一章 塹壕にて
冷泉燎太郎は昔からSNSというものをやるつもりがなかった。どうせ碌なことしか書いていないと分かっているから。
しかし、健吾がピクセルアート――彼はドット絵と呼ぶ、をアップロードするためのアカウントを開設して、話は変わった。
六角健吾は燎太郎の、高校生時代における唯一の友達だった。――友達だった。
「今は、いちファンみたいに成り下がってるけどね」
時には色相関の色を全部使っているのではないか、というほどカラフルなグラフィック、かと思ったら、トーンの統一された落ち着いた色合い。
それらを画面越しにスクロールしながら、燎太郎はベッドに腰掛けたままひとりごちた。
レースカーテン越し、人の群れが動き出したのを感じた。信号が変わったのだろう。
燎太郎は、その気配を感じなら「もう行かなくちゃ」と、腰掛けていたベッドから立ち上がる。
たとえいちファンでも、健吾のドット絵を眺めている時間は目が幸せだった。
鍵をかけたフォロイーもフォロワーもいないアカウント。そんな状態でも、教室で自分のアカウントを見せ、フォローしていいか尋ねたら、快く許可してくれたし、フォローバックまでしてくれた。
まあ、そこで「碌でもないこと」に迷い込んでしまうことになるのだけれど。
燎太郎は、そのアカウントを作る際、適当に今思い浮かんだ単語『餃子』をユーザーネームにした。
そこにはそんなに労力を割く必要はないと思った。パッと決めて早く健吾の描く世界に浸りたかった。
次に、鍵をかけているとはいえ、なにかしらの拍子に健吾のタイムラインで自分の初期設定のアイコンが映ったら、悪目立ちしてしまうと考える。燎太郎は、各種SNSで設定出来るという、フリーアイコンを配布しているサイトに向かった。
そこで、餃子のイラストをもらって自分の顔にした。ドットを貪る餃子、の出来上がり。
高校時代からその「アカウント運用」でなにも問題はなかったのだけれど……。
燎太郎は、洗面台の鏡の前でまた、目の下のクマをなぞった。
赤いカーネーションの咲く眼鏡をかける。
クマ自体は別にあってもいい。
子どもの頃から、自分の鼻や頬にうっすらそばかすが乗っていたが、気にしたことはなかった。
ただ、そんな顔を見せたら……健吾が心配してしまう。
眼鏡はクマを、少しだけ隠せる。
カーキ色のトレンチコートを着込むと、燎太郎は玄関のドアを開けた。
自分の指紋は記憶していない、鍵をかけないと、侵入者を許してしまうこの扉。
この街は、住宅街と繁華街が隣り合っている。自分のアパートはちょうどその境目くらい。
今ではもうすっかり慣れたターミナル駅までの道を今日も歩く。
赤茶のタワーマンションでは緑がガラス張りの二階を隠していた。
共用スペースと思われるそこは、おそらくジムやプール、楽しげな空気を纏うものが置かれているのだろう。
燎太郎は、それをSNSにおける暗黙の了解に似ていると思った。
みんなで賑わって楽しむ部分は、ちゃんと世間の目から隠されて、自分たちの楽しいことだけを共有しあって過ごしている。
しかし、少し高層に進んだら……植木の緑は届かずに都会の空にむき出しに晒されている。
ただ、タワマンとSNSで違うことといえば、高層にいる自分たちは誰にも見られていないと思い込んでいることだ。自分みたいに鍵をかけているならまだしも、彼らは、多くの場合そうではない。
声をひそめて、仲間だけで話しているつもりでも、高層階は丸見えだ。なのになぜ、そんなに無防備になれるのか、燎太郎には不思議だった。
――燎太郎には健吾のタイムラインしか必要なかった。彼の紡ぐ絵はもちろんのこと、時々呟く彼の日常や思想を読むのも面白かった。
健吾はネットリテラシーの授業を熱心に聞いていたので、SNSの使い方も心得たものだった。「身バレ」の心配なんかこれっぽっちもすることなく、『Kengo_Rokkaku』の世界を楽しめた。(ちなみに、高校時代の彼のユーザーネームは『ベンゼン環』だった)
時々「おススメタイムライン」を誤操作で開いてしまうものの、慌てることなくまたフォロー中のタブに切り替える。念の為、健吾のホームにも飛んで、タイムラインからこぼれた投稿を拾う。
本当に、それでなにも問題がなかった。
高層階のエレベーターに乗ってしまった。その日までは。
大学生になってから二年目……いや、まだ寒かったような気がするので一年目の最後だったかもしれない。
また寝ぼけた指は「おススメ」のタブをタップしてしまった。燎太郎はいつものようにタブを切り替えようと思っていたが、なぜか無視できない文字列が目に飛び込んでしまった。
『あの忖度枠、また役取ったよね』
『顔採用』
自分のことを言っているような気がした。右のこめかみが疼き始める。
眠気が一気に霧散していった。
それから、燎太郎は良くないと思いながらも、健吾の芸術に浸りつつ、すぐその横でわあわあ騒ぐタブをタップすることが癖になってしまった。
彼らは、燎太郎などの個人名や大学の名前は絶対に出さなかった、ものの、その場にいた者ならば確実にピンとくるであろう話題も平気で呟いていた。
例えば今日の稽古で、あり得ないほど先生がバチギレたこと。なんて無防備だろう、彼らはネットリテラシーの授業を受けなかったのか、と燎太郎は本当にそう思う。
だからこそ、だった。
『過去の貯金がある人はいいよね、あとコネも』
『眼鏡をかけても、良い顔は隠せません』
彼らが高層階で夢中になって喋る戯言。
自分のことだと……思った。
燎太郎は家電量販店の連絡通路が落とした影の中で、思わず眼鏡を外しそうになる、が、健吾が眉を寄せじっと自分の目を見つめる顔が思い浮び、ツルにかけた指を外した。
燎太郎はタイル張りの道をずんずんと進んで行く。デパートの駐輪場にはもうびっしりと自転車が並んでいた。
『街の子供達の合唱』
かつて自分が参加したこの曲。これが、広告代理店に勤める父が用意したステージであるかどうかは、観測するまで分からない、と過去の自分は笑い飛ばしたつもりだった。
しかし、蓋を開けてみればそれはやはり「忖度」だった――。
――昔は、気がつきたくなかった、親はおれを出世への切符にしたんだ。
現にいま父は、洒落にならないくらいの大きなプロジェクトを動かしている……らしい。
燎太郎は唇を噛み締めた。こめかみを叩く。
大学で教わった音楽史の闇には、父のような存在がいつも付き纏っていた。
燎太郎はそんな思いをしてまで、どうして、何のために自分は歌うのだろう、と思う。
子どもの時のように、歌うのが好きだから、だけではやっていけないことを薄々感付いていた。
自分の血と肉を維持するために、「食べていかないと」いけないのだから。
駅前のロータリーにどんどん車が飲み込まれて行く。路線バスがその中でひときわ大きく道路に収まっていた。
燎太郎は、視界にペデストリアンデッキへ続く階段を捉えたのでホッとする。この道に慣れる前、角を曲がり損ねてどんどん住宅地の方に行ったことがあるからだ。
デッキに上がると、背の高いビルが駅前を取り囲み、自宅前のタワマンどころではないほどに、人々を見下ろす。液晶ビジョンや、看板などで武装した、攻撃力の高い姿で。
ざわざわとした雑踏や、大音量の音楽で攻撃されながらも、足早に駅に向かう人々の傍ら、プラカードを持った人々が立っていることもある。
夜遅くにレッスンから帰ったあの日。住宅地に迷い込みそうになったあの日。
燎太郎は、パリッとした制服に身を包み歌う自分の姿が頭をよぎった。
ひとつ、道を間違えた先の自分の姿。
はるか頭の上、液晶の大画面で、凛々しくも甘い声でコーティングした歌声を降らし得る自分。
そのカッコいい服はピカピカの勲章を誇らしげに掲げている。それは、外賓を迎える栄誉を戴いたものだろうか、あるいは……。
そう考えると、燎太郎は駆け足でスタンディングの列に飛び込み、指を震わせながらプラカードを借りていた。
カーキのトレンチコートで掲げたカードに書かれてあった言葉――NO WAR
…◇…◆…◇…
「おはよう、燎太郎。今日も顔が良いね」
聖ハニエル記念音楽大学の廊下で、同期がこう声をかけた。
燎太郎は、適当に笑ってやり過ごすが、彼らの笑い声にディストーションがかかり始める。
――暗に、他は良くないと言っている。
こめかみを抑えながら、燎太郎の目の前には、
――次に服用する場合は四時間以上時間を空けてください――
という文字が浮かんでは消えた。
音楽大学のレッスンルームを並べた廊下では、色んな音が響いている。
燎太郎が重い扉を開けようとしたその時、
「おはよう」
と、声がかかる。
「……おはよう」
燎太郎は振り返り、その柔らかい声に挨拶を返した。
――コンサートの合同打ち合げでは、さまざまな学部の学生や教授、関係者などがお酒を交わしている。
ホテルのホールを借りた、立食式のパーティーではシャンデリアの下、舞台の熱気が冷めやらぬ人々が大きく笑いながら交流している。
その中で、ひとつ異色なテーブルがあった。
白いリネンの、カチッとしたテーブルクロスの上には、お湯のポット、蜂蜜のボトル、ハーブティーのティーバッグ、そして常温の水のペットボトルなどと、酒席なのにも関わらず、アルコールが一切置いていなかった。
自然と、声楽専攻科の学生がそこに固まってハーブティーを啜っている。
申し訳程度に、パプリカ詰オリーブのオイル漬け、生ハム、などと大人の罪悪感を隠すような美味しいものが置いてあるが、それも宴会に合わせるようなものなので塩分が……。
教授や関係者へ売り込みに行くような、ガッツのあるコミュニケーション強者はそのテーブルを離れ、ペットボトルを片手に談笑しているが、燎太郎はその丸い卓でちびちびハーブティーを飲んでいた。
まさにカクテルパーティー効果、とでもいうのだろうか、さっきまでひと塊の「雑音」として受け流していたザワザワの中に、燎太郎は不穏な言葉を拾い上げてしまった。
――そうそう、もうさ。高校の時の友達とは連絡、取ってないよお。あんなに遊んでたのに。
燎太郎は次に、持っていたカップとソーサーがカチカチ細かく擦れ合う音を聞いた。
ハーブティーの水面に波紋が広がると、自分が大きな雫を落としていることに気がつく。
それを認識してしまったら、もうダメだった。
喉の奥から這い上がるように呻き声が溢れ出る。お酒の席に水を差すようなことはしたくなかったが、止められなかった。
同じ卓に居合わせた学生はギョッとしてこちらを見る。あれよあれよと囲まれ、まずは危なっかしい手元から、青い装飾が施されたカップアンドソーサーを優しく奪い取られる。
「どうしたの?」と背中を撫でながら、さりげなく廊下まで出してくれた。
少し、騒ぎになっているような気もするが、いまは声楽を志す仲間が盾になってくれている姿しか見えなかった。揺れる髪先、伸ばした腕。
ホテルの従業員が休憩室のようなところを貸してくれたので、燎太郎は泣きながら経緯を話した。
少し年上の先輩たちはどうしても「そんなことで?」と、いう顔を隠せないようだった。
しかし、燎太郎にとってそれは、世界の終わりを告げられる言葉も同然だった。
簡素なテーブルと、パイプ椅子が並んだ白い空間にシーリングライトの白い光が降り注ぐ。
燎太郎がしゃくりをあげ始めたら、さっきまで話を聞いてくれていた親切な人たちにターンが回る。
「後悔しそうなら、絶対連絡取って会った方がいいよ」
さっきまで、撫でられていた背中を押される。その後「そうそう!」の大合唱。
「もう会わない、って拒否されてるわけじゃないんだよね? なら、もったいないよ」
再び巻き起こる賛同の嵐。燎太郎は、なんて世界一贅沢な「そうそう」のハーモニーだろう、と鼻の奥をツーンとさせながらぼんやり考えていた。
大きく息を吐きながら、燎太郎がスラックスからハンカチを出して涙を拭くと、休憩室に置かれたティッシュボックスを差し出される。
燎太郎は少し遠慮して躊躇ったが、ターンを握る主たちがうんうん頷くので、控えめに鼻を噛んだ。
眼鏡がもうべちゃべちゃでほとんど見えない。
すっかり泣き止んだ燎太郎が、パーティーの会場に戻った時、あのハーブティーのテーブルの側には革張りの椅子が一脚ポツンと置かれていた。
せっかく用意してもらったものを使わないのもなんなので、あたりを見まわしながら、ちょこんと腰掛けた。
相変わらず「大丈夫?」と代わる代わるに声をかけられるので燎太郎は丁寧にお礼を返す。
そうか、座ってる場合じゃないかも、さっき休憩室まで連れて行ってもらった人たちにお礼を言わないと――。
燎太郎が立ち上がると、少し離れた卓で場違いなジョッキを握りしめた教授が、
「スプレッヒャーという端役とはいえ、まだ二年次の学生にあのソロ役付きを背負わせるのは、少々酷だったかもしれんね……。いや、珍しいことではないけど……ね」
と、眉を顰めながらぽそぽそ呟き、他の教授に同意を求めるようにキョロキョロと顔を動かした。
他の教授たちはというと、苦笑いを浮かべながら目を伏せて革靴の先を見ていた。
燎太郎は、本当は分かっていた、世界はそんなに攻撃を仕掛けてくることばかりではないと。
本当に潰されそうになっているのもの、それは、自分で自分をぎゅうぎゅうと押し付ける、プレッシャーだ――。
あの日、背中を押してくれた声楽の仲間。さっぱりと微笑むと、レッスン室へと廊下の奥に進んで行く。
――健吾に「久しぶりに会おう」って連絡しよう。
燎太郎は、背中をさする手が優しいことを知っていた。
…◇…◆…◇…
実家から数駅しか離れていない、ローカル線のこぢんまりとした駅。コンコースからはカバの歯並びのようなあの校舎が見える。変わらない。
燎太郎はエスカレーターを下りながら、四角いビルが母校を飲み込んでゆくのを眺めた。
ロータリーの中央島にはマリーゴールドが植えてある。燎太郎はそのグラデーションを眺めながら、出来るだけ人が少ない、かつ駅から流れる人の群れを観察し易いところに陣取った。
自分はポーン。一マスずつしか進めない駒。
夕風に吹かれながらぼうっとマリーゴールドを眺める。たった今さしている陽の光と同じようなオレンジに、カナリア色、薄い黄色。互い違いに植えられたその色合いは、健吾の描くドット絵のようだ、と燎太郎は考えた。
首元に吹き付ける風に、トレンチコートの襟を立てようかと指をかけると、
「すまない、待たせた」
健吾が声を掛けてきた。
「ううん、待ってないよ」
燎太郎はその方向に顔を向けながらも、しまった、と思った。マリーゴールドに気を取られて、電車から降りる人の群れに気が付かなかった。健吾が、自分を見つけてくれて助かった、と思った。パニックにさせてしまうところだ。燎太郎は襟を戻しながら、身をすくめた。
黒くて重そうなバックパックを背負った健吾は、もうカナリア色のパーカーではなかった。
セピアと白色のボーダーシャツの上に、フォグブルーのパーカーを着ている。
それ以外は黒い眼鏡も猫っ毛も相変わらずの姿だった。相変わらずの……。
「すまないね、ウチの最寄りまで来てもらって」
健吾は気恥ずかしそうに、マリーゴールドの花壇を見つめていた。燎太郎と目を合わせるのが照れ臭いようだ。
「ううん、おれから誘ったんだし。あそこで久しぶりに食べたくってさ」
燎太郎も、横に並んでマリーゴールドに視線を向けながらこう答えた。
「ああ、あそこのサイゼ」
「サイゼ」
声が揃ったので、ふたりはくすくす笑った。
行こう、と催促するかのように健吾が歩き出すので燎太郎も隣に続く。
「サイゼなんてどこにもあるでしょうに」
健吾が少し呆れた声を出す。
「あそこのサイゼだからいいんじゃん。分かんない?」
燎太郎は少し挑発的な声を出す、すると、
「……分かんないよ」
健吾は言うなり下を向いてしまった。燎太郎は苦笑いをこぼす。
赤く染まった通い慣れた道――でも今は通う必要のない。少し寂しさをリニア合成したかのような四角い街並み。
しかし、そこには健吾の両親である登紀子と功一の気配を確かに感じた。
燎太郎は居た堪れないとはこのことか、と思った。
二車線の道路に観光バスが通り過ぎて行った。
隣のテーブルの鉄板がパーテーション越しに音を立てる。お肉の表面、細かな空気を弾く音、ソースの水分を追い出す無情な宣告。
燎太郎はお腹の虫を抑えるため、卓上のハーブティーを一口含んだ。
対面では、ココアをふうふうと冷ます健吾。……ココアなんて飲むようになったんだ。
燎太郎は、急にそわそわし始めたので、健吾の横にどっしり構える黒いバッグに目をやった。
「リュック? 重そうだね。疲れない?」
「うん。でもいつもじゃないから。ノーパと液タブを持って帰るのはリモートワークの時だけ」
健吾はそう答えるとココアに口をつけた。「あち」と、呟きながら。
「へえ。あ、今日は半休か何か? 結構早い時間なんじゃない、いつもと比べて帰るのが」
フレックス制度の会社だとは聞いていたけど、と燎太郎は思い出す。カップを再びソーサーから離す。……なんだよフレックスって。
「うん、電車が混む前に帰って来たよ。その分、続きはウチでやるけど」
燎太郎はうんと頷いて相槌の代わりにしていた。すると、
「あっ!」
健吾が小さく叫びながら、カーゴパンツのポケットからスマホを取り出した。会社から連絡でも来たのだろうかと燎太郎は目を伏せる。
「見てここ! たまたまだけど見つけたコワーキングスペース。最近はここでリモートしてる」
ウキウキとスマホを燎太郎にに向けスクロールしてみせるので、燎太郎は落としかけた瞼を急いで開け、健吾の画面を見た。ベンゼン環のアカウントもこうやって見せてくれた。さっきすれ違った聡信学園高校で。
「いつも六番の部屋を使ってるんだ。毎週金曜日だけ、週一のひそかな贅沢なんだよ。セキュリティだけ気をつけないとだけど、個室だから集中できていい。世界から切り離される感じ」
健吾がうきうきと楽しそうなので、燎太郎は最後のほう、不穏なニュアンスを指摘するべきどうか迷っていた、すると、
「終電逃した時に見つけたんだけど、思いの外気に入っちゃって……」
流石に聞き逃せない言葉が健吾の口から飛び出した。
「終電逃した? ねえ、ちゃんと寝れてる?」
反射的に燎太郎は言葉を被せる。
「あ……うん。でもこの業界はこんなものだから。繁忙期だけだよ、深夜までかかるのは」
この業界……。燎太郎はまたポーンの歩みの遅さをもどかしく思う。
「なんかごめん、ぼくのことばっか。燎太郎は最近どんな感じか聞いても大丈夫?」
健吾はスマホをポケットに仕舞うと、少しぬるくなったココアを冷ましもせずに啜る。
「もちろん。あ、そうだ。この間おれ、合同パーティーでやらかしちゃってさ。ボロッボロに泣いちゃったよ。おかげで『シラフの泣き上戸』なんて不名誉な二つ名を拝命しちゃったよ、はは」
苦笑いを浮かべカップに目を落とす燎太郎は、空気が張り詰めてゆくのを感じた。
――しまった間違えた。
「え? 大丈夫? なにか、泣くような悲しいことでもあったの?」
健吾が心配している。健吾に会えなくて泣いたんだよなんて、言えるわけがない。
「うん、あのね。先輩が即興で歌ってくれたから。サービスで。それで感動しちゃって」
燎太郎はへらりと笑う。
――嘘をついてしまった、よりにもよって健吾に。
いつも誠実でありたい、あの時「友達宣言」と一緒に交わした誓いが急に安っぽいものに感じられてしまう。
そして何よりも、燎太郎が嫌だったのはその誠実さの不履行より、またふらっと健吾が遠くに行ってしまうこと、そのことを何より心配してしまう自分だった。
健吾には、なんというか……引き癖、のようなものがある。それが彼の自己肯定感の低さからくるものであることを、燎太郎は重々分かっていた。
パーティー、音大の先輩に歌ってもらう……、ちょっと言葉が煌びやかすぎただろうか。
燎太郎は、健吾には自分がどう見えているのか……分からないが。高校三年生の時に、文理でクラスが別れていた時も、いつも燎太郎の方から健吾の教室へ向かい、あの昼休憩のカエデのベンチへと連れ出していた。
今日だって、下手をするとこれからずっと、燎太郎が誘わなければ、このいつもの席に座ることはなかっただろう。
窓際の、区役所を見下ろすことができる、このいつもの席。青い壁紙にオレンジのランプが揺れていた。
「……あのさ。ぼく、女の人に告白……うんまあ、告白されちゃって」
健吾が斜め下に視線を落としながらこう言った。燎太郎の心臓は跳ね上がる。急に冷たくなる指先で指先を撫でながら、告白っていってもいろんな種類の告白があるよな、燎太郎は頭の中で何度もその言葉を繰り返した。
トットコトコトコ。トットコトコトコ、スネアドラムが全身に反響して止まらない。
燎太郎がなにも言えないでいると、健吾はポツポツと続ける。
「インターンの女性なんだけど、まあ大学生だからぼくよりちょっと年上。元々ファンだったけど、最初に会社で見た時から気になってたから、付き合ってほしいって」
健吾はそう言うと、またココアを啜る。
燎太郎は性懲りもなく「どこに付き合ってって、言われたの?」と訊きそうになる。……そんなわけないだろう。
燎太郎は誰よりも何よりも健吾のことが大切で、健吾もきっと、自分に対して同じ思いだろうと信じていたから、当然、健吾が自分以外の誰かと恋人関係になることなんてないだろうと、疑っていなかった。……いや、それは信頼ではない――思い上がりだ。
健吾は、友達になるという宣言がなかったことでさえ、重く受け止める人間だ。
自分はその手順をちゃんと踏んだか?
現に自分でさえ、健吾のことは友達と、そう呼んでいた。
その自問とともに、燎太郎はポーンが後ろに進めないことを急に歯痒く思ってしまう。
「ど、どうするの?」
燎太郎はなんの権利があってこんな質問をしてしまったのかと思うと同時に、自分の声が酷く枯れていることに焦り、慌ててハーブティーを流し込む。
健吾が、口を開こうとしたその時、
「お待たせしましたー」
はつらつとした声と一緒に、サイズ違いのミートソーススパゲッティが二人のテーブルに届く。
燎太郎はいそいそと、お冷ややらカップやらを寄せて、それを置くスペースを確保した。
健吾がぴょこりと頭を下げる。
なんで、妙にオーダーが届くタイミングって、こんなに時々最悪だったりするんだろうね。
忙しそうに厨房へと踵を返す従業員に、燎太郎もまた深々と頭を下げた。
燎太郎はふと窓に顔を向けると、とっぷりと日が落ちた景色に自分の顔が写る。なんて、ひでー顔。ため息を噛み殺し、ミートソースへと視線を落とす。すると、
「こんど、二人で会って話してみるよ、うん」
健吾が言うなり、くるくるとスパゲッティを巻き取り始めた。
燎太郎はグッと息を詰まらせながらも、大盛りなんか頼むんじゃなかった、とまたため息を噛み殺す。
しばらく、ふたりのテーブルではカチャカチャとフォークがお皿に当たる音だけが響いた。
しかし、しかしだ。燎太郎は本来なら今日、健吾との会話のメインに据えるはずだった話題を頭の隅から引っ張り出した。
自分で、自分たちの関係を友達と、そう定義したならこの権利はあるはず。だって、前にもそうしてもらえたから。だから、大丈夫。燎太郎は手を止めると、出来る範囲で明るい声を作るように努めようと、思った。
「あのさ、健吾。十一月にね、ウチの大学主催のコンサートがあるんだよ。よかったら、来ない?」
そう、今までだって来てくれてた。なにもおかしなことじゃない。
「あ、それぼくも行っていいやつ?」
健吾も、顔を上げると、フォークを止めて微笑む。
しかし、すぐに視線を左上に押し上げると、うーんと小さく唸りながら考え込んでしまう。
「行けたら行く」
健吾はひとつ頷くと、スパゲッティを巻き取る作業に戻ってしまった。
――それ、来ないやつ。
…◇…◆…◇…
ドットを貪る餃子に逆戻り。おれはこれから、本当にそんな「妖怪・ドット喰い」みたいな人生になってしまうのだろうか。
もう、認めてしまおう。健吾のいない人生は自分を妖怪のようにさせかねないと。
キャンパスのある青山から歩いて渋谷まで、そこから山手線に乗り燎太郎はぐるぐるとそう考えていた。
手には「餃子」のアカウント。青い光をボーッと放ちながら、燎太郎と一緒に最都心部をぐるぐる回る。ぐるぐることこと。
昼間のこの路線には、ビジネススーツに身を包んだ人びとはそんなにはおらずに、大きなバッグやスーツケースを持った旅人の方が多いように思えた。
味のしないスパゲッティをどうにか詰め込んでから、一週間。
燎太郎はなにをしても上の空だったことは認めるが、まさか今日、午前中のレッスンが終わった後、急に全てのやる気が一斉に逃げ出し、それを追いかけるように電車に逃げ込むとは思わなかった。
どことなくセピア色の、また会いましたねな東京駅。それは東京駅が煉瓦で出来ていると知っているからだろうか。
――危ない。哲学者になりかけてる。
燎太郎はこんな乗り方、不正乗車になるんじゃないか、そう思いながらスマホで調べようかと画面を見ると、健吾のドット絵が目に飛び込んできて、涙を落としそうになってしまう。ブルーライトは目に悪い。
不意に頭の中に流れ始める闘牛士の歌。
――当たり前だ、ただでさえ酔いやすい体質なのに、電車の中でスマホをずっと見つめていたら。
燎太郎はこめかみを押さえ、ようやく重い腰を上げた。
神田駅で一旦改札へ行く。
駅員に事情を話したら少し注意されてしまったが、
「まあ……寝ちゃってたんだよね? 次から気をつけてね」
と、ここでも緩やかに嘘をつくよう促されたので、社会を丸くするための、ちょっとだけ狡い不文律をありがたく受け入れる。
交通系ICカードの清算のため、改札の外へ出ると、ここでもまた大きなスーツケースを引いた旅人で賑わっている。
山手線の駅は、天井と床が同じような白で上から下から押してくる、かと思えば線路は暗く、どこまで続くかわからない真っ黒な穴。
燎太郎は幼い頃、皇居のお堀で白鳥を見たことがある。その中で、少し外れた狭い水路で大きな羽根を窮屈そうに畳んでいる子たちもいた。もう少し泳いで広い場所まで行けばいいのに、と燎太郎は思っていた。
なんで、そんなことを思い出すかというと、自分が今、上も下も分からないようなダンジョンに閉じこもってじっとしているからだ。
ひんやりとした通路の柱へ隠れるようにマイボトルを取り出す。まるでタブレットですよと言わんばかりのカジュアルさを装いながら、ピルケースから取り出した白い錠剤を、素早くぬるい水で流し込む。
観光客がこちらを見ているような気がする。大丈夫、タブレットですよ――嘘だけど。
ふーっと大きな息を吐くと、マイボトルをトートバッグにしまう。ハニ音の売店で買った黒いキャンバス地のそれは、燎太郎が所用を満たすために適当に買った……はずなのに、もうそれにすっかり馴染んだスコアやヘッドホン。
青い薔薇の校章はその傍らで、見張りをするかのように貼り付いていた。
これから、どうしよう。
これから入れる講義、あるかな。
燎太郎はどちらに回るべきか、路線図をじっと見つめた。
――いや、京浜東北線にしよう。時間はかかるけど直で行ける。
燎太郎は再び改札を潜ると、青い看板の下がるホームに向かった。
燎太郎は、正直に言うと友達の顔をして側にいることは出来ないと思った。健吾の隣に他の誰かがいるのなら。
だから、どうあがいても健吾を失う未来しか描けない。
でも、その手を離すことも出来ない、苦しくても、握り続ける他にないんだ。
健吾の引き癖を甘くみてはいけない。さもなくば、あっという間にどこかへ飛んでいってしまう、野の鳥。
愛してしまっても勝てやしない、孤高の野良猫。
細長いシートは他に誰も座っていない。タタンと揺られながら、だるさが全身を包んでゆく。
今度は、本当に眠ってしまわないように気をつけないと。
…◇…◆…◇…
「燎太郎ってさ、暇なの?」
いきなり憎まれ口のジャブを打たれた。ロータリーの夜。
それでも、まだ憎まれ口を言ってくれる。呼び出したら来てくれる距離にいることが燎太郎には、どうしても嬉しかった。だいぶやられてしまっていることは自分でも分かっているけど……。
「暇なもんか、わざわざ時間を作って健吾に会いにきているんだよー」
芝居がかった声。腹から出してやった。
「ふーん」
健吾はまた呆れた声を出すと、少しくすぐったそうにした。
マリーゴールドを遠目に、並ぶフォグブルーとカーキ。コンコースが書き割りみたいに、ふたりの続きを促すようだ。
暖色系の花々は、夜の帷の下で薄いフィルムを一枚乗せたように色彩を潜めている。
健吾なら「彩度が低いな」って、言う。いや明度だったかな、どっちだっけ。まあいいや。
「すまん、今日は早く抜けるのが難しくて。で、なんの用なの?」
健吾が相変わらず、マリーゴールドを遠くに見つめる。
「歩きたくてさ、一緒に。今日、リュック軽い? パソコンとか入ってない?」
燎太郎が健吾に向き直りこう言うと、
「歩くの? まあ、今日は入ってないよ。え? なに? まさか最近ぼくのお腹がヤバいことに気づいてた?」
健吾は不思議そうにした。
燎太郎は、乾いた笑い声を思わず漏らすと、行こう、とばかりに歩きだす。
バイパス沿いの道は、いつでも車が途切れない。ベッドタウンだからこそ、家路に帰る人で溢れている。四角い家、「ひとやね」のついた家がそれを迎える。時々通り過ぎるトラック。この街の営みに圧倒されないように、燎太郎は人道橋に向かった。
ここなら、ゴルフのカントリークラブが眼下で視界を開けさせてくれる。燎太郎は歩道が広い道を選んで歩いていた。健吾がふうふうついてくる。……運動不足っぽいのは本当なんだ。燎太郎は歩調を緩めた。
先ほど、スマホで確認したところ、食事については「駅でお蕎麦を食べてくる」と、健吾から返信が来たので、燎太郎もしっかり食べてきた。肝心なところで腹の虫に邪魔されたら敵わないので。
「健吾、疲れてない?」
燎太郎は、いちど、立ち止まる。
「うん、疲れた。でも運動不足は深刻だから、助かったっちゃ助かったよ」
少し息が上がっている。燎太郎が道の端っこにさりげなく誘導すると、健吾はリュックからボトルを出してごくごく飲んだ。
「川沿い歩こうか、下降りよう」
燎太郎は人道橋の側から伸びる階段を指差した。歩道が舗装されているタイプの河川敷なのでゆっくり歩けそうだし、何より静かだ。車の音も遠くなる。
「ああ、今日は雨も降らないみたいだし、急な増水を警戒することもないだろう」
階段をゆっくり降りながらも、健吾は相変わらず天気予報をちゃんとチェックしていることを知れた。
「メチルイソボルネオール」
ふたり並んで歩いていると、健吾がぽつりと呟いた。一点パースの川は深緑にゆったり流れながらも、サラサラと水音を立てていた。
「あ、匂い……大丈夫?」
燎太郎は、頬にゆるりと絡みつく空気の中に、「川の匂い」を確かに感じた。
「うん、それより風が心地いいから大丈夫。燎太郎、トレンチコート暑くない?」
水面を観察しながら健吾が問いかける。
「あはは、大丈夫」
そう答えながらも、立ち止まって燎太郎はコートのボタンを外した。すると、余所見をしていた健吾がぶつかる形になる。――やっちゃった、健吾の進路確認を怠ってしまった。
健吾の右肩がこつりと燎太郎の左腕にあたるので、それ以上の衝撃を出来るだけ逃すように燎太郎は体をひねって後ずさる。
「あ! ごめん燎太郎。余所見しちゃってた」
健吾は慌てて謝る。
「んーん、おれもちゃんと見てなかったからさ、前」
燎太郎はそう答えると、少し笑う。なぜか気まずい空気が流れた。
健吾が下を向いてしまう。
「大丈夫、気にしてないよ。全然痛くなかったし」
燎太郎は焦り、健吾の正面に回り込み、声をかける。しかし、健吾はそのことじゃなくて、と言わんばかりに更に黙る。燎太郎は嫌な汗をかいてきた。
「あのさ、この間話したインターンの女性の話なんだけど……」
健吾が一点パースから一転、深緑の川を背負いながらこう切り出した。
燎太郎は、急に心臓を引っ張られたのかと思った。しくしくと痛む。
「ランチに誘われたからさ、ちょうどいいと思って話した。ぼくの特性のことも話したよ。話さなきゃだと思ったから。そしたら、リュックにしまっておいたヘルプマークを見せたの。そしたらさ、まあまあ大きな声で『え? 六角さんってハッタショなん?』って言われちゃって」
健吾が一気に捲し立てる。燎太郎が想像していた話と全然違った。
さっきとは全く違う心臓の痛み方がすると、ゴトゴトうるさい心音を聞いていたら、頬に熱い水が伝った。なんでおれが泣くんだ、と涙を止めようとすればするほど、雫は大粒になってぼろぼろと落ちて行った。
「ぼくは、『キミがぼくの特性をどう見てるかよく分かったから、付き合えない』って言った。動揺してたから、伝票を引っ掴んで、そのまま席を立っちゃったんだけど……ちょっと大人げなかったかな……え? 燎太郎、大丈夫?」
下を向いた健吾の視界に、ハラハラと燎太郎が落とす雫がよぎったのか、彼はガバっと顔を上げる。
「ごめん、ごめんね、健吾。なんでおれが泣くんだって話だよね。酷いことを言われたのは健吾の方なのに」
燎太郎は、ひとつ、しゃくりをあげてしまう。まさか腹の虫じゃなくて、泣き虫が邪魔をしてくるとは――。
「泣かなくて大丈夫だよ、燎太郎。ぼくなら、大丈夫、」
「健吾」
その続きを言わせたくなかったから。燎太郎は健吾の名前を呼んでこちらに視線を引きつける。
健吾がちゃんと目を見てくれたので、次に「おいで」と言わんばかりに燎太郎は両手を広げた。
びっくりしたり、不審に思ったりしていないようなので、そのまま燎太郎の腕は、健吾の体をリュックの上から包み込む。
こうしないと、健吾がバラバラになってしまうと思ったから。繋ぎ止めておきたかった。
「そうやって、悲しいことを、慣れたふりして閉じ込めてしまわないで」
今度は燎太郎の、精一杯の懇願だった。
健吾は、黙ったままゆっくり呼吸をしている。呼気のあたたかさと、ゆるゆる膨らんで上下する肺の動きを感じた。
泣き虫と眼鏡は相性が悪い。またべちゃべちゃだ。こんな時に限って、メガネ拭きを収納したメガネケース、を収納したトートバッグをウチに置いてきてしまった。
ふたりで横に並んで、ぼーっと川の流れを見ていたら、シーズーを散歩させるご老人に、
「あんたら、大丈夫かね?」
と大きな声で心配されてしまった。キレイにトリミングされたふわふわのわんこが、こちらを見ながらちょこちょこと歩いて行った。
親切な人はどこにもいるものだ。燎太郎は改めて噛み締めながらも、
「大丈夫でーす!」
と答えた。
コンクリートで舗装された道に、ちゃかちゃか爪を立てる小さな犬が川の流れの先、消失点に吸い込まれてゆく。
健吾が、
「あのわんこの犬種なに?」
と尋ねてきたので、やっと口を利いてくれた嬉しさを必死に噛み殺しながら燎太郎は、
「シーズーだと思う」
そう答えた。
燎太郎はいっそ眼鏡を外してしまった。視界がぼやける。でも見えなくなってしまうわけではない。クマについて何か言われてしまったら、この涙のせいにしよう。
折り畳んだ曇ったレンズを、スロテッドポケットに滑らせる。しまったことを忘れないようにしないとだ。
「あのさ、健吾。コンサートをさ、『よかったら』来て欲しいって言ったけど。その言葉じゃ不十分だったんだ。ぜひ来て欲しい。おれ、結構頑張って稽古してるんだよ」
再び健吾に向き直り、燎太郎は噛み締めるように言った。たまにはため息以外のものも噛み締めたい、さっきそう思った。
「え? 行けたら行くって言ったじゃん。何をそんなに不安になってるの?」
健吾が、弾かれたようにこちらを見る。本当にびっくりしてるみたいだ。――そうだよね。
「よかった」
安心したらまた、ガバガバになった涙腺から雫が落ちる。
「あっ……。どうしよ、また燎太郎を泣かせちゃった」
健吾がオロオロしながらポケットに手を突っ込んで、ポケットティッシュを差し出すので、燎太郎は慌てて、袋ごと引ったくり、
「嬉しくても涙は出るんです」
と、笑顔を作った。そして、本当に吹き出した。
「もお、大袈裟。でもさ、本当に体調が整えられなかったら……その時はごめんね」
「うん、その時はぜひ、お大事にしてください。体調第一で」
ほっとした後に不安そうになる、目の前の愛しい存在に、燎太郎はまた微笑みかけた。健吾は安心したように頷くと、くるりと体を翻らせ、駅の方に向かって歩き出す。
燎太郎は、状況に応じて何パターンか会話のシミュレーションをしていた。まさかどのルートにも、かすりもしないとは思わなかったが。
しかし、人生はゲームではない。シミュレーション通りにいかないなんて、当たり前だ。
健吾は別れ際に、
「餃子が好きそうなドット絵、近日中にアップするからね」
と、照れくさそうに笑った。
家まで送ると燎太郎は申し出たが、それは固辞されてしまった。健吾もご両親の気配には照れてしまうのだろうか。
単線の線路をことこと、何駅か揺られる。
その餃子はというと、毎日楽しみにSNSを開くようになってしまった。
名指しで好きそうなものを、と言われてしまったら、浮かれてしまわないわけがない。
しかし、Kengo_Rokkakuの更新は途絶えてしまう。仕事のグラフィックスとは別に、健吾自身の趣味でアップロードしているのだから、今までが異常だったとはいえ。
燎太郎は心配になってしまう。
メッセージアプリの返信が来ないことも今では珍しいことではなかったが、ある日明らかな異常をこちらのSNSアカウントでも検知してしまう。
自分のホーム画面で目にした1/0の文字列。
フォロワーがいなくなってしまった。健吾しかいなかったのに。
いや、健吾は「アップするからね」と言ったら本当にアップする。
そんな約束がありながら、わざわざフォローを外すだろうか。SNSでは「勝手にフォローが外れる」現象もあると聞く。
全く、SNSは余計なことしかしない。
オリーブグリーンのベッドに、ブルーライトだけを灯しながら、燎太郎は頭をグラグラ回していた。
暗い部屋の本棚に目をやると、分厚い国語辞典が目に入る。そこで、思い浮かんだ単語。
――空元気。
波も引く時に膨大なエネルギーを使うという。
――健吾の引き癖を甘く見てはいけない。




