三章 クラスチェンジ・オブ・マイヒーロー
健吾にとって、冷泉燎太郎という存在は「勇者」と呼ぶより他になかった。
誰にでも優しいから、当然自分にも親切なのだと思っていたし。
もし、勇者がパートナーを選ぶイベントがあるならば、その時自分はただの街の科学者……ならまだいい方で、自分は森の奥でゴポゴポ、怪しい何かを大釜で煮ている魔女だ。
何かって何だろう、あの彩度の高い色合いなら、塩化ニッケルか。――え? あの世界観でニッケル水素電池を作ってるって、オーバーテクノロジー過ぎる。何か隠されたシナリオがあったのだろうか……まあ、それはよくて。
その特大イベントから数日経つというのに。
――あの大きな腕に抱きすくめられた時、嬉しかったけど、現実で起きていることじゃないみたいだった。
十時台の埼京線は、許容範囲。
暗いから、窓の外もよく見えない。情報量が削れる、ヨシ。
暖房で温められた諸々が、いつもと違う匂いを出すけれどそれも慣れた。
乗客も、ぎゅうぎゅう詰めじゃないから、ヨシ。
シートも隣に人が乗っていない状態で座れるし……ヨシ。
はーっと息を漏らしながら、健吾はあの時間だけがまだ整理出来ない。
足元に熱いくらいの空調を感じながらも、やはり、あの時の熱は、現実だったはずなのに、現実のことだと感じられない。
健吾は、もう一度、息を漏らす。
でも、何故だろう、燎太郎は時々、自分を抱きしめるというより、ひしと抱きついているような時がある。
自分は、その時、ちゃんと強く抱きしめ返せているだろうか。
体が不意に流れた。考え事をしていても、律儀に慣性の法則には従うようだ。
健吾はシートから立ち上がると、勇者と一緒に冒険していたこの駅のホームに足を踏み入れた。
高等学校という舞台を去った勇者は、それでも大釜の魔女と会うため、いそいそとこの街に足を運ぶ。
――やっぱ、それバグだろ。
魔女がよほど希少なアイテムを売っているならともかく、自分は何も持っていない。たまたま自分がドットを打っているから、趣味が被ってお気に召されただけだ。
そんなことを考えていたら、ICカードの行方を見失ってしまった。……えっと、今日はコンビニでソフトクリームを買って食べたから……ポケットに入れっぱなしかも。
立ち止まったコンコースには、夜の帷に勇者なき校舎を隠している。
あ、あった。やっぱりポケットだった。健吾は、デフォルメされた新幹線の描かれた――子どもの頃から使っているソフトポリプロピレンのケースを手で探り寄せると安堵する。
改札へ向かって再び歩き出すと、こんなに寒い中わざわざソフトクリームを食べる自分が、どうしようもなく可笑しくなって、笑いを堪えるのが大変だった。
――やっぱり、自分は魔女だ。
風呂から上がってスウェットに着替えた健吾は、ダイニングで新聞を読む母の姿を捉えた。
帰ってたんだ。今までどこにいたんだろう――。
さっきまで見当たらなかったのに、妙にくつろいでいる登紀子は新聞をはらりとめくった。
銀縁の、今まで見たことのない眼鏡を掛けてるな、と健吾は思ったが、そういえば最近、老眼鏡を作ったと言っていたな、と思い出す。
今日はC6H5CH3の少し尖った匂いを、CH3(CH2)4CH=CHCH2CH=CH(CH2)7CO2Hがまろやかに包む。
いつもは前者が強い時があるので、今日はちょっと優しいな、と思った。
――ちょうどいいや。ちょっと話しておこう。
「あ、健吾。お帰り、干し柿いる?」
登紀子は、ちらりと健吾を見ると、また新聞に目を落とし、そのまま干し柿の乗った丸皿を指差した。
「〝痰の毒〟になるからいらない」
健吾はその横をすり抜け、冷蔵庫をパタムと開ける。
4.4牛乳を掴むと、コップに注いだ。昔ながらの、円柱形のガラス製。
竹製の盛り籠から早生のみかんをひとつ取ると、健吾は登紀子の対面に座った。
農産物直売所で買ってきたという、いびつな黄色を見つめていたら、
「それ、燎太郎くんの受け売りでしょ」
と、母は呆れたように笑う。
「まあね」
今になって? と、健吾は答えながらも、みかんの皮に爪を立てた。にわかにC10H16が鼻の奥に立ち込めた。
「ぼく、付き合ってる人いるから、外泊増えると思う」
これ、言っとかなきゃ心配かけるな、と思いながら、健吾はみかんの房をひとつ剥がす。
「え? 避妊してね」
登紀子は、ガバッと新聞から目を離すと、姿勢を起こして健吾に向き合った。
シーリングライトの駆動音がやけにうるさい。
――お母さんは、女性化学者として仕事を続けながら、有り体に包み隠さず言うと「手のかかるぼく」を育てるのって、相当なプレッシャーだったと思う。
その母が、真っ先に心配する事は見ず知らずの女性の身体……。その事実の重みを思いはかる事しかできないことを、健吾はもどかしく思った。
老眼鏡を掛けた母、少しは文字が読みやすくなっただろうか。そうだったらいい。
「……お母さんは女の人だから、そういう苦労ってやっぱり多かったよね」
剥がしたみかんを指先で転がしながら健吾が尋ねると、そのまま口に入れた。
「ん? うーん、まあ、ね。若い頃には色々あったし。できれば、同じ苦労は背負わせたくないって思う」
登紀子は言いにくそうにしながらも、まっすぐに健吾の目を見る。そして、髪を一房耳に掛けた。
「うん。ありがとう、でもね」
健吾はみかんを噛み砕いて飲み下すと、牛乳を一口飲み、やはり言いにくそうにこう言う。
「避妊の必要はないよ。ただ、お互い痛くなるような事はしないし、感染症対策もちゃんとするから安心して」
対面の母は「えっ」と、目を見開くと、視線をあっちこっちに動かす。しばらく何かを整理するようにトントンと新聞を叩くと、
「あー……そっか。確かに、あんたたちのあの感じは今考えると愛だったね」
合点がいった様子でこう呟いたが、健吾にはよく聞こえなかった。
「何?」
思わず、眉を顰めてこう聞き返す健吾に、
「ちゃんと大切にしなさいよ」
登紀子は、顎を突き出しながらも特大の釘を刺した。五寸釘。
「それは、言われるまでもないよ」
しかし、健吾にとってそれは心外な忠告だったので、口を尖らせる。本当に、それは、言われるまでもない―― この世界に、勇者を大切にしないNPCがどこにいる。
「よろしい……よろしい!」
登紀子はいつものようにカラカラ笑ったあと、ふっと短く息を漏らすと、また新聞に目線を落とす。
健吾は夢中になってこの世界の情報を集める母を見ながら、牛乳を飲み干した。
…◇…◆…◇…
「健吾ー! みて! ティラミス好きだったよね? ここのパン屋さん美味しいんだよ」
ショッピングモールの一階、食品売り場に併設されたパン売り場で、燎太郎は健吾を手招きする。満面の笑顔で。
少し遅れて歩いていた健吾は、「そうなんだ」と、答えた。
お互いの最寄り駅からすぐの駅で降りて十分ほど歩いた。商店街を抜けた先に、忽然と現れる中規模ショッピングモール。
土曜日の今朝、雑談の中で健吾が、このサイズ感の店舗ならそんなに疲れないし、楽しい、と話したならば、燎太郎は「一緒に行きたい、行っていい?」と、遠慮がちに尋ねた。
「悪いわけないでしょ、ぼくだって、燎太郎と色んなとこに行ってみたいし」
健吾がそう答えると、燎太郎は本当に嬉しそうに破顔したし、なんなら、
「ギュッてしていい?」
まで、訊かれてしまった。健吾が「いいよ」と頷くと、燎太郎のアイボリーのカーディガンが健吾を包んだ。
いつも、彼が健吾に用意してくれるあの静かな空間で。
カーディガン越しに「燎太郎のにおい」がするけれど、これだけは、分子式に落とし込めないな――。
それから、善は急げとばかりに、ドタドタと食器を片付け、コートを着込んで、まだギリギリ午前中だというのに、コトコト電車に揺られた。
巨大ターミナル駅は、朝から忙しないけれど、たまにシーンとした空気が流れる。そのエアポケットを探し当てた時、健吾は楽しい気分になった。燎太郎がいなかったら、こんな空気感は知らなかったかも知れないな。
「ティラミス、買って帰ろうよ、最後に絶対寄ろうね、忘れちゃダメだからね」
相変わらず燎太郎は、はしゃぐ。
燎太郎は誰かと一緒にショッピングモールに来るのは初めてだという。
ご両親はほとんどの買い物を、デパートの外商――健吾にはよく分からないがそういった制度があるらしい――で済ませていたそうな。
――燎太郎は高校生の頃、ぼくに向かって『小学生を取り戻そうよ』と言っていたな。
健吾は「燎太郎はまだそのクエストを達成しきれていないのだろう」と、そう思う。
勇者の鎧の中に、「幼い自分」を押し込めて、取り出せなくなってしまっていたのではないか。
しかし、健吾は不思議に思う。その人に「子どもっぽい」部分があったとして、それは何故いけないことなのだろうかと。もちろん、TPOに振る舞いを合わせる事は大事だけれども……。
「けーんご」
祭りの屋台(健吾は行った事がないので、写真で見るだけだが)みたいに並ぶ店舗、その間を流れる一筋の川みたいな通路で、燎太郎に名前を呼ばれた。すれ違う人たちはまばらで、人酔いしなくて助かる。
そう思いながら「なに?」と答えると、燎太郎はこう返した。
「ふふっ、呼んでみただけ」
何で? 大丈夫か燎太郎と、健吾は困惑してしまった。勇者の鎧、ヘルム部分が剥がれ落ちる幻想を見る。
たった何十センチほどしか歩いてないと思うのだが、燎太郎はまた、振り返る。
彼は辺りを見まわし、すれ違う人々が見当たらないことを確認すると、
「けんごー」
再び甘えた声で恋人の名前を呼ぶ。
「今度こそ、なに?」
少しからかうように健吾が答えると、燎太郎はつつつと、健吾の横に移動して、コソコソ話の要領で自分の口に手を添えた。
どうしたんだろう、と健吾は身動きが取れないでいると、少しだけかがんだ燎太郎は、
「好き!」
と、呟いた。呟いたと言っても、空気を押し出す立派な腹式呼吸だ。だから、健吾の耳にはあまり口を近づけなかったのだろうが。
んふふふ、と楽しそうに笑いながらも、また燎太郎はずんずん進んで行く。
それにしても、本当に大丈夫か? 燎太郎。ちょっと浮かれすぎじゃないだろうか。まっすぐ歩いた方がいいんじゃないかな。――まあ、可愛いんだけども、とても。
健吾は、初めて燎太郎の頭を撫でてあげたい気分になる。
廊下を曲がって角、雑貨店の文房具コーナーへと到着した。第一目的地だ。
文具屋さんは情報量が多いけど嫌じゃない。全てが職人の道具のようでワクワクするし、小さな頃、郵便屋さんが持っていた、謎の判子がいっぱい詰まった印箱を思い出す。
木製のそれは、朱色や黒のインクで煤けて、絶妙なユーズド感もまた、ファンタジーの世界だった。
仕切りのついたその箱は、鞭のようなグリコールエーテルがイソプレンの馬を追い立てる。そんなイメージを纏わせながら、制服の腕がキビキビ判子を操っていた。魔法使いみたいだと、健吾はよく覚えている。
今では見ないその光景。寿命というものは、技術にも該当するのだろうか。そう考えると自分の仕事――ドット絵、ピクセルアートも、あとどのくらい愛してもらえるのだろうかと、健吾は小さく息をついた。
「オペラの世界ってさ、地味に手紙文化なんだよねー」
燎太郎がレターセットのコーナーで、乾いた笑いをこぼした。
おお、ギルドの拠点で、山ほどのクエスト依頼を確認する画面みたい。様になってる。健吾はその光景を切り取った。絵にしたいと思ったから。
「えと、一筆箋の方がいいかも、あ、ポチ袋もあった方がいいかなあ……あと、」
ぶつぶつと、ひとりごとのようにタスクを確認していた燎太郎が、ふと黙った。
ステッカーを見ていた健吾は、視線を燎太郎の方へと向ける。
その燎太郎は、立てかけられたA6サイズのPOP、の中で微笑む女性を見ていた。
淡い紫のワンピースを着たその人は、黒くて長い髪を一糸乱れず垂らして、万年筆を持っていた。
『贈り物を、書いてみませんか』
明朝体で飾られたそのキャッチコピー、その横に並ぶその人は、以前、燎太郎のお母さんだと、そう聞いていた。
目線も止まっているし、商品を選ぶ手も止まっている。その人を見ているようで、ボーッと焦点が定まらないようでもある。
――大丈夫って訊くのも違う気がする。
燎太郎はこんな時、自分にどうしてくれていただろうか――。
「燎太郎」
健吾がこう呼びかけると、燎太郎はハッと慌てた様子で健吾の顔を見た。
「次、ゲーム売り場に行かない? ぼくの参加した作品のパッケージ、一緒に見ようよ。どれだか、教えてあげる」
さっきまで、表情をなくしていた燎太郎の顔が一気に綻ぶ。
「うん、行こう。ちょっと待っててね、サッとお会計だけしてくるから」
ウキウキを取り戻した様子の燎太郎は、店舗備え付けの小さなカゴに手を伸ばし、商品をまとめた。
「え? もう見なくていいの?」
そう尋ねながらも、燎太郎はこの場を早く離れたいのだろうな、とぼんやり理解した。
「大丈夫ー」
ドップラー効果のように、什器という遮蔽物の向こうから声がした。素早い。
レジまで追うと、トレンチコートの中からマイバッグを出した燎太郎がサッカー台に向かっていた。
現代となっては無駄にポケットの多いその服。あ、自分のカーゴパンツもそうか。
「んふふ、実はさ。教えてもらわなくても、ウィキで読んで知ってるんだよ。健吾の参加作品」
畳んだマイバックをポケットにしまった燎太郎が、照れ臭そうに白状した。
「え? ちょっと、やっぱり燎太郎の方が厄介オタじゃん」
自分の方も、ついこそばゆくて、減らず口を叩いてしまう。――いつか、愛想尽かされると、自分でも思うのに。
それでも、目の前の可愛いこの人は、幸せそうにえへへと笑っていた。ありがたいことだ。
「じゃあさ、もう見なくていーい?」
エスカレーターの方に体を向けながらも、健吾は単純な疑問を口にした。
「意地悪〜! 早く行こうよー」
燎太郎は、言うと同時にもう出発している、やっぱ素早い。
昔のRPGのように、勇者を先頭にして、並んで健吾はついて行く。やっぱり、それは、ありがたいことだ――。
「あー、フードコート。今の時間はやっぱり混んでるかあ」
ランチタイムと呼ばれる時間帯、フードコートの入り口に立って、うーんと燎太郎は唸った。
フードコートって、なんで好きなものしか置いていないんだろう。嫌な匂いがあまりしない。
「燎太郎と一緒なら、大丈夫。覚えてる? ぼく最初、学食に入れなかったじゃん。でも、燎太郎となら何故か入れたんだよ」
思い当たる節があるのか、燎太郎はパアッと目を輝やかせた。まあ、「何故か」ではないことは健吾も分かっていた。――キミと一緒なら、安心できるんだよ。大抵の場所なら、ね。
健吾は「全ての場所」へ、一緒に行ってあげられないことを、申し訳なく思う。
コの字型に並んだ店舗は、うどんや、ラーメン。健吾の好きな啜れる麺類が多く判断を惑わせるが、今日はちゃんぽんを啜ることにした。
呼び出しベルが鳴ったので、燎太郎がちゃんぽんを取りに行った。健吾は、窓際のカウンター席で場所取りをしながら、テラスのような全面ガラスから街を見下ろす。燎太郎はこの街――ここは隣町になるのかな?――は、四角が多いと言っていた。健吾はそう言われると、そうとしか見えなくなってしまった。これも絵に描きたい。
さっき、ゲーム売り場で、あるかどうか不安だったけど、インターン時代も含めて、参加したパッケージを全部探してみた。
クレジットもされていないタイトルもあったけど、健吾が指差し説明しようとすると、燎太郎は怖いほど情報を被せて来た。SNSは苦手って言ってたけど、意外とネット中毒なのだろうか。
あ、フォロー外しちゃった件……謝らないと。健吾は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「これも、こっちも買った。でも、忙しくて積みゲーだよ」
燎太郎はおどけた調子でこう言った後、とほほーと涙を拭うフリをしたらば、手にとっていたパッケージを什器に戻した。
「お待たせー」
燎太郎が、トレイを乗せたワゴンを押して戻って来たので、健吾は慌ててその一つを受け取る。餃子の乗った方。
半チャーハンと餃子が乗った方が燎太郎の分だ。燎太郎はワゴンを器用にターンさせると、
「じゃ、先に食べてていいよ」
と、ガラガラとまた押して行った。燎太郎はそう言うが、健吾は「それくらい待とうか」と、じっと燎太郎の帰りを待っていた。
しばらくすると燎太郎は、さっきとは違う呼び出しベルを持って帰って来た。
「えっ? 先に食べてていいって言ったじゃん」
少し、びっくりされてしまったが、正直に言うとこっちの方こそ驚いた。
……嘘でしょ、まだなんかあんの?
健吾が食べ切れなかった分の餃子まで、燎太郎はぺろりと平らげてくれた。
しみじみと、その大きな体を維持していくのは大変なんだなあ、健吾はそう思った。
ガーデンを散策しながら帰路に着く道すがら、今日の冒険は多くの知見を得ることができたと、健吾はそう考えた。
勇者だって幼い子のように甘える。
そして、勇者だって羽目を外すこともある。
よく食べ……いや、これは割とイメージ通りかもしれない。
そして、何より、勇者にも事情がある。
魔女が作るニッケル水素電池、何かの役に立たないかな……。
あの世界観ではまだ色々追いついていないだけで、差し出しておけば、そのうち理解されるかもしれない。
他に、よりクリーンなエネルギーを開発できたら、あったねこれ、と歴史を懐かしめばいい。
もし、勇者と魔女の間に、特に隠されたシナリオがないならば……。
それはもう、自分で描くしかないんじゃないか。
描くのは得意だ。GIFでじゃんじゃか動かしてやれ。だって、そういうの、得意だから。
健吾は、自分の頭の中が、小学生の作文みたいな文法になってきているのでフッと笑った。
そんなことを考えていたら、また燎太郎に、
「健吾」
と、背中から呼ばれた。
健吾はまた呼ばれただけなのでは、と少々警戒しながら振り返ると、燎太郎はまっすぐ、こちらに向かって腕を伸ばしていた。
健吾は思わずその手を取ると、軽く引かれる。
「あれ見て!」
燎太郎がもう片方の腕で指差した先には、赤、緑、青、白、黄、色とりどりのLED電球。
モールの植木に、モミの木を模るように飾り付けされていた。
うわ、意識のピンホール現象だ。
考え事してたから、その一点だけにピントが絞られすぎて、あんなに大きな装飾を横切ったことに気づかなかったなんて。
「なんか、ドット絵みたいだよねあれ」
宝物を見つけた時のように、燎太郎はくつくつと笑った。
「それ、思った」
健吾もつられて笑う。
「今年は一緒に年越しできるかもね、ていうかしたい」
まだあかりの灯っていない電飾を見つめながら、燎太郎はウキウキとした声を出す。
「……ごめん、正直に言うと、起きていられる自信がない」
健吾は、ぎくりと身を縮める。両親がいつも観ている年末の歌番組も、健吾にとっては子守唄のように遠くなっていく記憶しかなかった。
「いーの! 寝ててもいいよ。一緒にいられるならさ。もうすぐ、コンサートが近くなると、こんな風には会えないかもだし」
燎太郎は言うなり、乾いた笑い声をこぼすので、健吾はぎゅっと強く手を握り返した。すると、燎太郎の方も遠慮がちに握り返す。まだ、力を測りかねているようだ。
「あっ!」
「なに?」
健吾が小さく叫ぶと、燎太郎はびくりと身体を跳ねさせる。
「仕事してたら起きてられるかも」
「仕事はやめて」
名案だと思ったのに、燎太郎は即答で健吾の代案を却下した。
なんだろう、燎太郎は微笑んでいるのに……なんだか圧がある。
今日一日で、燎太郎は健吾に対する遠慮をだいぶ捨てたのではないか、とそう思う。物理的に握る力とか、そういうの以外は。
健吾はそれもまた、ありがたいことだ、と思った。
リザルトはティラミスといっぱいの惣菜パン。それをぶら下げながら駅へと向かった。
…◇…◆…◇…
株式会社オルドスコラでは、今日もインターンシップ生の佐伯美雨が健吾をちらちら見ていた。
健吾の席が窓際なのは、閉塞感を与えないためだ。窓の外もテトリスみたいにビルだらけだが、まだブロックが積み上がっていない部分の青空があるだけで、だいぶ助かる。
ビルの構造上、窓を開けっぱなしにしておくわけにはいかないので、健吾の傍らには空気清浄機が置いてあった。
完全禁煙のフロアなので、タバコの匂いがする訳ではないが、誰かがデスクの上で食べる昼食や、コーヒーのにおい。そういったものに対して配慮してくれている。
コーヒーといえば、美雨はいつも健吾にとっては甘すぎるコーヒーを片手にオフィスへと入る。
昔見たハリウッドの映画のようだと思った。具体的なタイトルが浮かぶ訳じゃないけれど。
そのカップからはいつも、砂糖を焦がしてクリームを入れたような、ああ……つまりキャラメルか。そんなようなにおいがする。
このフロアのデスクの上にはパーテーションが置かれているが、閉塞感を感じる時は外していいと言われている。
健吾は、申し訳ないとは思うが、美雨の視線を遮るために、畳んでおいたパーテーションを広げた。――本当は窓の外が見たいけど。
――六角さんってハッタショなん?
確かに、傷ついたっちゃあ傷ついたけど、曖昧な態度にバチが当たったのかもしれない、とも思う。
告白されたから真剣に向き合わないとって、そう思ったのは本当だけど。燎太郎に対する当て付けがほんの少しもなかったか、と言われれば、それも正直――嘘になる。
ドット絵のグラデーションは得意だが、心のこれはいまだに苦手だ。どちらかに「解」を付けたいと、そう思う。
パーテーション越しに、なんとなく美雨の視線を感じながら、燎太郎の顔が目の前に浮かび上がる。それはもう1200dpiくらい鮮明に。――これが「やましい」って気持ちなのだろうか。
健吾は、パーカーのファスナーを少し下げると、シャツの上からみぞおちに手を置いた。液タブの横に置いてあったマイボトルを引っ掴むと、ぬるま湯を流し込む。
それから健吾は目の前の作業に没頭していたので、周囲の音が止んでいた。
だから、気が付かなかった。昼休みの時間になっていることを。
とはいえそれは形骸化されていた、良い意味で。
フレックス制度が名ばかりではなく、割としっかり目に導入されているからだ。よって、ランチ休憩の時間も人によりまちまちとはいえ、集中が途切れた今のうちに、健吾も昼食を済ましてしまおうと思った。
パーテーションを外して、チェアのキャスターを半回転させると、本を抱えた美雨が健吾の横にボーッと突っ立っていた。何も言わずに。
健吾は、一気に心臓を縮めると、うわあと大きな声を出してしまった。チェアの背もたれが、いきなりかけられた体重にギシリと悲鳴を上げた。健吾と一緒に。
「すみません、声をかけたら驚かせてしまうかと、そう思いまして」
表情も変えずに、健吾を見下ろして美雨はこう言った。――いや、それも充分驚くんだけど。健吾はバクバクと心臓を忙しなく動かせながら、
「ど、どうしたんですか?」
と、尋ねた。情けないほど声がうわずってしまった。
「嫌だ、もう! 敬語じゃなくていいって言ったじゃないですか。私、年上とはいえ、六角さんの方が先輩なんですから」
美雨は小さく笑う。健吾はそうだったと思いながらも、社会に出ても謎ルールは消えない、むしろ増えてゆくばかりだと、頭を抱えそうになる。
「私、香水はするなとか、匂いの強いものは持ち込むな、とか。学校の細かい校則みたいなこと、会社でもまだ言われるんだって、そう思ってたんです。でも、それ、六角さんのためだったんですね」
相変わらず健吾をじっと下に見たまま美雨は続けた。
少々、言葉の端端に棘を感じなくもないが、その通りだと、健吾は改めてこの会社に感謝した。
高校生の頃から、インターンシップという名目で、長い間オフィスに出入りさせてもらえていたのは、健吾の特性との「すり合わせ」のためだった。
最初は、自分ひとりのためにここまでしてもらうのは申し訳ないのではと、そう遠慮していたある日、渡邊チーフ――健吾がこの会社で一番信頼している――がこう言った。
「まあ、専務がアナタの仕事に惚れた、っていうのが第一なことは間違いないけども」
この前置きの上で、同じ悩みや、あるいは違うことでも、配慮して欲しい人が他にもいた場合、前例があると安心して申し出ることができるから。そのような事を説明したチーフは、ひとつ結びの髪を揺らしながら、カラカラと笑った。健吾はそういった考え方もできるのか、と目から鱗が落ちる思いだった。
――辞めたくないな、この会社。
健吾は、ふと泣きたくなる。なぜ会社を辞めるという発想が出たのか分からないまま。
「で……ですね」
その思考を遮るように美雨がこう言う。そして、辺りを見回し誰もいない事を確認すると、健吾の隣のデスクからチェアを引っ張り出して健吾に向かい合うように座った。
さらに椅子を引いて距離を詰めようと、前のめりに体重をかける様子を見せたが、ワンテンポ間が空いたあと、何かを納得したように、まっすぐ座り直した。健吾がただその様子をボーッと見ていると、
「私、勉強してきました」
美雨は付箋のびっしり貼られた本をいくつか掲げた。本のタイトルには「発達障害」「優生思想」などの文字が並んでいる。
健吾が意図を測りかねてただ目を見開いていると、美雨は立て板に水といった様子で話し始めた。
「変なネットスラングをつい使ってしまったのは悪かったと思っています。でも、それは変なネットばかり見ていたからであって、今度からはちゃんとした本で理解します」
なんの話だろう、健吾は腕の産毛が逆立つ感触を覚える。美雨が何か言いながらも本をどさりと太腿に置くので、健吾はついそちらに目をやる。子どもの頃、親から『人の体をじろじろ見ちゃダメ』と、言われた事を思い出す。慌てて目を逸らしながらも、健吾にはどうしてもその服装が気になってしまう。
この会社には特に服装規範があるわけではないのに、美雨はいつもタイトなスカートに身を包んでいた。寒いし動きにくくないのかな、と健吾は思ってしまう。
「私の持論ですと発達障害でも結婚していいと思うんです。子どもを育てにくいのであれば、それは社会設計の方に障害があると、その意見に共感するからです」
……健吾も彼女が言っている事には賛同できた。自分の父母をずっと見ていたから、その結論を導くことは難しくない。
ふたりがどれだけ、支援に繋がるために足繁く行政や病院に通ってくれたことか。健吾にはよく分かっていた。
――しかし、今、ひょっとして、佐伯さんはぼくとの未来を想定して話をしているの? 付き合えないって言ったのに?
健吾はそのことに気がつくと、自分の胃液が上がってくる感覚を観測する。
「ごめん! ……ごめんね、佐伯さん! ぼく、お昼……食べなくちゃ」
まだ何か、美雨は言っていたが、健吾はその言葉を思わず遮り、リュックに必要最低限のものを詰め、逃げるようにエレベーターフロアへと小走りした。
背中から「ランチなら一緒に」と、聞こえたような気がするが、幻聴ならいいと思った。
――昔、親に『人を無視しちゃダメ』って言われたのに。
思わず非常階段へ飛び込むと、
「あ、でも、それ、あくまでもお友達や先生だけって言ってたな」
息を切らし、階段を降りながら、そうでないと「悪いことを考えている人」まで構ってしまうからと、そう言っていた。
もう見慣れ始めたと言っていい、健吾はそんな白い天井をボーッと見ていた。
会社のエントランスを抜け、さらに戸山口の西側出口を抜け、住宅街の方へ行けば公園だとか、ゆっくりご飯を食べられる場所があるんじゃないか、そう思いながら走っていたら、フロアの冷蔵庫に今朝握ったおにぎりを忘れて来たことを思い出し、健吾は完全にパニックになる。
今考えると、コンビニで何か買って食べればよかったのだが、会社に戻る気にどうしてもなれなかった健吾は、渡邊チーフに「体調不良なので早退させてください」と連絡した。
チーフを心配させてしまったが、なんとか家路につくことができた。家路といっても自分の家ではない。
――親には、こんな姿を見せられない、と思うのに、何故、燎太郎になら大丈夫なのか。
そんなことを思いながらも、鍵を回すと「これが〝合鍵〟ってやつなのか、本当にあるんだ」と少しニヤついてしまった。実家で使っているものも、合鍵と呼ぶ事に健吾は気づいていない。
それから、燎太郎の部屋で置きっぱなしにしていたスウェットを着て、燎太郎のベッドへ大の字で転がって何も出来ずにいた。
元素の周期表をぶつぶつ唱えていたら、玄関の扉が開く、と同時にこの部屋の主が大きな声を出す。
「健吾、大丈夫?」
健吾は首を捻って窓に目をやると、街灯がピカピカ光っているので、ああ、もうこんな時間になってたんだ、と首をゆっくり枕に沈め直す。
部屋の主はというと、コートを慌ただしくコート掛けに引っ掛けると、マイバッグをごとりと床に落とし、洗面台で水音をさせると、一直線にベッドに向かって来た。ふふ、また靴下で滑ってる、と、お部屋に厄介しているにも関わらず笑ってしまいそうになる。
燎太郎は、膝をついて健吾の顔を覗き込むと、
「大丈夫?」
改めて、こう尋ねた。
「すまない。厄介になってしまって」
「いいんだって、言ったじゃん」
健吾が布団の中で身を縮めると、燎太郎はいまだに心配そうな声を出しながらこう言ってくれた。
――何かあったら、なんでも相談してね。……まあ、なんでもっていうのは無理かもしれないけれど。それでも、ひとりで抱え込まないで欲しいって、おれからお願い。
あの日、恋人になったばかりの健吾の手に口付けられながら、燎太郎と交わした約束。今と同じベッドで。
「……人と人とを天秤に掛けるような真似をしたから、バチが当たってしまったんだ」
健吾はまた、みぞおちに手を置いて、胃液の逆流を抑えようとした。
「あれ? 健吾は非科学的なことって、検証なしには断言できないんじゃなかったの?」
燎太郎がからかうように、そっと手を伸ばす。そして、そのまま健吾の髪にふれ、指先を滑らせる。
健吾は余計にやましくなってしまう。言えない、あれは当て付けだったかもしれないなんて。
思わずぎゅっと目を瞑ってしまうと、
「何も食べてないでしょ? 白湯だけでも飲まない? 山芋とか豆腐とか、あとキャベツ、ふふキャベジンね。お腹に優しそうなの買ってきたから、食べられるの、あったら食べよ」
燎太郎の容赦なく優しい声が飛んでくる。健吾はそっと目を開けると、もう観念して燎太郎の目を見つめ、
「燎太郎、ちゅってして欲しい」
こう言うより他になかった。
「いいよ、どこに?」
健吾の髪を撫でながら、燎太郎は甘く囁く。そういうのってどこで覚えてくるんだろう。
「おでこ」
そう思いながらもしかし、健吾はこのキャンディボイスに逆らうことができない。
シーリングライトの光が遮られたかと思ったら、燎太郎の唇が触れる。
健吾は、今度は安心して目を閉じる。「ありがとう」お礼を言いながらも、――多くないか?
だんだん不安になってくる。
「ごめん、健吾。これ以上は火がついちゃうから、ね」
申し訳なさそうに燎太郎が謝ると、そっと立ち上がりキッチンへ向かった。
――どういった原理で? 摩擦?
一回でよかったのに、燎太郎って意外と天然なところがあるんだよな。
寝る前は変な事を考えてしまう、そう思いながらも健吾は、包丁がまな板を叩く音を遠くに聞いていた。
お出汁でクタクタに煮たキャベツ、別に塩茹でされた長芋を乗せてある。丁寧な仕事だ。料理って本当に「その人」が出るよなあ。
健吾はまだ寝ぼけ眼で、目の前の胃に優しいメニューを眺めた。
「今日はコタツで食べよう」
諸々の準備を終えた燎太郎が、黒い布団をめくって健吾の対面に座った。
「すまない、手伝いもしないで」
しかし、無理に手伝ったらばこの、特にブランド物でもないだろうに品のいい食器をいくつか割ってしまったかもしれないと健吾は項垂れる。
「いいって、無理しないでってば。食べられる分だけでいいからね」
思った通りのことを燎太郎は言ってくれるが、健吾はため息を噛み殺し、お粥におさじを入れた。口当たりのいい細長いシリコーン製。
ちみちみとお粥を口に運びながら、
「スマホであらかたを言ったけど」
健吾はこう切り出す。
「うん」
燎太郎も、箸を止めて顔を上げる。
「どうしよう、まさか付き合えないって言ったのに、諦めてないとは思わなかった。もっとはっきり嫌って言わないとダメなのかな」
健吾はそう言いながら、自分の顔が思い切り顰められたであろうことを感じた。対面の燎太郎も静かに右のこめかみを指先で叩いている。
しばらく、何かを考え込んでいた様子の燎太郎は、意を決したように口を開く、
「悔しいけど、『嫌だ』ってことが、伝わってないのかもしれないね。きっと断られたって気づいてないんだよ、あるいは無意識に信じたくないって思ってるか」
目を伏せこう言うと、燎太郎はまた静かにこめかみへと手をやる。
健吾は土鍋の湯豆腐――昆布が一枚ぺろっと乗っている。をよそおうとしたが手が震えていたので、
「おれがつぐから、ね」
燎太郎が健吾の手から、とんすいとおたまを優しく奪い取る。
「すまない……」
健吾はまた謝るしかできなかったが、燎太郎は静かに首を振った。
「ありがとう」
健吾は言葉を変えた。燎太郎は静かに微笑む。
「健吾、もうはっきりとパートナーがいるって言っちゃった方がいいかもしれない。もちろん『人生の』だよ。ただし、良い方に転ぶかどうかは五分五分って感じの怖さはあるけど」
とんすいを健吾の手元へ静かに置きながら、燎太郎は苦渋の決断を下す。
ただ、健吾もやはり、その方がいいと思っていた。
「うん、燎太郎だって分かるようなことは絶対に言わないから安心して」
健吾はそう言ったあと、しまったと思った。こんな言い方では燎太郎のことを隠しておきたいみたいだ。
「ふふ、おれとしては『こういうことですので』って目の前で言ってやりたい気持ちはあるよ」
しかし、燎太郎は鼻に皺寄せ、戯けた様子だ。ただ、目は笑っていない。この間のショッピングモールよりも明らかに。これが「目が据わっている」という状態なのだろうか、健吾は息を飲む。
「たださ、現実問題として、危ないのは彼女の方だよ。健吾が目の前で傷つけられたら正気でいられる自信はないし。おれは、物理的エンカウントはなしの方向で」
そう言いながら、燎太郎は「はーっ」と大きく息を吐く。健吾の真意が適切に伝わったことに安心しながらも、人生で一番大きな燎太郎の声を思い出す。文化祭準備の放課後。――あの時も、ぼくを困らせたのは女生徒だった。
健吾は、それが偶然ではないだろうことを、とても残念に思う。
オルドスコラのグラフィック制作班フロアでは、今日もキャラメルの香りが漂う。
燎太郎には、本当に今日で大丈夫か何回も確認されて心配させてしまったが、ノートPCと液晶タブレットを置いて出てしまった以上、出社するしかなかった。
それに、楽しくなって来たところだったのに――服の皺の質感、一番こだわっている大トロの部分に差し掛かっていた。
彼女のせいで中断されるのもシャクだ、そう言ったら燎太郎は渋々といった様子で納得してくれた。
これで美雨の方が来ていなかったらズッコーなところだが、ちゃんと、というべきか出社して、パソコンの前で甘いコーヒーを啜っていた。
健吾は右方向に視線を向けて、彼女の方を窺ってしまいそうになるが、確実に目が合いそうだと、そう思ったので、パーティションの奥へと、深く潜って作業した。
健吾は社内チャットを使った。私用でも使っている人は他にもいたし、なんなら余談が飛び交う時もある。だから問題ないだろうと思った。佐伯美雨個人宛にメッセージを送る。
よく「アットホームな職場」は何かの隠語だと、茶化してそう言われることが多いが、「オルスコ・グラ制作班」においてはストレートな意味で家族的な温かさがあった。私用で使われる社内チャットが悪用された事例を聞いたことがないな、と健吾はふと思い出す。
健吾は、ここを逃げたくないな、と改めて思った。
「六角さん、昨日は体調不良で早退されたそうで。大丈夫でしたか? あの、でも私と話してる時もそうだったんですか? もし違うなら、話の途中でいなくなるって酷くないですか?」
いきなり質問攻めにあってしまう健吾。美雨をどこに呼び出そうか迷った挙句、非常階段の踊り場に来てもらうことになった。
ひんやりとした防火扉も、会話を遮ってくれるだろうし、オルスコの社員は、基本的に運動嫌いが多いので(統計を取ったわけではないが)人が来ることもあまりないだろうと思った。
扉も手すりも、階段も白いのは少し怖い空間だと思うけれど、長々と話をするつもりもないのでいいかと思った。ふたり向き合って、健吾は防火扉の方に立たせてもらった。白い階段が目に入ると、情報量が多く目が疲れてしまうので。
冷たい風が吹き抜ける。
「うん、それはごめんね。途中で帰ったりして。でも、今日はその事について話しておきたいことがあって、佐伯さんに来てもらった」
美雨は「はあ」と、気の抜けた返事をした。
「あのね、本とかいっぱい買ってもらって、申し訳ないんだけど、ぼくパートナーができたんだよ。人生のね。恋人って言えば通りがいいかなあ」
防滑性ビニル床シートがぬめりと光る。チラリと美雨の顔色を窺うと、口を軽く開き遠くを見つめ、何かを考えているようだった。
「え、つまり。六角さん、彼女さんがいるってことですか? え? 『特性を理解してくれたらいい』そんな感じのこと、言ってましたよね?」
健吾は、そんなこと言った覚えはない、と焦ったががまずは肝心なところを訂正しようと思った。
「いや、違う。彼女さんじゃない、彼氏だよ。ぼくのパートナーは彼氏、うん」
さらに口をあんぐり開けて固まる美雨に向かって、健吾は何度も頷いた。ファクトは明確にしておかないと、そう思って、また頷くと、美雨はついにどこもみていないような、焦点の定まらない目をした。すると、
「変な嘘つかないでください!!」
美雨がにわかに大きな声を出す。
――しまった、やっぱりこの場所失敗だった! 大声が反響する。
健吾は身を縮め耳を塞ぐと、また心臓をバクバク忙しなく動かす。
そんなことを考えている間に、美雨は健吾の横をすり抜け、バタンと大きな音を立てながら非常階段の向こう――職務へと、帰って行った。
静寂が戻ったはずの空間だというのに、まだわんわんと耳の中が騒ぐ。
「え? 理解するって言ったよね? なら、大声は真っ先にやめて欲しいんだけど。え?」
――『変な』嘘ってなに?
健吾はジンジンと痛む耳を押さえたままひとりごちると、自分の声まで遠く聞こえた気がして、途方にくれた。
「悪い方に転んじゃったかあー」
パートナーは、前髪に手を当て、大きく息を吐くと、その手をこめかみに移動させ、指先で叩く。
健吾は、今日の仕事はなんとか踏ん張ったが、何かがプツリと切れてしまった。
何かって何だろう、緊張の糸……それってどこにあるんだ。
そういえば、燎太郎はこの話題になるとよくこめかみを触るけど、そこは浅側頭動脈が通っているところだ。何かあるのかな……。
いや、今はそのことではない。
オレンジ色の間接灯が灯る下、コタツで作戦会議を開く。コチコチと時計が針を進める音が響くので、健吾は重い口を開けた。
「あのね、元々ぼくのパフォーマンスが上がるならって、フルリモートを検討してもらってたんだけど、それ前倒しにしてもらえる事になった。はあ、チーフを心配させてしまったよ。彼女にだけは事情を話したけど、大事にはしないで欲しいってそう言ってある」
燎太郎は、深く頷いた。
「そうだね、いざとなったら相談できるところに相談する事も考えるけど。何事もないならそれで」
そう言いながらも、目の前のパートナーは複雑そうな顔で浅側頭動脈を弄んでいる。
健吾はこの部屋を見渡す。黒を基調とした家具と、差し色のようなオリーブグリーンのベッド。この部屋の持ち主が、自分の居場所として丁寧に整えたのだろう……。
「あのね、フレックス制とはいえ、空いてる電車を探すの大変だったから、助かったちゃ、助かったけど。それでね……」
燎太郎は、ただ頷いて健吾の話を聞いていた。
「それで、その……。見たところこの部屋はワンルームだし、言いにくいんだけど、あの……」
健吾は、燎太郎が動きを止めるのを見た。
こめかみに置かれていた指が、ゆっくりと下がる。
「リモートの作業、ここでやらせてもらえる事ってできるかな? その、いわゆるその、転がり込むっていうか、そういう形になると思うけど」
健吾は一拍、息を吸う。燎太郎はみるみると目を見開いてゆく。健吾は思わず下を向いてしまう。
「こう見えて、結構怖いんだよ。側にいてくれると、助かる」
最近では鼓動を早くする事が増えているな。これでは寿命が縮まってしまう。非科学的な話ではないぞ、生物というものは一生分の心拍数が決まっているからだ。……いや、そこはまだ一般化された定説ではなかったか。そんなことを考えながら燎太郎の顔に再び目をやると。
――やっと、あの街から魔女を連れ去る事が出来た。
そんな感じの、不敵な笑みを浮かべていた。




