椅子を見てみる。コタツの展示品が飾ってあり、コーディネートの見本を示していた。青地に黒とグレーのチェック模様、健吾の好きそうなデザインだ。
健吾はコタツで作業をしていた。燎太郎はデスクを使うように勧めたが、「いや、コタツがいい」と譲らなかった。気を遣っているのかもしれないが、健吾はいちどそれがいいと言うと頑として譲らないので、本当にコタツがいいのだと……思いたい。
本当は健吾が気に入るものがいいのだろうが、彼は遠慮してしまうかもしれないから、いま買ってしまおうかと、考える。――でも座り心地が健吾に合わなかったら?
燎太郎はため息をついて、この件については保留した。
次に、コタツを囲うパーティションがないかと、エレベーターを登る。コスメの香料が遠ざかり、DIYのコーナーに差し掛かると、檜の木材や金属臭。燎太郎はそこをプラプラと歩く。一気に生活の匂いに切り替わるが、この木材臭は確実に健吾が嫌がるだろうと燎太郎は思った。フィトンチッド……これが匂うから健吾は棒アイスが食べられないと、確かに言っていた。
木材以外で、なにか……。突っ張り棒にファブリックを通して、自作したらいいんじゃないか。そう思って燎太郎が屈んで部品を見ようとした時、トレンチコートに隠しておいたピルケースがカツンと燎太郎の太腿に当たった。
――あ。
意識し始めると、急に……。燎太郎はたまらずに屈んだままこめかみを抑える。
ドクドクと、指がそう感じているのか、それとも頭の方なのか、分からなくなるほど混ざり合った脈動の暴れを押さえつけながら、燎太郎は小さく息を吐く。息まで熱い気がする。
目を閉じそうになった視界の端に、グレーのフェルト素材が目に留まる。
パッケージに印刷された文字に「吸音」という煽り文句を見つけた。
せめてこれだけでも、燎太郎はゆっくりと上半身を起こすと、デスクワーク用のオフィスパーティションのコーナーへ蟹歩きで移動する。
「ふぅ」
思わず声が漏れる。D4。
見本をひとつ手に取ると、燎太郎は鼻を近づけ、スンスンと嗅いだ。
嫌な匂いはない……と思う。また思うばっかだけど、健吾の鼻は燎太郎の何倍も敏感だから不安になる。
まあ、これは健吾に合わなかったら自分が使えばいいか。
と、思いつつ、どれも結構なお値段なことに気がつく。燎太郎は何かあったら、と言われて両親から家族カードを渡されてはいるが……。
額に汗が走る。他のお客さんが自分を見ている気がする。燎太郎は財布の入ったハニ音トートバッグに視線を移す。
……まあ、使ってやれと、そう思った。今ある貯金だって元を正せば親の懐から出たお小遣いだ、なら一緒のことだろうと、燎太郎は思った。
今になって思えば、あの「額がおかしなお小遣い」は、両親が抱いていた罪悪感の額だろう。
しかしながら、燎太郎は思う。そんな額になるまで罪悪感を放っておいておかないで欲しい、と。
だからシャクだけど、使ってやれ……やっぱシャクだけど。燎太郎はやましさの盾にするかのように、薄い段ボールに包まれたフェルト素材を構えた。折りたたみで、コタツに乗るサイズ感。ちょっと頼りなくも感じるが、レジへと進む。
健吾はご両親から『匂い当てチャレンジ』のギャラをまるっともらったと、そう言っていた。成人を機に。
燎太郎はまだ学生。
いつか、自分も「それ」を受け取らなければならないのだろうか。
眉を顰めてしまう。頭痛もあるがそれではない。何か、汚くて大きなものを飲み込まなければいけない気になったから。
街頭の灯った喧騒の中を歩いて行く。いつの間にか日が落ちていた。燎太郎は持ち手の付いた盾をぶら下げながら少し歩調を強める。
さっき、ピルケースの中を覗いたら、頭の潰れた空洞のシートしかなかった。全く、使ったなら補充しておいて欲しいものである。――自分だけど。
「うう」
思わず呻き声を漏らしながらも、家に帰ってそして、シャワーの音に紛れて飲もうと思った。今持ってあるハニ音トートバッグの他の、玄関に置きっぱなしのなにかのポーチとか。そんなところに忍ばせていた薬があったはず。
燎太郎はコロナ禍の時の名残で、家に帰ったらすぐシャワーを浴びていた。それは舞台の役を預かる者としての使命のようなものでもあるし、健吾もそれについては何も言わない。すんなりと燎太郎の習慣として受け入れてくれたようだ。
だから、大丈夫。家まで我慢しよう。
燎太郎はチラとさっき買ったばかりのパーティションを見る。
こんなにいそいそと健吾が住むための準備に胸を高まらせながら、絶対に健吾には見せたくない姿を抱えて家の中でもビクビクしてしまう。
その矛盾に両端から引っ張られ、燎太郎は身が引き裂かれる思いだった。
タワーマンションなどで、建物の質量感は駅前とはさほど変わらないものの、人通りが一段階くらい下がるので、住宅街に入ったのだと実感する。
やっと辿り着いた我が家、燎太郎はキーケースから取り出した鍵を、一発では差し損ねた。ガリガリと乾いた音を立てる。
――落ち着け、健吾に喜んでもらえるかな。待て、その前に薬飲まないとだ。
今度こそ鍵穴に正しく嵌めると、素早くチェーンまでしっかり掛けて、燎太郎はなんでもないような声で、
「ただいまー」
と、大きな声を出した。
パーティションの入った段ボールを玄関ホールの壁に立てかけ、トートバッグとコートを仕舞う。
洗面台で手を洗ったら、健吾の様子を遠くから窺おうと思った。でも、何か空気がおかしい。そう感じ取った燎太郎は、
「健吾?」
こう呼びかけながら、廊下をまた滑る。
健吾はただ立っていた。
座り作業で時々腰を伸ばすため、とかそんなんじゃなくて。スマホを片手にコタツの前でただボーっと突っ立っていた。
どうやったら驚かせずに済むかと考えたが、ダメだった。驚かせる覚悟で健吾の前に立ち、肩に手を置き、
「健吾!」
と、呼びかけた。
「あ、燎太郎……。どうしよう」
意外にもというか健吾は驚かなかったが、第一声はこうだった。
「どうかしたの健吾、何かあった?」
燎太郎は健吾の肩に手を置いたまま、まず自分が落ち着いて問いかける。
「あ、あれ? ぼく立ってたっけ? あ、あのさ、これ」
健吾がのろりとスマホを顔の前に構えた。画面は暗くなっていたが、健吾の顔を捉えたらパッと鍵が開く。
あたふたと健吾の指が操作した画面には「佐伯美雨」のスレッドが映し出された。健吾がいつも言っていた社用チャットだろうか。
『なんで自分に会いに会社に来ないんですか、話の途中だったじゃないですか』
要約すればこういった感じの内容が、長々と送られ続けている。健吾のスマホの中に。燎太郎は、このメッセージアプリで、こんなに長い吹き出しは始めてみた。もはや尻尾が一画面には収まっていない。
「ど、どうしよう燎太郎。ウチの社内チャットは悪用された事例がないんだよ。……ぼくのせいで、私用のチャットが、あ『ワタクシヨウ』のね、それが制限されちゃったらどうしよう。みんな楽しく使っていたのに」
そう言うと、健吾は「カハッ」と小さくえづく。喉が乾燥しているみたいだ。
燎太郎は辺りを見渡すと、コタツの上に水の入ったコップを見つけので、「健吾、これ」と声を掛けながらゆっくり渡した。
「ありがとう」
健吾は受け取ると、ごくごくと喉を鳴らした。コップを置くために屈んだので、燎太郎はそのままさりげなく促して健吾を座らせる。そして、自分も健吾の前に腰を下ろす。
「……うん。実はちょくちょくメッセージは届いていたんだけど『社用チャットですので私用の要件は控えてください』って返していたんだ。でも、今日になって急にブワーって長文が……送られてくるようになってさ」
健吾は言いにくそうにした。そんなことなら、今日。実家に寄らずにまっすぐ帰ってくればよかったのだろうか。燎太郎の目が激しく泳ぎ始める。
耳に飛び込むカミーユ・サン=サーンス、『白鳥』の旋律。こんな時に。
――いつまで課題が終わらないんだ。
燎太郎は八つ当たりだと分かりきっていたが、しかしこれが幻聴かもしれなく思えて焦り出す。こめかみのBPMと全く合わない。
健吾が何も反応しないので、尚更そう思うが。――そうか、健吾にとっても、これはもう生活音なんだ。
燎太郎はため息を思い切り噛み殺すと、
「健吾、ギュッとするね」
そう声をかけ、座ったまま健吾を包み込んだ。そして、背中をさする。
「健吾のせいじゃないでしょ、どう考えても」
心から、そう思った。
「でも、最初にぼくが社用チャットを使ったから……」
「健吾」
また、続きを言わせたくないので、名前を呼ぶ。
すると、燎太郎のセーター越し、テーパードパンツあたりにあたたかい水が染み込む。
燎太郎は、カッっと身体が熱くなる。健吾は滅多なことでは……泣かない。
「どうしよう」
心底困った、そんな感じの、吐息混じりの健吾の声に、燎太郎の胸はドクドクと嫌な音を立てる。
思い浮かぶのは、心電図。こめかみの熱いリズム、白鳥のゆったりとしたペース。全く違うものが重なっているから気持ち悪い。
健吾が泣いてるっていうのに、何を変なことを考えているんだ。
燎太郎は、いつもだったらこめかみに伸ばしている指で必死に健吾の背中をさする。
健吾は鋭い。いつか燎太郎がなぜそこに手を当てるか、その理由をきっと見抜いてしまう。
健吾の涙を止めたかった。しかし、燎太郎はそうやって、自分のことばかり考えてしまう自分が――汚く思えた。




