二章 リバーブのちゲネラルパウゼ
燎太郎は山手線に揺られていた。今度は明白な目的地を持って。
トレンチコートからあの日回収した曇った眼鏡は、きちんと超音波洗浄機にかけた。
――健吾が笑うなら、おれはしまいこんだ眼鏡をちゃんと忘れないくらいに、まともに頭を働かせることが出来るんだ。
いや、それは違うな。それはただの「笑顔泥棒」だ。燎太郎が健吾に求めることはそんなことじゃない。
黄色い西陽に眼鏡を閃かせながら、燎太郎はその奥で眼光も一緒に閃かせた。
揺られていた、と言っても埼京線から乗り換えた池袋の先、二駅の高田馬場駅。
高田馬場、といえばあの有名な壁画を思い浮かべる人が多いだろうが、戸山口はもっと四角いビル街だ。
直線的に張られた電線はまるでタイトロープダンシング。
夕日と一緒に落っこちてしまわないように、この迷宮みたいな街を進む。ジオラマに迷い込んだ小動物みたい。
あの日、サイゼで見せてくれたスマホの端末。
指の動きに合わせて上下に流れて行ったあのコワーキングスペース。この小動物のゴールはそこだ。
健吾は、よほどのことがない限りルーティンを崩さないだろう。
しかも、あのはしゃぎようは本当にあの場所を気に入っている様子だった。きっと健吾の秘密基地に違いない。
ベンゼン環のアカウントだってそうだった、健吾はお気に入りの場所をいつも真っ先に燎太郎へ教えてくれていたというのに。
――もし、他の誰かが使っていたら、間違えました、と帰ればいいさ。健吾に帰れと言われてしまったら、その時もやっぱり帰るしかない。
ただ、燎太郎には「ぼくはいつもここに逃げこんでいるから」という僅かな健吾からのSOSであるという可能性も捨て切れなかった。
小数点以下でも、その可能性があるならば、燎太郎はそれを絶対に見逃さないようにしようと思った。
スマホに表示された地図を念入りに調べる。確かにこの名前だった、と思う。
ビルの前に設置された立て看板の写真も、あの夕暮れのテーブルで見たものと同じだと思う。思うばっか。
ビルエントランスの自動ドアを潜ると、今度はマンションの共有エントランスホールのような一室がある。
そこから更に、ガラスを隔てたところに受付ブースみたいなものが見えた。
ただ、金属製の頑丈そうなドアが一枚、門番のように立ちはだかっているのでそこへは進めない。
燎太郎は辺りを見回すと、オートロックを解除する時のあのボタンが見えたので、「受付」というテプラが押された番号を押した。
ガラスの向こう、受付ブースにいる従業員が、受話器のようなものを持ち上げるのが見えた。
「あの、六号室の、個室ブースに用事があるんですが」
プツッと電話が繋がったような音がしたので、マイクと思われる、放射状に穴がいっぱい空いた部分に向かって燎太郎はこう言った。
『大変失礼ですが、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか』
受話器の向こうから声がした。
「あの、友人です。……友人です。冷泉燎太郎といいます。ここにいるって聞いたから、会いに来ました」
また、ちょっとだけ、嘘をついた。
いくつかやり取りを交わすと、インターホンが六号室に繋がった気配がした。サーっとホワイトノイズが走る。
「健吾、冷泉です。冷泉燎太郎。話したいことがあるから開けてください」
こんなにノイズよ途切れないでくれ、と思ったのは初めてだ。
『燎太郎? 本当に燎太郎なの? うん……分かった待ってて』
いつもと周波数の違う健吾の声。よかった、いてくれた。よかった、開けてくれる。
燎太郎は今すぐにくず折れてしまいたかったけど、なんとか耐える。
門番ドアの鍵を開けてくれるのだと思っていたから、じっと凝視していたが。門番はうんともすんとも言わない。
――また、引かれてしまったのか。
燎太郎は、次に来る人の邪魔にならないよう、少しドアから離れた壁に背中をくっつけて待った。
Toréador, en garde ……Toréador,Toréador……
燎太郎は帰るべきか、踵を返してしばらく立ち止まる。――だめだろ、さっき潔く帰るって言ったじゃん。
Et songe bien, oui, songe en combattant……
泣きたい。
燎太郎は重い体をどうにか持ち上げようと小さく呻く。
ガチャリとデッドボルトの引っ込んだ金属音。
燎太郎は慌てて振り向く。
「……すまない。待たせたね」
荷物を纏めた健吾が門番を突破していた。
燎太郎は、つい真っ先に健吾の目の下を見る。大丈夫、クマは出来ていない。ちゃんと寝てはいるようだ。
「なにか、あった?」
ダッフルコートに身を固めた健吾が、遠くを見つめながらこう尋ねた。――それを訊きたいのはこっちなんですが。
しかし、燎太郎は、健吾がホールの真っ白な壁にくっきり浮かび上がるのが不気味に思えて、早くここを出ようと思った。
「健吾、ご飯食べてないでしょう。ご飯食べようよ、一緒に」
とは言ったものの、週末の東京はどこもざわざわと賑わっているだろう。今の健吾にとってそれは攻撃に近い。
どこか落ち着ける所……。
「ウチで食べよう。そして、ゆっくりしなよ、たまにはさ」
燎太郎はこんな時に、案内できる場所が自分のあの防音室しか思い浮かばないことが、もどかしかった。
健吾は何も言わないけれど、まあ、お好きなように、と自動ドアに向かって歩き出す。燎太郎は、健吾のすぐ斜め後ろに続く。
ジオラマを歩く小動物が仲間を連れて来た。紫とオレンジのグラデーションの下をぽてぽてと進んで行く。
駅の構内まで入ると、早く来たつもりのはずが、思ったより出来上がった人たちが歓声を上げて、楽しそうにしていた。
――嘘だろ、こんな夕方から?
「ごめん、健吾。電車混んでるかもね」
燎太郎は健吾の耳に少し近づいて、出来るだけ低い声、かつ聞き取りやすい範囲の声域で囁いた。
「……まあ、燎太郎がいるなら大丈夫と思う。壁になって」
健吾が進行方向を向いたままこう答えた。高校生の時、鉄道博物館に遊びに行って、その帰り道でもそうした。
こんな時でもその役割が嬉しいなんて、自分は最低だ。
「山手線乗るよ、池袋で一回だけ乗り換えたら、あとは一本で行けるから」
燎太郎が続けると、健吾はこくりと頷く。さっき「荷物持つよ」と声をかけた時はふるふると振られてしまったが。
鉄っけを纏った風を潜り抜け、池袋の駅を歩く。埼京線のホームまで人の流れに乗った。こんな時に自分の体の大きさはありがたい。自分がすぐ後ろから目を光らせていたら、健吾にぶつかってこようとする輩はいないだろう。
沢山の人の群れ、その中にそんなことをする人を隠しているかもしれないなんて、燎太郎にとっては非常に怖いことに思えた。
ホームの上に並んだ家路に帰る人たち、一斉に鉄の塊へゆっくり吸い込まれてゆく。
燎太郎は、運良く開かない側のドア前を確保したので、健吾をドア側に寄せた。自分たちはいわゆる「狛犬」ポジションに陣取る。狛犬を庇う狛犬。そう考えるとちょっとシュールだ。
燎太郎はドアに肘を付けて、文字通り健吾を囲う。冷たい銀色、車内広告の枠組みが少し癪に触った。
健吾はもそもそとパーカーのフードを被る。リュックのフチでゆらゆらと、赤地に白い十字マークのカードが揺れた。
健吾は、
「ぼくは、席を譲ってもらう必要がないからね。いつもはリュックにしまってる。パニックになって言葉が出なくなった時、緊急連絡先……まあ親だけど。それだけ用意したくてね。ねえ、冷泉くん。パニックになった時にこれがあることをスムーズに伝えるには、どうしたらいいだろうか」
と、燎太郎に相談したことがある。その時は、上手い答えが見つからなかった。
でも、親切な人が自分のために手間をかけることが申し訳ないこと、そして、そのやり取りすら健吾の負担になってしまうこと。それだけは、痛いほど分かった。
なのに、今。その小さなSOSをどうして掲げるようになったのか――そしてその理由はおそらくSOSではないだろう。
燎太郎はその心境の変化を考えると、胸を掻きむしりたくなってしまう。
健吾がうとうとと、眠気に抗っていたが、とうとう燎太郎の胸にコツンと額を預けてしまう。
黒いフレーム、健吾の眼鏡が、燎太郎の胸に少し食い込み、痛かった。
三十分弱の旅路を終え、
「健吾降りるよ、ごめんね、この駅も情報量が多いんだけど……」
燎太郎が健吾に声をかけると、
「うん、知ってる。いつも燎太郎の家に遊びに行く時に降りてる。それに、県民でこの駅を使ったことがない人は、ほとんどいないでしょうに」
健吾がからかうようにこう言った。良かった、まだまだ憎まれ口を叩いてくれる距離にいてくれている。
健吾の後ろをゆっくり歩きながら、ペデストリアンデッキに差し掛かると、プラカードを掲げていた人がわざわざそのカードを下ろして「大丈夫ですか?」と、声をかけてくれた。
燎太郎はゆっくり頷くと、深々と頭を下げた。
ドバトがちょこちょこと歩いているのを見ながら、
「ドバトだ」
と健吾が呟くもので、爆音のモニターからも気を逸せて良かったと思った。
最近では、動物にまで助けられている。痛み入る。
健吾を先に玄関に入れ、燎太郎が体を捻らせながら鍵をかけていると、
「ふう」
と、健吾がひと息ついたのが見えたので、それだけでこの部屋を選んで良かったと思った。
健吾を廊下に上がらせたあと、その横をすり抜けるように追い越し、急いでエアコンとコタツの電源を入れた。
――しまった、手、洗わないと。
健吾は言うより先に洗面台に向かっていた。これもルーティンだ。
入れ違いに、燎太郎も素早く手を洗いながら、
「コタツの上に荷物置いていいからね、そしたらコタツ、入ってあったまって」
と健吾に声をかけた。
もそもそと布団を捲り、健吾は言われた通りにその冷えた足を遠赤外線の下に突っ込んだ。
燎太郎は、コートを脱いで柔らかいネイビーのカーディガンになると、スチールのコート掛けからキッチンへと小走りする。立ち止まった時、ソリの要領と靴下の摩擦係数の関係で、ツツーっと廊下でドライスキーを披露してしまった。恥ずかしい。
健吾が脱いだコートを、畳んで傍らに置いていたので、
「それも掛けようか? コートちょうだい」
と、燎太郎が手を伸ばすと、
「いい、すぐにおいとまするから」
と、健吾は断った。燎太郎は、
「そっか」
と、答えた。
燎太郎はキッチンで改めて手を洗うと、
「何かすぐに食べられるようなもの、あったかな」
冷蔵庫の中身を確認する。ひとりごとでもあったし、健吾に聞かせる言葉でもあった。
「今は、いらない。お腹空いてない」
燎太郎はそんな訳ないのでは、と思いはしたが、
「そっか、じゃあさ。ハーブティーだけでも飲もうよ。あったかいもの、お腹に入れよ」
そう答えた。
黄色いクマの描かれたマグカップが二つ、コタツの上でほかほかと湯気を上げた。
こんな感じのマグカップ、ずっと欲しかったけど、ある時から実家ではカップアンドソーサーしか置かなくなった。
燎太郎がその重たいマグを持ち上げて、カモミールを堪能すると、対面の健吾も持ち手に指を通す。
しばらくふうふうとハーブティーを啜りあっていると、
「燎太郎は食べていいのに」
と、健吾がポツリと呟いた。
「いや、おれも後でいいや」
実際に燎太郎は、ちょっと、食欲がなかった。
少し体を捻りラックへ視線を向け、
「あ、玉子スープとかなら食べられそうかな、フリーズドライだけど」
燎太郎がストックを確認していると、
「もう、ぼくに世話を焼かなくていいよ」
健吾が吐き出すようにこう言った。
燎太郎は、心臓がトクリと跳ねる。針を刺されたみたい。
「……どうして、そう思うの?」
健吾がマグカップをコタツに置いて、斜め下を向いてしまったので、燎太郎はそう絞り出すだけで精一杯だった。
「逆に、燎太郎はどう思うの? どうしてそんなにぼくの世話を焼きたがるの? 最初に傘をさして送ってくれようとした時もさ……」
健吾はそこまで言うと、完全に下を向いてしまった。
――どう思うって、それは……。
「燎太郎はさ、ぼくがいると、泣いちゃうから」
下を向いたまま、途切れ途切れの健吾の言葉に、燎太郎は凍りつく。
自分は健吾のおかげで泣けるようになったと思っていた、そうか、それを伝えなきゃ。
「……あのね、健吾。おれは健吾のおかげで泣けるようになったんだよ。小さい頃から、泣きたくても泣けなくて、それでやっと。ねえ、おれが泣くのはいけないことかな?」
言いながらも泣きたくなるが、健吾を更に追い詰めてしまうだけだから、必死で押し込める。
「違う、涙そのものの話じゃない。燎太郎はぼくが一緒にいると、泣かなきゃいけないような状況に追い込まれてしまう。燎太郎にとっては負担だし、損失だ」
健吾の目が月の光を反射する。と、いうことは、健吾自身の目は光を湛えていない。
「おれには健吾しかいないんだよ……その、友達が。いや、違うんだけど、いや……違わなくて」
会話が繋がっていないとは思ったが、燎太郎にはそう言うことしか出来なかった。
ダメだ、こんな言い方では健吾には伝わらない。分かっているのに、出来ないこともある、燎太郎は前髪に手を埋めた。
「健吾はそうじゃなかったのかなって?」
これじゃあ、「やーい、お前も友達なんかいないだろう」と挑発しているみたいだ。ちゃんと言わないと。どうして出来ないんだろう。
「それは嘘だよ燎太郎。キミは優しいから、孤立しているぼくを放っておけなかっただけだ。それに、キミはきっと、大学に友達がいっぱいいる。文化祭の時だってあんなに頼られてたし、きっと……新しい相棒だって」
「相棒は健吾だけだよ!」
聞き捨てならないことを健吾が言うので、思わず語気を強めてしまう。燎太郎の方こそ、健吾がゲームグラフィックスの専門学校に進んだ時、どれほど肝を冷やした事か。健吾は分かっていない。
それでも、荒い声を出したことに変わりはないので、燎太郎は「ごめん」と呟き、拳を自分の口に押し当てて首を捻る。
すると、視点を変えてみたからか、今まで思いもよらなかった事が頭を掠めた。
――あれ、健吾もおれと同じなのでは、まさか、でも。
「……ひょっとして、健吾、妬いてる……の?」
声を潜めてそう尋ねながらも、思わず正座してしまった。
すると、健吾の口元がかすかに動く、聞こえるか聞こえないかの声で、
「うん」
と、こう答えた。
燎太郎は無意識に立ち上がり、いそいそとコタツの角を小回り。健吾の横まで距離を詰めた。
今まで、言葉を尽くしてきたと思っていた。でも、肝心なことを言っていなかったし、言葉では足りないものがあるなんて思いもよらなかった。
燎太郎が健吾の隣に腰掛けると、健吾は顔を上げて「え? どうしたの?」と、オロオロしていた。
「ごめん、健吾。ぎゅってさせて」
体温を分けて伝えようと、そう思っただけなのに、勢い余って健吾にタックルするような形になってしまった。
「ああ、ごめん健吾! 頭とか打ってない?」
燎太郎は慌てて、腕立て伏せの要領で上半身を起こした。
「うん、大丈夫。クッションあったし」
クッションに埋もれた健吾の顔、なぜかきょとんとしている。今までで一番近い距離、ぱちりと目が合うと、
「キスしていい?」
燎太郎は思わず口にしていた。
「え? なんで?」
ガツンと後頭部を殴られた。
健吾が「初見」のシチュエーションに出くわした時、反射的にこう尋ねることは知っていたが、大男の燎太郎に華奢な健吾が組み敷かれているようなこの状況。
――断れるわけがない。
燎太郎は一気に青ざめると、
「ごめん! ごめん健吾!」
慌てて起き上がる。健吾の腕を引いて座り直してもらった。いや、いただいた。いや違う、おれがバカでした。
――おれはポーンだ、ナイトみたいにマスを飛び越えるなんて出来ないし、しちゃいけない。
相変わらずきょとんと燎太郎の目を見て座っている健吾に、まっすぐ向き合い燎太郎は続けた。
「あのね、健吾。言わなきゃいけなかったのに言えなかった。おれは健吾の事がなにより大事で大好きです。それはつまり、友達としてじゃなくて、パートナーになって欲しいということです。ゆくゆくは人生の。だから、あなたに触れたい。体温を分かち合いたいんだ」
――やばい、泣きそうだ。でも堪えないと。今までたったこれだけの事が言えなくて、この世界一愛しい人を苦しめていたなら。
健吾は目を見開いて、じっとしている。鼓動は打楽器を超えてドラが鳴り狂っていた。――やばい、なんでもいいから何か言って。ドラってそんなに鳴らすものじゃないじゃん。
その時、月が冴え渡る。雲が晴れたのだろうか。燎太郎は、邪魔だな、とつい窓の外に視線を奪われそうになる。青白い光は健吾にも毒なような気がしたから。強すぎる。立ち上がってカーテンを引こうか迷っていると、
「いいよ」
と、音が聞こえた。意味はまだ脳に届かない。ある意味、予想出来なかった言葉でもあるし、望んだ通りの言葉でもあるから。重なっている。ここでもシュレディンガー。
「ぼくも、燎太郎の事が好きだし、触れていたい。だから、いいよ」
健吾は、少し俯いてこう答えた。
「ほ、本当に?」
燎太郎は、涙を一粒だけ、こぼした。
「こんなことで、嘘ついてどうするの」
世界で唯一、いつまでも聞いていたい、可愛い憎まれ口。
健吾が静かに、しかし力強く頷くから、燎太郎も頷き返して顔を寄せた。
かつん。
お互いの眼鏡が先にくっつく。なんてベタな。
ふたりとも、思わずくすくす笑ってしまう。――よし、これで完全に冷静になれたと思う。
燎太郎はもどかしく眼鏡を脱ぐと、コタツに置いた。健吾も同じようにしていた。
改めて向き直ると、健吾は観念したように目を閉じた。いや、観念させてどうするんだ。
しかし、健吾はかすかに全身を震わせていた。
燎太郎は本当に大丈夫なのか不安になる。どうしたものかと、拳を顎に当てしばし考え込むと、はたとした。
――なるほど、自分も震えてる。
燎太郎は自分の顎から下唇までの振動を感じた手を、健吾の顔にそっと触れさせた。表皮の冷たさは緊張からくるものだろうが、それ以上にその奥で、健吾の頬に血の管が通っていることを感じる。
次に、人中と上唇の境目をなぞるように撫でた。一度、二度、三度。次に口角を軽く押してみたりする。
「健吾、口つけるね」
燎太郎がゆっくりと確認すると、健吾は目を閉じたまま頷く。
小鳥が啄むよりも弱々しく、素早く燎太郎は健吾の唇に触れた。
それでも、頭がくらくらして鼓動がパンクしそうだ。頭が痺れるとはこのことか、と燎太郎は身を持って知った気分だ。
健吾が目を開けて、燎太郎の目を覗き込む。お互いの吐息が鼻先を撫でる。
「健吾、大丈夫?」
「うん、ドキドキするけど……もっとしてみたい」
少し掠れた健吾の声を合図にして、再び燎太郎は健吾の顔にキスを落とす。
さっきが啄みならば、今度は唇で唇を軽く挟んで噛むようにした。
昔の漫画では「キスをする時は目を閉じるのがマナーよ」なんてセリフを読んだことがあるような気がするが、燎太郎は健吾が嫌がるそぶりを見せないか、窺ってみる。
一度、顔を離すと、また指先で健吾の唇をそっとなぞる。健吾はまた燎太郎の目をじっと見た。そこに拒絶の色は見えないようで、燎太郎はほっと安堵の胸を撫で下ろす。
「舌、入れて大丈夫?」
燎太郎は尋ねると、健吾の髪に手をやりそっと指を滑らせる。いつも彼がぽりぽり掻いている、ぺたりとした黒い猫毛。
それこそ猫のように、燎太郎の心臓は飛び跳ね回っているかのようだ。
ふと、健吾が燎太郎の顔に手を伸ばす。拒否のサインかと思って燎太郎はヒヤリとした。一気に体温が下がる思いになる。
「うん、ちょっと怖いけど大丈夫」
健吾は答えると、燎太郎の顔を引き寄せた。健吾なりに燎太郎に触れようとしてくれているのだろうと考えると、今度は胸が締め付けられるように苦しくなった。
みたび、口付けを交わす。燎太郎はつい衝動的に健吾の体温を強く吸い上げそうになってしまうが、堪えた。
健吾をびっくりさせてしまう。痛くさせたり、不安にさせたりは絶対したくない、衝動に身を任せてはいけない。
お互いの吐息と鼓動がめちゃくちゃに混ざり合うので、また燎太郎は顔を離した。
健吾はその度に燎太郎の目を見る。
「一度、絡めてしまえば怖くないね」
照れくさそうに健吾が言う。燎太郎はほっとして、
「本当に?」
と、答えた。答えたというか、小さな確認だった。健吾はどこか気の抜けたように「うんー」と間延びした声を出すもので、燎太郎はまた健吾に顔を寄せる。
しばらく口付けを交わしていると、燎太郎はそっと顔を離す。そして、
「健吾、服脱がしちゃっていいかな?」
と、尋ねた。燎太郎はそこまで進んでいいのか、ためらっていたが、
「うん、いいよ」
健吾が、まっすぐ答えるので、燎太郎は彼のパーカーのファスナーに手をかけた。
パーカーの前見頃をそっと掴むと、健吾の腕からするりと落とす。
舞台の幕が開ける時みたいだと、燎太郎がそう思っていると、ボーダーのシャツが健吾の肺に押されて上下している。
シャツの裾を捲って肌が顕になると健吾は、
「恥ずかしいな……」
と、呟いた。
燎太郎は慌てて、
「ごめん!」
と、シャツの裾を戻す。荒くなった呼吸を整えるように息をゆっくり吐きながら、ごめんなさいでした、とばかりにさっき捲った部分を左右にゆっくり撫でていると、その手に健吾の手が重なる。
燎太郎が驚いて健吾の目を見ると、
「恥ずかしいけど、嫌じゃないよ」
彼はまたまっすぐに燎太郎の目を捕らえながら、悪戯っぽくこう言った。
ふたりはお互いの服に、手をかける。
――高校生の頃。
燎太郎がよく遊びに行っていた健吾の部屋。ウレタンの吸音材が張り巡らされた二人の秘密基地。
そこではいつもマウスクリックの音が規則的に響いていた。健吾がドットを打っているからだ。燎太郎はそれを眺めるだけで楽しく、また点が重なると同時に、自分の目や肺の奥にも暖かい炎が積み重なり、熾火のようにゆらゆらと揺れていた。
そんな時間でも健吾はうとうとし始める。授業の後にさらにドットを打つという作業を重ねているのだから当然だと、燎太郎はいつも苦笑いを浮かべていた。
健吾は時々、
「ごめん、もう限界。ちょっと横になっていい?」
と、空色のベッドに横たわる時があった。燎太郎はそんな時はいつも、
「おれもいいかな?」
と、一緒に昼寝を申し込んでいた。
「いいよー」
と、健吾は半分寝ているふわっふわな声で応じてくれるので、燎太郎は遠慮なくお邪魔していた。
――今考えると、図々しくて笑う。
健吾のベッドで横になった時に目が覚めると、燎太郎は無意識に伸ばした手で、いつもベッドの主を手繰ように引き寄せていた。
最初は慌てて自分の腕を外そうと思っていたが、ふと、濁流の中でしがみつく大岩を離すような恐怖に襲われて、どうしても、そのまま。
健吾に身を寄せ合うしかなかった。あの頃は、その距離感がなんなのかよく分からなかったけれど。
今、自分の防音の部屋で、オリーブグリーンのベッドで、さっき貸した自分のパジャマを着た健吾が燎太郎の腕の中で寝息を立てていた。自分にとっての大岩。
燎太郎は、こんな日も健吾という安全地帯にしがみついているのかと、また苦笑いをこぼす。
触り慣れたはずの生地が、今日はいつもりよりザラついて感じる。その違いを確かめるように指を滑らせていたら、
「なんか、高校の時みたいだね」
と、寝息を立てていたはずの健吾が言うので、燎太郎はギクリとした。
「……バレてた?」
あんなに熱を帯びていた体が一気に冷える。
「うん、でも大丈夫だよ。嫌だったら嫌だって言ってるから。心地良かったよ、燎太郎が安全地帯みたいでさ」
……そうか、健吾も。
ギュッてしていい? と、訊くより前に燎太郎のお腹が重低音を響かせた。
「……ごめん、おれだ」
燎太郎は、今度は恥ずかしさで耳を真っ赤に染め上げた。
「大丈夫、燎太郎のお腹の音は覚えた」
健吾が、燎太郎の腕をするりと抜け、えいっという感じで起き上がった。何か食べよう、と誘ってくれているのだろう。
……いやあ、食べ盛りは落ち着いたと思ったのになあ。
居た堪れず、へらりと笑っている燎太郎の目に危なっかしい光景が映る。
よたよたとベッドから降りようとする健吾の袖が、全く指を通していない。
「危ない、危ない健吾。そのまま歩いたら転けちゃうよ」
燎太郎は慌て飛び起きると、ベッド上、健吾の経路を確保しやすくした。そして、一旦ベッドの端に座らせる。
「燎太郎のパジャマ大きい……」
「ふふ、ごめん」
健吾がパジャマの袖を捲り始めたので、燎太郎はベッドから降りると屈んで裾の方を捲る。
「いや、文句じゃないよ。感想。いや、そして自分で出来るから」
「そうだね、分かってるよ」
やんわりと、燎太郎の手を健吾が振り払うので、燎太郎は座って恋人の支度を待った。
「昨日の残りだけど、甘口カレーでーす。これ、使っちゃおう」
冷蔵庫の前で、お料理配信のように、少し芝居がかった口調で、燎太郎はカレーの入ったフードコンテナを軽く掲げた。
「おお、いいね。カレー」
エプロンの紐を結びながら、健吾が笑みを浮かべた。
チャコールブラウンのカーテンが、強すぎる月の光と、向かいのタワーマンションをしっかり遮っている。
いつも健吾が遊びに来るとき、一緒に料理をしたりすることがあるので、エプロンは二着用意していた。
シンプルな、ギャルソン風の黒いロングエプロン。
「ふふ、なんかパジャマの上からエプロンなんて、背徳感。なんか夜中に抜け出しました感」
燎太郎はダイニングテーブルにコンテナを置きながら肩をすくめた。キッチンの関節灯がひときわオレンジに感じる。
「袖とか、燃やさないように気をつけないとだな」
健吾がまた改めて袖を捲り始めたので、燎太郎はそうだね、と笑う。
「ご飯ある? それ、よそえばいいのかな」
健吾がキョロキョロと、炊飯器や今はドアが閉まった冷蔵室を見た。
「んーん、今日はうどんを使うよ」
燎太郎が、上半身を屈ませ冷凍室のドアを引き出すので、健吾はそっちかという顔をした。
燎太郎は、冷凍のうどん玉が二つぶん収まるくらいの、大きめなステンレスの両手鍋をコンロに置く。
「健吾、茹でやすいようにさ、うどんをレンジにかけてくれる?」
「おう、任せておけ」
健吾は、改めてハンドソープでよく手を洗うと、うどん玉を掴んだ。
「あ、マスクいるよね?」
燎太郎は計量カップに入れた水を鍋に注ぎながら、やばいやっぱりちょっと浮かれちゃってる、と身を締めた。
「いや、今日は生肉を使わないなら大丈夫」
健吾がダイニングテーブルの横、ラックのてっぺんに置かれたレンジのドアを閉めながら、続けて、
「何分くらい?」
と、尋ねるので「三分」と燎太郎は答えた。
ゴンゴンと音を立てる換気扇の下で、お鍋の中の水が泡を踊らせ始めた。燎太郎はレンジの様子を気にかけながら、
「健吾、うどん熱くなってるから、お皿か何かに乗せて運んでね……あ、『か、何か』じゃなくてお皿使って。白い平皿」
と健吾に声をかけた。ちょうどラックの横、食器棚に移動したのが見えた。
「分かった、ついでにお皿も出しちゃうね。うどん鉢でいいのかな?」
「うん、大丈夫」
燎太郎は答えながら、冷蔵庫から顆粒だしと料理酒を取り出し、お湯に加える。
「料理酒も入れちゃうんだよ」
と少し燎太郎がおどけると、健吾は取り出したお皿を洗いながら「へえ、和風だ」と感心していた。
燎太郎はまた、ふふと笑うと、しっかりお酒のアルコールを飛ばす。でないと、これは自分の喉にも悪い。
湯気の中に、お出汁とアルコールのにおいが紛れ込む。ちらと健吾の方を見ると、特に嫌そうなそぶりはなかった。
燎太郎は、そういえば健吾の家にはいつもうっすらアルコールのにおいが漂っていたな、と思い出した。
ピーッと調理完了を告げる音がすると、健吾が「あち」と言いながらうどんをお皿に乗せ、燎太郎の横まで持って来てくれた。
「ありがとう」
燎太郎は答えると、うどんを受け取り、慎重に鍋に移していく。
その上へと、カレーも慎重にコンテナから鍋に移す。お湯に馴染ませるようにかき混ぜていると健吾が横から、
「燎太郎、ちゃんとウェルシュ菌をやっつけてね。奴ら空気に弱いから空気を含ませるように大きく混ぜて」
と、声をかける。燎太郎がへえと感心して、お玉を大きく回し始めると、
「貸して」
と、健吾がそのお玉に手を伸ばしてきた。燎太郎は押し出されるように横にスライドすると、健吾がバッサバッサといった感じでカレーを叩き切っていた。イレギュラーな存在のうどんに苦戦しながら。
燎太郎は、その様子をニコニコと微笑みながら眺めると、お任せしちゃおう、と思った。
スパイスがお出汁と調和しながら立ち上ってくる。
刻んでフードコンテナに保存しておいた青ネギを、冷蔵庫から取りだしてダイニングテーブルにおくと、燎太郎はラックから水のペットボトルを取り出した。
「健吾が来るなら、いくつか冷やしておけば良かったかな」
湯気を上げる鉢の前で、箸置きと箸を並べながら、
「いや、常温でいただくよ。冷たい水は胃にも悪い」
と、健吾が答えた。
そうやっていつも、燎太郎が申し訳なく思わなくていい理由を、健吾の引き出しから取り出してくれることが、たまらなく嬉しかった。
ペットボトルの蓋を捻ると、パキリと小気味の良い音が響いた。
やっと席につくと、顔を見合わせて頂きますを言う。
とはいえ、健吾は麺を引き揚げてからしばらくそのままホールドさせる。猫舌だから。
燎太郎はその様子を眺めながら、
「ねえ、健吾。今考えると、笑えちゃうんだけど。おれさ、高校生の時さ、毎朝駅のコンビニで冷たい水を買って飲んでたんだよ。なんでだと思う?」
と、話を切り出した。
「え? なんで?」
健吾は箸にぶら下がった麺はそのままで、燎太郎の方へ興味深げに視線を移す。
「反抗期だったんだよ! オペラに対してね。コンニャロー、おれからソプラノの声域を奪うなら冷たい水飲んでやるからなーって」
言い終えるか終わらないかのうちに、燎太郎は机に突っ伏すくらいの勢いで前のめりに吹き出した。
腹筋に支えられる、スタッカートの効いた笑い声につられて、健吾も笑い出す。
その拍子に、うどんが一本ぽちゃりとスープに帰って行った。
おっと、という様子で慌てて麺を啜る健吾。
「うん、美味しい。お出汁がいいね」
はふはふと湯気を逃しながら、健吾の顔が綻ぶので、燎太郎はホッとした。
しばらくちゅるちゅると、ふたりが麺を啜る音だけが響く。
その沈黙に耐えられなかったのは、燎太郎の方だった。――ダメだ、どうやらどうしても照れ臭いみたい。なら、もっと照れて照れて仕方ないことでも言ってやろうかと。
「おれね、金曜の夜に健吾をテレビで見たとき、この子を助けてあげたいっていつも思ってた」
一世一代の告白に匹敵するかのような言葉、のつもりだった、燎太郎にとっては。
「そうだったの?」
しかし、意外にもというか健吾はあっさり答えた。眉のひとつも動かさない。
コンニャロー。ドキドキし損かよ。
燎太郎は、口角を少し引き攣らせると、咳払いをひとつ。気を取り直して、本心を続けた。
「でもさ、現実はおれも子どもでしょう? どうやって助ければいいなんて分かんなくて、じっと唇、噛んでただけだったの」
燎太郎は今度、両の口角を大袈裟に上げて、齧歯類みたいに前歯がよく見えるよう唇をめくらせると、その歯を下唇に当てた。誇張モノマネのようだ。セルフの。
クスッと笑う健吾を見て、誰かの気を引きたがる子どものようだ、と別の意味で燎太郎は照れ始めてきた。
「でもさ、高校生になってそれは傲慢だって気づいた。健吾はおれの助けなんかいらなかったし、いつも助けられてばっか。おれじゃ……健吾を守れないんだよ。ごめん。今日までだって、寂しくさせてたよね」
はーっと大きく息を吐くと燎太郎は、ノロノロとスパイスに黄色く染まった麺を持ち上げる。ネギの香りもついてきた。
「なんの自己憐憫か、ごめんちょっと分かんない」
健吾はまた、眉の一つも動かさずにバッサリと燎太郎を斬る。
燎太郎は、少し天を仰いでとほほ、と頭の中で呟くと、でもいつもの、時々ストレートに言葉をぶつけてくれる健吾の調子を取り戻してきたな、と安心した。
「でもさ、間違いなくあの時から、うん……おれ健吾のこと愛し始めてたんだと思う」
こんどは、さすがに少しびっくりしたらしく、うどん鉢を夢中に見つめていた健吾がガバっと顔を上げて、声を上げる。
「そんなに長く?」
「そうだよ、あ、ちょっと気持ち悪かった?」
強く断言したのち、燎太郎は少しばかり目を泳がせながら、執着が強い感じになっちゃったかな、と修正の言葉を探し始めた。
健吾は、得意げに笑みを浮かべると、
「ううん、嬉しいよ。なんか勝った感じ。そんなに惚れさせてたんだぼくは君を」
と言った。
やっぱ、コンニャロー。
すっからかんになったチェス盤を思い浮かべながら、燎太郎がまた箸を動かしていると、健吾がぐりんと体をひねらせ後ろを向いた。
何事かと燎太郎が目を丸くしていると、クシュン、クシュンとふたつ、健吾の生体反応が飛び出した。
「Bless you」
なんだ、と燎太郎はすぐに種明かしをされた安堵で、いつものように声をかける。
「サンキュー……失礼しました」
健吾もいつものように答えると、グラスに注がれた水をごくりと飲んだ。燎太郎は、ふふと笑い、何気なく健吾がさっき振り返った場所に目をやると、背中が凍りついた。
青いPP張りの小さな箱が置いてあったからだ。
燎太郎は、ごとりと鼓動を落とすと、こめかみがにわかに脈打つ。額に汗が滲み始めた。
――いや、別に薬を置いてあるなんて普通でしょう。なにもおかしなことじゃない。
そう、頭の中で弁明しながらも、だからこそ燎太郎は分かっていた、なぜそれにそんなにやましさを感じるのか。
「風邪ひかないようにしなきゃね」
健吾の声が聞こえたような気がするので、燎太郎は「そうだね」と答えた、と思う。
……大丈夫だよね、おれ今ちゃんとそうだねって答えた? 箱に書いてある薬の名前を口走ったりしてないよね?
白鳥が、チェロの旋律が微かに響く。燎太郎は、最初、それを幻聴かと思った。
「ん? こんな時間にも練習したりするんだね」
しかし、健吾がキョロキョロと音のする方向を探すので、現実に聞こえている音だと理解した。
「……本当は、良くないんだろうけど」
頭の中でこだまする言葉を、口からうっかりこぼさないように、必死に言葉を繋いだ。
――本当に、良くないと、思う。課題が大変なのは分かるけど、おれだってこんな夜中には歌わない。
燎太郎は、さっきまで自分もあんなに健吾とはしゃいでいたことをすっかり棚に上げ始める。
健吾がまだ、何か話してくれているのに反響してよく聞こえない。
さっきまで、あんなにうどんに夢中で、やっと喋り始めてくれているのに。
健吾が、薬の乗ったデスクの方へ目を向けるたびに、こめかみの血管がぎゅうぎゅうと締め付けられるようだった。




